私たちが大学生の時代は、大学の自治、大学の役割などが教官、学生などの中で盛んに議論されました。ところが、自民党の教育政策の中で、企業のとって利用価値のある研究開発、技術が要求され、そのようなことに利用価値のある研究課題には研究費をつける。そして、大学そのものを競争社会に追い込み、大学の研究開発費用を企業の資金投入の場に変えてしまいました。その結果、大学の自治は形骸化され、企業から研究開発資金を誘致できる研究者、教官が発言権を増す仕組みに変質させました。
このようなことの結果、大学教育、研究は基礎的な分野を軽視せざるをえなくなりました。企業がすぐにつかえる研究開発のみに集中するようになっています。したがって、このようなことを続ければ、企業の研究開発機関と大学は同じになってしまいます。基礎的な研究は数十年単位での研究、継続性が必要であり、そのことですぐに利益が生み出されるわけでもありません。しかし、基礎的な研究はあらゆる分野に広く影響を及ぼし、考え方そのものものを大きく転換させるような働きをもたらします。そのような学問研究は企業の資金からの要求ではなく、国家的な財政で支えるべき性格を持った研究といえます。
<FF記事>今年のノーベル賞でもっとも重要なこと
20年後同じように日本は基礎研究で輝いているか 伊藤乾
日本の報道の「日本人受賞」「日本人は受賞を逸す」といった無内容な報道、正直、何とかならないかと思います。知的発展途上国と自ら宣言しているようなもので、率直に恥ずかしい代物です。
が、それで世間が反応し、受けるからとメディアもそれを続け、いつまでもそういうレベルにとどまる悪循環、そろそろ何とかしてもいいのではないかと思います。
本年度のノーベル物理学賞は、すでに周知のように赤崎勇、天野浩、中村修二の3氏が受賞しました。メディアは(前日「期待」が外れた?医学生理学賞のときとは打って変わって)「日本人への受賞」とお祭り騒ぎモードに一転している様子です。
が、そもそも中村修二さんはすでに日本人ではなく「日系アメリカ人」としてノーベル委員会も名を挙げているし、国際世論もそのように、つまり今年はアメリカ人と日本人が物理学賞を分け合った、と見ている。
小さなお国自慢ではなく、ここではもう少し違う観点から本年度ノーベル物理学賞を授与された業績関連で少しお話してみたいと思います。
評価の焦点は何か?
まず第1に、ノーベル委員会が評価している「受賞理由」と、日本国内でお祭り騒ぎしているポイントとは、少しずれているような気がします。
国内の報道を見るに「青い光を点した」とか「LED(発光ダイオード)で三原色が揃い、応用に圧倒的な可能性が開かれた、圧倒的な市場シェアといった「美点」が強調されたものも見ました。 が、ノーべル委員会は決してそんなことを受賞理由に挙げていません。
委員会が評価しているのは「低消費電力の灯り」の開発による、地球全体規模での省電力への貢献です。
普通の白熱灯であれば40日程度しか持たなかったものが、蛍光灯の発明は電球の寿命を400日ほどに延ばした。それがLEDによって4000日まで伸びた。
今までたかだか1年前後の寿命であった蛍光灯の灯りが10年規模まで延長され、かつ消費電力は激減した。この低消費電力であれば、発展途上国の再生可能電力源も十分に支えることができる。
かたや日本の産業界は「原発をフル稼働させないと我が国の産業界は危うい」と言い、あまり思考能力がついているとは思えない陣笠がそれに追随したりしていますが、ノーベル委員会は同じ光量を得ながら消費電力は著しく少なくてすむ発光ダイオードの発明を、グローバルな省エネルギーの観点から高く評価している。
こういう、品位ある「技術の見立て」を、社会全体ができるようになってこそ、成熟した先進国、国際社会をリードする見識というべきでしょう。
「世界一の製品を作った」から、ノーベル賞が出るわけではない。仮に市場の圧倒的なシェアが取れれば、すでにそれで社会経済的には十分報われているわけですから、今さらノーベル賞を与える意味も理由も動機も存在しない。
何だか分からないけど先端技術の「ものすごい賞」みたいな、情けない捉え方をメディアまでがするというのは、どうかご勘弁いただきたいというのが正直なところです。