この世の人生で手にすることの出来る真の価値のあるただ一つで永遠のもの、それは神の愛です。SGc3
ポニョ:過去4回に分けて、ババが霊体、微細体で仕事をされる話をしたけれど、何か言い足りなかった事があるか?
ヨシオ:そういや、もう少し幾つか紹介したかったエピソードがあるな。あれは確か、ババがもう御自分で歩けなくなってずっと車椅子の生活をされておられた時のことや。知り合いのアフリカ生まれで、オーストラリアに住んでいるインド人の帰依者が、ババに会いに行って帰っ来た後、俺のところに遊びに来たんや。この前紹介した、ムッデナハリのスーダンから来たアフリカ人と違うで。
ポニョ:あのね、ボケんとってくれますか?その人の名前はマドゥスーダンというインド生まれのインド人やてずっと言ってるやろ。
ヨシオ:あゝそうやったんや。
ポニョ:まだ、ボケてるやないの。
ヨシオ:それで俺は、俺たちの共通のお父さんである、ババさんは如何お過ごしだったですか?と聞いたんや。すると、意外な答えが返って来て、俺はとても驚いたんや。その人はこう言ったんや。朝早く起きてダルシャンに出ても、ババは時々出て来られない時があったんです。まだ、それは許させるとしても、ババが車に乗ったままダルシャンをされるんです。しかも、スモークガラスの窓を開けずにされるもんだから、車に乗っておられるはずのババのお姿は見えないんです。ドアに付いているパワーウインドウスイッチを押せば簡単に窓ガラスを下げれるのに、それさえもされなかったんですよ。ババに対して本当に失望しましたし、怒りの気持ちも湧いてきました。だってこちらは、大金を払い、会社に頼み込んでやっと一週間休みを取り、遠路はるばるやって来たのに、なんていう事でしょう。愛の神様だったら、もうちょっと私たち帰依者へ配慮して下さっても良いと思いませんか?それとも、パワーウインドウのスイッチの使い方を知らなかったんでしょうかね。もう、金輪際ババの所には行きたくないですね。今はババに対して怒りの気持ちしか無いです、と言ったんや。
自分は立派な帰依者だと主張する多くの人が、いつかは離脱していきます。
彼らは実は本当の帰依者ではなかったと、いうのが真実です。
すべては見せかけです。
帰依心というものは消え失せるものではなく、帰依する心の無いところに帰依心は生じません。これはつまり、最初から帰依心は無かったということを意味します。
「スワミは私たちのすべてです」と言って、よく自分の帰依心を公言していた人は、実際には帰依心などまったく持っていなかったのです。
それはまったく上辺だけだったのです。
本当の帰依者は決してスワミから離れません。
離れる人は決して真の帰依者ではありません。
この点に関して、帰依心の真の性質は誰にも理解できない、ということを認識しなければなりません。
(詩) 死の遣いが待っている。親類縁者が皆、泣いている。その最期の瞬間に、神の御名を心に浮かべ ることができようか?生涯を通じて神に帰依してこなかったなら。 神は揺らぐことのない、固い帰依心にのみ動かされるのだ。
人生の早い時期からひたむきな帰依心があったときにのみ、帰依心はしっかりと、変わらずにあり続けます。
利己的で、自己中心的な人の帰依心はぐらつきます。
神への完全な愛を伴う帰依心は決して変わりません。
それは揺らぐことのない帰依心です。
それほどの神への切なる思いがあれば、ハートは溶けます。
神はそのような固い帰依心に動かされます。
これが、万人が抱くべき帰依の心です。6/10/92
ポニョ:それって、ひどいよな。自分の思い通りにならないと神をすぐ非難する人って最低やぜよ。でも、めちゃ正直な人やぜよ。普通、もしそんな風に思っていても、口に出して言う人って少ないよな。それで、あんたはどう言い返したんや。
ヨシオ:その人は、俺が二十年間もババの所に行っていないので、俺も自分と同じように思っているのに違いないと、思い込んでいたんや。思い込みが激しいところは、ポニョと似てたな。そういや、その人の血液型もO型やったな。
ポニョ:なんでそこにおいらが出て来るんやぜよ。そんな人と一緒にせんとってんか。
人は問題が生じると神を非難し、自分は神に帰依しているのに平安が得られないと不平を言います。
彼は帰依の概念を誤って解釈しています。
真に神に帰依しているならば,何事が起きようとも悩むべきではありません。
自分と神は別々という感覚を捨てなさい。
分離感がある限り神を認識することは出来ません。27/5/92
ヨシオ:それで、その人は、俺にどうしてババの所に行くのをやめたのか聞いて来たんや。多分似たような理由やと思ったんやろな。それで俺は、ババのところに行った最後の旅で、ババが俺に、お前はどうしてこんな小さな肉体を見に、わざわざ来るのですか?もうお前は、私と心の中で深く繋がっているでしょう。私の声が聞こえるでしょう。こんなにたくさんお金を使って、遠い所まで来なくても良い。お前がいる所で、私の仕事をしなさい。お前にはもう仕事を授けただろう。と言われたからや。と言おうとしたんやけれど、その人の霊的なレベルにそぐわない返事をしても、反感を食らうだけやから、笑って誤魔化したんや。
ポニョ:でも、その人はあんたが笑って誤魔化したぐらいで納得しないやろ。
ヨシオ:結構気が強い人やからな。それでしつこく聞いて来たので、俺は、多分気を悪くするだろうとと思ったけれど、こういう人にはハッキリと言った方が良いと思い直したので、俺の意識レベルを、その人の霊的レベルに合わせて、こう説明をしたんや。『神様はババという肉体を使って、インドでお仕事をされている。そのババという名が付いている肉体は、たくさんの帰依者やサイの学生たちの面倒を見るのに忙しい。俺は、たった一つしか無い神様の道具であるババの身体を煩わしたく無い。それに、神様は、そのババという名の肉体を使って、もう充分俺たちの家族を祝福してくれたし、何度もインドに行かなくても良いのだ。本当のババは、君の心の中に四六時中いて、君の事を、君の両親よりも何千倍も強い愛で、愛して下さっている。インドにいる神様の道具であるババより、君の心の中にいるババを見なさい。彼を無視してはいけない。もっと、君の事をいつも思って愛してくれている、心の中におられるババを大事にしてあげなさい。プッタパルティにおられるのは、神様が道具として使っておられる肉体に過ぎない。その道具であるババの肉体は、もう若くは無いので、昔のようにアクティブではない。そのババの肉体から、祝福をもらって自分の欲望を満たそうとするより、そのババという肉体を使っておられる神さんが、君の中にもおられる。その神さんは、君に祝福を授け恩寵を授けようとずっと辛抱強く待っておられる。君が振り向いてくれるのをじっと見つめて待っておられる。君が話しかけてくれないかといつも耳を傾けてくれておられる。これ程、君の事を思っていてくれているのに、君はババの事をずっと無視して、その神さんの道具である、肉体のババの注意を引けなかったって嘆いている自分を、鏡に映して見てごらん。そこには、二元の世界に騙されて、その世界にドップリと浸かりきり、口をとんがらして文句を言っているアホが映っているでしょう。もう少し賢くなりなさい。』と言ってやったんや。
ポニョ:あんたは言い出したら口が悪いから、そんな事を言ったらその人は怒って帰ってしまったやろ。
ヨシオ:いや、今までババの帰依者を長い間やって来たけれど、そんなふうにババの事を考えた事は無かった。そうか、プッタパルティにおられる肉体のババは、神様が使っておられるババという名の道具なんや。そう思ったら腹が立たなくなった。何て言ってたな。
ポニョ:性格があっさりしているところは、おいらと似ているぜよ。でも、あんたはすぐにその人の霊的レベルに合わせて話しが出来るんやな。
ヨシオ:俺のところに、三年間に渡って毎日、たくさんの人が話を聞きに来たことがあるんや。その時に、来た人の霊的レベルに合わせて話をしないと、時間やエネルギーの無駄になるって分かったんで、そういう事に気を付けて話す癖が付いたんや。
ポニョ:全部で三千人も来たって言ってたよな。いろんな人たちが来たやろ。
ヨシオ:そういや、作家の娘が、今、その人たちの事を本にしてるって言ってたな。
ポニョ:プッタパルティにいるダルシャンを与えている肉体は、神様の道具か。その神さんが肉体を取っておられる。ややこしいけれど面白い発想やぜよ。確かにそうやもんな。
ヨシオ:俺はババに、あなたがこの俺の肉体を使って、西オーストラリアで仕事をされているんでしょう?と聞いた事がある。このようにババと話す時には、常に肉体と自分を一緒くたにしてはいけないんや。ところで、もし俺たちがババのように神の化身で、霊体で仕事をするために肉体を脱ぎ捨てるって決めていたら、ポニョだったらどうする?
ポニョ:どうするって、おいらが神の化身で肉体を脱ぎ捨てるんやろ。どうするかな?考えた事が無いぜよ。
ヨシオ:ババは、この事に関して実は、何度も御講話の中でヒントを与えておられるんや。
ポニョ:ヘェ~そうなんや。気が付かなかったけれどな。
ヨシオ:ババは、私は帰依者のために、いつでもこの身体を犠牲にしても良い覚悟でいますって、何度も講話の中で言っておられるんや。
ポニョ:ババは医者たちに、この身体はあなた達のものです。手術をしたり何でも好きなようにしなさいって言われたことがあるよな。
あなたと私の間に何の違いもありません。
私は自らの中にすべての力を具有しています。
しかし、あなたは私の身体としての姿を見ることで惑わされています。
私の行為は、何であれ、ただ医者と帰依者たちを満足させるためのものです。
実際のところ、私に病気の気配はいっさいありません。
私はいつも健康です。
今日だけに限らず、96才になるまで、私は健康であり続けるでしょう。
私は、自分で望むどんなことでもできます。
しかし、この肉体だけを見る人々は、スワミは老化していると考えます。
若さや老いは身体に関連することであり、「私」には関係ないことです。
私はいつでも変わりません。
私は何でもすることができます。
しかし、この身体は皆さんのものです。
この身体は皆さんのためにやって来たのです。
皆さんは、私の身体を好きなように変えることができます。
皆さんが、スワミは強く健康だ、と思うなら、そのように「彼」はなるのです。
私に何ら弱さは存在しません。5/10/03
ヨシオ:ババは、96歳になる数年前までに、肉体を脱ぎ捨てるって決めておられたんや。その後、96歳まで霊体を肉体化して仕事をされるんや。昨日の記事でも言ったように、神の化身としての最後の数年を、肉体が持っている霊力の許容量に縛られず、霊力を無限に使える様にする為なんや。というのも、人類史上最大の神の奇跡をされようとされているから。だから、神の道具である肉体を脱ぎ捨てるに当たり、その肉体を帰依者の為に最大限有効に使おうと決心されていたんや。だから、この身体をいつでも犠牲にする覚悟は出来ています、と言われたんや。
ポニョ:神の愛ってすごいよな。御自分の身体を帰依者のために犠牲に出来るって。そんな大きな愛を持っておられるんやから、ちょっとだけ、お裾分けしてもらおうかな?
ヨシオ:神さんに愛してるよって、言ってもらえるにはどうすればええんやろうな。
世俗的な愛は彼の執着する心の反映でしかないために、月日が経つに連れてだんだん冷めてくるものなのです。
しかし神の愛は、絶えることなく不変です。
それは、永遠にして神聖、無私のもですが、誰でもこれを理解できるというわけではありません。
人は自分達の欲望が満たされなければ、この愛を誤解し、神を非難さえします。17/7/97
愛に満ちたヴィジョンを持つ人は、全宇宙に絶対実在(ブラフママヤム)が浸透しているのを見ます。
肉眼で世界を見るならば生まれてから死ぬまで世界は惨めの束と見えます。
神への愛は、惨めさから逃れる唯一の道です。
神への愛が無い人は、少なくともこの瞬間から神への愛を培いなさい。4/4/92
欲望とむさぼりを戒め、いつも満ち足りていて、神の愛を受け取ることが出来るように努める。ただ神様を愛しているだけでは足りません。
どうすれば神様から愛されるか。
どうすれば神の恵みを得られるか。
どうすれば神の愛をじかに得られるか。
それを良く理解せねばなりません。
神は自分のものだと言って泣いたり叫んだりしても何もなりません。
おまえは私のものだと言ってもらうように願うべきです。SGc23
ポニョ:過去4回に分けて、ババが霊体、微細体で仕事をされる話をしたけれど、何か言い足りなかった事があるか?
ヨシオ:そういや、もう少し幾つか紹介したかったエピソードがあるな。あれは確か、ババがもう御自分で歩けなくなってずっと車椅子の生活をされておられた時のことや。知り合いのアフリカ生まれで、オーストラリアに住んでいるインド人の帰依者が、ババに会いに行って帰っ来た後、俺のところに遊びに来たんや。この前紹介した、ムッデナハリのスーダンから来たアフリカ人と違うで。
ポニョ:あのね、ボケんとってくれますか?その人の名前はマドゥスーダンというインド生まれのインド人やてずっと言ってるやろ。
ヨシオ:あゝそうやったんや。
ポニョ:まだ、ボケてるやないの。
ヨシオ:それで俺は、俺たちの共通のお父さんである、ババさんは如何お過ごしだったですか?と聞いたんや。すると、意外な答えが返って来て、俺はとても驚いたんや。その人はこう言ったんや。朝早く起きてダルシャンに出ても、ババは時々出て来られない時があったんです。まだ、それは許させるとしても、ババが車に乗ったままダルシャンをされるんです。しかも、スモークガラスの窓を開けずにされるもんだから、車に乗っておられるはずのババのお姿は見えないんです。ドアに付いているパワーウインドウスイッチを押せば簡単に窓ガラスを下げれるのに、それさえもされなかったんですよ。ババに対して本当に失望しましたし、怒りの気持ちも湧いてきました。だってこちらは、大金を払い、会社に頼み込んでやっと一週間休みを取り、遠路はるばるやって来たのに、なんていう事でしょう。愛の神様だったら、もうちょっと私たち帰依者へ配慮して下さっても良いと思いませんか?それとも、パワーウインドウのスイッチの使い方を知らなかったんでしょうかね。もう、金輪際ババの所には行きたくないですね。今はババに対して怒りの気持ちしか無いです、と言ったんや。
自分は立派な帰依者だと主張する多くの人が、いつかは離脱していきます。
彼らは実は本当の帰依者ではなかったと、いうのが真実です。
すべては見せかけです。
帰依心というものは消え失せるものではなく、帰依する心の無いところに帰依心は生じません。これはつまり、最初から帰依心は無かったということを意味します。
「スワミは私たちのすべてです」と言って、よく自分の帰依心を公言していた人は、実際には帰依心などまったく持っていなかったのです。
それはまったく上辺だけだったのです。
本当の帰依者は決してスワミから離れません。
離れる人は決して真の帰依者ではありません。
この点に関して、帰依心の真の性質は誰にも理解できない、ということを認識しなければなりません。
(詩) 死の遣いが待っている。親類縁者が皆、泣いている。その最期の瞬間に、神の御名を心に浮かべ ることができようか?生涯を通じて神に帰依してこなかったなら。 神は揺らぐことのない、固い帰依心にのみ動かされるのだ。
人生の早い時期からひたむきな帰依心があったときにのみ、帰依心はしっかりと、変わらずにあり続けます。
利己的で、自己中心的な人の帰依心はぐらつきます。
神への完全な愛を伴う帰依心は決して変わりません。
それは揺らぐことのない帰依心です。
それほどの神への切なる思いがあれば、ハートは溶けます。
神はそのような固い帰依心に動かされます。
これが、万人が抱くべき帰依の心です。6/10/92
ポニョ:それって、ひどいよな。自分の思い通りにならないと神をすぐ非難する人って最低やぜよ。でも、めちゃ正直な人やぜよ。普通、もしそんな風に思っていても、口に出して言う人って少ないよな。それで、あんたはどう言い返したんや。
ヨシオ:その人は、俺が二十年間もババの所に行っていないので、俺も自分と同じように思っているのに違いないと、思い込んでいたんや。思い込みが激しいところは、ポニョと似てたな。そういや、その人の血液型もO型やったな。
ポニョ:なんでそこにおいらが出て来るんやぜよ。そんな人と一緒にせんとってんか。
人は問題が生じると神を非難し、自分は神に帰依しているのに平安が得られないと不平を言います。
彼は帰依の概念を誤って解釈しています。
真に神に帰依しているならば,何事が起きようとも悩むべきではありません。
自分と神は別々という感覚を捨てなさい。
分離感がある限り神を認識することは出来ません。27/5/92
ヨシオ:それで、その人は、俺にどうしてババの所に行くのをやめたのか聞いて来たんや。多分似たような理由やと思ったんやろな。それで俺は、ババのところに行った最後の旅で、ババが俺に、お前はどうしてこんな小さな肉体を見に、わざわざ来るのですか?もうお前は、私と心の中で深く繋がっているでしょう。私の声が聞こえるでしょう。こんなにたくさんお金を使って、遠い所まで来なくても良い。お前がいる所で、私の仕事をしなさい。お前にはもう仕事を授けただろう。と言われたからや。と言おうとしたんやけれど、その人の霊的なレベルにそぐわない返事をしても、反感を食らうだけやから、笑って誤魔化したんや。
ポニョ:でも、その人はあんたが笑って誤魔化したぐらいで納得しないやろ。
ヨシオ:結構気が強い人やからな。それでしつこく聞いて来たので、俺は、多分気を悪くするだろうとと思ったけれど、こういう人にはハッキリと言った方が良いと思い直したので、俺の意識レベルを、その人の霊的レベルに合わせて、こう説明をしたんや。『神様はババという肉体を使って、インドでお仕事をされている。そのババという名が付いている肉体は、たくさんの帰依者やサイの学生たちの面倒を見るのに忙しい。俺は、たった一つしか無い神様の道具であるババの身体を煩わしたく無い。それに、神様は、そのババという名の肉体を使って、もう充分俺たちの家族を祝福してくれたし、何度もインドに行かなくても良いのだ。本当のババは、君の心の中に四六時中いて、君の事を、君の両親よりも何千倍も強い愛で、愛して下さっている。インドにいる神様の道具であるババより、君の心の中にいるババを見なさい。彼を無視してはいけない。もっと、君の事をいつも思って愛してくれている、心の中におられるババを大事にしてあげなさい。プッタパルティにおられるのは、神様が道具として使っておられる肉体に過ぎない。その道具であるババの肉体は、もう若くは無いので、昔のようにアクティブではない。そのババの肉体から、祝福をもらって自分の欲望を満たそうとするより、そのババという肉体を使っておられる神さんが、君の中にもおられる。その神さんは、君に祝福を授け恩寵を授けようとずっと辛抱強く待っておられる。君が振り向いてくれるのをじっと見つめて待っておられる。君が話しかけてくれないかといつも耳を傾けてくれておられる。これ程、君の事を思っていてくれているのに、君はババの事をずっと無視して、その神さんの道具である、肉体のババの注意を引けなかったって嘆いている自分を、鏡に映して見てごらん。そこには、二元の世界に騙されて、その世界にドップリと浸かりきり、口をとんがらして文句を言っているアホが映っているでしょう。もう少し賢くなりなさい。』と言ってやったんや。
ポニョ:あんたは言い出したら口が悪いから、そんな事を言ったらその人は怒って帰ってしまったやろ。
ヨシオ:いや、今までババの帰依者を長い間やって来たけれど、そんなふうにババの事を考えた事は無かった。そうか、プッタパルティにおられる肉体のババは、神様が使っておられるババという名の道具なんや。そう思ったら腹が立たなくなった。何て言ってたな。
ポニョ:性格があっさりしているところは、おいらと似ているぜよ。でも、あんたはすぐにその人の霊的レベルに合わせて話しが出来るんやな。
ヨシオ:俺のところに、三年間に渡って毎日、たくさんの人が話を聞きに来たことがあるんや。その時に、来た人の霊的レベルに合わせて話をしないと、時間やエネルギーの無駄になるって分かったんで、そういう事に気を付けて話す癖が付いたんや。
ポニョ:全部で三千人も来たって言ってたよな。いろんな人たちが来たやろ。
ヨシオ:そういや、作家の娘が、今、その人たちの事を本にしてるって言ってたな。
ポニョ:プッタパルティにいるダルシャンを与えている肉体は、神様の道具か。その神さんが肉体を取っておられる。ややこしいけれど面白い発想やぜよ。確かにそうやもんな。
ヨシオ:俺はババに、あなたがこの俺の肉体を使って、西オーストラリアで仕事をされているんでしょう?と聞いた事がある。このようにババと話す時には、常に肉体と自分を一緒くたにしてはいけないんや。ところで、もし俺たちがババのように神の化身で、霊体で仕事をするために肉体を脱ぎ捨てるって決めていたら、ポニョだったらどうする?
ポニョ:どうするって、おいらが神の化身で肉体を脱ぎ捨てるんやろ。どうするかな?考えた事が無いぜよ。
ヨシオ:ババは、この事に関して実は、何度も御講話の中でヒントを与えておられるんや。
ポニョ:ヘェ~そうなんや。気が付かなかったけれどな。
ヨシオ:ババは、私は帰依者のために、いつでもこの身体を犠牲にしても良い覚悟でいますって、何度も講話の中で言っておられるんや。
ポニョ:ババは医者たちに、この身体はあなた達のものです。手術をしたり何でも好きなようにしなさいって言われたことがあるよな。
あなたと私の間に何の違いもありません。
私は自らの中にすべての力を具有しています。
しかし、あなたは私の身体としての姿を見ることで惑わされています。
私の行為は、何であれ、ただ医者と帰依者たちを満足させるためのものです。
実際のところ、私に病気の気配はいっさいありません。
私はいつも健康です。
今日だけに限らず、96才になるまで、私は健康であり続けるでしょう。
私は、自分で望むどんなことでもできます。
しかし、この肉体だけを見る人々は、スワミは老化していると考えます。
若さや老いは身体に関連することであり、「私」には関係ないことです。
私はいつでも変わりません。
私は何でもすることができます。
しかし、この身体は皆さんのものです。
この身体は皆さんのためにやって来たのです。
皆さんは、私の身体を好きなように変えることができます。
皆さんが、スワミは強く健康だ、と思うなら、そのように「彼」はなるのです。
私に何ら弱さは存在しません。5/10/03
ヨシオ:ババは、96歳になる数年前までに、肉体を脱ぎ捨てるって決めておられたんや。その後、96歳まで霊体を肉体化して仕事をされるんや。昨日の記事でも言ったように、神の化身としての最後の数年を、肉体が持っている霊力の許容量に縛られず、霊力を無限に使える様にする為なんや。というのも、人類史上最大の神の奇跡をされようとされているから。だから、神の道具である肉体を脱ぎ捨てるに当たり、その肉体を帰依者の為に最大限有効に使おうと決心されていたんや。だから、この身体をいつでも犠牲にする覚悟は出来ています、と言われたんや。
ポニョ:神の愛ってすごいよな。御自分の身体を帰依者のために犠牲に出来るって。そんな大きな愛を持っておられるんやから、ちょっとだけ、お裾分けしてもらおうかな?
ヨシオ:神さんに愛してるよって、言ってもらえるにはどうすればええんやろうな。
世俗的な愛は彼の執着する心の反映でしかないために、月日が経つに連れてだんだん冷めてくるものなのです。
しかし神の愛は、絶えることなく不変です。
それは、永遠にして神聖、無私のもですが、誰でもこれを理解できるというわけではありません。
人は自分達の欲望が満たされなければ、この愛を誤解し、神を非難さえします。17/7/97
愛に満ちたヴィジョンを持つ人は、全宇宙に絶対実在(ブラフママヤム)が浸透しているのを見ます。
肉眼で世界を見るならば生まれてから死ぬまで世界は惨めの束と見えます。
神への愛は、惨めさから逃れる唯一の道です。
神への愛が無い人は、少なくともこの瞬間から神への愛を培いなさい。4/4/92
欲望とむさぼりを戒め、いつも満ち足りていて、神の愛を受け取ることが出来るように努める。ただ神様を愛しているだけでは足りません。
どうすれば神様から愛されるか。
どうすれば神の恵みを得られるか。
どうすれば神の愛をじかに得られるか。
それを良く理解せねばなりません。
神は自分のものだと言って泣いたり叫んだりしても何もなりません。
おまえは私のものだと言ってもらうように願うべきです。SGc23