里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

町の今昔 鬼鎮神社 『武蔵の歴史』より 1969年

2010-12-16 17:51:00 | 川島

 武蔵嵐山駅の東北方八〇〇メートルの所に鬼鎮神社という社がある。駅の付近は、どこでもそうだが、新しい道路が発達するので、地図をたよりに歩きにくくなった。ここもその例に洩れず、駅の東側に南北に貫く新道ができて少しまごつくことになるが、流行神であるから鬼鎮神社はすぐわかる。人に聞くまでもない。新道の中間に一本立った指道標の、一方の腕は向こうに見える森に矢印をむけて鬼鎮神社とあり、一方の腕には初雁城址とある。これは川越城址ではなく、後に述べる杉山城趾であろう。
 鬼鎮神社は同社の縁記によると祭神は衝立船戸大神となっている船戸の神あるいは具奈上神で、つまり道祖神の発展したものと考えられる。一般の神格観念からすると第三流ともいうべきで、それほど由緒正しい神というわけにはいかない。それだけにまたこの土地に自然発生した古い信仰の対象とも見られるわけである。武蔵嵐山記稿に「鬼神明神社、村民持」にあるだけである。旧名は鬼神社で、鬼鎮と名づけたのは最近のことと聞き及ぶ。俗信仰としてはバクチの神さまといううわさもある神域のかもし出す雰囲気は、神仏習合の社ようでもあり、祈祷所のようでもあり、普通神社の空明なものとちがい、人間の動きが充満している感じだ。賽銭凾の上に鉄の棒だの、こわれたカジャような鉄屑が山と積んである。二メートルにもある鉄棒が寄せかけてある。けだし鬼にかな棒のわけであろうが、こうなると村境に立つ道祖神の、寂然とした面影はなくなってしまった。
 御神木に選ばれた杉の木はあまり巨きな木ではない。かえって社務所の横手から斜めに乗り出したクヌギの方が見事である。樹齢二百年ぐらいのもので、新緑のころにはすばらしい浅みどりの旗印を揚げて神社のよき目標になっている。 

 以上が『武蔵野の歴史』から抜萃したものである。戦時中は武神としてにぎわったが、現在は疫除け、養蚕培増加護神として賑わっている。(編集室)

   『嵐山町報道』193号 1969年(昭和44)3月25日


町の今昔 東昌寺並びに広正寺住職寛山師を憶う 安藤専一 1967年

2010-12-14 17:46:00 | 川島

 寛山師は文化十四年(1814)菅谷村小名東側の農家山岸家の一男児として孤々の声を挙げた(古老の言による)。幼少の頃その叡知を見込まれて同地檀那寺東昌寺住職に弟子入りすることになった。多年住職を師として禅堂に専念し天保九年(一八三八年)若年二十五歳にして同寺の住職昇進することを得た。
 法務の傍ら近郷青少年の教導に当り、近隣近郷より師の徳を慕って弟子入りするもの多く、常に数十人に及ぶ若者がこの山門を往来する盛況さであったという。この間実に二十有五年に及ぶ。
 晩年広野村高木山広正寺住職の転ずるに及び、益々青少年教育の道を拡げ百有余の門弟が日々寺門を出入りして漢学に精進した。
 師は資性端厳にして威貌犯し難いところがあったが、師匠としてその座に着くとき師範懇切丁寧で門弟を吾児の如く慈愛したため、門弟又よく師匠の助言を守り、品行方正にして学芸に練達したものが多かった。
 師は特に精気強剛の一面あり、般若経六百巻、般若理趣分若千巻、心経一千巻を遂に書写しあげた。般若経は一巻を一軸に作成して門弟及び檀信徒に分与したので、今尚各地に保存されている。
 師が般若経を書写したのはほとんど夜中を当て、手灯と称して左掌の凹みに種油を注ぎこれに灯心を入れて点火し、寝食を忘れて書き続け、種油尽きればまた注いで時には徹夜してその能筆を走らせる精魂ぶりであった。この仕事が十年の久しきに亘(わた)ってようやく大成したということである。理趣分若一巻は吉田宗心寺に秘蔵されている。この経典書写の外神社仏閣等の幟旗、碑石題字で師の揮毫(きごう)になるものが多く、師は当時近郷第一の能筆家であったことが知られる。
 師はまた博学多芸で、詩歌文章俳諧等の道にも通達して斬道の宗匠としてその名が近郷に知れわたった。師が隠退して後、その門弟でその後を継いで寺子屋教育の任に当った者も多く、その数二十余人に及ぶ程であった。
 東昌寺は寛山師の長年に亘った住持寺の関係から、師直筆の多くを保存していたが明治四十三年偶々火災に遭遇してその全部を焼失するの止むなきに至り、今に存在するものはわずかに山門と墓石のみである。
 師は慶応三年(1867)病魔の侵すところとなり、檀信徒、門弟等多くの人たちに惜しまれつつ齒五十四才にして入寂された。
 師の入寂に先立ち即ち慶応二年門弟有志相謀って師の徳を永遠に頌(たた)えるべく、筆塚建設のためその題字を師匠に懇請した。題字は
   螫竜永護 数峯雲
      沙門 寛山書
とあり、寛山師最晩年の筆意その極に入る大揮毫である。この碑石の裏書によると、大般若経書写廃筆の記が誌され、表面七字句を筆子の請により謹書したことが書かれ慶応二丙虎春三月と紀年もはっきりしている。
この頌徳碑建立の企に参加された筆子は実に三百五十名に及び、地元始め唐子、神戸、岩殿、羽尾、中尾、水房、横田、中爪、下里、玉川方面まで広範囲に及んでいる。師の題字七言書並びに裏書は長く門弟代表が保管したものと思われ、この筆塚建設事業は古老の話によれば明治十八、九年頃とのことである。建設地は広野村飛地川島の鬼神社頭を選定している。
 憶うに、師の誕生は滝沢馬琴が南総里見八犬伝刊行の歳で、続いて異国船打払い令が出、天保の江戸大火が起り、弘化に及んで米船浦賀来航あり、英船の琉球来航、その他欧米挙げてわが近海を掠めた時代で、尊王攘夷に国中を挙げて明け暮れたいわゆる幕末の混沌たる時代であった。
 師は明治の黎明(れいめい)を見ず即ち一八六七年大政奉還の年、王政復古の大号令を耳にしつつその生涯を禅布教と郷党の薰陶に捧げた誇りを自任し従容として大往生を遂げたのであろう。(昭四二・七・二五 嵐山町助役)

   『嵐山町報道』175号 1967年(昭和42)8月15日


節分には挙って鬼は内! 鬼鎮神社 1928年

2009-10-26 17:35:00 | 川島

 日本一の埼玉(八)
  節分には挙って 鬼は内! 鬼は内!
   まるで拷問部屋を見るやうな比企郡菅谷村の鬼鎮神社
 「福は内、鬼は外」は節分の豆まきに用ゐられる全国的共通語に違ひない……。鬼は悪魔としてわれわれの頭には幼稚園時代から桃太郎の鬼退治のお噺でこびりついてゐる。桃太郎の相手になった鬼ヶ島の鬼ばかりぢゃない。地獄の赤鬼、青鬼だって昔から坊さんどもの宣伝(?)で悪魔だと、爺さん婆さんの腹の底までもしみ込んでゐる。

 ところが鬼でなければ夜も日も明けぬといふ地方があるから面白い。節分の豆まきにも「鬼は内」といはなければ福の神が逃げ出してしまふとあって、一村挙って「鬼は内、鬼は内」と大声で怒鳴りたてる。東上線の停車場のある比企郡菅谷村がそれだ。この村の総鎮守は同村大字川島にある村社鬼鎮神社で、すべてをしづめるといふ鬼を祭ってあり、御神体は昔噺の絵本で見るのとそっくりの金棒である。鬼に金棒といふ言葉はここから出た言葉だと村人は信じてゐるらしい。

この神社に参詣する人は必ず鬼の金棒を奉納する事になってゐるので神社の境内にはこの金棒のみをつくって生活してゐる店が数軒もある。神社の周囲は全部各地から奉納した金棒で囲まれ、大きいのは長さ一丈二尺、五尺なんてのもあり、境内の至るところ鬼の金棒がゴロゴロしてゐる様は童話の鬼ヶ島乃至は地獄の拷問部屋へ行った様な感がある。この村へお嫁さんやお婿さんに行く人は節分に「鬼は内」といふことを夢忘れてはいけない……でないと話がむづかしくなるといふわけ。

 遺憾なのはこの村の福代りの鬼は赤鬼か、青鬼かはっきりしないことだ。どうでもいいやふなものの、社掌さんに聞いて見ると「サァ」といって言葉をにごすばかり。門前に売ってゐるお絵馬に赤鬼と青鬼が並べて書いてある。
     『東京日々新聞』埼玉版 1928年(昭和3)8月29日

※参照:鬼鎮神社については、『GO! GO! 嵐山3』の「川島」『里やまのくらし』の「川島」権田重良「川島の今昔」に多数の記事がある。


立志伝中の人 島崎年治さん 川島・森田與資 1952年

2009-02-23 09:37:14 | 川島

 島崎年治さんは川島の島崎国吉さんの三番目の弟で、竹雄さんの叔父に当ります。尋常科を卒へ、高等一年をすますとすぐ社会に飛び出したということです。少年の頃は腕白で両親をしばしば手古摺(てこず)らせたといいます。はじめ高崎市の某家と縁組したが、一年半位で解消、上京して下谷の麩(ふ)製造所に雇はれ、ここで大恋愛されて、養子になれとすすめられたが、青雲の志に燃ゆる島崎さんはこれに満足せず更に転じて千葉県内の麩屋に入り麩の製造に専念して技を磨いた。此処で一人前の腕を得た後、千葉市より三里ばかり離れた曽我【蘇我か?】の麩屋の職人となったが、遂に独立して商売をはじめた。その頃は経済的にも相当困窮していたという。たまたま徴兵検査で帰省した時、相当な身支度をした来たが、これは弟の借物であったという。その後、心に決する所があり完全に独立して営業を開始し、苦心力行を続けた。その辛抱振りは曽我の家の娘を魅了し、遂に近所の人達にもすすめられて、結婚して千葉寒川片町に所帯を構えた。島崎さんの独立独歩、苦難に屈せぬ、精神が、今日の成功の基をなしていると思う。
 その後内務省の御用商人となり、大いに活躍し、現在は千葉市港町に堂々たる旅館を営み、貸家を十二軒も所有していると聞く。妻君は千葉市の副市長の職にあるという。島崎さんの勇猛心と、これを助ける賢妻の内助の功が、後進者に対する大きな教訓である。
     『菅谷村報道』25号 1952年(昭和27)9月1日


川島の今昔 その11 こまもんについて 権田重良

2009-02-03 12:25:09 | 川島

 「こまもん」の家に、大正11年(1922)、当主の四代前の権田文五郎が菩提寺の広正寺*1で作成した過去帳がある。過去帳には延宝六年(1678)二月没「浄室妙江信女」、宝永二年(1705)十一月没「宝山道性信士」以来の先祖の戒名が書かれている。
 八代前に権田友次郎がいる。友次郎の名前は大蔵より菅谷に向かう都幾川の学校橋の北の坂・蛇坂(へびざか)に文化五年(1808)に建立された「水神塔*2」に刻まれている。この石碑は地元では蛇坂改修記念碑と伝えられている。この坂を行き来した多くの人々の労苦と念願により改修された坂道の完成を記念した碑であろう。菅谷村を始め、志賀、太郎丸、広野、杉山(以上嵐山町)、水房、和泉、羽尾(以上滑川町)と川北の村々の名前が読み取れる。上部に、「上川島 権田友次郎、水房村 宮島八十八、羽尾村 山下良七 山下長五郎」とあり、世話人とも思われる。権田友次郎は文政六年(1823)十二月に亡くなっている。
 友次郎が商いをしていた記録はないが、その後、馬次郎、喜藤次、恵助と三代八十数年間にわたり、権田家は小間物商を続けた。
 各地に鬼神講が作られ参詣者が増えると、その道筋は鬼神街道、鬼神道といわれ、道標が各地に建てられた。現在、開発により多くは不明になっているが、東松山市内の八幡神社門前の三叉路に立つ数基の石碑の内に鬼神道の道標がある。「嘉永三年(1850)四月吉日 右川島一里三十町 左小川志賀」とあり「願主 鴻巣宿 柿屋長三郎 世話人 小間物馬次郎」とあり、権田家七代前の馬次郎の名前がある。他に松山 石井長五郎 伯光屋仙衛門 八百屋権[ ]がある。当時の小間物商いは行商人が幾段もの引き出しがある木箱の中に紅、白粉(おしろい)、櫛、かんざし、髪油など化粧用品や日用のこまごまとした品物を入れて、大きな風呂敷包みに背負い、各家を売り歩く商売だった。
 小間物商初代の馬次郎の商いの様子は不明だが、後年には小間物卸商となり、母屋西側の薬師様の道沿いに二階建の離れの店を建てた。行商にでかける人達が毎日出入りし、又鬼神様参詣客相手の商いもしていたようだ。馬次郎は安政二年(1855)八月に亡くなっている。
 小間物商二代目は息子の喜藤次が継いだ。この時代は繁栄期だったが、三代目となる息子が料理屋に働く娘と恋仲になり、親の許しが得られずに鬼神様の上沼(うえぬま)に心中し、若い命を絶ったという話が「こまもん」に語り継がれていた。昭和五十年代になり、明星食品工場の排水問題が起こり農家の水利関係者が調査した際、弁財天の石碑が天沼の藪の中から発見された。「安政二年(1855)卯九月吉日 願主 権田喜藤次」とあり、言い伝えと一致している。親を八月に亡くし、続いて子に先立たれた喜藤次が若者の成仏と家運を祈願して弁財天を建てたのであろう。世間から忘れ去られた安政時代の出来事が、百三十年後の二十世紀のある日、天沼で発見された石碑からよみがえった。この話が川島の人々の話題になり、弁財天は場所を移して再建された。その後も、権田家では四季の花を供えて先祖の供養を続けている*3。
 喜藤次は明治四年(1871)七月に亡くなり、小間物商三代目は二男の恵助が継いだ。恵助は明治二十三年(1890)七月一日に実施された第一回集議院議員選挙の選挙人であった。この時の選挙権は、二十五才以上の男子でその居住する府県内で直接国税十五円以上を納める者に限られ、総人口の約一・二四%にすぎなかったといわれている。商売が繁盛していたことの証(あかし)であろう。後年になり、恵助は本業は人任せにして、鬼神様の門前に料理屋「恵比須」(えびす)を開業し、道楽に明け暮れた生活を続けたという。その頃、兄の店を手伝いに来ていた器量よしの妹まきは広野広正寺の十九世の若住職に見そめられて入山している。菅谷の町内で昭和後年まで小間物商や他の商いをして栄えた家の先祖が、川島の「こまもん」で働き行商をしていたのもこの頃のことである。
 恵助は明治三十三年(1900)没し、川島「こまもん」は三代続いた店を閉めた。三人の息子がおり、長男文五郎は農業で家を継ぎ、次男熊五郎は出家し、僧名玉瑞として後年、加田(滑川町)にある慶徳寺三十世として入山している。下の弟は高輪泉岳寺に使用人として預けられた。小間物商の廃業は、広正寺に嫁いだ恵助の妹まきと新井屋に婿入りした弟長吉の考えた結果と思われる。商売に使われた二階屋は売られ、近年まで杉山の旧家に存在していた。

*1:広正寺は、慶長十年(1605)、この地方を支配していた高木正綱が父の広正の追福のため、高木山広正寺と父の名を寺号として中興開基した寺である。高木氏は中爪村(小川町)、越畑村・広野村(嵐山町)、和泉村(滑川町)四ヶ村二千石を受領していた徳川家譜代の家臣である。以来四百年間、広正寺は火災や震災にも合わず現在にいたり、慶安二年(1649)の家光以来歴代将軍の二十石の朱印状が残されている。
*2:「博物誌だより」参照。
*3:「里やまのくらし 13 川島」参照。


川島の今昔 その10 終戦当時の川島の各組 権田重良

2009-01-25 18:22:44 | 川島

 終戦当時の川島地区の屋号、戸主、職業を上、中、下の各組を辿(たど)って見る。

 上組
   1 綿屋:綿打。権田稔。農。
   2 絵馬屋:塗師屋。田幡芳太郎。神社絵馬師。
   3 脇の家:絵馬屋の分家。田幡林太郎。農。
   4 こまもん:小間物屋。権田喜恵知。農
   5 新聞屋:権田喜八。農。
   6 篭屋:権田安一。農。戦後移住。
   7 新井屋:穀屋。権田和重。
   宮前村(現滑川町)水房境まで七軒並んでいる。薬師様東側の市野川近くの台地上に古屋敷(ふるやしき)の地名があり、川縁の低地に下の屋敷(したのやしき)という場所がある。その昔に刀鍛冶の屋敷(権田宇多之守。うたえもん)があったという話がある。又、小さな金山様(かなやまさま)もまつられている。

 中組(神社周辺と参道)
  神社北側の辻
   8 辻の家:権田豊吉。大工。
   9 森田屋:森田作太郎。農。下組より移住。
   10 権田伊一。下組より移住。
   11 中村巳平。水房より移住。菅谷駅前商売。
   12 前の家:権田峯吉。農。下組より移住。
   13 小沢重太郎。川魚漁。水房より移住。
  神社門前
   14 小川さん:小川圭三。食堂。
   15 善さん鍛冶屋:権田善三。神社奉納鉄棒。上組より移住。
   16 川田屋:権田一重。料理屋。上組より移住。
   17 藤さん鍛冶屋:権田藤次郎。神社奉納鉄棒。下組より移住。
   18 岡島屋:権田徳寿。菓子屋。上組・新井屋の分家。
   19 仲次さん店:遠藤仲次。茶店。土産。松山より移住。
   十二軒でいずれも神社繁栄に伴い、上・下組及び他所より明治期より昭和初期に移住した。神社周辺に集落が出来て、川島の中組が形成された。

 下組(鬼神様の東より滑川町月輪境まで)
  鬼神様東側
   20 豚屋:初雁勝一。養豚業。明治期に杉山より移住。
   21 島﨑栄助。農。島﨑さん分家。
   22 島﨑竹雄。農。
  県道東側
   23 島﨑さん:島﨑和一郎。農。
   24 権田左右。佐官。戦後、松山に移住。
   25 島﨑牛太郎。農。
   26 酒屋:森田清。農。
   27 屋田:森田與資。農。
   下組は八軒である。県道東側は昔、川島の片側宿として十数軒の家並みがあり、篭屋、経木屋。油屋、車屋、荒物屋、紙屋、下駄屋等の屋号の家があったと言われている。
   昭和20年(1945)、戦後の川島には二十七軒が存在していた。川島の三家と言われる権田、島﨑、森田と田幡家は江戸時代にすでに川島に住んでいたが、それ以外の家は明治期より川島に移住した家である。


川島の今昔 その9 川島の片側宿 権田重良

2009-01-25 18:20:22 | 川島

 島﨑家の北側を東に入り月輪西荒井(にしあらい)境までに川島の片側宿(かたがわじゅく)と呼ぶ十数戸の家が並び屋号に篭屋、経木屋(ひげや)、油屋、車屋、荒物屋、下駄屋等の家があったと伝えられているが、屋号に該当する家は現在の川島には見当たらない。入口の土手の上に三体の石造物が建立されている。右の灯籠には金毘羅大権現とあり、文化十二年(1815)建立、願主武州比企郡川嶌村上下講中、世話人島﨑浅治郎とあり、島﨑家の先祖と思われる。中の馬頭観音像は安永二癸巳天(1774)十月十九日、武州比企郡川嶋村念佛講善男女人、施主上下邑中とある。左の青面金剛の庚申塔には享保十七壬子(1732)十一月吉祥日、下川島村同行二十人とある。『比企丘陵 風土と文化』所載の権田恒治さんの文に、川島片側宿入口の石仏群は広野村の飛地と言われた川島の村としての存在と当時の戸数及び人数を知る貴重な遺産と記してある。
 下川島地内の山林には、隣接する滑川町月輪矢尻地区と共に古墳が数多く残っており、屋田古墳群と呼ばれている。上川島の花見堂古墳群とともに、古き時代よりこの川島の地に人が生活していたことが伺い知られるのである。


川島の今昔 その8 下の屋号 権田重良

2009-01-25 18:18:39 | 川島

 沼を過ぎた東側の下(しも)の川島には屋号が続いている家は少ない。明治の初めに鬼神様の近くに移り住んだ家が多いと聞いている。月輪(つきのわ)境より屋田の家【森田佳男】は地名。西となりの酒屋【森田昌男】は先祖が酒造販売をしていたといわれる。酒屋の曽祖父の浦蔵は明治時代に建てられた川島の石碑に多く名が刻されており、寛山和尚の筆塚の建立、川島の地名復活等に尽力した当地の指導者で、川島の為につくした人である。当主の父浦蔵さんも村会議員として活躍し、市野川改修に尽くして、記念碑の建設地も提供しており、世話人として名が刻されている。屋田の家の祖父の森田與資さんも戦後の菅谷村村会議員として村政に携わり、見識者として嵐山町誌編さんに協力している。
 下沼を裏にして島﨑さんの家【島﨑文男】がある。先祖の島﨑里次郎は剣道の達人で、甲源一刀流の師範として多くの門弟がおり、埼玉県の剣士として名を残している。昭和十八年(1943)に奉納した額が鬼神様に飾られている。剣道の先生の家として、神官の家系の小川家とともに苗字に「さん」をつけて屋号としている。島﨑姓の家には何れも屋号が見られないが、本家分家の関係と思われる。
 鬼神様よりの初雁家【初雁康之】は、明治になって杉山より下川島に移り、養豚業として栄え、豚屋の屋号で知られている。
 川島に残る屋号は、他の土地にみられる格式、本家分家、土地柄を示す山・川・上・中・下・田・畑等で表す家は少ない。鬼神様の繁栄に伴い訪れる参詣者相手の商いや農間の余業とした家業を屋号とした家が多いことがわかる。耕地、山林の少ない川島の土地柄である。


川島の今昔 その7 天沼周辺 権田重良

2009-01-25 18:17:09 | 川島

 鬼鎮神社の東に下耕地の用水池として上下に大小の沼があり、天沼(あまぬま)と呼んでいる。水源は上流の山の林の中にあった。清水という小字の現在、サトウ螺子工場の門がある付近(川島1800番地)から絶えることなく湧き出し、上沼(うえぬま)に流れ込んでいた。上沼は水が冷たいので、子どもたちの水浴びの場の下沼(したぬま)と違い泳ぐことができなかったと聞いている。現在は水源の場所は不明となっている。
 下沼の端に小さな弁財天が祀ってある。石碑に文政十二年(1829)九月、上下講中とある。当時、中組の名は見当たらない。下沼の土手際に大黒天の石碑があり、元治子年(1864)、当所講中と読める。

追記:川島には川島1557番地に上沼(かみぬま)があったが、近年埋め立てられた。また川島1815番地には下沼(しもぬま)がある。


川島の今昔 その6 「皇国諸工祖御神璽」の石碑 権田重良

2009-01-25 18:14:24 | 川島

 鬼神様境内より、少し離れて菓子屋権田家の東側の林の中に地元で金刀比羅様(ことひらさま)と呼ぶ大きな石碑がある。小川家の管理と聞くが、荒れ果てた林に埋もれて、その陰も在所も川島の人達も古老が語る以外には忘れ去られていた碑である。
 近年になり近所の人の奉仕で林が整理されて姿が見られる。二段の土台石上に五尺(1.5m)角以上の大きな板碑が菱形に建てられてある。伝承と異なり、表面に「皇国諸工祖御神璽」とあり、裏面に由緒が見え、明治三十年(1898)十一月建立とある。。近隣各町村の世話人多くを始め、当地川島の二十七名の名が世話人、委員としてあり、二段の土台各面にも数百人と思える県内各地の人名が刻してある。由緒に「……本地権田仲次郎氏将敬神愛国之意首唱発起於是盛事與賛同諸人誠以建……」と読め、権田沖次郎が発起人であることがわかる。「武州菅谷古城趾川島金刀比羅祠下信濃散史與田信道謹撰」とあり、與田信道の撰文、小川町下里の田端槐洲の書である。神官では、出雲国之伊波比神社社司高橋信行、神道修成派教務担当支局始祖伊古之速御玉臣神社社司少宣教小川喜六の名前があり、司計【会計】は菅谷の中島宇之吉である。
 権田沖次郎は川田屋現当主一郎氏の三代前の祖であり、建立場所は現況から見て寄進した土地と思われる。なお、高橋信之は鬼神様の宮司を務めた人であり、小川喜六は小川家の三代前の祖にして、刻してある通り神道の普及に努めた方と思われる。子息の伊三郎は、上(かみ)の綿屋より婿入りし、菅谷村村会議員を歴任して川島の地名復活に尽力し、地域発展、神社繁栄に尽くした人である。


川島の今昔 その5 鬼鎮神社界隈の屋号 権田重良

2009-01-25 18:06:05 | 川島

  鬼神様西側の屋号  
 神社の坂下の十字路に辻の家【権田みつ子。大工】。移築して道の南側にんり旧場所は現在住宅地となっている。道の相向かいに森田屋【森田輝義】がある。業は不明だが小川方面より神社門前を通り松山に至る東西の道と南北の土地より神社の下で交わる辻にある場所の家は食商いか参詣客開いての商売と思われる。辻に至る南側に前の家【権田峰吉】。北側にある農家の並びに対する場所の呼び名であり、現在は住宅地の中となり昔をとどめていない。

  鬼鎮様門前の屋号
 神社門前に西より小川さん【小川昌志。食堂】。鍛冶屋「善さん」【権田昭次】。川田屋【権田一郎。料理・宿泊】。鍛冶屋「藤さん」【権田しずえ】。岡島屋【権田昌之。菓子屋】。仲次さんの店【遠藤一男。土産茶店】。いずれの家も鬼神様周辺にあり、屋号で呼ぶ家は神社の繁栄に伴い上・下の川島からの移転か、他の地より移住し、商売により繁盛し、行年になり中組(なかぐみ)の集落ができたのである。
 鍛冶屋の二軒は上・下の川島より移り、神社奉納の金棒の製造。菓子屋の権田家は新井屋の分家であり、嵐山町の銘菓で知られる岡松屋の先祖が修業したとの話が残っている。川田屋の権田家は新井屋の前に居住していたが屋敷替えをして門前に移り木挽(製材)業として建築に携わり、栄えて後に料理屋を開いたといわる。小川家は屋号でなく、小川さんの家、先生の家と呼び、墓石に「大宣教」とあり、明治の始めに神道を広める為にこの土地に移り住んだ神官で神社の繁栄に尽くしている。
 戦後、1950年を迎えた頃を境に鬼鎮神社参詣者が減少し、各店は廃業、転職して営業を続けた店は一軒もなくなっている。


里やまのくらし 13 川島

2008-12-27 00:23:31 | 川島

1  沼の中の川嶌上下講中の弁財天を見ながら、天沼(あまぬま)のほとりを奥(おくり)まで入って行くと、安政二卯年九月吉日/願主権田喜藤次と刻まれた弁財天の石碑がたっています。そのいわれを権田本之(もとゆき)さん(大正12年生まれ)とケイさん(大正14年生まれ)が話してくれました。

  天沼の悲恋
 鬼鎮神社が参詣人でにぎわっていたころのことです。お参りに来る人たちが泊まる旅籠(はたご)に、東北の方から奉公に出されて来た娘が働いておりました。この娘を見初めた若者がいて、二人は互いに好意を持つようになりましたが、結婚することはかないません。親が許さないのです。思い余った二人はとうとう天沼で心中してしまいました。若者は18才でした。死を選んだ二人をふびんに思い、若者の父親は供養のために沼のほとりに弁財天を建てたのでした。
 先年、沼堤の道路舗装の際、過去帳の名前から、篠藪(しのやぶ)の中に埋もれていた弁財天が権田さんの家に言い伝えられてきたものであることがわかりました。その後、沼へ通ずる排水溝が整備された時、石碑に台座が作られ、現在は四季の花に囲まれて祀られています。

  昭和20年代の川島
 川島の全戸数は約40戸でしたが、現在は800戸を超えています。権田さんの家のある字(あざ)花見堂にはきかず薬師があり、少し離れた字天沼に鬼鎮神社があります。隣組は絵馬屋(いまやんち)、脇家(わきんち)、小間物屋(こまもんち)、新聞屋(しんぶんやんち)、新井屋(あらいや)の屋号で呼ばれる6軒で、周りは畑と松ヤマと雑木林でした。住宅が増えた今でも、昔からの仲間で川島2区12班として隣組を続けています。
 秋の薬師様の縁日は大層な人出でした。芝居小屋がかかり、演芸があり、露店が並びにぎやかでした。ほっかぶりして、はんてんを着て、ふろしき包みを背負(しょ)った人たちが大勢来て、薬師様に泊まり、おこもりをしました。
 5月8日のお釈迦様もにぎわいました。おじいさんが山から取ってきたヤマツツジの花を花御堂(はなみどう)に飾り、松山で買ってきた甘茶を作ってだしました。昭和50年代に薬師様とお釈迦様の誕生仏が一緒に盗まれ、祭りは絶えました。

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  働いて働いて
 働き者の娘だからと請(こ)われてケイさんは1945年(昭和20)12月に嫁いで来ました。実家もよく働く人達でしたが、川島の人たちはそれ以上でした。姑について朝から晩まで働きました。麦まきの頃には朝4時ごろから、カッチン、カッチンと畑を耕す音が聞こえてきます。人の姿は分からず、星が見えるだけでした。獣医さんの世話で志賀の農家から乳牛を買い、家の廻りを牧草地としました。一番多いときは12頭にもなり、搾った乳は耕運機で駅前の全比酪農組合へ運びました。養蚕は、春蚕、夏蚕、初秋蚕、晩秋蚕、晩々秋蚕、初冬蚕と年六回出した時もあり、休む暇はありませんでした。
     年老いて来た道ふりむく飛行雲
 自分のこれまでの人生を振り返ってみると一生懸命してきた事でも、記憶は飛行雲のように遠くの方から消えていってしまっている。それなら忘れないうちに文章にしておこうと、本之さんは自分史を書き始めました。体をこわして何回か中断しましたが、最近、どうしても続きを書かなければと思うようになったと、力強く語っています。
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川島の今昔 その4 上の屋号 権田重良

2008-12-16 12:09:19 | 川島

 鬼神様の戦前・戦中の繁栄の様子は昔を知る人の語り草となっているが、そのにぎわいがいつの時代からなのかは定かではない。今に伝わる川島の各家の屋号は、神社参拝に訪れる人々を相手の商売や、農家のかたわらしていた職業を示していると思われる。
 昔よりこの地は上(かみ)、下(しも)の川島で呼ばれ、鬼鎮神社西側、志賀新田境までを上組(かみぐみ)、鬼鎮神社の東側、月輪境までを下組(しもぐみ)とよんでいた。
 上組の戦前は西側より、綿屋(わたや)【権田栄。綿打】、塗師屋・絵馬屋【田幡勇。鬼鎮神社絵馬師】、こまもん【権田本之。小間物商】、新聞屋【権田宗一】、籠屋(かごや)【権田。昭和初期他所へ移転】、新井屋(あらいや)【権田良一。穀屋】と六軒ならんでいる。薬師様北側の市野川沿いに下(した)の屋敷【古屋敷(ふるやしき)】の場所がある。その昔、権田宇多之守(うたのかみ)と呼ぶ刀鍛冶の屋敷があったと言い伝えがあり、昔話が残っている。


川島の今昔 その3 薬師様・鬼神様 権田重良

2008-12-16 12:06:10 | 川島

 川島の権田、田幡、島崎、森田各家の菩提寺は広野の広正寺であり、薬師様のお堂と本尊様は現在、広正寺が管理している。薬師様は「きかず薬師」、「木掛り、つんぼう薬師」とも言われた。耳の病に御利益があると穴の開いた石がたくさん納められていた麦藁屋根の三間×三間位の大きさの本堂と八疊二間に土間の庫裡は改修されて新しい堂と公民館に変わっている。町一番のむくれんず(ムクロジ)の大木、入口にあった男松、女松の老木も枯れ果ててその姿はない。春の御釈迦様、旧暦の九月の晦日の薬師様の縁日には境内に売店が並び、夜には村芝居の興行があり、お籠もり(おこもり)をする信者や信者や参詣の人で薬師様はにぎわった。昔、洪水に流されて木に掛かっていた仏様を村人がお堂を建て安置した言い伝えのあるご本尊、花見堂に飾られ甘茶をかけて子供たちが親しんだ木彫りの小さなお釈迦様も戦後、朽ち果てていたお堂から盗まれ、行方不明となった。お堂の改築の際、本尊は新たに作られて安置されたが、お釈迦様は現在もない。
 川島の中程にある鬼鎮神社は今から800年以上も前、1182年(寿永元)、畠山重忠が菅谷館築造のときに艮(うしとら)の方角に祀ったといわれているが、地元では川島の鎮守、鬼神鎮様として親しまれて来た。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』の広野村の項に「鬼神明神社 村民持」と書れている【その原稿にあたる、「村方古物改口上書」(広野・永島正彦家文書22)には、「飛地川嶋ニ鬼神明神一社四給入会川嶋氏子村持」とある。http://blog.livedoor.jp/rekisibukai/archives/408054.html


川島の今昔 その2 地番 権田重良

2008-12-16 12:03:23 | 川島

 江戸時代には現在の大字が村として存在しており、川島は太郎丸村を間に挟んだ、広野村の飛地であった。明治になって菅谷村が誕生するまでその状態が続き、地租改正時には、川島の土地には広野1470番~2265番の地番がふられた。広野1469番の土地は広野村大下(おおしも)地区にある。明治22年(1889)、菅谷村、七郷村ができた時、川島は菅谷村大字志賀に編入され、大字志賀元広野と称されたが、昭和16年(1941)9月、大字志賀から分離・独立して大字川島が誕生、地名が復活した。しかし、地番は従来の番号を引継ぎ、川島1470番~2265番である(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2008/07/post_5d95.html)。
 広野と川島の間にある太郎丸村は水房村の分郷と言われており、『新編武蔵風土記稿』には、「古ハ水房村【現在は滑川町大字水房】ノ内ナリシガ、寛文(かんぶん)五年【1665】検地(けんち)アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ」とある。水房庄(みずふさしょう)の属した村は、『新編武蔵風土記稿』では広野村・水房村枝郷太郎丸・福田村・伊子村・水房村・水房村枝郷中尾・野田村・岡郷・小江川村の九か村、現在の嵐山町・滑川町・東松山市・江南町にある村々であった。志賀の市野川沿いに莪田分の地名がある。中尾村の慶徳寺のある地名は加田であるがかかわりはないのだろうか。