里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

はじめに 大塚基氏 1994年

2010-12-28 17:52:00 | 七郷中学校

 偶然にも、昭和三十年代の半ばの七郷中学校一年生(女生徒)の作文集が見つかり、目を通す機会に恵まれて、忘れかけようとしていた家族の触れ合いについて考えさせられました。作文の中の子供達は、熊谷市の花火大会ぐらいを楽しみに、家のお手伝いをすることを当たり前の事ととらえて、自分の家族の為に子供の立場から一生懸命に頑張っていました。家の手伝いの中から親達の苦労や、働くことの喜び、自然とのかかわりあいを体で体験していました。
 そして、なによりも特記すべきことは、本人にはまったく意識が無かったにしろ、夏は農作業、冬は山林の手入れにと、一生懸命に頑張る農林業の担い手であったことです。
 子供達の力が農地を守り、山林を守り、自然を守っていた立て役者だったのです。
 しかし今、飽食、物質文明の時代を迎えて、人の価値観も大きく変わってきました。
 そして何千年もの間、生活の根をしっかりと緑と清流の中におろしていた農村の人々の中にも大きな変化が表れてきました。今の農村の子供達は家の仕事を通じて家族で話し合うことが無くなり、目に写るのは、休みが増えてレジャーと子供に御機嫌をとる親の姿と、農地や山林がどんどん荒廃していく姿と、塾通いをする自分達の姿のような気がします。
 この作文を読んで、作文の時代を知っているものは一度その時代を振り返って見るのもよいと思います。また、知らない時代の人は、家族とのふれあいの中で、この作文の中の子供達の生活を考えて見て、なにが大事なのか考えて見ることも必要なことと思います。

   大塚基氏編「ある夏休みのことです」 1994年12月17日発行


大塚基氏編「ある夏休みのことです」(1994年12月発行)目次

2010-12-27 17:47:00 | 七郷地区

昭和30年代半ばの七郷中学一年生の作文集です。嵐山町柔道会の七郷柔道場創設(1974年12月17日)20周年記念として発行されました。

はじめに(大塚基氏)

目次

1 草むしり ゆりこ

2 私の一日 えみこ

3 花火 みちえ

4 草むしり ゆりこ

5 夏休みの一日 ともこ

6 夕飯たき かずこ

7 仕事 えいこ

8 花火 みちこ

9 花火 とく

10 台風のくる日 あきこ

11 ぶちの死 きぬえ

12 約束 みちこ

13 草とり えつこ

編集後記(大塚基氏)


昔を今に・部落めぐりあるき 思想の巻 その一 関根昭二 1951年

2010-12-21 15:30:37 | 1951年

 私たちの村に於ける思想的潮流はどのやうな流轉をして今日に至ったのであらうか。思想と呼ばれるに値する運動が人々の心に映されるやうになったのは、はっきり云へば昭和の初年頃なのではなからうか。大正時代は云はば思想的低流の時代とでも云ふべきであらうか。大正もそれは第一次大戦後でなければこの村は思想らしい動きは目立たず極めておだやかな村であった。それは無政府主義的な又は社会主義的な或いは共産主義的な思想の主唱者が居なかったことを意味するのである。
 わが村にこのやうな思想を吹き込んだのは松浦高義氏であったが、それも昭和初期頃になってである。彼は大正九年(1920)菅谷の三軒長屋(昭和十年の大火災に焼失現在小島屋旅館並び)に新潟方面より移り住み(出生地は唐子村青鳥)自轉車業を営んでゐたがその技術は人々の認めるところであった。然し当時の彼は金もうけに熱中して居り、如何にして金をもうけるかといふことを眞剣に考へてゐた。さうしたは彼はある日(震災前)東京に行き上野の山をふらついたのであった。歩いてゐるうちに彼はとある露店で一冊の本を発見したのであった。「金は金を生む」といふ題名は当時の彼にとっては全く魅力的な響きをもってゐた。彼は直ちに十銭の代償を拂ってその本を買い求め家に帰って読み耽(ふけ)った。さうしてその本から彼が教へられたもの、或ひは彼が感じたものは何であったらうか。それは金もうけをするには徳義を欠かなければならない。世の中の仕組みは正当なことをやってゐたのでは金持ちにはなれないやうになってゐるのだといふことであった。彼はこの本によって社会とはどんなものであるのか、もっと知りたいといふ欲望が生じ、滅茶苦茶に社会的な本を読んだ。新聞廣告を見ては取り寄せたりもした。然し、彼は系統的には本を読まなかった。従って彼は唯単におぼろげながらも階級意識的なものを持った程度で、はっきりと共産主義とか社会主義とかいふ思想的な考へ方は持ってゐなかったのである。
 一方その当時、七郷村吉田の出身である鞠子良策は大学を出て渡米し、帰朝後大正八年(1919)頃比企、大里の青年を糾合して江南青年革年團を組織し、轟安雄(現縣会議長)を副團長とし、大いに政治的活動を開始した。菅谷では根岸福次、関根仲兆、関根清一、川島吉五郎、高橋亥一、岡村定吉氏等が、七郷では内田幾喜(現村長)、市川武市、栗原侃一、金子忠良、荻山忠治氏等の二十歳前後の青年がこれに参加した。大正七年(1918)には第一次世界大戦が終り、翌八年(1919)にヴェルサイユに於て講和條約が結ばれ世は平和の声に酔い痴れて行ったが、大正九年(1920)三月にはニコライエフクで日本人が多数露兵に惨殺される一方猛烈なる社会主義運動が滔々(とうとう)と入り来り。この分では近い将来日本も完全に赤化されるのではないかと思はれる程であった。大正八年の米騒動が起る前年にはロシヤ革命が行はれ九年には日本にはじめてメーデーのデモンストレイションが行はれ社会主義同盟が組織された。大正十一年(1922)には非合法の日本共産党が生まれ徳田、野坂等がその組織に当り、この年また日本農民組織が創立された。さうして各地でデモや争議やストが繰り返された。そこで政府は大正十二年(1923)に共産党の検挙を行ふに至ったが、この年九月関東に大震災が突発し東京は一夜にして灰燼と廃墟の都に化した。政府は治安維持の名の下に社会主義や労働組合運動者を取締った。だが多くの人々はこのやうな思想を一概に危険思想として恐れ、戦前戦後の好況と不景気の中に浮沈しながら或は太平の夢に浮かれ、或は絶望と頽廃の嘆きに身を沈めていったのであった。
  おれは河原の枯れすすき
  同じおまえも枯れすすき
  どうせ二人はこの世では
  花の咲かない枯れすすき
というやるせない頽廃の情緒がもの悲しいヴイオリンの音に歌はれ続いて
  逢いたさ見たさにこわさを忘れ
  暗い夜道をたゞ一人
  逢いに来たのに何故出て遭はぬ
  僕の呼ぶ声忘れたか
といふかごの鳥の歌は若き青年男女の心に田園的恋愛のせつなさを淡い感傷としてしみこませたのであった。
 かうした風潮の中に於て理想と情熱に燃ゆる村の青年達は革新團の態度にあきたらず内田幾喜、高橋亥一、関根清一氏等は七郷、菅谷、宮前の青年を以て更に革新派を作り、大正九年(1920)の冬演説練習のため内田幾喜氏宅の蚕屋の二階に集り毎夜熱弁を振ったのであったが、この革新團も次第に下火となり名ばかりの存在になって行った。それと共に鞠子良策がアメリカから連れ帰った鞠子稔が社会主義運動を展開するに至り、高橋、松浦、今村重雄(当時歯科医)、大野幸次郎氏等がこれに共鳴して行った。
 大正十三年(1924)帝國議会議員選挙の際小見野村出身の山口政二は民政党より立候補し、「余大学を出でてまさに十年身治めざるにあらずと雖(いえど)も今尚一家とゝのはず……と」名文を以て挨拶し理想選挙を標榜するや独眼龍の彼は忽ち青年たちの大いなる信頼をかち得て当選したのであっが、議会に於て禁酒法案上提演説中不幸壇上で脳溢血のため倒れてしまったのである。直ちに補欠選挙が行はれ政友会から横川重次が立候補した。然るに比企の政友、民政の両派は妥協して横川氏をかついだため、山口政二に対する青年の信頼はこの老壮年連中の妥協に対し大いなる反感を抱き、山口政二の弔合戦と称して当時岩槻にゐた一芥の無名青年山口六郎次を中立派として候補に押し立て関根、高橋、村田秀作氏らは手前弁当無日当で奔走したが、これらの比企青年達の燃ゆるが如き正義感と情熱も政民両派の前には力及ばず敗退せざるを得なかった。

     『菅谷村報道』11号 1951年(昭和26)2月10日


町の今昔 越畑の盲人 青木宗伯 長島喜平 1971年

2010-12-17 17:54:04 | 町の今昔

 かんが目に入って盲になったということを、物語として度々聞いている。盲で有名な江戸時代の学者塙保己一もその一人であったが、越畑にも青木宗伯という人がいた。
 宗伯は、昭和三年(1928)二月十八日死去というから、古い人ではない。宗伯は、幼少五,六才の頃、かんが目に入って盲になり、その当時、ほうそうにかかった時であったという。盲目になったため、東京へ出て鍼術(しんじゅつ)を学んで身をたてた。鍼術とは、はりのことで、体にさす鍼の技術によい感をもっていたという。独立して鍼術導引所の看板をかかげ、弟子も多くいた。後に越畑へ帰り、そこで鍼をやっていた。
 東京にいる頃、本所一之橋寿亀山一っ目の弁財天を信仰したという。現在、青木宅の庭の小さな祠に大弁財天女像なるものが祭ってある。宗伯について、もう少し調査しておきたかったが、宗伯の三代目にあたる青木操さんが、亡くなってしまったので、上岡箕輪の岡田実先生の奥さん(宗伯の末子)を訪ねたが、あまり宗伯について記憶がないらしい様子であった。
 宗伯は、かんの強い人で、清潔好きであったという。障子の敷居に少しのごみがあっても、障子をひいてわかったとか、いかにも盲人にありそうな勘である。
 盲人になったことを生涯のなげきとせず、自分の生きる道をきりひらいて強く生きていったことこそ盲人ばかりでなく、また何時の世にも必要な生き方である。
 七三才の長寿を全うし、死去して源興院大鍼租勇居士といい、遺品は熊谷市のかけと寺に奉納したとか、その寺は空襲でいまはない。
 熊谷盲唖学校長をした中村春吉氏は宗伯の弟子という。(筆者は埼玉県郷土文化会常任理事、朝霞高校定時制主事)

   『嵐山町報道』213号 1971年(昭和46)5月25日


町の今昔 鬼鎮神社 『武蔵の歴史』より 1969年

2010-12-16 17:51:00 | 川島

 武蔵嵐山駅の東北方八〇〇メートルの所に鬼鎮神社という社がある。駅の付近は、どこでもそうだが、新しい道路が発達するので、地図をたよりに歩きにくくなった。ここもその例に洩れず、駅の東側に南北に貫く新道ができて少しまごつくことになるが、流行神であるから鬼鎮神社はすぐわかる。人に聞くまでもない。新道の中間に一本立った指道標の、一方の腕は向こうに見える森に矢印をむけて鬼鎮神社とあり、一方の腕には初雁城址とある。これは川越城址ではなく、後に述べる杉山城趾であろう。
 鬼鎮神社は同社の縁記によると祭神は衝立船戸大神となっている船戸の神あるいは具奈上神で、つまり道祖神の発展したものと考えられる。一般の神格観念からすると第三流ともいうべきで、それほど由緒正しい神というわけにはいかない。それだけにまたこの土地に自然発生した古い信仰の対象とも見られるわけである。武蔵嵐山記稿に「鬼神明神社、村民持」にあるだけである。旧名は鬼神社で、鬼鎮と名づけたのは最近のことと聞き及ぶ。俗信仰としてはバクチの神さまといううわさもある神域のかもし出す雰囲気は、神仏習合の社ようでもあり、祈祷所のようでもあり、普通神社の空明なものとちがい、人間の動きが充満している感じだ。賽銭凾の上に鉄の棒だの、こわれたカジャような鉄屑が山と積んである。二メートルにもある鉄棒が寄せかけてある。けだし鬼にかな棒のわけであろうが、こうなると村境に立つ道祖神の、寂然とした面影はなくなってしまった。
 御神木に選ばれた杉の木はあまり巨きな木ではない。かえって社務所の横手から斜めに乗り出したクヌギの方が見事である。樹齢二百年ぐらいのもので、新緑のころにはすばらしい浅みどりの旗印を揚げて神社のよき目標になっている。 

 以上が『武蔵野の歴史』から抜萃したものである。戦時中は武神としてにぎわったが、現在は疫除け、養蚕培増加護神として賑わっている。(編集室)

   『嵐山町報道』193号 1969年(昭和44)3月25日


町の今昔 狂歌師元の杢網のこと 長島喜平 1968年

2010-12-15 17:49:00 | 杉山

 天正軍記という古い記録に、大和郡山城主筒井順昭が病死して、嗣子の順慶が幼少だったので、遺言により順昭と声のよく似た木阿弥(もくあみ)という盲人を、薄暗い寝所において、順昭の病気と見せかけ、順慶が成長ののち、木阿弥は元の一盲人の身になったという故事より、元の木阿弥とは、一度は素性に似つかわぬほどの栄革の身となった者が、もとの素寒貧になってしまうことで、元通り無一物になることをさしていう。
 もとより狂歌師や川柳師は、諧謔なペンネーム(作名)をつけたもので、元杢網(もとのもくあみ)も、またその例にもれない。
 彼は江戸末期(天明~文化)の狂歌師にて、杉山の金子氏の出である。
 文学辞典などによると、本名は渡辺正雄とあるが、郷里では金子喜三郎といい、杉山の金子長吉氏の三代前であるという。
 屋号は大野屋と称し、別号落栗庵、画号は嵩松とも言った。
 享保九年(1724)に生れ、文化八年九月二十八日(1811)八八才にて歿した。
 江戸京橋北紺屋町の湯屋の主人で、画を高嵩谷(こうすうこく)に学び、杉山の薬師堂等にその絵を残した。
 天明の頃、四方赤良(よもあから)等と狂歌をはじめ、狂歌堂真顔、蜀山人、宿屋飯盛等と共に有名を馳せ、その道の大家となる。
 門人には裏堀蟹子丸、馬場金埒などをはじめ多くいた。
 寛政三年(1791)、発心して藤沢遊行上人の弟子となり、珠阿弥と号し、京都・摂津に遊歴し、大和吉野に仮住いしたこともあった。
 老後、芝久保神谷町に転居し、更に向島水神の森に閑居したこともある。
 とにかく三昧の生活をすごせたのは、湯屋を経営し経済的にはめぐまれていたのであろう。
 妻は本名すめといい、知恵内子(ちえのないし)と号し、知恵のないこであるというような意味があるらしい。共に狂歌をなす。
 墓は金子家近くの墓地にあり墓石の表面に
  落栗庵元木網
  芳春院円誉妙栄大師(妻)
とあり、墓石の右側に、
  あな涼し浮世のあかをぬぎすてて 西へ行く身は元のもくあみ
と言う辞世が刻んである。
 元木網の狂歌には、
  筒いつついつも風あり原や はひにけらしなちと見ざるまに
 なを、徳和歌後方載集の中に、
  又ひとつ年はよるとも玉手箱 あけてうれしき今朝のはつ春
  きさらぎも杉菜まじりの菜の花の さきてはくはぬ口なしの花
などと数歌がある。
 また同じ狂歌集に、知恵内子は
  通りますと岩戸の関のこなたより 春へふみ出すけさの日の足
  さほ姫の霞の衣ぬひたてに かゝるしつけのをがわ町哉
と、これまた数歌ある。
 天明新鐫五十人一首吾妻曲狂歌文庫の補遺として古今狂袋がありその中に、もとの木網と知恵内子がのっている。
 もとの木網は、また元黙網とも杢網ともかき、新古今狂歌集、狂歌師細見、浜のきさご(まさごではない)などに多くの狂歌や狂歌集を残し、狂歌によると国学の素養が、非常に深かったようである。
 墓はまた、東京深川万年町正覚寺にあり、心性院琢誉珠阿弥陀仏の法名であり、実はここへ葬られたという。

   『嵐山町報道』190号 1968年(昭和43)12月5日


町の今昔 東昌寺並びに広正寺住職寛山師を憶う 安藤専一 1967年

2010-12-14 17:46:00 | 川島

 寛山師は文化十四年(1814)菅谷村小名東側の農家山岸家の一男児として孤々の声を挙げた(古老の言による)。幼少の頃その叡知を見込まれて同地檀那寺東昌寺住職に弟子入りすることになった。多年住職を師として禅堂に専念し天保九年(一八三八年)若年二十五歳にして同寺の住職昇進することを得た。
 法務の傍ら近郷青少年の教導に当り、近隣近郷より師の徳を慕って弟子入りするもの多く、常に数十人に及ぶ若者がこの山門を往来する盛況さであったという。この間実に二十有五年に及ぶ。
 晩年広野村高木山広正寺住職の転ずるに及び、益々青少年教育の道を拡げ百有余の門弟が日々寺門を出入りして漢学に精進した。
 師は資性端厳にして威貌犯し難いところがあったが、師匠としてその座に着くとき師範懇切丁寧で門弟を吾児の如く慈愛したため、門弟又よく師匠の助言を守り、品行方正にして学芸に練達したものが多かった。
 師は特に精気強剛の一面あり、般若経六百巻、般若理趣分若千巻、心経一千巻を遂に書写しあげた。般若経は一巻を一軸に作成して門弟及び檀信徒に分与したので、今尚各地に保存されている。
 師が般若経を書写したのはほとんど夜中を当て、手灯と称して左掌の凹みに種油を注ぎこれに灯心を入れて点火し、寝食を忘れて書き続け、種油尽きればまた注いで時には徹夜してその能筆を走らせる精魂ぶりであった。この仕事が十年の久しきに亘(わた)ってようやく大成したということである。理趣分若一巻は吉田宗心寺に秘蔵されている。この経典書写の外神社仏閣等の幟旗、碑石題字で師の揮毫(きごう)になるものが多く、師は当時近郷第一の能筆家であったことが知られる。
 師はまた博学多芸で、詩歌文章俳諧等の道にも通達して斬道の宗匠としてその名が近郷に知れわたった。師が隠退して後、その門弟でその後を継いで寺子屋教育の任に当った者も多く、その数二十余人に及ぶ程であった。
 東昌寺は寛山師の長年に亘った住持寺の関係から、師直筆の多くを保存していたが明治四十三年偶々火災に遭遇してその全部を焼失するの止むなきに至り、今に存在するものはわずかに山門と墓石のみである。
 師は慶応三年(1867)病魔の侵すところとなり、檀信徒、門弟等多くの人たちに惜しまれつつ齒五十四才にして入寂された。
 師の入寂に先立ち即ち慶応二年門弟有志相謀って師の徳を永遠に頌(たた)えるべく、筆塚建設のためその題字を師匠に懇請した。題字は
   螫竜永護 数峯雲
      沙門 寛山書
とあり、寛山師最晩年の筆意その極に入る大揮毫である。この碑石の裏書によると、大般若経書写廃筆の記が誌され、表面七字句を筆子の請により謹書したことが書かれ慶応二丙虎春三月と紀年もはっきりしている。
この頌徳碑建立の企に参加された筆子は実に三百五十名に及び、地元始め唐子、神戸、岩殿、羽尾、中尾、水房、横田、中爪、下里、玉川方面まで広範囲に及んでいる。師の題字七言書並びに裏書は長く門弟代表が保管したものと思われ、この筆塚建設事業は古老の話によれば明治十八、九年頃とのことである。建設地は広野村飛地川島の鬼神社頭を選定している。
 憶うに、師の誕生は滝沢馬琴が南総里見八犬伝刊行の歳で、続いて異国船打払い令が出、天保の江戸大火が起り、弘化に及んで米船浦賀来航あり、英船の琉球来航、その他欧米挙げてわが近海を掠めた時代で、尊王攘夷に国中を挙げて明け暮れたいわゆる幕末の混沌たる時代であった。
 師は明治の黎明(れいめい)を見ず即ち一八六七年大政奉還の年、王政復古の大号令を耳にしつつその生涯を禅布教と郷党の薰陶に捧げた誇りを自任し従容として大往生を遂げたのであろう。(昭四二・七・二五 嵐山町助役)

   『嵐山町報道』175号 1967年(昭和42)8月15日


新たな農業の担い手を 越畑・新井弘 1993年

2010-08-26 09:44:11 | 越畑

 今年の春、農業委員会が町内の遊休農地を調べた。二十アール以上のまとまった荒地が五三団地、二六ヘクタール余あった。小面積の荒地はこの数倍に及ぶのではないかと推測される。
 恒常的な勤人となり、農家経済を安定させて、休日に家業の農作業に励む生活スタイルが限界にきたことが荒地の増加という現象になったのであろう。
 一方新規就農者がこの十年来一人もいない。近郊農村である嵐山町の経済構造の中で若い人の就農を望むのは無理であろう。
 だがこのまま農地が荒地化した将来の農村の姿を思うと心寒い限りである。
 農業の担い手に誰がなるのか。六十才前後で企業などを定年の元気な人達がいる。この人達を新しい後継者と考えて、そのように処遇する農村社会のしくみをつくりその活動を期待したい。
 経験豊かで知恵も体力も実行力もある人達が営農組合等を組織して地域の農業の中心勢力となって、農作業の受委託等の集団活動で農村の活性化を促すことを期待したい。十年程度で順次交代してゆけば活動が中断することなく続くだろう。十年位農業に励むことは定年後の生活の張り合いにもなるだろう。
 地域社会の深い理解と、町、農協の強力な支援が望まれる。

   『嵐山町農業委員会報』24号 1993年12月25日


古里に「観光果樹園」が設置される 1992年

2010-08-23 21:19:40 | 古里

   「観光果樹園」設置 農政課・小林治光
 今農村に何が求めれれているか。それは今まで私達が築いて来た集落を中心とした農村生活だけでなく都市と農村、農民と都市市民、お互いに交流を図りながら農村地域の活性化を図りだれもが行ってみたい、住んでみたいと言うような、村づくりが大切であると言われております。
 町ではこうした考えから養蚕の低迷により利用されていない桑園の有効利用を図る為、又都市の人達に農業の良さを知ってもらうことを目的として、古里地区*に観光果樹園を設置しました。
 観光果樹園は、未利用桑園を抜根した二〇アールの傾斜地を利用し一区画を五〇平方メートルとして四十区画設置しました*。
 農園の利用料金は一区画年間五千円とし貸し出した所多勢の皆様から申込みをいただきお陰様でほぼ満杯の状況です。
 現在利用されている人達はほとんど町内の人達ですが、町外の方からも問い合わせが有りますので今後は増設して町外の人達にも貸し出して行きたいと思います。
 利用者のほとんどの人達がすでに思い思いの果樹苗を植付けておりますが一年目ということで果樹のあいだに野菜を栽培しており収穫した新鮮な野菜を自分達の食生活に利用しておるとのことです。
 観光果樹園を時折り訪ねて見ますと利用者の皆さんが汗を流しながら一生懸命作業に取組んでいる所に出合います。話しかけてみますとこんな景色のよい自然にめぐまれた場所で土を耕し作物を作ることが出来てほんとうによかったと言う言葉がかえってきてほんとうによかったと思っております。
 利用者の皆さんに大変よろこばれておりますので、今後も果樹園の増設、又市民農園等の開設も考えて行きたいと思います。

   『嵐山町農業委員会報』24号 1993年12月25日

 *:古里岩根沢に1992年度43アール37区画、1994年度16区画10アールが設置され、ゆず、くり、みかん等が植えられた。


てん校したこと 吉田智恵子 1975年

2010-08-06 18:53:33 | 1975年

 わたしが、鎌形小学校に転校してきたときは、まだ友だちは、できなかった。けれども今では、だんだんと友だちができて、転校して来たかいがあった。わたしは、
「友だちがふえて、よかったな。」
と、心の中でいっています。
 上原さんのあだ名は、「くいしんぼう」、くに江さんは、「ちびでか」とかいろいろな、あだなでおもしろいけど、わたしは、しき第二小学校の時のあだ名は、「りんご、みかん、ぶた」と、いわれました。それは、わたしはさむくても暑くっても、ほっぺが赤くなっているからで、りんごやみかんと言われたんです。
 もうひとつの、ぶたというのは、わたしの体重は二十四キログラムだったのに、顔がふとっているからだそうです。
 でもわたしは、「ぶた」というのはいやです。女の子は、いつも「吉田さん」と、言うけれど、男の子は「ぶた」といいます。
 わたしは「ぶた」と聞くとおこります。すると男の子は、「吉田さん」といいかえします。
 ある日、男の子がろう下で、ねころんでいて、わたしは、しらないでふんでしまいました。男の子は、ないてしまって、さからってきました。わたしは、
「ろうかで、ねころんでいるからだよ。」
と、いいかえしました。みんなが、さわいで集まってきました。わたしは、ないてしまいました。
 その男の子の名は「あべたとしゆき」といって、
「ふとっておこりだすと、とてもこわいのに、今日は、ないてしまったので、みんなが、びっくりしていたんだって。」
と、友だちにいわれました。
          (三月八日 土)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


クラブ 吉野和江 1975年

2010-08-03 18:46:42 | 1975年

 三年生になって、はじめてクラブに入った。
 夏や秋の中ごろまでは、外でバトミントンやソフトをやっていたけれど、冬は、内の中でクラブをやりました。家(うち)の中でクラブをやりました。
 わたしは、始めは、クラブってどういうのかなと思いました。
 わたしは、冬のクラブでは読書に入りました。読書が一番すきだからです。
 クラブに入る前は、ファーブル一さつぐらいしか読んでいなかったけれど、クラブに入ってからは、どんどん読みはじめました。
 伝記は今では十二さつぐらい読みました。一日でよみきれたり、二日で読みきれたり、三日でよんだり、十日もかかったのもありました。
 本の中で一番心にのこったといえばモーツアルトか、ファーブルです。
 モーツアルトは音楽かで、小さい時から、ピアノをひいたり、バイオリンをひいたりしました。
 そして、大きくなってから、モーツアルトは、自分の死の音楽を作りました。なんどもなんども血をはいたそうです。
 わたしは、モーツアルトはえらいんだなと思いました。
 ファーブルは、とてもこん虫ずきで一生虫とくらしたそうです。遠くの島にいって虫を調べたりしました。
 わたしならすぐにあきてしまったり、虫がいなければ、あきらめてしまうのにファーブルは、しんぼうづよいなあと思いました。
 虫のことを細かく研究したりしてえらいなあと思いました。
 これからも、たくさん本を読みたいと思います。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


かきぞめのれん習 内田久美子 1975年

2010-08-02 17:45:54 | 1975年

 三年生になってはじめて、かきぞめのれん習にでられました。
 冬休みの一番はじめのれんしゅうの時は、むねがどきどきしました。でも次の日からはおちついて書けたのでよかったです。
 れんしゅうの時はいろいろ校長先生に注意されたけれど、だんだんなれてきたら、足がいたくなったりして、とてもいやでした。
 それでも一番さいごの日となってあまりいいのが書けなかったので、その時は、いっしょうけんめい書きました。
 てんらん会に出したの返って来たのが、一年生の教室の前にはられているのを見たら金しょうだったのでよかったです。
 家に帰ってからみんなに、そのことを話したら、うち中の人がよろこんだのでよかったです。しょうじょうをもらう時も、むねがどきどきしました。
 わたしは、れん習の時とてもがんばってやったので、近所の人にまで、
「くみちゃんは字がじょうずだね。」
と、ほめられました。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


わたしの仕事 根立文子 1975年

2010-08-01 18:50:42 | 1975年

 わたしの仕事はいっぱいあります。
 先づ一番大せつなのは、勉強です。そのほか係りの仕事があります。国語係にほけんと給食係りそのほか、代表委員をやっています。
 国語係りは、国語の本を出したり入れたりすることと、新しい所を勉強するようになると、そこに出てくる漢字カードをさがします。
 ほけんと給食係りは、けがをした人を先生の所へつれていったり、体のぐあいの悪い人を先生に知らせて、ほけん室へつれて行くのを手つだったりします。
 代表委員は、第三木曜日の代表委員会に出てきまったことを三年生のみんなに話します。
 四年生になってからもしっかり、自分の仕事をやるようにします。
          (三月八日 土)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


プールで泳げたこと 杉田悦子 1975年

2010-07-31 13:49:00 | 1975年

 一年生から二年生までは、プールではなくて、川でおよいでいました。
 わたしは、それまでおよげませんでした。
 三年生になって菅谷小学校のプールへ行っておよぐことになりました。でもわたしは、およげないので、プールにかわっても同じでした。
 そして、「よーし」と思って足をバタバタさせてみたら、前にだんだんとすすんでいきました。さっきはあっちの方なのに、こっちの方に来ていました。ふしぎだと思って、また向こうまでいって、足をバタバタさせてみたら、またこっちに来ていました。
 その時は、「もうおよげたんだなあ。」と思った。そしてうれしかったのでどんどん、およぎまくりました。
 わたしは、はじめておよげて、もっと早く二年生ぐらいの時から、足をバタバタさせてもっとじょうずに、およぎたいです。
 わたしは、その時は、ほんとにうれしかったです。

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月


あみもの 権田馨 1975年

2010-07-30 13:47:00 | 1975年

 私は、手げいクラブでマフラーをあみました。はじめは、あみ目が多すぎたり、少なすぎたりでこぼこでした。そして、はじめは、こまあみでした。こまあみは、しあげるのがたいへんなので、こんどは長あみにかえました。そうしたら、すうするあめるようになりました。長あみは、あみ目が長いのでどんどんながくなるので、うれしくなりました。
 毛糸は、水色と黄色のです。全体に水色、間にすこし黄を入れました。一か月と四日ぐらいであみあがりました。
 クラブは、月曜日の一時間だけで、十一月と十二月です。どこかへ出かける時は、ふくろの中に入れて持って行きました。そしてバスや電車を待っている時あみました。すこしおかあさんにやってもらったところもあります。でもだいたい、わたしがやりました。
 はじめは、できるかなと思いましたが、やってみると、あんがいかんたんでした。
 できあがったら先生に見せました。
 先生は、
「じょうずに、できましたね。」
と、言ってくださいました。
 私は、生れてはじめてマフラーをあんだのに、じょうずだと、いわれたのでとてもうれしかったです。
 今度の時には、もっといいものをあみたいと思います。
          (三月八日 土 晴)

   鎌形小学校『三年生の文集』1975年(昭和50)3月