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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

グループ 上原久美子 1975年

2010-07-29 09:47:49 | 1975年

 三学期になってグループをとりかえました。わたしは、はん長になりたかったので、手をあげました。
 四人上げて「じゃんけんで勝った方」がなると言うのでじゃんけんをすることになりました。わたしは(これじゃあまけるな)と思ったら、勝ってしまいました。
 口では言わなかったけれど心では、(よかった)と思っていました。
 次は、はんに入る人です。
 わたしのはんには、かおりちゃんと、内田さんが来ました。けれで内田さんは、文子ちゃんの方へ行ってしまいました。
 わたしは、二人になってしまったのでがっかりしました。そのうち
「まあいいや。」といって、人数のすくない、わたしたちのグループにはいってきました。
 わたしは(そんなによくないのじゃあ、ほかのグループに行ってもいいのに)と思いました。
 次は、名まえを決めるので、けんちゃんは
「とら組がいい。」
と、言いました。
 わたしと、かおりちゃんは、まあいいと、いうように、決めてしまいました。
 わたしは、始めにこんなふうでは、この組は、うまくいかないなあと、思いました。けれども今では、まあまあよくやっているのでよかったなあと、思いました。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


ドッジボール 吉江信代 1975年

2010-07-28 22:35:40 | 1975年

 水曜日は四年生と体育をします。
 だいたいドッジボールをしています。わたしは、なかなな球がつかめませんでした。
 わたしが投げる球も、だいたいがとられてしまいました。
 わたしは、いっしょうけんめいなげたりとったりしているけれど、球をとろうとするとおとしたり、なげる球はすぐとられてしまいます。そうゆう時は、四年生や、けんちゃんがうらやましくてたまりません。
 どうかして球をつかんだり、投げたりしないと、いつになってもしょうがないと思います。
 ある日、四年生とボール運動をした時、投げたり取ったりするのが、じょうずになってきました。そして今までよりもっとじょうずになろうと思いました。
 そしていつもと同じように四年生と体育をやりました。その時もドッジボールでした。
 いっしょうけんめいやっていました。
 その時四年生の男の子がわたしも目がけて球をなげてよこしました。
 わたしは、いつの間にかボールをつかんでいました。わたしはうれしくてたまりませんでした。
 その日は、四回ぐらい四年生の投げた球をつかんで、けんちゃんの球を一回つかみました。
 その夜は、そのことをおとうさんに話しました。おとうさんに、ほめてもらってまたうれしくなりました。
 その日から、ボールを受け取ったり、投げたりするのがとてもじょうずになりました。そして今では、あてられるようになりました。
 わたしは、今までくじけないでよくがんばったなあと思って、またうれしくなりました。
          (三月八日 土)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


書写 長島邦江 1975年

2010-07-27 22:33:00 | 1975年

 毎週月曜日の四時間は校長先生が教えてくださる書写です。
 始めは自分でも気にいっている字が書けなかったけれども、いくつか書いているうちにうまくかけるようになりました。
 でも校長先生に出すとすぐなおされます。しゅう字を書くのがあきると、みんなとおしゃべりをします。そうすると校長先生におこられます。
 校長先生は、こわいけれどもわたしはとてもすきです。先生はいろいろな筆を持っています。
 このごろ、おせいしょでしゅう字を出すとたくさんまるをもらいます。
 うちに帰っておかあさんに見せるとほめられます。わたしは、うれしくてたまりません。
 みんなは、じょうずだから、うらやましいです。それに、わたしは字が小さいから、みんなに、
「字が小さいよ。」と言われます。
 わたしは自分で大きく書こうと思っていても小さくなってしまいます。
 わたしは、くせなのかなと思います。
          (三月八日土よう日)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


四年生とのドッジボール 杉田賢司 1975年

2010-07-26 22:31:00 | 1975年

 三年になって、ぼくたちは、ふく式ではなくなった。
 ふく式の時は、男の子がたくさんいたのでよかった。
 三年生になって女の子の中に男が一人でぼくはとてもさびしい。遊ぶことは、休み時間にできるからいいが、勉強は、ぼくが一人だ。さびしい。時間表を見ると、水曜日に四年生といっしょに体育ができる。
 ぼくはとっても、うれしかった。
 水曜日になるたびに、四年生とだなと思うとはりきって学校にくる。
 掃除が終わって、五時間目の音楽が終わると待ちかねた体育がきました。
 今日の体育は、ドッジボールです。三年の女の子とはぜんぜんちがうドッジボールです。女の子は、ドッジボールがへただから、そんなにおもしろくありません。四年生とだったら、男の子がたくさんいるし、とってもうまいからおもしろいです。
 赤たい白でもやりますが、はじめは、女対男でやりました。女の方がたくさんいるけれどへた。男の方は、人数は少しだが、うまい。
 ボール体そうをしました。はじまりました。はじめは、ぼくが、がいやにでました。
 ぼくは、パスしてからもらったらすぐに、あてました。光男君がアウトになったので、ぼくは中に入りました。女の子は、弱いのですぐに玉がつかめるので、ぼくはアウトになりません。
 ふえが鳴って終わりです。ぼくたちの方が負けてしまいました。
 こんどは、赤対白です。
 人数は、赤の方が一人多いからのこり一人多くても、どう点になってしまいます。
 始めにぼくは、がいやにでました。みんなが、なかなかあたらないから、ぼくは中へ入れません。
 白は、どんどんあたっていきましたが、まこと君が、がんばっていたのでなかなな全めつできませんでした。
 大野君が、あたったので、ぼくは入りました。赤が勝ちました。
 ぼくは、とてもうれしかった。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


おかいもの 吉田智恵子 1975年

2010-07-25 11:37:08 | 1975年

わたしは、かい物にいった。
それは、四才の時だった。

わたしは心配で、こわかった。

おかあさんにたのまれてかい物にいった。
とちゅうで足がつまづいて、
ころんでしまった。とたんに、
買う物を、わすれてしまった。

うちに帰った時、おかあさんが、
「様子を見ていたんだよ。あぶないから。」
と、いった。
「がんばりやさんね。」といわれた時、
わたしは、びっくりしてしまった。

それからは、気をつけてかい物に行くようになった。
わたしは、かい物に行くのが、
すきになった。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


小鳥 内田久美子 1975年

2010-07-24 11:34:00 | 1975年

みみをすますと
小鳥の鳴き声がする
チュッピ チュッピと
わたしを よんでいる みたいに
チュン チュン チュンと
「あそびにきてね。」
と、いっているみたいに

ずっと聞いていると
わたしのことを わらっているみたいで
おかしくなってしまった
          (二月二十七日)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


ロッカー 根立文子 1974年

2010-07-23 07:06:29 | 1974年

わたしたちの学校には
ロッカーがある。
一年生から六年生までの
教室にロッカーがある。
ロッカーの中には
習字の道具や
絵の具の道具
ノートなど いろいろな
物を入れておく。
だから
たくさん入れられるように
整とんしておかなくちゃ。
          (十一月十六日)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


わたしの口 吉野和江 1975年

2010-07-22 06:34:33 | 1975年

わたしは
テレビを見て、立とうとしたら
ポットに 口がぶつかって
はれてしまった。

やっとなおったと思ったら
また ちがうところがはれた。
こんどできたところは
口びるの近くだ。

歯をみがく時
いたくて なかなかみがけない。
ごはんを食べる時も
あまり大きな口があけられない。

水をのむときも お湯を飲むときも
しみてとてもいたい。
いたくていたくてたまらない。

歯がぶつかると とてもいたい。
早くなおてほしいなあ。
          (二月二十七日)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


(更新)津島神社祭礼の神輿渡御とその前の暴れ揉みのあった時代

2010-06-05 16:43:00 | 菅谷

Web68
 毎年、7月13日、14日の2日間行われた菅谷神社内津島神社祭礼の神輿渡御風景である。この写真は『嵐山20年のあゆみ』(1977年発行)の1960年(昭和35)の頁に掲載されている。この年代は既に午後1回だけの担ぎで2回目(午後9時頃から)の暴れ揉みは無かったと思われる。農協は未だ旧い建物で建て替えられていない。向かって右端の農協の左奥に見える二階建ての建物は辻沢肉店である。未だ新築間もない感じである。辻沢肉店が二階建に新築されたのは、1962年、63年(昭和38)頃のことであるという証言があるので、『あゆみ』との齟齬がある。
 神輿の行く駅通りは未だ舗装されていない。左側手前に見える建物は農協の精米所である。神輿は駅通りを駅方向に向って進んでいる。
 1956年(昭和31)以降、土、日や休暇の日の昼間、神輿をトラックの荷台に乗せて菅谷の大通りを巡回したのを数回見たことはあるが、1975年(昭和50)頃、勤めを終えて帰宅して飛び入りで神輿を担ぐまで、御輿を担いだのを見た記憶はない。
 ここで注意するのは神輿の担ぎ棒の取付け方と長さで、現在とは異なる。昔は神輿の正・背面の担ぎ棒とそれと交叉する横方向の担ぎ棒の長さがほぼ同じで、担ぐと道路一杯となり、担ぐ人の向は横向きになり、蟹歩きになって担いだものである。担ぎ手の力関係で神輿がよく回転したことを憶えている。掛け声も現在と異なり、ワッショイ、ワッショイであった。
 当時の神輿を担ぐ人達は背は低かったが、力と持続力(スタミナ)の点では2009年(平成21)現在の人をはるかに上回っていた。それは現在の人の神輿の担ぎ方を見れば分かる。担ぎ棒が全員前向きになって担げるように組まれ、担ぎ方も穏やかである。そして、一番の問題は持続力の問題で、肉体労働の少ない現代の人は昔の人とは比較にならない。
 写真でも分かる様に神輿の担ぎ棒が井桁に組んである。そしてこの担ぎは夕刻の第1回目の巡回である。それは神輿にまだ鳳凰などの装飾がついている。夜遅くの担ぎは神輿が激しく揉む(暴れ揉みと言った)ため、あらゆる装飾を外し、注連縄のような縄でがんじがらめに神輿を縛り、壊れないようにして、一般の人が寄り付けないほど激しく担いだ。
 次に神輿の休憩について記憶を辿ってみると、神輿の夕刻と夜と2度担いだ。担ぐ順序は根岸豊氏宅前の御旅所の前を出発し、まず上(かみ)に行く。大通りを平沢境辺りまで行きUターンして大通り(県道・鴻巣小川線【昭和38年4月より国道254号線】)を菅谷下(しも)の東松山市境まで行き、また同じ道をUターンして駅通りに入り、武蔵嵐山駅前でUターンして御旅所前に戻る。行程は約2㎞強であろうか。その担ぎの途中でところどころで休憩を入れる。休憩を取る場合は商店の前が多かった。上(かみ)の方は余り記憶に無いが、魚時、桐屋、足袋屋、島本薬局、小島屋、美松、松浦自転車店、福島商店、岡松屋、中島屋。駅通りでは高山商店、佐野屋商店、東雲亭、内田屋、凸坊、花井商店などがあったと思われるがすべては思い出せない。神輿の休憩所となる家は予め、その家の前に縁台、テーブル、椅子などと振る舞いの茶碗酒、キュウリの切ったのに塩をまぶしたものや、季節の野菜、果物など、また、するめを焼いたのを裂いたのとか、氷のぶっかき、氷水などを用意して、担ぎ手、その他の人を持て成した。また、この持て成しを行う家は毎年でなく、輪番の様になっていて、それが予め祭礼の役員に伝えてあったものと思われる。神輿には、担ぎ手の他に幣束(御幣)持ち(神輿を先導し、神輿の行く先を払い清めてゆく人)、神輿の置き台(2脚必要)担ぎ2人、法螺貝吹き、介添え役、それに、羽織・袴で正装し提灯を持った氏子総代などが居た。この持て成しは、1回目の担ぎの時も、2回目の担ぎの時も家を代えて行われていたと記憶する。
 担ぎが一巡するのに休憩時間を入れると2時間前後はかかったと思われる。1回目の担ぎ始めは午後5時頃、2回目は、午後8時頃からではなかったかと記憶する。また、この形が採られたのは東松山市のヤクザとのトラブルの起きる1955年(昭和30)(自分はトラブルの起きたのはこの年と記憶している)までの形式である。それ以後のことは、どの様に行われたのか分からない。(2009年3月、菅谷・権田文男)

  夏祭  夏祭り
 恒例の菅谷津島神社夏の祭典は七月十三、十四の二日間盛大に行はれた。神輿渡御が午後五時からワッショイ、ワッショイと掛声も勇ましく始まり、市内を一周して七時奉納、余興が十時まで御仮家の前で演ぜられた一方、嵐山駅通り共和会も子供用神輿、山車を新しく造り、大蔵から笛、太鼓、鐘などの囃子を借りて、ひょっとこの踊りを演じながら練り歩いた。又商工会公演の書道、生花展が二ヶ所で開かれた。両日とも曇り日であったが土曜日であったため、人はかなりあった。この祭りに要した費用は約五万円である。共和会は三万八千円。
     『菅谷村報道』81号 1957年(昭和32)7月25日

  夏祭りに菅谷賑う
 恒例の菅谷津島神社の祭礼は七月十三・十四日の両日行はれた。夏祭りのはしりだけに、天候にめぐまれて、かなりの人出でにがわった。渡御式は四時から始まり、菅谷の市街地を一周、七時までの明るいうちにすませ、あとは余興など見て平穏に祭りの夜を過ごした。
     『菅谷村報道』124号 1961年(昭和36)7月20日


本 杉田悦子 1975年

2010-05-16 11:58:51 | 1975年

本には いろいろある。
わたしは おもしろい本を読んだ。
それは マンガ本だ。

楽しい本は おとぎはなしなど
いろいろある。

本を読むと
しらないことがわかってくる。
だから本は だいすき。

わたしの家には
本が たくさんある。
図書室にも たくさんある。

わたしは 学校で本をかりる。
わたしは たくさん本を読んで
しらないことを
うんとわかるようにしよう。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


かがみ 権田かおり 1975年

2010-05-16 11:55:48 | 1975年

かがみを のぞいたら
かがみの中にも
わたしがいる。
わたしが 手をあげると
かがみの中の わたしも
手をあげる。

こんどは 口をあけてみた。
また かがみの中のわたしは
まねをした。

いやだな。
かがみって
まねをするのが
とくいなんだな。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


ぬけかかっている歯 上原久美子 1975年

2010-05-15 21:53:00 | 1975年

歯が グラグラゆれている。
なかなかとれない。
おもいきって とろうと思っても
手が いたくなるだけだ。

かがみを持ちだしてきて見る。
この歯が ピクッと
とれないかな。
それとも まほう使いが来て
まほうをかけて
とってくれないかな。

古い歯がとれて
新しい歯が でてくればいいのにな。
歯がとれれば
おとなの 強い歯になれるのにな。

なんでも食べられる
強い歯になれるのにな。

早くとれないかな。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


春 長島マサ子 1975年

2010-05-15 11:49:00 | 1975年

春になると きれいな
花が たくさんさく。

いろいろなかざりがつくれる。
くびかざりやゆびわなどが
たくさんつくれる。

花が たくさんさくと
にわが きれいになる。

はたけも花がいっぱいになる。
スカートも はけるから

春は 大すき。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


木ぞう校舎 三年 吉江信代 1975年3月

2010-05-14 20:32:42 | 1975年

わたしたちの学校は
木ぞう校舎。

菅谷小学校は
鉄筋校舎。

わたしたちはなんで 鎌形小学校は
木ぞう校舎なのかと思う。

みんなは
鉄筋校舎になってほしいという。

だけどわたしは いまのままでいい。
遊ぶものが いっぱいあるからだ。

でも 一つだけさみしいことがある。
人数が少ないことだ。

それでも みんなとなかよく遊んだり
勉強もしっかりやっている。
やっぱりいまのままが いちばんいい。
           二月二十七日(木)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


ぼくのふでばこ 三年 杉田賢司 1975年3月

2010-05-14 20:31:07 | 1975年

ぼくの ふでばこは
一年ぐらい つかっている。
ぼくのために はたらいて くれる。
もう
カバーが やぶけている。
中も きたなくなった。
あけるところも テープではってある。

ぼくのふでばこは かわいそう。
かばんの中で
いたいのを こらえている。
ぼくは おかあさんに
「ふでばこ買って」
というと おかあさんは
「だめだよ」という。

ぼくのふでばこは
まだ
ぼくのために はたらいてくれるから
がまんしよう。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月