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S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「かみあわない議論」に思う

2005年04月11日 | ○○さんにトラックバック!
PCの「お気に入り」の整理をしていて、かなり前に放り込んだURLに興味深いものを見つけた。
教育の職人」という、高校の国語教師のサイトのコンテンツ「国語教育」の中の「創作教材(評論)」の部にある「アグネス論争を読む」というもの。

ここでは’80年代に話題を呼んだ「アグネス論争」の元となっている主な文章の全文が読める。
あらためて読むと、この論争上での「アグネスの論理」は、議論としてかみあっていない。
そして、この「議論」は「アグネス論争」として発展していき、そこで出てくる議論がまた、微妙にかみあっていない。
このかみあっていない議論を教材にしようとする教師の姿勢は見事だなあと思う。

ここで展開されている「アグネスの論理」というものには、むだづかいにっき「話がかみ合わない」で出てくる要素があって、そのことを発見するのも興味深い。
久しぶりに「アグネス論争」の全文なんぞを読み、なんだかみあっていない議論なんてものは、ネット上で一般人が展開するよりももっと前から存在してたじゃないか、なんていう、実に当たり前の感想なんぞを持ってしまったりする。

高校の国語教材として、いろいろなブログ上で目にする「かみあわない議論」ってものを、どこかの教師が「読解教材」なんてものに使っていたら、それはそれで興味深いものかもしれない。

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むだづかいにっき「話がかみ合わない」

わたしにとっての閲覧したくなるブログの条件

2005年03月30日 | ○○さんにトラックバック!
いろいろな人にいろいろな価値観があると思うのですが。
あくまでも、わたし個人が、ブログというものを読む上で。

わたしは「今日○○があった」ということの「報告」だけの内容のところは読みません。
「特定のメンバーと日常的な会話をくり返すだけのコミュニティサイト」というものも、わたしは興味がありません。
記述されている内容に関して、発展性のあるものを内在している場合に、「おもしろい」と思うことが多いです。

わたしが「閲覧したい」と思うブログ記事の指針は、以下のことに関して、どれか一つでも該当しているものです。
・感じ入る部分があること
・「なるほど」と思わせられることがあること
・「自分はどうだろう」と考えさせられることがあること
・情報が得られること
・知ってよかったと思うリンク先が表示されていること
個人のブログに、「常時のハイクオリティ」を望んでいるわけでも無いので、上記の一つでも存在していることが指針ということに、わたし自身は落ち着いたように思います。
たったひとつ、それも片鱗程度でもいいわけです。
片鱗程度でもあれば、「過去記事」をチェックしたり、「次」を期待していくことにもつながります。
自分がコメント参加をしていくときもあれば、ROMだけのときもあります。
この違いは、自分が参加する意志とネタがはっきりしているかどうかという点で左右されるので、コメント参加と記事評価はイコールというわけではありません。

記事に上記のことがひとつも無い場合は、コメント欄は読みません。
記事に上記のことが少々でも存在している場合は、コメント欄を軽くチェックします。
記事が充実している場合は、コメント欄をきちんと読破します。
記事内容が素通りしたいものであっても、メニュー上に自分がブックマークしているブログ主のコメントの存在が表示されているときは、コメント欄を最初から丁寧に読破し、その記事の最近の過去記事をチェックする場合もあります。

コメント欄に関しての「プラス評価」の指針は、上記の「記事に関しての指針」と同じです。
記事内容に関わらず、コメント欄にマイナスの評価をするときもあります。
記事内容が充実している場合でも、コメント欄にマイナスの評価の感覚を持つ場合は、そのブログにおいて、コメント欄をチェックする頻度が低くなります。
以下、コメント欄にマイナスの評価をするときのケースです。
・複数の参加者による、複数の「内輪ウケネタ」が存在するとき
・参加者に対しての管理者の態度が終始「発展性の無いイエスマン」で、コメントのやり取りに得るものが無いとき
・「TBありがとう」コメントが多数並び、そのコメントに対してのレスに「挨拶」以上の発展が無いとき
コメント欄にこうした「マイナス評価」を感じるものがあっても、記事内容が充実している場合は特に問題にはなりません。
ただ、コメント欄をチェックしないことが増えるだけのことです。

以上の指針に対してクリアするものが少しでもあるということが「わたしにとっての閲覧したくなるブログの条件」です。
例外は、自分にとって「人間関係を築いた」と思われる人物が管理するブログです。
この場合は、「継続して相手を知る」ことが目的になるので、更新される記事に関して必ずしも上記の条件を満たしていなくてもいいということになります。
ただし「人間関係を築いた」という認識は、過去において、上記の条件を満たしたやり取りがあったということが重点となっているようです。

さて、ここのところ連続して参加してきた「何でもかんでも総ブログ化計画」の最後のお題は「【最終募集】終了間近!ブログでこれから挑戦してみたいことは?」となっています。
わたしがこれから挑戦してみたいことは、上記の自分自身があげた指針を「客観的に」満たしたものにすることです。
「お題」提示の説明文にある「野望・希望・願望・妄想」から見れば、小さいことかもしれないけれど、この指針を充実して満たすということは簡単なようで、意外に難しいことなんじゃないか?と思います。
でも、自分の指針を自分が満たせなくちゃ、公言なんてできないんじゃないか・・・と。
だからわたしにとっては、この程度でも「おおいなる挑戦」のような気もします。
(言わなきゃ良かったかもしれない・・・)

そして むだづかいにっきの「良いブログを作るために、自分の文章の欠点を知っておく」から自省。
・文体にクセがあるよっ!
・記事が自己完結し過ぎるよっ!
・コメント欄に愛想が無いよっ!
・コメントレスがくどいよっ!
こ、こ、これの「改善」は、公言できないような気もします。。。
「個性」ってことで。。。

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何でもかんでも総ブログ化計画「【最終募集】終了間近!ブログでこれから挑戦してみたいことは?」
むだづかいにっき「良いブログを作るために、自分の文章の欠点を知っておく」

「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」の体験例

2005年03月28日 | ○○さんにトラックバック!
「何でもかんでも総ブログ化計画」の12番目のお題の「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」
これは、体験談でまさにこんな感じだった日々があったなあと。

8月にブログを開きまして。
まあ、開いてみたってとこで、誰にも教えず、遊んでました。
今まで「知的障害児母」ネタで、HPや掲示板、メーリングリスト参加などもしてきましたが、それとは関係ないとこでブログ、って感じで。
まあ、生活自体は「知的障害児母」なので、全く関係なくというのも、また不自然な話ではあったのですが。

そこにある「事件」が起こりました。
松田聖子主演で、ダウン症ネタのドラマが放映されるそうだ、と。
それは、明治安田生命のCMで大きな話題を呼んだ「たったひとつのたからもの」で、高視聴率を記録するのはほぼまちがいないだろうと。
俳優として、3人のダウン症児がオーディションで選ばれたと。
放映前から、その話題はとても大きいものとなっていました。

さて。
知りたいのは、「普通の人」の感想です。
知らせたいのは、こうしたドラマの功罪です。

ふむ。
ブログ、持ってるな。
ブログ、使えるな。
これを利用しないというのは「損」、なんだろうな。

と、いうことで、まず放映前日に「たったひとつのたからもの」:ドラマを見る前に という記事をアップしました。
そして、いよいよドラマ放映。
見た後に、「たったひとつのたからもの」:感想 という記事をアップしました。

話題になったネタに関して反応の早いブログ、実に大活用するという経験になりました。
まずわたしは、「たったひとつのたからもの」というワードでブログ検索を重ねて、かなりの記事を読み尽くしていきました。「泣いた」だけの感想記事はどんどん読み飛ばし、「泣いた」にプラスアルファがある記事をどんどんメモっていきました。ひとつひとつにコメントを入れるのが大変だったので、自記事内に「ご挨拶」を入れる形でトラックバックを入れていきました。
トラックバック先の方でご訪問いただいて、コメント入れてくださった方とそうでない方がいらっしゃいましたが、コメントを入れてくださった方々とは、実に充実したやり取りになったと思います。
自分の感想としては、まさに「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」というのが実感でした。
そして、さらに、コメント欄で「関心」を持ってくださった方がいらしたことに力を受け、さらに関連していく「ダウン症」に関しての記事を、「たったひとつのたからもの」というカテゴリ を作って、そこに加えていきました。

この時期、気になっていたのは、参加している「医師が主宰する、ダウン症児の親とダウン症児に関わる人のためのメーリングリスト」のメンバーの、このドラマに対しての反応でした。乳幼児の親の参加者が多いこのメーリングリスト、メンバーである親たちが、特にダウン症という事実の告知から間もない小さい子の親たちがどんな思いでこのドラマを見ただろうかということ。親たちが、「普通の人」は、このドラマをどんな風に見たのか、関心を持っているのではないだろうかということ。

スットコドッコイなHNを使ったこのブログを、このメーリングリストのメンバーに知らせるのは、ちょっとこっぱずかしく躊躇があったのですが、見せたいものの「価値」と、自分の赤っ恥と、この二つを天秤にかけて、結局わたしは「価値」を選択。そしてわたしは、「ダウン症児の親」というものに「なりたて」で、まだまだ様々な「衝撃」にダメージを受けやすい小さい子の親たちの手をつないで、彼らの精神的安全圏に配慮しながら、ブログという世界に現れていった、このドラマの「普通の人」の感想を見せたのでした。
このことに対しても「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」という実感が、わたしにはありました。

この、高視聴率を記録したドラマの放映から、5ヶ月が過ぎました。
DVDも発売されました。
Googleでの「たったひとつのたからもの」というワード検索で、トップページに「たったひとつのたからもの」:感想 という記事が表示されることが、相変わらず続いています。
この現象がいつまで続くのか関心があったので、11月末日に、この記事に記事限定でアクセス解析をつけました。
その結果として、今年に入ってから減少しているものの、いまだにアクセスがゼロの日は皆無、12月1日から現在までユニークアクセスで千件を超えました。
ドメインで見ると、個人や企業からのアクセスに加えて、次のようなものがあがっています。
「ac.jp (大学/専門学校など)」「ed.jp (各種学校)」「go.jp (政府機関)」「lg.jp (地方自治体)」「or.jp (各種法人団体)」「ad.jp (管理組織)」。

新たなコメントがつくことは無いものの、インターネット上に表示されない日が皆無というこの「たったひとつのたからもの」:感想 という記事とコメント欄に「存在しているもの」が、何を生み続けていくのか。
この記事を存在させ続けていくことも、わたしにとっては「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」ということのひとつのような気がします。

*トラックバック
何でもかんでも総ブログ化計画 「【募集12】こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」

*2005.6.25追記
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  ♪3足わらじで福祉を考える♪ ■ [障害者家族] 「たったひとつのたからもの」を観て

「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」の一例

2005年03月27日 | ○○さんにトラックバック!
何でもかんでも総ブログ化計画で、「ブログを使った新しい情報コミュニケーションとは?」という募集が、11番目の「お題」としてあげられています。
「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」とは、そのブログのコンセプト、内容、方向性がはっきりしているときに生かされていくものだと思います。
つまり、ブログという媒体の機能をどう生かしていくか、どう生かされていくか、その可能性はブログ自体の内容によって左右されていくものなのではないかと。

「存在に意義があるブログ」gooブログ版 というわたしが上げた記事に紹介した5つのブログの中の一つに、「まっち~の三日坊主日記」があります。
このブログは、「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」という機能を持っているとてもいい例だと思われます。

 まず、このブログが発信する「情報」ということでですが。
このブログは、「モラルハラスメントという虐待を日常的に受ける生活をする人」に対して、ブログ主本人が数年に及ぶ日常的なモラルハラスメントの被害者としての立場であったことを通して、「自分自身が『自己を大切にすることに向かい合う』ところに至るまでの経験」や、「そこに行き着くまでの心の動き」を「情報」として手渡しています。
また、被害を自覚してからの行動の記録や、被害からの脱出の方法論としての「情報」も充実させています。
「自分自身を大切に生きよう」という意志と勇気を閲覧者に感じさせ、また具体的な方法論の提示も存在するという、このブログならではの「情報」です。

 次に「HPと、ブログという媒体の違い」ということで。
HPは、整理されてアップした情報と、その内容に対しての閲覧者とのやりとりを掲示板で行うという形になりますが、このブログでは、ブログという形態を利用することで、日々更新によって出される記事ひとつひとつに閲覧者がリアルタイムに感じていくという要素があります。
ひとつひとつの記事内容に対して、同様の被害を体験する人が管理するブログからのトラックバックもあり、相互でのやり取りも行われています。
また、ブログという、更新に高度のテクニックを必要としない媒体を利用していることや、このブログがブログ主本人をも精神的に支えている要素を感じることで、閲覧者が自分のブログを持つことへの発展性につながっていく可能性を持っています。
これがブログという媒体の特性を生かしていることなのではないかとも思われます。

 そして「情報」が「現在進行形」で閲覧者に手渡されていく上で、このブログが閲覧者に込められている「情報以上の要素」がここにはあります。
モラルハラスメントの被害者がその被害に気づくという作業は、実は自己を傷める作業でもあります。それは自己犠牲を持って作ろうとしている幸せが、「砂上の楼閣」という虚像ではないかと気づいていってしまうことからくる「痛み」です。また、モラルハラスメントの被害の中で、すっかり見失ってしまっている「自己」に向かい合うことは、被害の中にいる自分自身と向かい合わなければならない作業でもあるからです。
このことを熟知しているのは、その痛みとのたうちまわりながら向かい合った経験を持つブログ主本人でもあります。
ブログ主本人が熟知しているからこそ、ここであげられる記事群には、常にそうした「被害者たち」への愛情が込められています。
モラルハラスメントの被害者たちがこのブログに出会ったときに、閲覧する記事ひとつひとつに反応していきながら、ブログ主がひとつひとつの記事に込めた閲覧者に対しての愛情を感じることで、その自己を傷める作業で発生する「痛み」を緩和させていくのではないかということ。
これがこのブログでの「情報以上の重要なコミュニケーション要素」を持っていることではないかと思われます。

 このブログ中の「モラルハラスメント」という言葉に出会ったばかりのあなたへという記事には、こんな記載があります。
あなたは悪くない。
あなたはひとりじゃない。
あなたにはのびのびといきいきと輝いて生きる価値がある。
あなたには「安心・自信・自由」を得る権利がある。
それを求める権利がある。
 これは実は、彼女が過去の自分に向かって、再度、伝えていることでもあります。
離婚が成立していない現状の中で、彼女の「モラルハラスメントの被害者」としての人生は、まだ完全に終わったわけではありません。
そうした彼女の人生の経過の中で、彼女は自分が開いたブログで意志表明をし、決意と気持ちを語る。
ブログ主本人が、ブログという場を得ることで、どんどん精神の自由を手にしていこうとしている姿がそこにはあります。
この「現在進行形」の彼女の姿が、潜在的なモラルハラスメントの被害者たちをどんなに勇気づけていくか。
そうした「力」を大きく持っているブログだと思われます。

・経験を通して、決意と共に、閲覧者に対して愛情を込めて発信される具体的な「情報」。
・現在進行形で進む記事群や、トラックバックでの相互交流という「ブログの性質の有効利用」。
・閲覧者に愛情を持って対し意志と勇気を与えていく「コミュニケーション」と、新しいブログを生みだしていく「可能性」。

これらの要素を大きく持ったこのブログは、文字通り「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」という機能を持ち、ブログという形態を大きく生かされた形で展開されており、閲覧者への影響力をも内在しています。
モラルハラスメントとは、被害者が第三者に理解されにくい虐待という要素があります。そのため、その被害から勇気を持って脱しようとするときに、モラルハラスメントを知らない第三者から、無理解のために傷つけられる「二次障害」というものも存在します。
このブログが、ブログという不特定多数の目に入りやすい形態で展開されることで、啓蒙活動的要素も含まれていく。

ネット上に存在する多くのブログの中で、存在に大きな意味と意義を持っているブログであるとわたしは思います。

*トラックバック先
何でもかんでも総ブログ化計画「【募集11】ブログを使った新しい情報コミュニケーションとは? 」
まっち~の三日坊主日記「『モラルハラスメント』という言葉に出会ったばかりのあなたへ・・・続き」

「障害」と「尊厳」

2005年02月26日 | ○○さんにトラックバック!
「障害児を育てる」ということは、わたしにとっては、「今まで知らなかった世界」の扉が開くことでもありました。

「障害」というものの概念の扉を開いていったときに、そこに見出したものは「自分というものの尊厳」というものでした。
プラスになると人から思われるものも、マイナスになると人から思われるものも、全て「自分」というものの「存在」自体の「尊厳」である。
「障害」というものを持つ、ということは、そのことを哲学的に広げていかなければならなくなる。
逆にいうと、「自分というものの尊厳」に関しての思考を、無限に広げていく可能性を持っているのかもしれないとも思う。

「魔法の手の子どもたち―『先天異常』を生きる」という書籍は、「障害について」を超え、自分自身の尊厳を持つということの大切さを考えさせる名著だと、わたしは思います。
この本は、友人に借りて読み、この名著を自分のものにするために買い直しました。
この本を読んでから、ずっと頭を離れなかったのは、「プロローグ 電話の向こうの人生『障害』を心に閉じこめて」という部分です。
自分の持っている一つの「部分」に関して、誰からも「直視」されず「言及」されず、結果的には「無視」という形で否定され、そのことで自分自身が「直視」することを許されず、自分自身を認められなくなっている人の「悲痛な叫び」がそこにありました。
「部分」の否定は、全てを肯定することを許されないことにつながっていく。

娘が予防接種を受け始める時期「MMR」が「危険な予防接種」として話題になっていました。
幸運なことに、娘が受け始める時期には、このことが大きく問題化され、法律が変わり、この「危険なワクチン」を接種する必要がなくなりました。
「危険なワクチン」を接種する必要がなくなったのは、喜ぶべきことです。
しかし、その陰に、亡くなった命と後遺障害を負った命は存在するわけです。
わたしはこの「事実」を知ったときに、思いを馳せたのは「母親に対して」でした。
予防接種を受けるために、注射を嫌がる我が子を「押さえつけて」接種させただろう「母親」に対してでした。
わたしがそこで思っていたのは、その「事実」に対しての「同情」ではなく、この被害に遭った「母親」たちが、そのことでずっと背負っていく「自分に対しての他者の解釈」ということです。
子どもだけではなく、そういう「他者の目」、そして「自分の後悔」という「障害」を背負わされていくのだろうなと。
それは、たまたま、その方だった。
誰もが背負う可能性を持っていた、という思いもありました。

さて、前述の「障害」に対して、もう一度。
「障害」というものの概念の扉を開いていったときに、そこに見出したものは「自分というものの尊厳」というものでした。
プラスになると人から思われるものも、マイナスになると人から思われるものも、全て「自分」というものの「存在」自体の「尊厳」である。

「ゆうくんちの日常」「もうひとつの誕生日」を読む。
そこに、わたしは一人の「母親」が歩いてきた日々を思う。
また、彼女自身が背負わされた「障害」を思う。
しかし、それもまた、彼女の「『自分』というものの『存在』自体の『尊厳』」のひとつなのだと思う。
彼女の背負わせられた「障害」の精神的な部分は、誰もが踏み込むことのできない「結界」だと思う。
しかし、その「結界」自体が「存在」することを、わたしは彼女の「尊厳」として肯定する。

「ゆうくんちの日常」のリエさんにお会いした日、わたしは彼女にひとつの「歌」を贈りました。
もともと好きだったその「歌」ですが、この「歌」ほど、彼女にマッチしているものはないだろうと思った。
その「歌」の「歌詞」はコチラです。

「ゆうくんちの日常」「もうひとつの誕生日」にトラックバックです。

「読んで受け取る」「会って聞く」

2005年02月17日 | ○○さんにトラックバック!
他の人は、どういう体験をするのかはわからないので、これは全くわたし個人の見解ということ。
それをまず、前提ということで。

ネットで知り合った人間と会って話すということは、プレイヤーで聞いていたCDの曲をステージでのライブで聞くのとちょっと似てる。
今まで聞いていた、つまり「読んでいた」ということで、会ったときに一から「はじめまして、こんにちは」というより、相手の情報が多い。
しかも、その「会う」以前に「読んでいた」という「情報収集」には、自分の「都合のいいとき」を選択できる。
その「読んでいた」ことで得ていた情報は、実生活で時々起きる「相手につき合わされて、聞かされる」ことで入手する情報とは質が違う。
そして、文字媒体で入手した情報から、その根本の「テーマ」や「方向性」等、相手自身を「学んでいる」上で会う。
その自分が得ている情報が、実際に会ったときに、表情や声のトーン、作り出す間といった、それまでは未知だった「生きている人間の臨場感」を伴って展開される。

さて、「ゆうくんちの日常」のリエさんと、昨日お会いしたわけですが。
彼女の子どもとわたしの子ども、障害の種類も、母親がその障害から要求されることも違いはたくさんある。
でも、わたしと彼女をつなぐ「共通の体験」と、その「共通の体験」から生まれた「共通の感情体験」というものがある。
それは、子どもの入院治療に対して、その理由は理屈では理解できるが、感情としては「子どもを病院に取り上げられた」という感覚を持ったことがあること。
そして「退院」を、「やっと取り返した」という感覚で受け取ったことがあることです。
実際にお会いして、実感で得た「共通感」は、テンションの高さ、かな。

彼女からは、彼女のHP「アトリエFF」で語られているゆうくんの発症の頃の話の一部を、「ライブ」で聞くことができました。
彼女の中で、時間の経過と日常の積み重ねを経て、客観視という視点ができている状態での話ですが、やはり文字だけでは伝わりきらない「ライブ感」は貴重でした。
起きる展開と、人から投げかけられる言葉群の中で、揺らされ、疲れ、異様な興奮で眠るということができない状態で、医者から「睡眠」を処方され、長時間倒れるように眠ったという話は、ライブだからこそ「こんな風に」睡眠がやってきたという、手の動きのパフォーマンスを見ることができたのでした。

そしてわたしは娘の長期の入院治療時のことで、「文字上では簡単には公開できない話」を、ライブだからこそという環境下で話した。
生後間もない赤ん坊を病院に取り上げられてしまって、豊富な時間を手に入れてしまったときに、その時間の豊富さに「今だからできること、今しかできないこと」をピックアップ。
子どもを生むことで出会った「障害」に関して、調べまくっていたことは確かです。
ネットなんぞ、存在しない時代でしたので、図書館に日参していました。
その中に、障害とも、子どもとも全く関係の無い、それまでの興味を満足させるための行動を取っていたという話です。
この話が「文字上では簡単にできない」のは、子どもの障害の告知直後にそんなことをやっていたのかと、誤解を思いっきり受けかねない行動ではあるからなのですが。
いや、時間の使い方として、ちょっとそんなことに時間を使うのは、と、今まで世の中の流れに逆らっていた部分で。
その数年前から、友人たちの間では、ソレの話題が出てくる頻度がとても高かった。
そして、ソレが出てくる話題の中で「わたしは参加しない」と、流れに逆らっていた。
でも実は、社会現象にもなったソレに、かなりの関心があったのは確かなんですよね。
で、「今だからできること、今でしかできないこと」のピックアップに上がってきたのですよね、ソレ。
・・・すみません、ラリホーとか、覚えてました。。。
ただ、そんな状態の生活の中で、難解な「復活の呪文」を必死に書き取り、「ロトの血を引く勇者」として冒険をしたことは、その時期のわたしの精神的な生活をかなり助けたのは、間違いのない事実なのでした。

ゆうくんちの日常「ゆうやん年上のオンナに唇を奪われる!」にトラックバックです。

*3.25追記
何でもかんでも総ブログ化計画「ブログで知り合った事例を大募集」にトラックバック。

インターネット上の「新語」

2005年01月30日 | ○○さんにトラックバック!
最近、トラックバックが入ると、妙な警戒心や猜疑心が生まれるようになってしまいました。
関連する用語があるという「発端」だけで、相手の「トラックバック欄」に自ブログへのリンクを貼り付けるという「押し付け広告」的なのものなのか、貼り付けた相手との「意見交換を求める」的なものなのか、判断する目線が厳しくなってきたところがあります。
トラックバック記事を読みに行くときに、読む素直さが欠け、相手の自己顕示に利用されているのでは、という猜疑心を持って見に行くという部分が、正直なところ自分にはあります。
コメント欄に「トラックバックありがとうございます」というコメントがずらずらと並んでいて、そしてそのコメントが「トラックバックありがとうございます」以上の内容が薄い場合は、黙ってそこで立ち去り、削除の対象にするケースがあるのも事実です。
自分が認められないものは、自分のブログからリンクを貼りたくありませんから。

さて。
過去記事にトラックバックが入りました。
トラックバックは、もっとコンピュータが好きになるblog「ネット新語なお話」です。
こちらの記事に関しては、トラックバックが打たれた記事中の「インターネットの新語がよくわからない」という内容に応えてくれたところがある、と、好意的に解釈させていただくことにしました。
ただ、この「好意的な解釈」が、時に「トンマなお人好し」的部分になってしまうことがおきかねないと思ってしまうのが、最近増えた「相手の記事を読まずに送る押し付け広告的トラックバック」の増加の弊害なのだと思います。

この、もっとコンピュータが好きになるblog「ネット新語なお話」ですが。
内容として、興味深い記事だと思いました。
特に、資料としてあげられたリンク先が非常に興味深かったです。
「もうだめぽ」の語源に関しては、初めて知ったということもあり、知るきっかけとしてのトラックバックには感謝したいと素直に思いました。
さらなる興味を喚起されたところがあり、検索でインターネットスラング集なるところを見つけて、楽しんだりもすることになりました。

この、インターネットスラング集もっとコンピュータが好きになるblog「ネット新語なお話」の両者を読んで思ったことですが。
新語というのは、ある「群れ」によって生まれ、派生する「群れ」で使われることで育つ言葉で、特にインターネットで生まれる新語に関しては、この「群れ」で使われる用語という要素が強いように思いました。
わたし自身がインターネットで使われる新語に対して、自分が使用することに対して、心理的に強い抵抗感を感じるのは、きっとこの部分なのだろうとも思いました。
わたしはダメ、なんですよね、どこかの「集団」に群れているという感じの中に自分が入ることというのが。
どうも心理的に、ダメ、です。
「集団に帰属する楽しさや安心感」を感じる人も多いのだろうと思いますし、人それぞれの感覚で、他者否定ということとはちょっと違うのですけどね。

実を言えば、「ブロガー」という言葉も、わたし、どうもダメです。
自ブログを持っているからということで、「ブロガー」という集団に自動的に組み込まれてしまうようで、感覚的に、「きゃー」なんですよね。
「わたしたちブロガーは」とか「われわれブロガーは」なんて表現が出てくると、ホントに「ひー」とか「きゃー」とか思ってしまうのです。
トラックバックを送られた過去記事に出したように、やはり根本のとこで、かなり強力な「個人主義者」なんでしょうね、きっと。

もっとコンピュータが好きになるblog「ネット新語なお話」にトラックバックです。

母子関係、というもの

2005年01月06日 | ○○さんにトラックバック!
昨日、ぐーたんさんとこの「年賀状」という記事に、コメント入れてきました。

障害児の親というものになりまして、自分より後から「障害児の親」という立場になった人の、「我が子の障害の受け入れ」に対する精神的な部分に「支援」を出すことが、よくあります。
まあ簡単に言ってしまえば、「我が子が障害児というのがイヤ。だから苦しい」という人に対して、手をさしのべるってことです。

いろいろな人にいろいろな考え方があるのだと思いますが、苦しみが長く続く方にわたしがいつも言うことは「我が子の障害を否定する自分をそのままに受け入れること」。
まずは、そこから始まるのだと思っています。
そのままの自分を受け入れることなく、イレギュラーな子どもを受け入れることは難しいと思います。
そして「なかなか苦しみから脱することのできない自分の個性のルーツを探そう」って提案を出すこともあります。
何かを感じるときに、その感性や価値観というものは、本人だけが作り上げたものではない。
現在自分が持っている感性や価値観が、自分の目の前の現実を受け入れるときに「痛い」ものになるならば、その「痛み」の素にまでさかのぼって、自分を助けてやるポイントを探してみようよ、ってことなんですけどね。
生育歴、親子関係や環境にヒントがあることも少なくないです。

探すのも、見つけるのも、自分を助けるのも、本人です。
わたしは「耳」になり、精神的に手をつないで、その作業に付き添って見届けるのが、自分に課せられた事だと思っています。

さて。
最初に出した、ぐーたんさんとこの「年賀状」という記事の話に戻ります。
ぐーたんさんとこのお嬢さんは、「障害」というものに縁が無いお子さんなのですが、
ぐーたんさんのこの記事に出てくる「価値観の迷路にはまる母子関係」。
これ、こういうケース、障害児の親に対する「支援」をしているときに、よく出会うんですよね。
特に、「長女」の立場の方に多いような気がします。
どんなに「障害を持った我が子を愛しい」と思っても、自分の母親の視線やちょっとした言動で、ボロボロになってしまうということが、話の中心になってくること。
また、自分が「障害」というものを生理的に受け入れられない原点が、母親の障害者に対しての「視点、視線」というケースもあります。

こうした「価値観の迷路にはまる母子関係」の「子ども」側サイドの感性ですが。
母親からの「評価」を「愛情」と、とらえてしまってる要素が大きいので、いくら「母親の価値観は自分とは違うんだ」と頭でわかっていても、「母親の愛情を望む気持ち」が、母親の言動に揺らされてしまうんですよね。
また、この手の「母親」は、「母」としてや「祖母」として、ある意味かなり「有能」だったりするんだ、コレが。
病気だの、「預ける」だのってときに、逞しい存在だったりするんですよね。
だから、難しいんだろうなあ、と、つくづく思ったりもします。

親を攻撃するのでもなく、否定するのでもなく、「親が与えた環境からくる価値観」に別れを告げる。
そうした作業が、子どもを生むことがきっかけになって、必要になってくることがある。
そのときに必要になること、自分を助けてくれることってのは、
ぐーたんさんとこのコメントに残してきたように「子どもをそのままに信頼する」ってことなんではないかと思う。
生きている命の、生、そのものを信じる、って感じですかね。
そして、そのことが「価値観の迷路にはまる母子関係」という呪縛から解き放たれる糸口になっていくことも、多いような気がします。

ぐーたんさんとこの「年賀状」にTBです。

「大切な曲」

2004年12月12日 | ○○さんにトラックバック!
柿渋さんのところで「流行歌」という記事を読みまして。
コメント欄では長すぎる話なので、記事上げしてTBします。

去年の今頃、さやかちゃんという6年生の女の子と話していました。
シチュエーションは、地域行事の後片づけ。さやかちゃんのママとわたしは役員だったので、作業をしていました。
作業をしながら、さやかちゃんに何気なく質問。

「クリスマス、何を買ってもらうの?」
「欲しいのはMDプレーヤー。でもママは絶対ダメって」
(ふり返ってママを見る)

「そうよ、買わないわよ、ジョーダンじゃないわよ、あんな高いもの。ポータブルのCDプレーヤー持ってんのよ、この子。何ふざけたこと言ってんのよ」
(さやかちゃん、無言でママ、一瞥)

はい、思春期始まってまして、ママとさやかちゃん、意志の疎通がうまくいかなくなり始めてました。ちょっとしたことで、一瞥の食らわせ合い。
で、わたしの立場と言えば「ちぃちゃんのママ」。
つまり、知的障害児の母ですが、知的障害児の母というのは、たいがいにおいて、普通の子どもから人気があります。
親が付き添わない場所に子どもに付き添ってることが多いので、「普通の大人」より子どもと接点があることに加え、知的障害児の母、特に言語能力の低い知的障害児の母というのは、たいがいにおいて、どんな子どもに対しても「一人前の相手として」対話をするのがごく普通になっています。
言語能力の低い自分の子どもに比べたら、どんな言い回しを使おうとも、どんな稚拙な表現を使おうとも、相手の言わんとしていることがとてもよくわかる。
つまり、知的障害のある自分の子どもによって、「子どもの言わんとしていることをくみ取る」トレーニングを積んでいるようなものだからです。
子どもは、この「自分を一人前と扱い、ちゃんと会話をしようとしてくれる大人」を、「友人」として扱ってくれます。

ママは怒る、さやかちゃんは黙る。
このシチュエーションで、わたしはさやかちゃんの腕を引き、彼女と対話を始めました。
はい、彼女が言えなかった「言い分」は予測通り。
CDは買わないと聞けない。録音ができない。MDプレーヤーなら、友達に録音してもらったりできる。
オッケー、了解、じゃ、ママんとこに行こうよ。

「MDプレーヤーが欲しいのはこういう理由。で『高いからダメ』ってのも理解してる。だからこの子が聞きたい曲の入ったCDを、わたしがレンタル屋から借りてくる。で、CDに焼く。レンタル代とメディア代はママに請求する。だからMDプレーヤーはいらない。」

凍結していた母娘の会話は解決。
一番聞きたい曲は何?

彼女、12歳だというのに、意外なセリフを口にしました。

「古いんだけど、いい?」

浜崎あゆみの「SEASONS」でした。
つまり、ドラマの主題歌。
この曲を収録したベストアルバムがCCCDにはなってなかったのも、ラッキーのひとつ。
何度も何度も聞いたそうです、渡したCD。
年齢という枠を超え、曲に自分なりのイメージがついてくるものというのが「大切な曲」ってものなんでしょうね、きっと。

企業姿勢を問う

2004年12月01日 | ○○さんにトラックバック!
1.コメントを削除するということ
 HPの掲示板においても、ブログのコメント欄においても、管理者の判断で削除という行為ができることは、管理者の持つ権利のひとつだと思います。
ただし、削除という行動を取るときに、その行動に関して管理者の姿勢が問われるものだと思います。
管理される場において、マイナスの作用を及ぼすもの、攻撃的なもの、こうしたものに関して削除するのは一般的なことだと思います。
しかし、その「マイナスの作用を及ぼすもの」「攻撃的なもの」とする判断は、個人のページにおいては個人の価値観にゆだねられますが、企業が管理する場においては、その判断は簡単なものであってはならないと思います。

2.gooブログ スタッフブログの「コメント欄」に関して
「gooブログスタッフが、”機能追加”や”仕様変更”等々、gooブログに関しての情報を発信していきます。」
こう書かれたスタッフブログは、ユーザーのコメントとトラックバックを受け付けています。
スタッフブログということで、これは、個人のブログではなく、企業のブログです。
ユーザーからのコメントとトラックバックを受け付けているならば、ユーザーからの「要望」や「指摘」を内容とするものを予告無く削除する可能性がある場合は、そのことを諸事項として明記しておくべきだと思います。

.「ブログはじめますた」のはじめま略さんの抗議について
 攻撃的な姿勢を持っていないにも関わらず、闇に葬ると感じるような削除を予告無くされたケースだと思います。
はじめま略さんが、自ブログに出した抗議行動は、個人の不快感を超えて、ユーザーにどう対処するかということをgooに対して投げかけるものだと思います。
gooからの「お知らせ」として出す文面で、情報として提示する内容の「正確さ」は当然のことで、チェックされずにアップされる行為は、企業の発信としては、非常にお粗末です。
そのお粗末さを指摘されることに対しての、しかも攻撃的な文面でないものに対しての対応として、削除された側が抗議行動に出る動機は充分にあると思います。

一ユーザーとしては、企業としての誠意ある対応を望みます。

以上、gooブログ スタッフブログ「機能追加とオプション追加のお知らせ」ブログはじめますた「メールしましたよ」にトラックバックです。

*追記*
2.に関して。
コメント投稿時の「規約」の第8条に「諸事項としての明記」があります。
このこととの混同を防ぐために、本文中の「2.」に関して、一部修正しました。

被災障害児・者支援

2004年11月16日 | ○○さんにトラックバック!
新潟県中越地震の義捐金の募集が娘の通う養護学校でありました。
震災のあった地域の養護学校に向けて支援するものです。

もちろん、お金を送るのに異論はありません。
5千円を封筒に入れました。

封筒にお金を入れ、
表に「新潟県中越地震義捐金」と書き、
個人名を書かず、封をして、
連絡帳を持たせるファイルに入れ、
担任を通して届ける


という指示だったのですが。

わたしは中身の見えない白い封筒ではなく、
中身が透けて見える茶封筒を選びました。

偽善者ですねえ。
中間でそれを受け取る人に、
中身の金額がはっきり見える方を選択しました。
いや~ね~、「小市民」な自分。
なら、万札入れろよ、万札、自分!

・・・だって、もっとあちこち、送らなきゃ。。。


参考リンク:
*(社)全国肢体不自由児・者父母の会連合会「新潟県中越地震」義援金取りまとめについて義援金送金報告並びにご協力のお願い
*社会福祉法人全日本手をつなぐ育成会「新潟中越地震」救援募金について(お願い)
特定非営利活動法人 ゆめ風十億円基金
阪神・淡路大震災における在宅障害児家族の問題とその対応策に関する検討

トラックバック:
ゆうくんちの日常 「新潟県中越地震 障害者たちは今」

「オフラインの人間関係に自ブログが晒せるか?」

2004年11月15日 | ○○さんにトラックバック!
「オフラインの人間関係に自ブログが晒せるか?」
難しいっす。
なんというか、こう、恥ずかしいです。

文字というものは、人が出る。
一部分ではあるけれど、出る。
どこか、こう、精神のストリップのような気が、ちょっとする。

HPを作って早4年ですが、
作って半年程度経過する頃、
「ぐゎお!」と、叫びたくなってくる感覚がありまして。
HPに、そしてHPの掲示板に出てくる自分は、
思慮深く、優しく、きっぱりとしている。
「一部分」ではあるけれど、それも自分なのだけれど、
なんか、こう、「アンタ、誰?」的な気分にもなりまして。

一部を全部だと思われたくないっ!

みたいな変な気分にもなって、
コミュニティサイトで、出会う、
「障害無関係人物」と、やたらにネット上で遊んでました。
この頃、ちょうどISDNからケーブルに変えたのだけれど、

バニーのかっこうで、庭にシャベルで穴掘って、
無理やりケーブルを引いてきた


ということになってました。

年齢は強引に「18歳」を主張

HPで見える姿、
どこか確定されていってしまうようなネット上の人格に
自ら反抗的な態度を取ってました。

まあ、そのうち、
そうやって、遊んでくれる仲間に助けられ、
ネット上でできあがる「実像を含んだ虚像」「虚像を含んだ実像」
みたいなものから自由になり始め、
ある種の達観も得たりしました。

でも、やっぱり、
オフラインの人間関係にネット上の自分が見られるのは、
単純に「恥ずかしい」です。

「恥ずかしさ」の種類もいろいろあるけど、
ブログに関しては、ものすごく単純な恥ずかしさで、
特に、オンライン人間関係というものの経験の少ない人

「男とばっかしゃべってる人妻」

みたいに、思われる?
ってとこがあります。

しょーーーーーーがないでしょ、
いつもいつもそうなんだけど、
「障害ネタ」はずすとそうなっちゃうんだから、結局のとこ。

ま、その実体は、
ずばずば」だったり、「ばっさり、ばっさり」だったり、
するんですけどね。

以上、じゅん吉さんとこの
「オフラインでブログを紹介しています。」にトラックバックです。

よく行く「調べる」Webサイト5つ

2004年11月10日 | ○○さんにトラックバック!
「π氏の雑記(PCのジャンキー)」の
【TB企画】ブログ以外でよく行くWebサイト5つ■第2回かな?■
に参加です。

選んだ5つは、
「毎日行くわけではない」けれど、調べることに欠かせない
検索エンジン以外のサイトです。

1.相原コージ先生に捧ぐ
慣用句に関しての意味確認に使います。
ついでに調べようと思った周囲のものを読み込んでしまうこともしばしば。
同じ方作成の”ことわざ版”もあります。
金田一春彦先生に捧ぐ

2.70年代洋楽アーティスト・リンク集
’70年代洋楽に関しての入り口の宝庫です。
うろ覚えのことを調べるときに利用します。

3.アスキーデジタル用語辞典
「???」なことをここでかじる、さらに検索するときの材料にする、
という使い方をしています。

4.アマゾン
購入のため、というよりは、
関心を持つCDの情報や、書籍の出版情報を調べるためという利用が多いです。
CDに関しては、ここで調べてからヤフオクに行くことが多いし、
書籍に関しては、ここで調べてから、↓のサイトに行くことが多いです。
横浜市立図書館 蔵書検索

5.お薬110番 病院の薬がよくわかるホ-ムペ-ジ
「薬」に関して、確認したり調べたりするのに使います。
ただし、このサイトに関しては、
まず薬を処方した医師を信頼し、基本的な質問は薬を処方した医師に
これが前提で使われるべきものと思います。

番外にうたまっぷ
これはよく利用しますが、π氏の雑記本記事のコメント欄や、
TB記事にも出ていたので、「5つ」からはずしました。

以上、本文中に列挙したサイト全て、
「お気に入り」の中の「調べる」という名前のフォルダに入ってます。

尚、このTB企画主のπ氏の雑記(PCのジャンキー)は、
情報収集サイトのひとつとして、ありがたーい存在です。

わたしが選んだgooブログ

2004年11月09日 | ○○さんにトラックバック!
「むだづかいにっき」の第2回 あなたの好きなgooブログの投票に参加しました。
以下、投票した5つのgooブログと、投票の際に明記した一行コメント、
そして投票理由です。

1.BLOG版「新明解国語辞典を読む」
*しんかいさん、堪能
「新明解国語辞典」のファンです。
思考することのネタ本にもなるこの辞書はとてもおもしろいし、
その魅力を端的に少しずつ紹介していくこのブログは、
読み物として非常におもしろいと思っています。

2.80s洋楽クラブ
*タイトルが楽しみ(’70年代、誰か作って)
’80年代洋楽のタイトル曲にふれる部分と、個人の日常にふれる部分のバランスが絶妙です。
このブログを読んでいると、
そのタイトル曲に関わる自分の思い出を呼び覚まされたりします。
現在と、過去の自分などを考えたりしつつ、
ここで出されたタイトル曲の入ったCDを引っ張り出して聞いたりします。
’70年代の同様のブログが誕生することを望みたくなります。

3.良いカウンセラー悪いカウンセラーBLOG
*なかなか他では得られないニュースが読める
「メンタルヘルスや発達障害の関連ニュース」に関して、要約された形で読める。
興味深いものもありますし、全く関心の無いものもありますが、
個人がニュース性のあるものを要約して記事にするという部分では、
秀逸なのではないかと思います。

4.ねこまんま
*まっすぐに出てくる言葉がはっきりしていておもしろい
このブログは、「たったひとつのたからもの」でワード検索して見つけたものです。
母は強しって言うけれど…
「感動」という言葉がちりばめられた感想が書かれたブログが多い中で、
自分が障害児を我が子に持つかもしれない可能性に関しての不安が書かれていたのが目を引きました。
「感動」という言葉に隠されがちな「感想」を読み、他の記事を読み、
この方の、いろいろなことに対してストレートに出てくる視点に興味を持ちました。

5.恐妻組合
*面白いというには気の毒なドキュメンタリー
この方の送られている生活に関して、ご自身の思考や迷い等、いろいろあるのだと思いながら読んでいます。
ネット上に時々存在している、「書くことによるセルフ・ヘルプ」のひとつの形ではないかと思います。
それを「読む」ことで、「支援」したいと思うところです。

以上、全てROM専です。

尚、この企画の結果は、以下の通りでした。

第2回 あなたの好きなgooブログ 結果発表 その1
第2回 あなたの好きなgooブログ 結果発表 その2

むだづかいにっき「第2回 僕が選んだgooブログ」にトラックバックです。

「長文、すみません」

2004年10月17日 | ○○さんにトラックバック!
HPの掲示板や、ブログのコメント欄といった、
投稿の場においての「長文」の扱いに関しては、
自分の管理する場と、他者が管理する場と、
違ってくる部分があると思います。

HPの掲示板でも、ブログのコメント欄でも、
それは、その管理人の「家」と、わたしは考えます。
家の応接間で誰と話していても、
それは「二人だけ」ということではなく、
第三者の目にふれるものです。
管理者の投稿、管理者のレスポンスは、
その家の「色」のひとつでもある。

だから、自分の「家」の場合は、
自分のレスポンスに関しては、
常にその場での「自分のコンテンツのひとつなのだ」と、
わたしはずっと意識してきました。
両者の会話であって、実は両者だけの会話では、無い。
直接レスポンスをする相手に不快感を与えても失敗なんだろうし、
そのレスポンスを閲覧する人に不快感を与えても失敗なんだろうと。
これが見えた場合は、早めにあやまるしかないだろうなと。
ただ、「家」のポリシーに沿った結果の場合は、
いたしかたないと割り切るしかないこともある。

人の「家」に訪問する場合、
管理者と訪問者の「会話」を閲覧するだけで終わることは
よくあります。
その管理者のレスポンスは、閲覧する場合においても
その場で会話してる人間とだけの会話だとは思っていません。
自分が登場しなくても、
すでに書かれていることで、
「自分の思いの代弁」と感じるケースもあるだろうと思う。
「そうそう」と思えば、
それで、参加しないで終わるというケースもあるはずです。
それでも、形として出ている会話は、
それなりの興味を持って読むことも多い。
「訪問」というのは、けして「参加」だけではなく、
むしろ「閲覧」の方が数は多いものだと思いますし。

他者の「家」で、長文を残す場合、
その「家」の主が、
「自分の意に沿わないことを長々と書かれた」と思うかどうかは
その「家の主」ではないと、実はわからない。
また、「その家の主」を見るために、閲覧している人が
「コイツ迷惑だな」と思ってるかどうかも、
表面上ではわかりません。

「長い」と、家の管理者が思った場合、
「長いよ」と相手に言えるかどうかは、
両者の関係というものが関わってくる。
ただ、その両者の関係というのは、
両者において、意識の誤差が出てくるのはよくあること。
管理者の口を手でふさぎ、管理者が言いたいことが言えない状態で、
訪問者が「人の家で長々と歌う」ということも、
またはその逆も、ケースとしては存在するわけで。

ネット上で「いい人」ばかりが目立つのも、
相手に対して迷惑を感じたときに、
「それをはっきりと口に出すのは難しい」、
ということも関わってると思います。
ネット上でこじれた場合というのは、修復が大変です。
修復回避は、相手に対しての好意という場合もありますが、
イコール好意ではないこともある。
耳に優しいコメントでも、
どこか相手の口をふさいだのではないかと、
考えた方がいいケースもある。
また、はっきりと口に出す人に対して、
そこに悪意を安易に感じることも、
それは軽率な判断だったり、時期尚早だったりすることも
ネット上では多いと思う。

最後は、「見えない相手」に対しての信頼を持つかどうか、
そういうことが関わってくるのかもしれない。
自分としては、基本的なとこで、
相手に対しての信頼は持ちたいと思う。
そうでなければ、ネット上の出会いと会話というのは
難しいよね、ってとこもありますしね。

人の「家」に訪問して、
長い文を残す場合に
「長文ごめんなさい」と言うこと、
これは、わたしは「アリ」です。
少なくとも、わたしの場合においては
「ごめんなさい」は、
管理者と、その「家」の見えない訪問者の両者に対して、
「ごめんなさい」と言っているつもりです。
「ごめんなさい」を言わなくてはいけない線なのかどうかは
管理者でなくては、本当のところはわからない。
だから、とにもかくにも、
相手に対して謙虚な気持ちはあるのだと、
もしも意に沿わなかったら、申し訳ない、と。
そんな気持ちで「長文ごめんなさい」と言うのは、
自分の中ではありますね。

また一般的に、
長文傾向のある人の「家」では、長文は問題なく許可され、
長文を避ける人の「家」では、長文には配慮が必要ということは
あるかもしれないと思います。

えっけんさん「こんなコメント、ちょっとビミョー」
トラックバックです。
ちなみに、えっけんさんのところで
「長文すいません」と言うのは、
彼のところに訪問しながら、彼の要素が見えていない、
そんな意味合いが入ってくるような気がして、
逆に失礼かな、と思うケースでもあります。