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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

武蔵野話 笛吹峠・将軍沢村 1815年

2009-08-20 02:15:25 | 将軍沢

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太平記、武蔵野合戦の章に「笛吹峠又竿吹峠(さほふきとうげ)」と書てうすひと訓(よみ)、上野信濃の界」とあるは記録者のあやまれるなり。此峠は文字の通(とほり)ふえふき峠なり。今宿(いましゅく)といへる地(ところ)に西北にあたり将軍澤といふ地あり。此村中の峠をふえふき峠といふ。入間川村より上野への通道(みちすじ)にて入間川村の四里西北にあたれり。新田左中将、多摩郡分敗河原(ぶばいがわら)の戦にやぶれて久米川村へ陣を引(ひき)また入間川へ陣を引(ひき)、其夜笛吹峠へ落(おち)しとあれば上信の界にあらず。上信の界は行程(みちのり)遙なる里数にて凡二十里もあるべし。其夜陣を引とる事なかなかかなふべからず、入間川より笛吹嶺(とうげ)までは行程漸(やうやく)四里餘もあれば其夜陣を引とりし地(ところ)は将軍澤村の嶺(とうげ)に疑ひなき事分明なり。此村にすこしの澤あり、水西より東へながれ将軍権現の小祠の在(ある)所を過るゆへ将軍澤の名あり。昔時(むかし)田村将軍東征の時、陣を暫くとどめ旌旗(はた)を立させられし処の塚を即将軍大権現と崇(まつり)しといふ。土人(ところのもの)は此祠を将軍様と稱す。此村いたりて僻地にして他国のものの往来(ゆきき)もなき所なれども大倉、菅谷其外上州への街道にして小荷駄の往来のみあるやうすなり。人の知ざる程の地(ところ)なるゆへ太平記の誤ももっともにあらんか。
     齊藤鶴磯『武蔵野話』(武蔵野話刊行会、1950年3月)125頁

※江戸時代の地誌の古典『武蔵野話』(むさしのばなし)が発刊されたのは1815年(文化12)、著者は齊藤鶴磯(さいとうかっき)(1752-1828)である。齊藤の墓は、現在東京都豊島区巣鴨5-37-1、慈眼寺墓地にあり、東京都の旧跡に指定されている。東京都教育員会が1993年(平成5)に建てた解説板には次のように書かれている。

   齊藤鶴磯墓(さいとうかっきはか)
江戸時代後期の儒学者。地誌研究家。宝暦二年(1752)水戸藩士の子として江戸に生まれた。通称宇八郎、諱(いみな)は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。寛政八、九年(1796~1797)から文化十三年(1816)頃までの約二十年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之(すずきぼくし)(秋月庵)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』や赤松宗旦(あかまつそうたん)(義和)の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の地誌『武蔵野話初編』を文化十二年(1815)に完成させた。翌年筆禍事件により所沢を去って江戸に移った。続編は門人の校訂によって文政十年【1827】に刊行された。他の著作に『女孝教補注(おんなこうきょうほちゅう)『干支考(かんしこう)』『?玉斎漫筆(たくぎょくさいまんぴつ)』などがある。文化十一年(1828)2月7日七七歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。

※笛吹峠、将軍沢については、以下も参照。
峠のロマン“論争”尾を引く笛吹峠 1978年」「雪見峠は笛吹峠」 「嵐山町誌128 将軍沢」「昔を今に・めぐりあるき 将軍沢の巻(その1) 関根昭二 1950年」「昔を今に・めぐりあるき 将軍沢の巻(その2) 関根昭二 1950年」「町の今昔 史蹟・笛吹峠 安藤専一 1968年」「町の今昔 ケツあぶり 長島喜平 1968年」「桜の花を訪ねて7 将軍沢のさくら 関根昭二 1981年」「古老に聞く 笛吹峠の記念碑 福島愛作 1962年
参照:埼玉県内の近世の地誌については、『新編埼玉県史 資料編10 近世1・地誌』1頁~44頁「解説」。


町の今昔 史蹟・笛吹峠 安藤専一 1968年

2009-05-13 23:37:00 | 将軍沢

 大蔵から南方将軍沢を越えて、鳩山村【現・鳩山町】須江(すえ)に入り入間郡に通ずる町村道路がある。この将軍沢と須江の境界が太平記に名高い笛吹峠である。その昔先進国上野と多摩の国府をつなぐ大動脈であった。
 日本武尊時代の軍旅の動きや、桓武帝の頃征夷大将軍坂上田村麻呂の東征筋、鎌倉の末新田義貞が北条高時を滅ぼした時も、その子義興(よしおき。新田義興)・義宗(よしむね。新田義宗)らが足利尊氏と争った時も、この道筋が用いられたものと想像される。
 笛吹峠の地名起因の伝説として次の三説が古からこの地方に伝承されている。

 その第一は坂上田村麻呂にまつわるもので、当将軍沢の地名も笛吹きの名も田村麻呂将軍に起因されるものと云われている。
 鎌形村八幡宮縁起に「桓武帝の朝、坂上田村麻呂勅命を奉じ、東奧の夷族征伐の途次関東に赴かれしみぎり、当所塩山の絶景を愛で筑紫の宇佐八幡をここに勧請し給ひ……」と記され、その道筋に当たる将軍沢も同将軍に関わりを持つことはうなづける。
 この頃岩殿山に悪竜出没して常に人畜を悩ましていた。たまたま此の話を耳にした将軍は、この悪竜退治を引受け、岩殿山中を西深く分け入りこの峠で悪竜呼び出しの笛を吹き、笛の音に躍り出た悪竜を見ごと退治することが出来た。爾後に峠名にされたものと云う。

 其の第二は新田氏兄弟に関係したものである。
 正平七年(1352)、新田義貞の子義興、義宗が後醍醐天皇の息子宗良親王を奉じて信州に挙兵し、上州から街道を上りこの笛吹峠を経て鎌倉の足利尊氏、直義を討とうとしたが、鎌倉勢は意外に強く之に怖気立った新田方は多摩郡分倍川原に退き小手指が原でも利なく更に後退してこの笛吹峠に陣した。この時新田勢の総師宗良親王は、名月に誘われ陣営の夜々の無聊を名笛に慰められたことから、この名が起ったと云われる。

 その第三は畠山庄司重忠に関係するものである。
 重忠は大里郡旧本畠村(川本町。現・深谷市)畠山に居城を構えていたが、後鎌倉街道の一要衡地に当る当地菅谷宿のその別館を築いた。その後は鎌倉出仕の際はいつも菅谷館か向ったもののようである。
 菅谷から笛吹峠までは約一里程で乗馬すれば短時間で着ける。重忠も笛を愛好したものと思われ、菅谷館からよく峠に出向き、名月を友に笛を吹かれたので、この名が生じたのだと云う。

 いづれを問わず有名地にはくさぐさの伝説がつきものである。その一つだけが真実で他は皆うそだという考え方は無謀である。私はこの三伝説とも各武将の一面を物語るもので一応うなづける語り草と思う。
 当笛吹峠は昭和十年(1935)三月史蹟として県指定となったが、昭和三十六年(1961)の整理によって解除され、現在本町指定の史跡として、多くの人たちから詩情豊かなものとして慕われている。
     『嵐山町報道』181号 1968年(昭和43)2月20日

※笛吹峠の伝説:「雪見峠は笛吹峠」、「桜の花を訪ねて7」、「町の今昔 ケツあぶり」、「古老に聞く 笛吹峠の記念碑」、「峠のロマン “論争”尾を引く笛吹峠 」等を参照。


桜の花を訪ねて7 将軍沢のさくら 1981年

2009-03-28 13:57:00 | 将軍沢

 将軍沢には明光寺(嵐山町将軍沢308)の境内に数本と日吉神社(嵐山町将軍沢425)の参道に三本のさくらがあった。いずれも十数年しかたっていない。村社日吉神社と書かれた御影石の隅に小さな石が保存されていた。表には「田村将軍入口」と朱書きされている。裏には「旧跡○○……ア」と同じく朱書きされているが、何と書かれてあるのか読めない。
 大正六年(1917)に建てられた旗立てがあり、赤い鳥居をくぐって進むと老杉が四本並び、その先にさくらの花がぱっと咲いていた。新築の建物がまず目につく。出来上がったばかりの集会所である。その隣りに白木の鳥居のある小さな社がある。これが将軍様を祀った社殿である。祀られているのは坂上田村麻呂である。
 この将軍社については以前、忍田政治氏の裏の道を三百メートルほど行った道の端に四尺四方の塚があり、平べったい石が積み重ねられて杉の木が生えていたという。そしてここを将軍前と呼んでいた。さきの「田村将軍入口」の石もこの道の入口にあったということである。ここの地名を八反田(はったんだ)という。
 嵐山町誌によると「菅谷村沿革」という書き物に次のように書いてあると。

 「坂上田村麻呂墳、村の中央八反田の山林にあり、八坪、三尺ばかりの墳の上に木製にして三尺四方の小宮あり、昔、利仁将軍此の地を経歴したるとき、此の墳に息(いこ)へしと、想うに延暦中、巌殿山毒蛇退治の時にもあらんか将軍の霊を祭りて大宮権現と称す明治十年(1877)九月村社の池中に移す」
 さらに「村内に利仁将軍の霊を祀りし大宮大権現の社あるをもって将軍沢の名あり」とも記している。

 これらによるとまづ将軍沢の地名は藤原利仁将軍を祀ってあることによって起ったことになる。
 忍田政治氏の語るところでは、昔坂上田村麻呂がこの地に来て湿地帯なのでなんというところだと聞いたが名前がないと答へると、それならば名前をつけてやらうと云って将軍沢の地名がつけられたのだと伝え聞いているという。
 将軍沢の地名は坂上田村麻呂の征夷大将軍の名から起ったのだと子供時代から聞いていた。
 田村麻呂征夷大将軍になったのは延暦十六年(797)桓武天皇の御代である。
 藤原利仁が鎮守府将軍に任ぜられたのは延喜十五年(915)後醍醐天皇の御代である。
 二人の将軍の間には百年以上の歳月がたっている。そして「古墳は坂上田村麻呂の塚であるが、利仁将軍がこの塚に腰かけて休んだのでそこに利仁将軍の霊を祀ったのだという」と町誌は解説している。しかし将軍沢の人たちは誰一人として利仁将軍のことなど考えたこともないだろう。どうしてこういうことを「風土記」や「沿革」が書いたのか疑問である。
 また、将軍社はハシカに効くというので戦前は「大願成就」と書いた赤や白の旗が数多く奉納されたともいう。
     『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日

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里やまのくらし 23 将軍沢

2009-03-09 13:25:00 | 将軍沢

 「正直に生きろ!人間真っ当であれば友達は増える」と剣道一筋70年、箔は要らぬと無段の指導者です。1975年(昭和50)嵐山町剣道会が発足、それ以来会長をしている忍田政治さん(大正13年生まれ)を訪ねました。

  剣道へのきっかけ
 学校から帰ると、家の仕事が待っています。帰りを遅くしようと小学校の敷地内にあった道場でおじさんたちがやっとうをやっているのを眺めていました。小学三年生の時です。柔道・剣道を小学生に教えるために、島﨑里次郎、関根茂良さんが東奔西走して作った三間×五間の建物で、柔道は中島勝哉さんが教えていました。ある日、茂良さんにやるかと聞かれて、軽い気持ちで返事をします。入会金を半額にまけてもらい、十五銭払って入門しました。この道場は翌1935年(昭和10)12月、菅谷の大火で焼失しました。

  大人の付き合い
 高等小学校卒業後、体が小さいのは家系で、年齢は十八歳だと偽って、国鉄八高線の日雇い人夫になりました。四年生の時から60㎏の米俵を担ぎ、力仕事では大人達に負けません。保線工夫の手伝、大飯線(川越線)の突貫工事では、二人組で貨車一両にシャベルで砂利を積み込み、レール800㎏を八人で担ぎました。仕事と一緒に人間が生きてゆくための、いろんな事をいろんな人に教わります。子供でも力と人との付き合いは大人並になっていきました。

  凝縮された年月
 東京電力の鉄塔工事中、日雇い仕事は一生続けられるものではないと仲間に言われ、栃木県間々田村役場に出向き軍隊入隊を志願しました。1942年(昭和17)12月習志野の東部片岡部隊に入隊します。入隊三日目、教育係のビンタが炸裂しました。理由はわかりません。我慢できずに口の中のものを吐き出すと、血と一緒に奥歯が五本交じっています。相手を本当に憎らしく思いました。絶対服従を叩き込まれ、これが軍隊だと実感しました。
 一週間で「満洲」に渡り、殴られけ飛ばされて初年兵の教育を終え、選ばれて関東軍の下士官養成所に入所、卒業します。1944年(昭和19)、原隊に戻り、内務班長・初年兵教育係となり65名の部下の教育にあたりました。なめられぬよう髭は剃るなと教えられ、相手との信頼度を考えます。十九歳の忍田さんには全員年長者で、四十代半ばの人もいました。弱い者いじめを許さず、体力の劣る高齢者をかばいます。後の戦友会に出席したとき、抱きついてきて男泣きした人がいました。
 正直で利口で誤魔化しの利かない馬には一番勉強させてもらったといいます。手の付けられない暴れ馬も褒美に飴玉を与えるとコリコリ食べ、味を覚えると欲しがりました。政治さんには素直なのです。タツムラ、リキジ、サワシンなど今でも夢に出てきます。
 「戦争は地獄だ。二度とあってはならない」、十八歳から三年三ヶ月の軍隊生活を体験した忍田さんの言葉です。

  嵐山初のシメジ栽培
 1948年(昭和23)スミさんと結婚しました。スミさんの父親は金鵄勲章をもらった日露戦争の勇士で、終世体内には機関銃の弾がありました。一人息子は日中戦争で子供四人を残し三十二歳で戦死しています。その父親に会って結婚を決めたそうです。スミさんは同じ歳の政治さんを見てずっと年上に感じました。
 農作業は二人です。養蚕や甘藷栽培はいつも高い収穫量でした。子供達の教育を考えます。回転早く収穫できるものにシメジ栽培がありました。二人で秩父の栽培農家を何軒も訪ねて勉強です。1970年頃でした。菌の植付から出荷まで冷暖房の温度調節して約一ヶ月かかります。一年中栽培できたのは、井戸があり水道代が節約できたからでした。政治さんが目方を計り、スミさんが包装、子供達がシール貼りの手伝です。毎日夜中まで出荷準備に追われて、東松山や坂戸の青果市場へ朝六時のセリの時間までに運び込みました。当時埼玉県のシメジ栽培農家は秩父中心の21戸位でした。ところが、国鉄改革で信越線の横川・軽井沢間が廃線となり、碓氷峠のトンネルを利用したシメジ栽培が始まりました。採算割れの市場価格となり業者は半減、子供達も巣立ち政治さんも廃業しました。
 縁側で、日向ぼっこしながら繕い物をしているスミさんの姿に、幼い頃の情景が重なりました。


将軍沢日吉神社例大祭で獅子舞が行われる 1957年

2009-02-05 22:15:22 | 将軍沢

 将軍沢日吉神社例大祭は十月二十日、二十一日の両日行はれたが、このお祭りには毎年古くから伝わっている獅子舞が奉納された。二十日には大通りを練(ね)り歩いただけであったが、二十一日には明光寺(みょうこうじ)境内で舞った後、五穀成就(ごこくじょうじゅ)、天下泰平(てんかたいへい)の大万灯(おおまんどう)を先頭にホラ貝、笛、太鼓を鳴らしながら秋晴れの道を静かに練って日吉神社(ひよしじんじゃ)境内に行き「めじしかくしの舞」をもって獅子舞は終った。
 この獅子舞は殆ど小学二、三年生の児童によって行はれるが、おかざきという花傘を冠った子が四人ササラを持ち、獅子を冠る子が三人、大ぶれという軍配を持って舞の中心になる子が一人の計八人で、その他笛を吹く人七人、唄を唄う人五人である。唄は「ななつごが今年はじめてささらすり よかれわるかれほめてたまわれ」など四つある。本村に現在残っている獅子舞は越畑、古里とこの将軍沢の三ヶ所だけになってしまったが、いづれも県の無形文化財に指定されている。「村としてもこのような文化財保護については、何らかの考慮を払う必要があるのではないか」と、ある古老は語っていたが、この風習がいつ頃から行はれてきたのか、又神社の祭神は誰なのかについても定かでない。
     『菅谷村報道』84号 1957年(昭和32)10月31日


里やまのくらし 16 越畑

2009-01-31 20:52:13 | 将軍沢

 1956年(昭和31)、将軍沢から越畑に嫁いできた市川文子さんの回想です。夫の之男(ゆきお)さん(故人)は、越畑八宮神社の獅子舞の笛の楽譜を、福島和さん、小澤禄郞さんと協力して、わかりやすい指音符(ゆびおんぷ)本に作りました

  忘れ物
 小学校が国民学校になった1941年(昭和16)、文子さんは菅谷国民学校初等科の2年生です。教科書も新しくなり、例年のように上級生から借りることができず揃えられません。隣の席の子に見せてもらいました。昔の学校では忘れ物をすると家に取りに返されました。原稿用紙を持たずに登校した作文の時間を今でもはっきりと覚えています。戻っても無駄だとわかっているので、遠回りをして将軍沢に向かいます。途中に墓地がありました。「これから悪いことは決してしません。先生には忘れたと言いましたが、家には買い置きもないのです。どうぞ助けてください」と手を合わせました。菅谷の東原団地あたりはヤマで大杉があり、その根元にうずくまり、姿が見えないようにして泣きました。切ない何もない子供時代のことでした。
Web20060801
     菅谷国民学校4年竹組。山下マサさん提供

  一途さが好きに
 之男さんは自転車で将軍沢に通って来ました。「週に一度必ず来るから」という約束で、一日の仕事を終えていつも8時頃でした。ある晩、こんなに良い月夜だから、きっと来ると待ちますが時間が過ぎても来ません。諦めて寝ようとしたら「今晩は」と声がします。夕食後、妹と田んぼ7畝の稲刈りをしてきたと言うのです。嵐になりそうだから今日は来ないだろうと思っている晩にもやって来ました。当時都幾川の学校橋はまだ木橋で、増水時に橋が流されないように取り外します。風雨が強くなって橋はないからと引き留めてもその晩、越畑へ帰って行きました。自転車を水につけないように担いで川を渡り帰ったそうです。嵐の晩から文子さんはこの人と結婚しようと決めました。

  何本もある井戸
 之男さんは、家には井戸が幾つもあると言っていましたが、結婚してそれが水に苦労するということだと分かりました。野良から帰ると、家の後の池で手足の汚れや野菜の泥を落とします。実家の母に小さい頃から、生ものはよく洗ってかけ水をしろと教えられてきたのに充分にはできません。水が足りない時は、田んぼの向こうの幡後谷(はたごやつ)の清水(かれずの泉)から運びました。身重になって汲んできてもらうようになると、無駄にしないようさらに気をつかいました。おしめも真っ黒になった風呂の残り湯ですすぎます。子供が増え、之男さんが家の前に井戸を掘ってくれて、水の不自由さからひとまず解放されました。之男さんは近所にも頼まれ、何本も井戸を掘りました。北部地区上水道施設開設の陳情が1965年(昭和40)に出され、1971年(昭和46)全町給水が決定されました。水道が引かれると洗濯物の黄ばみが無くなりました。その時から人も洗濯物もあか抜けしてきたのだとお嫁さんと笑いながら話してくれました。
Web2006082
     1950年(昭和25)3月 七郷中学校卒業写真。大塚元一さん提供