“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

大学の持つ機能と使命

2014年10月13日 12時47分49秒 | 臼蔵の呟き

私たちが大学生の時代は、大学の自治、大学の役割などが教官、学生などの中で盛んに議論されました。ところが、自民党の教育政策の中で、企業のとって利用価値のある研究開発、技術が要求され、そのようなことに利用価値のある研究課題には研究費をつける。そして、大学そのものを競争社会に追い込み、大学の研究開発費用を企業の資金投入の場に変えてしまいました。その結果、大学の自治は形骸化され、企業から研究開発資金を誘致できる研究者、教官が発言権を増す仕組みに変質させました。

このようなことの結果、大学教育、研究は基礎的な分野を軽視せざるをえなくなりました。企業がすぐにつかえる研究開発のみに集中するようになっています。したがって、このようなことを続ければ、企業の研究開発機関と大学は同じになってしまいます。基礎的な研究は数十年単位での研究、継続性が必要であり、そのことですぐに利益が生み出されるわけでもありません。しかし、基礎的な研究はあらゆる分野に広く影響を及ぼし、考え方そのものものを大きく転換させるような働きをもたらします。そのような学問研究は企業の資金からの要求ではなく、国家的な財政で支えるべき性格を持った研究といえます。

<FF記事>今年のノーベル賞でもっとも重要なこと

  20年後同じように日本は基礎研究で輝いているか 伊藤乾

 日本の報道の「日本人受賞」「日本人は受賞を逸す」といった無内容な報道、正直、何とかならないかと思います。知的発展途上国と自ら宣言しているようなもので、率直に恥ずかしい代物です。

 が、それで世間が反応し、受けるからとメディアもそれを続け、いつまでもそういうレベルにとどまる悪循環、そろそろ何とかしてもいいのではないかと思います。

 本年度のノーベル物理学賞は、すでに周知のように赤崎勇、天野浩、中村修二の3氏が受賞しました。メディアは(前日「期待」が外れた?医学生理学賞のときとは打って変わって)「日本人への受賞」とお祭り騒ぎモードに一転している様子です。

 が、そもそも中村修二さんはすでに日本人ではなく「日系アメリカ人」としてノーベル委員会も名を挙げているし、国際世論もそのように、つまり今年はアメリカ人と日本人が物理学賞を分け合った、と見ている。

 小さなお国自慢ではなく、ここではもう少し違う観点から本年度ノーベル物理学賞を授与された業績関連で少しお話してみたいと思います。

評価の焦点は何か?

 まず第1に、ノーベル委員会が評価している「受賞理由」と、日本国内でお祭り騒ぎしているポイントとは、少しずれているような気がします。

 国内の報道を見るに「青い光を点した」とか「LED(発光ダイオード)で三原色が揃い、応用に圧倒的な可能性が開かれた、圧倒的な市場シェアといった「美点」が強調されたものも見ました。 が、ノーべル委員会は決してそんなことを受賞理由に挙げていません。

 委員会が評価しているのは「低消費電力の灯り」の開発による、地球全体規模での省電力への貢献です。

 普通の白熱灯であれば40日程度しか持たなかったものが、蛍光灯の発明は電球の寿命を400日ほどに延ばした。それがLEDによって4000日まで伸びた。

 今までたかだか1年前後の寿命であった蛍光灯の灯りが10年規模まで延長され、かつ消費電力は激減した。この低消費電力であれば、発展途上国の再生可能電力源も十分に支えることができる。

かたや日本の産業界は「原発をフル稼働させないと我が国の産業界は危うい」と言い、あまり思考能力がついているとは思えない陣笠がそれに追随したりしていますが、ノーベル委員会は同じ光量を得ながら消費電力は著しく少なくてすむ発光ダイオードの発明を、グローバルな省エネルギーの観点から高く評価している。

 こういう、品位ある「技術の見立て」を、社会全体ができるようになってこそ、成熟した先進国、国際社会をリードする見識というべきでしょう。

 「世界一の製品を作った」から、ノーベル賞が出るわけではない。仮に市場の圧倒的なシェアが取れれば、すでにそれで社会経済的には十分報われているわけですから、今さらノーベル賞を与える意味も理由も動機も存在しない。

 何だか分からないけど先端技術の「ものすごい賞」みたいな、情けない捉え方をメディアまでがするというのは、どうかご勘弁いただきたいというのが正直なところです。


地方の再生

2014年10月13日 10時59分45秒 | 臼蔵の呟き

少子高齢化は日本社会が抱える大きな政治問題です。その中心は、所得の低下、貧困層の爆発的な増加が、大きな経済的な要因となっています。子供を生みたくても家が狭く、教育費が賄えない。生活苦で、子供を育てることもままならないのが実状ではないかと思います。収入が少ない、給与水準が低いのは国民のせいではありません。最低賃金を低く据え置く。非正規労働を無制限に拡大する。製造業の海外進出に対してなんらの対策も政治が打たない。これらのことにより、少子化に拍車がかかり、地方都市の過疎化に歯止めがかからなくなっています。すべて、政治がもたらした弊害です。

自治体ががんばれば、自治体の住民数を増加させることができるとする主張は幻想にしか過ぎません。1つや2つの自治体ががんばって少子化、過疎化に歯止めがかかったとしても、圧倒的多くの自治体がそのようなことができるわけではありません。もし、そうであるとしたら、このような人口減少、過疎化、限界集落の増加は起こるはずがありません。

産業構造の変改に対して、あたらな産業の創設、政治的な支援策を実行すること。非正規労働の拡大を抑止し、企業に正規労働を義務化すること。誰でもが安心して預け、働くことができる保育環境を整えること。義務教育にかかる父母負担を0化すること。高等教育への奨学金制度を充実させ、返済の免除などを行うこと。そのような政治が果たすべき、課題を着実に行うことなくして少子化の解消、地方都市の過疎化を食い止めることは出来ません。

<琉球新報社説>人口減への不安 地方再生につなげる施策を

 人口減少に「不安を感じる」と考える人が84%に達し、住んでいる市区町村の運営が困難になると感じている人が62%に上った。
 本格的な人口減少社会が到来する中、日本世論調査会が実施した全国世論調査の結果である。
 少子化と連動した働く世代の減少に伴う国力の低下や社会保障切り下げが不可避だと指摘される中、国民の危機感を反映していよう。
 効果的な対策を問うと、子育て世帯への支援拡充が49%医療福祉サービスの充実が40%と上位を占め、ソフト面の強化を望む意識が浮かんだ。雇用創出を要望する声も強い。実効性ある対策を丁寧に吟味し、国民の不安解消に努めねばならない。
 大都市圏への人口の集中が続き、総じて人口流出が続く地方の疲弊が指摘されている。住みやすさ、子育てしやすい環境づくりなどのソフト面強化とともに、社会資本整備など、格差解消を望む地方自治体の声も無視できまい。雇用を創出する産業戦略など、地方再生に目を配った施策を求めたい。
 民間団体の「日本創成会議」は5月に896自治体が消滅の危機を迎えるとする報告書を発表し、人口減少問題がにわかにクローズアップされた。増田寛也元岩手県知事(東大大学院客員教授)が中心となってまとめ、子どもを生む中心世代(20~39歳)が2040年には10年に比べて半分以下になることを根拠に据えた。
 一方で、「消滅」の言葉が一人歩きし、名指しされた自治体では地域の再生に向けた意欲が損なわれるとの懸念が増幅している。
 人口減を危機バネとして生かし、不利を克服して人口を増やした自治体に目を注ぐ必要がある。
 日本海に浮かぶ島根県隠岐諸島の島の一つである海士(あま)町は過疎化にあえいでいたが、町長の給与50%カットなど徹底した行財政改革を進める一方、鮮度を保った魚を出荷できる最新の冷凍技術を使った海産物直売やブランド牛開発など産業振興に力を入れた。人口約2400人の約1割を島外からのほぼ働き盛り世代の移住者が占め、2013年に人口増に転じた。統廃合寸前だった高校も学級を増やした。
 山内道雄海士町長は「Iターン者の知恵が雇用を生み出し、何もなかった島を活性化させている」と手応えを話す。地方再生の先進例を人口減少社会の克服に生かすことも求められている。


カジノ法案 

2014年10月13日 09時57分58秒 | 臼蔵の呟き

集客と企業が利益を上げることができれば、何でもありの政治姿勢には驚くと同時に、彼らが、道徳的にも退廃した勢力であることを示しています。自らと、自らの家族が安泰であれば、他者がどうなろうと知ったことかとの政治姿勢には呆れるばかりです。

ニコチン中毒、アルコール中毒などで医療機関の対応が必要となり、大変な苦労をしながら立ち直れずに苦しむ家族がいます。一回中毒に陥れば、そこから立ち直るために、多くの犠牲がついて回ります。ギャンブル依存症も脳に損傷が与えられ、そこから立ち直るのは至難のわざと言われています。国民の多くをギャンブルに誘惑し、依存症に引き込む可能性のあるような遊興施設を国が積極的に誘致するなどは狂気の沙汰といわざるをえません。

<毎日新聞社説>カジノ法案 解禁ありきに反対する

 カジノ解禁をめぐる議論が熱を帯び始めた。「統合型リゾート(IR)整備推進法案」(カジノ法案)について、安倍晋三首相は参院予算委員会で「経済成長に資する」と述べ、改めて積極的な姿勢を表明した。一方、カジノ解禁を目指し法案をまとめた超党派の「国際観光産業振興議員連盟」は、ギャンブル依存症対策を念頭に、日本人の利用に一定の条件を付ける内容で法案を修正し、今国会成立を図る方針とされる。

 議連は先週、カジノ利用を当面外国人に限定する方向で議論をまとめようとした。だが、異論が出て幹部会で方針転換した。カジノ解禁には、負の側面からの徹底検証が必要だ。そもそも成長戦略の名の下、国を挙げて賭博を推進することに正当性があるのか疑問だ。解禁ありきで審議を進めることに反対する。

 この法案は、民間資本を導入しカジノやホテル、会議場などの施設整備を目指すものだが、核心はカジノ解禁だ。議連が方針転換したのは、外国人だけではカジノの採算が取れないことが自明だからだろう。

 日本人には、入場資格を設けたり入場料を徴収したりすることを想定する。だが、入場資格の線引きは容易ではない。解禁慎重派に配慮して日本人解禁の先送りを打ち出しながら方針を変えること自体ご都合主義的で、真剣にギャンブル依存症と向き合おうとしているとは思えない。

 2020年の東京五輪を見据え、観光客の増加、税収増などによる地域経済の振興、雇用の創出などプラスの側面を推進派は強調する。だが、米国では今年、開業間もないカジノが倒産し、カジノ産業の陰りが見えてきた。依存症対策など社会的コストも大きい。アジアにはマカオやシンガポール、韓国などに既にカジノがあり、共存できる見通しは定かではない。カジノ解禁による経済効果は、進出してくる外国資本にほとんど吸い上げられるのではないか。経済的観点からも疑問は尽きない。

 それ以上に考えるべきは、金を賭ける側が結局は損をするというギャンブルの特性だ。カジノは賭博性が特に高く損失もけた違いになる。

 弁護士や経済学者がアジアを中心にカジノを視察したところ、ギャンブル依存の揚げ句の自殺や失業、借金による家庭崩壊などの事例は枚挙にいとまがない。風紀も乱れ地域がすさむ。また、自国民から高い入場料収入を取っても、ギャンブル依存者数は減っていないという。

 日本には公営ギャンブルのほか、全国にパチンコ店があふれる。ギャンブルの全体像を踏まえた依存症対策についての議論が欠かせない。国会は諸外国の事例について実態を把握し、冷静に検討すべきだ。