goo blog サービス終了のお知らせ 

S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

インターネットで「続いて」いくもの

2004年10月11日 | ○○さんにトラックバック!
先日、2年近く前に自分の管理する掲示板に入れた投稿に対して、
メールが来ました。
レンタル掲示板ではなく、サーバーにCGIを置いている形だからこそ、
出てくることだとは思ったのですが。

内容は、*他愛もないことなんですよね。
本当に他愛もないこと。
ただ、その、ちょっとした他愛もないことの話の中の「情報」が
その方にとっては何年も持っていた「謎」が「やっと解けた」
ということだったのだそうです。

この方、検索でいらしたのだそうですが。
わたし自身も、検索というものをよくかけるのですが、
何年も前の日記サイトに出くわしたりします。
そして、欲しかった情報などを手に入れつつ、
サイト主自体も忘れかけているページだろうなとも思います。
それでも、ウェブ上に、こうしたものは生き続けてるんだなあとも思うのです。

検索で引っかかるブログといえば、
多分、何年も、誰かの検索で現れてくるだろうし、
生き続けていて欲しいと思うのが、
「80s洋楽クラブ」「人にはそれぞれ事情がある」だな、と。
音楽と、そして、管理人の「今」というのがよいなあと思うし、
そこに書かれたことで「生まれて生き始めた」ブログの中の「主人公」は、
生んだ本人がそこから変化していっても、
インターネット上に生き続けるのだろうなあと思います。
また「π氏の雑記」のPC系コンテンツの、コメントを加えて豊かにふくらむ記事群も、
やはり一過性のものではなく、生き続けるだろうなあと思う。

ブログに現在進行形の要素が強いならば、
「迷い」の「今」という要素もある。
この観点で好きなのが、『斬(ざん)』と、「今日の幸せ」ですね。
思考に起承転結というものがあるならば、
急いで「結」に持ってっちゃ、もったいないとさえ思うところがある。
コメントやコメントレスは、
そこで展開される世界を充実させるものであって欲しいと思ったり。

上記にあげたところは全て、
「今、コメント欄に参加しないと意味が無い」的なとこが
薄いところばかりだなあと思います。
即コメントは、場をふくらませるものであって、
もしもそれが無かったとしても、充分「一人で立っていること」ができるところというか。
対して「常連の即レスに価値」、というような内容のものばかりのところは、
大きなお世話だとは思いますが、
「いったいいつまで続くだろ」ってのは思います。


『斬(ざん)』何でだろうか? にTBです。
(というか、souryuuseiさんとの対話の続き物のような・・・)

*文中の「他愛もないこと」というのは、
ジュン・スカイウォーカーズの歌『Let's Go ヒバリーヒルズ!』の歌詞の中で
「Books J」、「狭山」という固有名詞に並んで出てくる
「ロングジョンシルバー」という固有名詞の意味という話です。
『Let's Go ヒバリーヒルズ!』という歌は、東京郊外の小さな町のご当地ソングで
これ、全て、西武池袋線の「ひばりが丘」という駅の駅前にある店の名前で、
「ロングジョンシルバー」はずいぶん前に無くなっている店舗のこと。
わたしは結婚後の一時期、この町に住んだことがあるので、
彼らが解散しても、この歌はとても好きなのでした。

CCCDなんて、いらない!

2004年09月21日 | ○○さんにトラックバック!
まず画像ですが、
こちらのCDのジャケットです。

さて、本題。
CCCDに関して「ソニーがコピー禁止機能の全廃を検討」のニュース、
拍手、拍手、拍手です。

なんですか? あのCCCDってのは。
メーカーの言う「CCCDを正常に再生できない可能性がある」としている機器は
以下の通りです。

・音飛び防止装置が働いている(ポータブル)音楽CDプレーヤー
・CD-R/RWの再生に対応した音楽CDプレーヤー
・MP3再生のできる音楽CDプレーヤー
・ハードディスクプレーヤー
・そのほか、CD-ROMドライブを利用した音楽CDプレーヤー


うちにはCDを再生できる機器が3台ありますが、
全て上記のどれかに引っかかります。

要するに、買うか買わないかの選択の前に、
「機器買って、出直してきな」と言われているのと同じです。
CCCDという商品を買うか買わないか、こちらが決める前に、
なぜ、こうした「足切り」を行われなければならないのか。
そして、CCCDが持つ、数々の問題点

今後、CCCDが全盛になっていくのなら、「買わない」だけ。
各メーカーがCCCDを導入していく中で思っていたことは
こんなことでした。

ああ、いいです、いいです、別に。
CCCDで出る新しいものより、
わたしは自分がレコードで聞いた名盤の復刻版を買いますから。


で、その象徴の画像を貼り付けてみました。

はい、コレ、買いました。
うちのプレイヤーで立派に聞ける
クリエイションの「ピュア・エレクトリック・ソウル」です。
(この中の「SPINNING TOE-HOLD」は、このCDの中でも使われています)
 
このCDの説明文自体がまた、この状況で泣かせてくれます。

今、このCDを聞きつつ、

このCCCDに関してのニュースを書いた個人の文章は数々あれど、
「人にはそれぞれ事情がある」の2004.09.19付けの記事、
内容ももちろんですが、
「すべての歌に懺悔しな!! 」というタイトル自体にも
もう、思いっきり拍手です。

クリエイションの竹田氏の声に感じつつ、
「すべての歌に懺悔しな!!」を読みつつ、
哲学の無い商魂に、「ふざけんな!」と叫んでやりたい。

「(爆)」について

2004年09月20日 | ○○さんにトラックバック!
Leftyさんの「これって何の略?」を読みまして。

「(爆)」なんですが。

わからないのです、わたしには。
本当に、わからない。
掲示板やメール等で
自分に対して向けられた文章に対してコレが出てくると、
正直言って、なんか、こうポカンとするというか。

「・・・・(???)」

というのが正直なところなのです。
不快かどうかというより、わからない。
意味が、うまくつかめない。

不快かどうかということで言えば、
印象が強すぎるのです、この漢字自体が。
不快というより、なんというか、こう、
「びっくりする」「呆然とする」という感じ。

だって、「爆発」の「爆」ですよ?
わたしにとっては「爆発」の「爆」の連想形は「爆死」なんです。
「死」という言葉を日常で使うことに対しての
抵抗感のようなものをここで自分の中に見つけたりします。

だから最初は「爆笑」の「爆」なのかと思っていました。

その根拠なのですが。

「爆笑」という熟語は、「爆」という字の印象を明るいものに変える。
「爆発的に」という表現も、プラスに意味を変える。

例文として

「爆発的に商品が売れ、その会社は自社ビルを建てた」

という使い方をしますけれど、

「事件が起きたことで爆発的に売り上げが低下し、その会社は倒産した」

とは使わない。

「爆発」に対して、
「的に」という表現をつけることで、
「爆発」の効果によって、生まれるものがあるというプラス傾向の表現になる。

「爆笑」の「爆」は「爆発的に笑う」という意味で、
やはり、プラス傾向のモノに分類されると思います。
わたしが「(爆)」というものを
意識下において、そうした「陽」の傾向に取りたくて、
「爆笑」の「爆」だと取ろうとしていたのかもしれません。
そうやって、「爆」という文字の危ない印象を
無意識的に、自分が避けたかったのかもしれない。

でも「(爆)」というのは、
「爆発」や「自爆」の意味なんですね。
そういう傾向のもの、なのかな。

では、文法としては
「自分の行動に向けたものに使われる」、
ってことでいいんでしょうか。

ってことで、
検索でこんなとこに行ってみました。

hira's 「(爆)」のバリエーション委員会

でも、やっぱり、よくわからなかった。
多分、自分自身に根づいている文化の違いなんでしょう。
「(爆)」という語尾につく表現を見るたびに
自分の中の「爆」という漢字の感覚を
つくづく感じたりするのでした。

「リアル」と「バーチャル」

2004年09月17日 | ○○さんにトラックバック!
わたしは自分がネットの中で人と知り合う時に、
自分の「匿名性」というものを、あまり意識していません。
HNを変えたとしても、
自分本来の個性のまま、率直に参加している場合は、
「○○と××は同一人物だ」とバレると思います。
(実際、こうやって「当てられた」ことは3度ほどあります)

要するに、実際に名前を出さないだけで、
場がバーチャルでも、
自分の対応やあり方としては「バーチャル」ではなく
「リアル」なんではないかなと。

ネットで知り合った人とお会いしたことは何度もあります。
わたしは神奈川在住ですが、
お会いした方々の地域はこんなトコ。
京都、大阪、名古屋、石川、神奈川、東京。
最も遠隔地の方は「オランダ」です。
遠隔地の方は仕事の都合のついでや、休暇を利用してという形で、
横浜や東京でお会いしました。

実際にお会いすると、
声や表情に、実に新鮮な感じがする。
そして、その後、
「文字から声が聞こえてくるような」感じがします。

「会ったことのある人」と「無い人」、
これは自分の中では、「関係の差別化」は無いです。
というか、生まれませんでした。

結局、「会った人」も「会わない人」も、
その関係の場、
要するにネットの場で会話したことや、
共に経験したこと、経験に立ちあったこと、立ちあってもらったこと、
そういう積み重ねたものの方がずっと大きい。
そのことの前では、
「会った」とか「会わない」とか、
実はあまり関係が無いような気がします。

「文字から声が聞こえてくるような」感じ、
これが最大の感想。
笑うような場面のときには、笑顔がイメージできるようになる。

でも、人というものは、
一度や二度、会ったくらいでは
たいして相手のことはわからない。
それよりも、
その関係が生まれ、成立していったネットの場での
「相手と対し、話をする」経験。
その積み重ねの中で見えるモノの方が、
一度や二度会ったことより、格段に大きいんじゃないかと。

ネットで人間関係が出来た人という意味での「利点」は、
「初対面」の人にうまく言えなかったこと、
伝えきれなかったことを、
「後で文字で補足することができる」と思っているような、
そんな「安心感」があることです。

ただ、オフ会というものですが。
これは一度やりましたが、
今後に関しては、あまり積極的な気持ちは持たないというか。
というか、企画もしないし参加もしないでしょうね、きっと。
集団にするとせっかく「会える」機会なのに、
どうにも、一人に使える時間が少なすぎる。
その上、「友達の友達は友達だ」的な感じが
わたしとしては、う~~んと思う副産物だと思ったというか。
「友達の友達は友達だ」的な感覚は、
結局、後でトラブル起こしやすいとこもあるというか。
つまり、関係性が「2」くらい同士の人が、
集団の中で、お互いが、もしくは片方だけが
「5」くらいに思いこんでしまう怖さがあるのではないかと。
一対一で会うというイメージが湧かない人とは
会わなくてもいいんではないかなとも思う。

リアル友人と、ネットで話すことはあまりありません。
用件としてのメールも、電話に切り替えることはよくある。
リアル友人との関係の作り方が
そうやって、積み重ねられてきたものだからだと思います。

対して、ネットで知り合った友人は、
ゆっくり話したいことがある時に、
電話で話すよりも、メールという媒体を選ぶ。
これは、遠隔地への電話料金の問題というだけでなく、
やはり成立した関係性の経緯が
「文字」だったからではないかと思います。

要はやっぱり、
対人関係ってものは結局のとこ、
知り合った経緯ってのが大事なんではないかなと。

ネットで知り合った人と「実際に会う」という経験で
自分の中に身についたものは、
ネットで知り合う人に対して、
「いい人だと思いこむ」「期待する」みたいな
妙なモノが完全に払拭されたなと思うこと。
「会う」「会わない」関係なく、
相手を等身大で見る意識というものが
身についたような気がします。

以上、これはまったくの「個人的経験の体験談」でした。

souryuuseiさんの「リアルとバーチャル」
トラックバックです。

「話す」と「聞く」と「話させる」

2004年09月16日 | ○○さんにトラックバック!
souryuuseiさんのところの”「話す中心」と「聞く中心」に思う”
トラックバックです。

お話の続きとしては、
次の展開は「話させる中心」です。

この「話させる中心」ということ、
かなり顕著に現れているのが、
「π氏の雑記(PCのジャンキー)」なんではないかと。

ちょっと具体的に検証(?)するために、
πさんとこの「■うちの プリンター2号」にトラックバックです。

この「■うちの プリンター2号」という話題のコメント欄にある
πさんのコレ。

いやあ、皆さんの 補足で成り立ってるBLOGですよ。
私は、触りだけしか 書いてないですから・・・。はい。


そう、こちらで展開される「皆さんの補足」、よいんですよね。
ひとりの価値観ではない範囲に話が広がっていくというか。
πさんの記事の
「触りだけ」というか、「喋りすぎない八分目」ってのも、心地よい。
だからこそ、人々によって作られる「続き」というのが
また生きていくというか。

このπさんとこの「世界の色」というか。
これを展開させていく個性というのが、
πさんとこの持つ「味」であり、「良さ」であり、
「魅力」なんだろうなあと思うわけです。

話題を展開させるための「ネタの中身」も豊富に持っていらっしゃるしね。
そう、「話させる」ためには、
その話題に関しての「元の充実度」ってのが、
実に重要なキーになるのではと思うのでした。

文字だけで伝わることを信じたい

2004年08月28日 | ○○さんにトラックバック!
π氏の「顔文字」から
えっけんさんの「文字だけで自分の思いを伝えてみたい」
じゅん吉さんの「文字だけでは自分の思いの伝わらないむなしさ」に飛びました。
ふむふむと読みながら、
いろいろなことを思いつつ。

敬語、ですますといった丁寧語は、
「敬意」や「丁寧」といった意味の他に、
「敬遠」や「距離をおく」という役割を持つ部分がある。
相手に親しみを感じて、
この後者の意味をはずしていきたいと思うときに、
声も表情もなく、どうやって、文字だけで表していくか。
この辺は、人間関係を作っていく中で、
文字だけの世界では、「小さな賭け」の繰り返しのような気がします。

多少、大胆なはずし方をして、
賭けに勝つ時もあれば、負ける時もある。

その方法論の一つとして、
顔文字が使われる場合もあるのでしょう。
もともと、自分のキャラ立ての道具として使ってる人は
うまいですね、使い方が。

ただ、
ニュアンスを伝える「道具」という意味では、
文字よりも、どうにでも伝わるという危険もあるよなあと。
「親しさ」としての微笑みを表してるつもりでも、
慣れ慣れしすぎる感を与える場合もあるし、
「ウケた」笑いを出してるつもりでも、
嘲笑に取られる場合もあるでしょう。

同じ顔文字でも、
発する相手によって、受ける感触が違う、
こういうことも、まあ、あることなのではないかと。

結局は、
コミュニケートを取りたい相手と自分との
今現在の「距離」ということに対しての
アンテナというものが関係してくるのではないかとも思います。

わたし個人としては、
なんか、こう、
「自分と違うタイプの人間がつくった文化」
みたいな感じが、あって、
居心地の悪いモノではありますね、顔文字。
他者と、その顔文字に共通する意味がつかめていないのではないか
ってことを感じることもあるというか
だから、どこか「外国語」的で、
なんとか意味はつかめるけれども、
自分の言葉になるには、ちょっと距離があるなあという感じです。
たった数年のスパンで急に出てきた「記号」の意味するものよりも、
自分が成長の中でずっと使い続けてきて、
自分の中で、確実に文化になっている
普通の文字の力の方を
やっぱり信じたいと思うのですよね。

*TB
π氏の「顔文字」
えっけんさんの「文字だけで自分の思いを伝えてみたい」
じゅん吉さんの「文字だけでは自分の思いの伝わらないむなしさ」

*追加TB
Oriasuさんの「言葉と表情と顔文字」