ポニョ:今日は、古い過去記事を掲載します。ちょっとリラックスして、おいら達の昔の話を聞いて下さいね。。
あんたは、天満で大きくなったんやろ。
ヨシオ:そう。俺は子供の頃から天神橋筋商店街で育ったんやけど、隣の店が六畳ぐらいの下着とか靴下を売ってるお店やったんや。
戦後、夫婦で梅田の方から来た人で、御主人は以前、学校の先生をしてはったんや。
俺の親父と友達で、一緒に箱根で開催されたビジネスゼミナールに参加したんや。
そこで学んだ事は、ビジネスというのは、売ったり買ったりしてただお金を儲けることではない。
買いにきてくれたお客さんを信じ、信頼して、一緒に社会を良くしていく社会的な金のやりとりがビジネスや。
ビジネスには、そういう道徳心、公益心、相互信頼というものが無ければ、金を貯めるという行為だけやったら、ただの犬猫がやっとることと同じや。という話を聞いて来たんや。
ポニョ:まるで、サイババさんのお言葉やないけ。
ヨシオ:そうやな。それで、それを聞いて二人とも涙を流して感激したんや。
今や多くの会社が操業を停止しました。この理由は何でしょうか。
もしある会社が不正な手段で利益を得ていたなら、他の会社もそれと似たような手段を取ります。
ビジネスで悪い習慣が素早く容易に広まるのはよくあることです。
それゆえ皆さんは用心して、良いことを為すように懸命に努力しなければなろません。
29/8/09
親父は洋服屋を営んでたから、これからは儲ける事だけを考える商売をやめて、原価の一割だけを儲けとしていただき、あとは正価販売でお客さんに良いものを安く買ってもらおうと、店の経営方針を改めたんや。
でも、しばらくして直ぐに病に倒れて逝ってしもた。まだ、二十代やった。
隣のおっちゃんは、セルフサービスの店をモットーにレジを店の入口に一つ置き、お客が店に自由に入れるシステムにしたんや。今ではどこにでもある、ショッピングセンターの方式や。
その頃、万引きが多かったのでみんなびっくりしたんや。
当時、それがとても目新しいのでお客がたくさん来て、瞬く間にその辺りの店を買い取って大きくなったんや。
俺がまだ小学校一年ぐらいの時、店が閉まってから、大きな隣のおっちゃんの店の二階に、百人近くの店員さんが上がって行くんや。
俺は、何事かなと思って一緒に上がって行くと、なんか労働組合の集会をしてたんや。
そしておっちゃんの奥さんが一人で、たくさんの、その辺に脱ぎっぱなしの靴を綺麗に並べてはったんや。
おばちゃんは、「ヨシボン今晩は。何しに来たんや。」と聞いてきたけど、俺はそれには答えず、「おばちゃんこそ何してるのん。」と聞くと、「集会が終わって、履きもんが逆さ向けやったら履きにくいから、綺麗に並べてんねん。」
「ヨシボンも手伝うてくれるか。」と言ったんで、二人で靴や草履を並べてたんや。
そのあと、家族旅行で東京に行ったり、山形に行ったりしたんやけど、どこに行っても隣のおばちゃんの大きな店があるのでびっくりしたんや。
今では、もうどっかの会社に吸収されたらしいけど、「ニチイ」という大きい会社持ってはったんや。
ポニョ:そんな大きな会社の社長夫人になっても、謙虚に生活してはったんやな。
ヨシオ:会社が一番大きかった時に引退して、浄心寺というお寺に息子さんと出家して、御法話してはるから、聞きに行ったことあるけどな。俺の結婚式もきてくれはった。
ポニョ:偉い人いてはるな。お金をたくさん持っているのに謙虚になるって難しいで。
多すぎる富を持つと、沢山の危険なことに対面することになります。
多すぎる富を持つと、人は傲慢になり正しいことと間違ったことの識別心を無くしてしまいます。SS12/94p311
謙虚さと忠実さがあれば、どんなことでも成し遂げることができます。
道徳、霊性、肉体、さらには政治といった人生のあらゆる領域において、人は献身的に振る舞わねばなりません。
そのとき初めて、成し遂げた仕事が栄光のうちに輝くことでしょう。17/2/07
神の恩寵は謙虚さと規律を備えた人に注がれます。
神の恩寵を確実なものとするためには謙虚さが不可欠です。
年長者を敬いなさい。自分の持っているものに満足しなさい。
すべての人に対する好意を育てなさい。だれに対しても悪い感情を抱いてはなりません。
だれからも愛されたいと願うのであれば、だれをも等しく愛するべきです。
23/11/94
ヨシオ:ポニョは、自然が好きになったのは、この前亡くなられた近所のおっちゃんが、毎年丹後の田舎へ連れて行ってくれたからや。と言ってたな。
ポニョ:そうやねん。丹後の自然は、おいらのバックボーンやぜよ。今でも、あの一日中遊んだ円山川の源流の小川や、砂を踏めばキュッキュッと音を立てる琴ヶ浜とか思い出すぜよ。
ヨシオ:でもそれだけやったら、どこでもいてる自然派志向のおっちゃんになるだけやのに、何がポニョをこのような、魑魅魍魎の霊的な世界に引きずり込んだんや。
ポニョ:まあ、そうやな。思い返せば、一つだけの理由やないけど、一番最初に受けたショッキングな経験は、おいらがまだ、高校生で生意気な訳の分からんガキやった頃の体験やな。
車の免許を取ったとこやったから、友達の車を借りてウロウロしてたんや。
友達が、雨降ってるからついでに、大阪駅まで送ってくれって言うもんやから、あんな交通量の多いとこ行くのは初めてなので、自信はなかったけど行くことにしたんや。
大阪駅前の信号の無い横断歩道で友達を下ろし、ゆっくり走ってたら豪華な袈裟を着た偉そうな坊さんが、弟子を三人ぐらい連れて道路を渡ってたんや。
おいらは、ほとんど止まるぐらいゆっくりしたスピードで走ってたんやけど、坊さんは傘をさしていて前が見えなかったし、雨が降ってたから急ぎ足でおいらの車にぶつかって来よったんや。
すぐに車を止めて窓を開けて大丈夫かと聞くと、坊さんはどうもすみません。下だけを見て歩いてたんで車に気が付きませんでした。と謝ったんや。
言葉に訛りがあったから、地方から来た坊さんやてすぐ分かったんや。
おいらは、あのな。坊さんよ。大阪いうとこはな。前だけ見て歩いててもあかんねん。右も左も、時々、後ろも見て歩かなあかんとこや。忙しいとこやからな。
もっと気をつけて歩かな、今度は誰かに轢き殺されるで。坊さん。
そうなったら、あんたの葬式は後ろにおる小僧坊主にやらすんか。
まあ今度からしっかりよく前を見て歩けよ。坊さん。と言うと
はい。かしこまりました。貴重なご意見、心底聞き届けました。今日は、本当に失礼いたしました。と言ったんや。
おいらは、そんなに改まって丁寧に謝らなんでもええけどな、雨もきつう降ってきたから、とりあえずおいらの車から離れてくれるか。そんなにひっついてたら、車動かされへんやないか。と言うと
坊さんは、はい。その…。と言ってまだ車から離れへんから、おいらちょっとぷっつん来て
あのな、坊さん。はよ離れてくれと頼んどるんや。おいらの言うてる事が分かれへんのんか。坊さん。車出されへんやないけ。と言ってよく見ると、坊さんの足は車の右車輪の下やったんや。
ちょうど、下駄の鼻緒のところがタイヤの下敷きになっているもんだから、足の指がタイヤの下や。
下駄が前のめりになってるから、坊さんは車に身体をあずけてたんや。
おいらは、びっくりしてすぐ車を動かしたんや。
坊さんは、少し痛そうな顔をしたあと、すぐにどうもありがとうございました。
今回は、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。と言って、後ろにいた三人の小僧坊主と頭を下げたんや。そして、今度から、よく気をつけて歩きます。本当にすみませんでした。と言ったんや。
おいらは、あんたほんまに大丈夫なんか?と小さな声で言ったんやけど。
坊さんは、ニコニコしながら頭を何遍もペコペコさせとるからそのまま車を走らせ、家に向かったんや。
車を運転しながらなぜか無性に涙が出てきて、なんやあのクソ坊主。神さんみたいな坊主やったな。
人間ってあそこまで、感覚を、感情をコントロール出来るんや。あそこまで人間を大きく出来るんや。おいらは、それに比べたら口だけが達者なガキやないか。
正しいものを見ることによって、二重の恩恵があります。
それは、意思力を強め、眼の光の力を増大させます。
仏陀は、このような真理を理解したので、感覚をコントロールするための具体的な努力をしました。
瞑想や苦行は、 一時的な幸せしかもたらしません。
永遠の幸福は、感覚のコントロールによって初めて得られます。
仏陀は皇太子であり、一国を支配する力を持っていましたが、すべてを捨てて、 自分の感覚をコントロールすることに打ち込みました。
彼は、感覚をコントロールした後 に、初めて至福を体験し、涅槃に達することができたのです。31/5/99
あの坊主みたいに、ふとっころの大きい人間にどうやったらなれるんやろうか。
おいらでも、あんな人間に将来なれるんやろうか。
もうちょっとマシな人間になろうぜ。恥ずかしいわ。このまま人生送ってたら、将来ろくなもんになれへんやろうな。
と思って、お寺巡りをしたり、自分で瞑想してみたり、道教の本を読んだり、聖書を読み始めたりするようになったんや。
ヨシオ:そんな体験を十七や八歳でしたら、そら人生に大きな影響を受けるやろうな。
でも、すごい出来た坊さんやな。日本って本当はとても奥深い国やな。そんな人が普通の人に混じって生きてるってな。
真の幸福は感覚のコントロールとアートマンの至福によって得られます。
学生にとって何より重要なのは感覚のコントロールです。
22/11/91
ポニョ:おいらも、あんな人間になりたいと思って、お寺が好きになってしまって、京都によくお寺参りしたぜよ。
ヨシオ:お寺参りしたら、あんな奥深い人間になれるんか。
ポニョ:そこで突っ込むなよ。でも、おいらは、お寺の雰囲気が好きやねん。
特に黄檗山万福寺で、今もやっているかどうか知らないけれど、毎年秋に施餓鬼と言って昔から菜食の雑炊をおいらのような困った人たちに施す行事があるんや。
ヨシオ:どこが困った人やねん。雑炊を食べる為に、にわか困った人になってたんやろ。それにポニョは、そのお寺の名前が好きやねんやろ。満腹寺って。
ポニョ:ハハ。今気が付いたわ。そうかもしれんな。
そこで、雑炊を食べ、坊さん達が大きな仏像の両横の階段に座って、お経を長い間唱えはるんやけど、それを最後まで横に座って聞くのが好きやったな。その後、残りの雑炊を少しいただくんや。
ヨシオ:また、食べもんが出てきた。もしそこで、雑炊が出て来なかったらどうする。
ポニョ:そら、カップ麺とか持って行くしかないやろ。コンビニのおにぎりを包んで行くとか。ついでにおいらの好きな小芋の煮っころがしとか、オクラでも何でも弁当に詰めて…
お母ちゃ~ん。お腹空いてきたわ。晩ご飯まだか~。
ヨシオ:もう勝手にし。どこが、感覚のコントロールや。
感覚によって、私たちにとってそれが良いことか、悪いことかがもたらせるのである。
それゆえ、感覚をコントロールすることが私たちにとって一番の課題なのである。
あなた方はしばしば「こんなことが自分達にできるのだろうか。」と弱音を吐くけれど、私は、君達が強い決意で持って取り組めば出来るのだ、ということを強調したいと思います。
神の意に沿った喜ばしい行為をし、祝福を得れば感覚のコントロールなどさほど難しい事ではないのです。
感覚というものはとても些細なものから成り立っているにすぎないからなのです。
感覚がコントロールできないようではあなたは、自分自身を人と呼べないのです。
23/2/06
経典は感覚をコントロールする者のみが真の人間であり、物質の枠の中に閉じ込められた人間が無限の力を持って生きることは、感覚のコントロール無しには不可能であると述べています。SS10/9/93
感覚をコントロールする事により、長寿を得られると信じられています。
29/6/89