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正義の味方のラーマやな【13】

2015-11-30 00:00:29 | 日記

ヨシオ:今日で1996年に学生さん達に向けて講話されたラーマヤーナのシリーズを終わります。翻訳された宇野様どうもありがとうございました。この後、それからのラーマとシータのお話をRama Katha Rasa Vahini『ラーマ王子ものがたり』というババの本から紹介していきたいと思います。

ポニョ:あのね、話の腰を折るようで悪いけれど、あんたの翻訳は関西弁が混じるからラーマとミスマッチなんや。

ヨシオ:ポニョが翻訳した時も一緒やないか。それでは今日の記事に入る前にババがこのラーマヤーナの講話のシリーズを始められる前に、ラーマヤーナの著者の事などについて述べれていますので、連載している内容から少し離れますがここで紹介したいと思います。

「ラーマーヤナ」とは、人類の理想、ラーマの物語であると言われてきました。ほんとうはラー マの示した理想を実践すれば、誰でもラーマその人と言えるのです。だからラーマの示した理想 を求めることが、すべての人にとってきわめて大切な務めです。「ラーマーヤナ」は、個人、家 族、そして社会のダルマ〔なすべき務め〕の結晶としてうやまわれています。
ラーマの物語がはじめて書かれてから幾千年もの時が流れたのですが、「ラーマーヤナ」の、 こころの内なる物語は、わたしたちの人生のあらゆる瞬間で演じられています。

「ラーマーヤナ」 は、ラーマだけのお話ではありません。「ラーマ」という言葉は、〔妻の〕シーターのことをも指 しています。ラーマとは〔この世界のすべてを意味するのだから〕、大地の娘、すなわちシータ ーという意味でもあります。大地は自然(プラクリティ)の一部なのですから、この大地に生ま れたすべての子供たちは、シーターの備えていた徳を養うことが必要なのです。ヴァールミーキ 〔この叙事詩を記録した最初の詩人〕は、「ラーマーヤナ」のはじめのところでは、ラーマを理 想の人間としてよいか迷いがあったのですが、書き進めていくうちに、ラーマこそは神その人で あると思わざるを得なくなってきて、やがてこの叙事詩の終わりに、ラーマこそは神の化身であ ると結論しました。それに対して、トゥルシーダース〔一六~一七世紀の北インドの詩人。『ラ ーマ・チャリット・マーナス』という叙事詩を残した〕ははじめからラーマこそまさしくナーラ ーヤナ〔最高神ヴィシュヌ〕その人であるという信念をもってその「ラーマーヤナ」を書きはじ め、ラーマは理想の人であると深く信じ、それを結論としました。「カンバ・ラーマーヤナ」〔十 二世紀にタミル語で書かれた「ラーマーヤナ」〕の作者、カンバンは、人は神であり、神は人で ある(ナラはナーラーヤナであり、ナーラーヤナはナラである)という気持ちに強く動かされて、 その「ラーマーヤナ」を書きました。三人の偉大な書き手は、それぞれの「ラーマーヤナ」にお いて、自分たちの受け取り方に応じて、それぞれに違った意義を見ています。それぞれの作者は、 それぞれに違った「ラーマーヤナ」を描き、それぞれの信仰と考え方に見合ったラーマ像を示し ています。まことにラーマの原理(ラーマ・タットヴァ)は、あらゆる人によって発展せられる べきものです。

◇バラタの最高の帰依

ここで考えるべきことはふたつあります。バラタはラーマに帰依する人として、たいへんすぐ れた人でした。ラクシュマナはラーマにとって頼りになる、忠実な召使いでした。ラクシュマナ はその気持ちを、身をもってあらわそうと思っていました。バラタはどんな姿ももたない神を見 ていました。ラクシュマナはラーマとシーターの身にいかなる障〈さわ〉りもないように、一度 たりとも目を離すことなく、まめまめしくお世話をしていました。十四年の間、眠るということ がどんなことなのかも知らないほどでした。ラクシュマナのように見事に私欲を捨てた生き方は、 神さまの形ある相〈すがた〉をうやまう人のものです。それに対してバラタの生き方は、形のな い神をうやまう人のものであり、あえてアヨーディヤーから離れて暮らしていたのです。バラタ はナンディグラーマNandigramaに小さな庵〈いおり〉を建て、そこでいつもラーマの名を唱えて いました。ラクシュマナがラーマのために身を捨てて仕〈つか〉えていたのに対して、バラタは 心のすべてをラーマに定めていたのです。これがこのふたりの違いです。ラクシュマナはこう祈 っていました。 「私はラーマさまの思いのままにお使いいただく召使いです。それを除いて私の人生はありませ ん。私はラーマさまの六つめの生命〈いのち〉の呼吸(プラーナPraana)となります。

それに対してバラタはこう祈っていました。 「私の身体などありません。私は完全にラーマさまの中にいるのです」
そう思いながら、いつも神の名を唱えていたのです。これは、 「神を思え。そうすれば神になるであろう(ブラフマヴィット・ブラフマイヴァ・バヴァティ Brahmavit Brahmaiva Bhavati)」
と言われるものです。十四年の間いつもラーマを思っているうちに、バラタもまたラーマと同 じように顔が深く蒼〈あお〉みがかってきたのです。
バラタは馬車に乗って、サラユー川の岸辺に行きました。そこでラーマとシーターとラクシュ マナを迎え、馬車に乗せて、アヨーディヤーの街まで進んでいきました。アヨーディヤーの人々 は驚きの目でふたりを見ていました。 「どちらがラーマさまでどちらがバラタさまなのだろう」
ふたりともラーマに見えたのです。どちらも苦行者の身なりをし、髪の毛はちりちりで、顔色 も同じようです。ラーマを歓迎するために来ていた国の人々は呆然と立ちつくしていました。み んな、この人がラーマだと思って、花輪をかけようとバラタに近づきました。バラタは人々のと まどいを察し、ラーマの方を花輪で飾るように身振りで示しました。そこではじめて人々は、ど ちらがラーマでどちらがバラタかわかったのです。バラタも他のふたりの兄弟も、神の化身のさまざまな相〈すがた〉でありました。

アヨーディヤーに着くと、兄弟らは沐浴をしました。聖者ヴァシシュタやヴァーマデーヴァ Vamadevaたちは、さまざまな穀物や宝石をたずさえてきました。みんなはそれを受け取り、飾 り物としました。奇跡がおこったのはこの時です。猿どもがことごとく人間に変わり、馬や象や ラクダに乗って都にやってきたのです。猿〈ヴァーナラ〉とは何でしょう。人間〈ナラ〉とは何 でしょう。知性のある者が人間〈ナラ〉、愚かさのある者が猿〈ヴァーナラ〉です。猿〈ヴァー ナラ〉とは、落ちつきのない者です。人間〈ナラ〉には、静かな落ちつきという徳性があるので す。
即位の式がおこなわれました。あふれるほどの施しがなされました。ラーマは何十億枚という 金貨をブラーミン〔バラモン僧〕に配りました。何千万枚どころではなく何十億枚もの金貨です。 何万頭という牛が施しとしてふるまわれました。バラタの喜びは、とめどもないほどでした。こ う思っていました。 「財産を貯めるのは、いったい誰のためだろう。ラーマさまのご帰還こそが、私にとってのさい わいだ。これに勝るものはない。財産のすべてを施しに使ってしまえばよろしい」
そう思い、夢中になって、人々のためにさまざまな品の施しをしていました。

◇ハヌマーン、最高の帰依の者

広間の片側にはあらゆる領地の王と、同盟をむすんだ国ぐにの王が座り、反対の側には大臣が そろって座っていました。聖者や出家僧はまた別の場所に座していました。人をうやまうラーマ の姿勢は、申し分のないものでした。聖者に対しては奥ゆかしさを示し、かしこみて頭を下げま した。諸国の王を見てやさしく微笑みかけました。それがこの人々への贈り物だったのです。そ れから国の人々を見て、両の掌〈たなごころ〉を上げて祝福しました。女性の方も見て、軽くう なずきました。そうやって、さまざまに異なったやり方で敬意をあらわしたのです。
その日に、ラーマはシーターに、見事な真珠の首飾りを手渡しました。この上なく価値の高い ものです。ラーマは言いました。 「誰でもおまえの好〈この〉む者にこの首飾りを与えるといい。おまえがわたしを好むというの はわかっている。だが、いまこの場にいる誰でもいいから、おまえの好む者に与えてもらいたい」
シーターはその首飾りを、ラーマの御足に触れていたハヌマーンに与えました。こうしてこの 戦士をたたえたのです。

「ラーマさまに帰依する者としてあなたの右に出る者はいません。ラーマさまの命令をすべて忠 実にはたしました。私を探すために力をつくしてくれました」
シーターはそう言ってハヌマーンをたたえました。けれどもハヌマーンはその言葉を少しも聞 いておりません。それどころか首飾りからひとつひとつ真珠をもぎとって耳もとに持っていき、 歯で咬んでは放り投げるのに夢中になっています。それを見たラーマはハヌマーンに、まだ昔の癖が残っているか、と聞きました。ハヌマーンは応えました。 「とんでもございませぬ、ラーマさま。このハヌマーンは、いつもラーマさまをお慕〈した〉い する気持ちに満ちております。口ではラーマさまの御名を唱え、耳ではラーマさまの御名を聞い ておりまする。神を信じる九つの道で、それがしにとってこれに勝るものはございません。され ばこそ、あなたさまの召使いにさせていただいたのです。神を信じる九つの道とは、
神の話を聞く(シュラヴァナSravana) 神の栄光を歌う(キールタナKeertana) 神を瞑想する(ヴィシュヌスマラナVishnusmarana) 神の御足に触れる(パダセーヴァナPadasevana) 神をうやまう(ヴァンダナVandana) 神をあがめる(アルチャナArchana) 神のしもべとなる(ダースヤDasya) 神の恋人になる(スネーハSneha) 神にみずからをゆだねる(アートマニヴェーダナAtmanivedana)
でございます。あなたさまの召使いになることで、それがしはあなたさまに親しむ者となりま した。召使いになれなければ、親しい友にもなれませぬ。まずは親しい友となり、しかるのちに、 あなたさまにみずからを捧げることができたのです。それがし、ラーマさまの御名の他に何も聞 くことを望みませぬ。それゆえ、この真珠のひと粒ひと粒にラーマさまの御名が鳴り響いている か、必死の思いで聞いておりました」

ラーマは、ハヌマーンの偉大なる帰依のこころを世界に知らしめるために、こう言いました。 「ハヌマーンよ、出すぎた奴め。真珠にラーマの名が鳴り響くことがあろうか」
ハヌマーンは応えました。 「たとえひと粒の真珠の中にさえ、あなたさまの御名がひそんでおります。あなたさまの名がな いならば、それがしにとっては真珠も石ころと同じもの。だから投げて捨てたのです。おお、シ ュリー・ラーマ。このハヌマーンの身体のすべてに、あなたさまの御名が響きわたっております よ」
そこでハヌマーンは、自分の腕から毛を一本引き抜いて、ラーマの耳もとに近づけました。す るとその一本の毛さえも
「ラーマ、ラーマ......」
と唱えておりました。これが、ハヌマーンの偉大な帰依のこころです。だからこそ、これほど までにラーマからよく信ぜられ、親しい友となることができたのです。他の人ならラーマから離 れることもあるでしょう。しかしハヌマーンは決してラーマから離れることはありませんでした。
ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナ、そしてシータでさえ、時にはラーマといくらか離れるこ ともありました。けれどもハヌマーンは、ほんの片時もラーマから離れることはなかったのです。 なぜでしょうか。いつもラーマの名を唱え、いつもラーマに仕えたことが、ハヌマーンを信じが たいほどの高みに引き上げたのです。ハヌマーンは、心と、身体と、たましいをつくして、いつ もラーマに仕えていました。
ラーマはハヌマーンにたいへん満足しました。王座から立ち上がり、こう言いました。 「ハヌマーンよ。おまえにどんな恵みを与えてやればいいだろう。おまえにふさわしい贈り物は どこにもない。だからわたしそのものを、おまえに与えよう」
そう言って、ラーマはハヌマーンを抱きしめました。

ハヌマーンはこの恵みによって至上の悦 びに我を忘れました。この境地は、 「神と自分とのへだたりのない至上の境地(ニルヴィカルパ・サマーディNirvikalpa Samadhi)」
と呼ばれます。この至上の境地(サマーディSamadhi)はどういうものでしょう。
ある対象に十二秒の間完全に心を定めれば、それは「集中(ダーラナーDharana)」〔意識をひ とつに保つこと〕と呼ばれます。 「集中(ダーラナーDharana)」が十二あればひとつの「瞑想(ディヤーナDhyana)」となります。 「瞑想(ディヤーナDhyana)」が十二あれば、ひとつの「至上の境地(サマーディ)」となりま す。
これが、 「集中(ダーラナーDharana)」 「瞑想(ディヤーナDhyana)」 「至上の境地(サマーディ)」
という三つの境地の関係です。ハヌマーンはこの、至上の境地(サマーディ)にただちに入っ たものでした。 「ラーマーヤナ」は、ハヌマーンのすさまじいほどの大きな帰依のこころを全世界に伝える聖典 なのです。

アヨーディヤーはシュリー・ラーマの即位の式でわきたっていました。どの人の顔も喜びの表 情であふれていました。イクシュヴァーク一族Ikshwaku の初代の王マヌManuがいただいていた 王冠が、いまラーマの頭上に置かれようとしています。アヨーディヤーの高僧であるヴァシシュ タVasista、やヴァーマデーヴァVamadeva、ジャバーリJabaliは、この神聖な王冠がラーマの頭上 にいただかれる日を、長い間待ちこがれていました。諸国の王、総督、副官など、たくさんの人 がアーリヤーヴァルタAryavarta〔インドにおけるヴィンディヤー山脈よりも北の部分〕の各地か ら都へと集まっていました。大きな板が正門の上にかかげられました。そこにはこんな言葉があ りました。
「真理(サティア)と正義(ダルマ)に生きる者は、死の恐怖からまぬがれる」 ラーマ王は、真理と正義を広める仕事にその身を捧げました。この王の統治のもとでは、偉い 人もそうでない人も、老いも若きも、男も女も、さとりを得た人も至らざる人も、誰もが真理と正義とともにありました。
「王そのままに、臣下〈しんか〉もふるまう (ヤター・ラジャー・タター・プラジャーyatha raja tatha praja)」のです。

王と同じように大臣もふるまっていました。大臣と同じように役人もふるまっていま した。そして役人と同じように国の人々もふるまっていたのです。三人の弟――バラタ、ラクシ ュマナ、シャトルグナ――は、王国のすみずみまで、ダルマがおこなわれるよう心をくだいてい ました。ダルマにそむく者については、いつも王に報告がなされていました。
ラーマの統治(ラーマ・ラージヤRama Rajya)は、真理と正義の統治と呼ばれていました。人々 は病気で苦しむことがなく、子供は幼くして死ぬことがなく、妻は夫と死に別れてつらい思いを することがありませんでした。雨はほどよい時期に降り、人々は豊かに栄えていました。
ラーマ の統治(ラーマ・ラージヤRama Rajya)は、平和と調和と豊かさに色どられていました。ラーマ の統治にあっては、ラーマのような君主、ヴァシシュタやヴァーマデーヴァVamadevaのような聖人、バラタやラクシュマナやシャトルグナのように助けを惜しまぬ人々が必ずあらわれるので す。

◇感謝の価値

ラーマの王国の人々は、いつも感謝の気持ちに満ちていました。何かよいことをして、感謝を されないことはありませんでした。ラーマ自身も即位の式の日には、自分を助けてくれた人々に 深い感謝をあらわしました。
ラーマは誰よりもまず、偉大なる猿〈ヴァーナラ〉の英雄ハヌマーンへの感謝の気持ちをあら わしました。ハヌマーンは、シーターの居場所を探し、はかり知れないほどの働きをしてくれま した。
次に、鳥のジャターユスに深い感謝と恩義をあらわしました。ジャターユスはシーターを救う ために自分の命を捨てたのです。
次に、猿〈ヴァーナラ〉の王スグリーヴァに感謝しました。スグリーヴァはシーターを探すと きにも、魔王ラーヴァナとの戦いにおいても、ラーマのために自分の兵を出し、王みずからも働 いてくれました。
次に、ラーマはヴィビーシャナに感謝しました。魔物どもによって次々とくり出されるあやか しを切り抜けてラーマを助け、偉大な働きをしたのはヴィビーシャナでした。
猿〈ヴァーナラ〉はよその国の者です。もともとはラーマやシーターとは何のかかわりもなか ったのです。それなのに戦争では進んで自分たちの命を犠牲にして戦ってくれました。ラーマは、 猿〈ヴァーナラ〉のみんなにも感謝の気持ちをあらわすことを忘れませんでした。
そうやって、いくさで自分に力を貸してくれたすべてのものに、ラーマはこころからの感謝の 気持ちをあらわしたのです。
ここに「ラーマーヤナ」の大切な教えがあります。人は一生を通じて、恩を受けた人に感謝を しなければなりません。感謝をあらわせる人にだけ、人と呼ばれる資格があります。感謝を知ら ない人は、魔物と同じです。魔物と人は、姿かたちは何も違いません。何をしているかによって 違いが決まるのです。悪いこころをもち、悪いことをするのが魔物です。親切にされても少しも 気にかけず、人を傷つけることに夢中になっている邪悪な者、それが魔物です。いつわりがいの ちの呼吸と思っている愚か者が魔物です。今の世界では、人々はいつわりが大切と思い、どうに もならないほど悪いことをしています。しかしわたしたちのヴェーダはこう言っています。 「真理を語り、正義をおこなえ(サッチャム・ヴァダ・ダルマム・チャラSathyam Vada Dharmam Chara.)」
ところが今の世界では、普段の会話の中で真理や正義という言葉を、絶えて聞くことはありま せん。

◇悦びのみなもと

ラーマと離ればなれになって、アーショカの樹の庭でとらわれの身でいたときに、シーターは とてもつらく感じていました。魔王ラーヴァナは、庭をきらびやかに飾り立てました。美しく飾 った庭を見せれば、シーターがよろめくであろうという、愚かな望みがあったのです。シーター はなびきはしませんでした。そんな価値のない、はかない美しさに惹かれることはありません。 ところが小さな猿が木の枝に座ってラーマの栄光を歌ったとき、シーターはそれを大きな悦びと ともに聞いたのです。
ラーマ、ラーマ、ラーマ、シーター。
太陽の一族に生まれ、シーターの愛を勝ち取って 聖者(リシRishi)の呪いからアハリヤーAhalyaを解き放ち※、帰依する者に祝福を与える 者は、
ラーマ、ラーマの神。
ラーマ、ラーマ、ラーマ、シーター。

シーターは、いったい誰が魔物(ラークシャサRakshasa)の国で、神の栄光など歌っているの か、どうしても知りたくなりました。顔を上げてあたりを見渡しました。そんなところで猿を見 て、うれしいと思うでしょうか。猿は美しく見えるでしょうか。決して見てくれのいいものでは ありません。ところがそのときのシーターには、猿は何よりも美しく見えました。美しさは、そ こで歌われていたラーマの名にありました。愛する人の名前を聞いて、シーターはたとえようも ない悦びを感じました。だからこそ、「美は悦び」と言われるのです。悦びは人生を豊かにしま す。悦びのない美など、何の役にも立ちません。「ラーマーヤナ」はこのように、美と悦びの大 切さを教えてくれるのです。
シーターとラーマはどうすれば悦んだのでしょう。国の人々の幸せこそが、ふたりにとっての大きな悦びでした。人々が真理と正義を実践すれば、シーターとラーマは悦んだのです。ふたりは人々に、他の何ものも求めませんでした。いつも人々に多くのものを与え、大きな愛のこころ で人々の面倒を見ていました。それははるか昔から、すべての神の化身(アヴァターラAvatar) の徳性であったのです。


肉体意識はエゴの元

2015-11-29 00:00:09 | 日記
人間の肉体は、人生のどこかの時点で必ず病気に悩まされ、苦しむものです。
人はそのことに関して過度に心配すべきではありません。
実際、肉体は様々な困難を通して生まれ、成長します。
肉体は困難の数々をまぬがれませんが、それらを気にするべきではありません。人間の肉体にとって困難と苦痛は自然なことです。
アートマにとって歓喜は自然なことです。
肉体の性質にではなく、アートマの性質に従いなさい。
肉体意識を放棄しなさい。体は汚物の巣窟(そうくつ) であり、病気に冒されやすい。
体は時として変化を被る。
体は輪廻(サムサーラ)の海を渡れない。
「おお、心よ! 体が永遠のものであるという幻想を抱いてはならない。そうする代わりに、聖なる蓮華の御足に庇護を求めよ。」
なぜ、このような束の間の肉体について思い煩うのですか?
そうする代わりに、神を想いなさい。
肉体の苦痛は、流れ行く雲のように来ては去っていきます。
それが人間の体(プラブリッティ、外界)の性質なのです。
アートマ(ニブリッティ、内界)の性質は、人生の二元性を平等に扱います。
肉体の不調は来ては去ります。2/4/2003

ポニョ:前回はおいらの温泉旅行の話が、肉体や霊体を浄化する話で終わったけれど、霊体って食べ物からも大きな影響を受けるよな。

ヨシオ:そういう事をこのブログで何度も発信して来たよな。特に肉食をするとその動物の霊体を自分の霊体の中に取り込んでしまうって何度も言ったよな。

ポニョ:霊体っていろんな波動があるけれど、動物に近づけば近づくほど波動が荒くなるし、その食べた動物の種類によっても受ける影響が変わって来るって言ってたよな。

ヨシオ:人は食べ物のカロリーとか栄養素とかだけにしか注意を払わないけれど、それは肉体を自分だと思い込んでいるからなんや。その肉体の中に霊体があってその中にまた、アートマがあるってそのアートマが本当の自分だという事を悟る努力をしないと、人生を無駄に生きてしまう事になるんや。

ポニョ:自分が肉体だと思い込むのは普通やもんな。化粧をしたりシワ取りクリームを塗りたくったり、アンチエイジングのサップリメントを摂ったりしてたくさん、肉体のためにお金を使うやろ。

ヨシオ:前回も言ったけれど、人生においていろんな苦労や苦しみや悲しみに遭った時に、自分は肉体だと思い込んでいるから、そんな感情が湧いてくるんや。そうではなく、自分はアートマだという意識を常に持つように努力すれば、人生において何一つ困難に出くわさないんや。

ポニョ:つい先日、ツイッターでこんな事を呟いたら、たくさんの人がリツイートしてくれたんや。

@sai108ram: 他人の心無い言葉で傷つく人は、そのネガティブな言葉と同じネガティブな意識を自分の内に持っているので、それが自分の内から湧き上がって来て、自分自身を傷つけるのです。因みにポジティブな人は、同じネガティブな言葉をかけても、その人の内にそのような否定的な意識が無いので傷つきません。

ヨシオ:ふーん。ええ事を言うやないの。でも自分の中にあるネガティブな意識って何やねん。それは誰でも持っているものなんか?それとも人によって持っていたり持っていなかったりするものなんか?

ポニョ:人によって持っていたり持っていなかったりするものなんかって聞かれたらちょっと困るよな。

ヨシオ:何で困るんや?今まで言っている事やろ。つまり、ポニョが言うところのネガティブな意識って突き詰めて言えば肉体意識の事なんや。だって自分が限りある生しか与えられていない、いつかは滅びる肉体だと思う事自体が執着心やろ。それはエゴに繋がってくるわけやから、自分が肉体と思い込む事がネガティブな意識なんや。

ポニョ:おいらは何気なく思った事を呟いただけなんやけれど、そのように突き詰めて行けば、ネガティブな意識って肉体意識だっていう事がハッキリするよな。でもそのおいら達が持っている肉体って感覚を持っているやろ。それとネガティブな意識と関係あるんやろうか?

ヨシオ:それは大有りやな。まさに人は肉体意識と深く結びついている感覚をコントロール出来るかどうかによって、神へと向かう道を歩むのか、それとも獣的な道に戻っていくのかが決まるんや。

苦悩の原因を調べれば、すべて無知から来ていることに気づくでしょう。
それでは、無知の原因は何でしょう?
無知の原因はエゴです。
エゴとは何でしょう?
それは執着です。
それでは、執着とは何でしょうか?
執着とは肉体意識です。
このように苦しみは、人が自分を肉体と同一視する肉体意識が原因なのです。
一方で、人が自分で感覚をコントロール出来ているとき、肉体的にも精神的にも幸福でいることが出来ます。
苦しみは、祈ることと、霊性の道を歩むことによってのみ取り除くことが出来ます。
あなたが、自分の感覚の赴くままに行動するならば、感覚は日ごとに強くなり、最終的にあなたは感覚の奴隷となり人間とは呼ばれなくなります。STPS2p32

ポニョ:以前、心の話をした時に心が感覚をコントロールするのではなく、感覚の奴隷になって肉体の欲望の後を追いかけて行けば悪魔のように人は振舞うようになるって言ってたよな。

ヨシオ:ババは、馬を感覚器官に例えられて、心である御者が馬をコントロール出来なかったら馬車はどこに行くか分からなくなるので危険だと言われたやろ。自分の感覚器官を如何にコントロール出来かどうかが、一人ひとりが問われているんや。それが霊性修行が成功するかどうかの鍵なんや。

ポニョ:つまり自分が肉体だと思い込んでいるから、その肉体に執着し、肉体を通じて得られる物を自分の物だと思い込んで「私」「私のもの」という意識が湧き上がってくるっていうわけやな。それがおいらがツイッターで呟いたネガティブな意識なんや。そうか、こうして説明を聞くと自分で呟いた事が良く分かるよな。

人間が体験するあらゆる困難の根源は、人間が自分の霊的な実体を忘れて、自分を肉体と同一視していることです。
肉体はその中に宿る神霊の衣にすぎません。
肉体意識に浸ることによって、人間はエゴイズムと所有意識を募らせ、それが多くの悪い性質を生じさせているのです。
人間は生来備わっている神性さを忘れ、自分が授かっている感覚と器官を神の目的のために使い損なっています。25/11/88

ヨシオ:もし人が肉体意識から脱して自分が、肉体ではなくその中にある神霊アートマだという事を悟り始めればその人に大きな変化が訪れるんや。

ポニョ:超能力を得ることが出来るんやな。物品移動や空中浮揚テレパシーやマインドリーディング色々とあるよな。

ヨシオ:あのな、ポニョは動機が不純なんや。そんな超能力を得て何をしたいんや。他の人が出来ないことが出来るようになって、益々ポニョのお腹が膨らんで来るだけやないか。

ポニョ:なんでおいらのお腹が膨らむんやぜよ。それを言うならエゴが膨らむって言うんやぜよ。

ヨシオ:自分で分かってるやないか。俺が言いたかったのは、その人が自分は肉体ではない、アートマだったという事を悟り始めれば、全ての人の中に自分が見えるんや。全ては自分だと分かるんや。だからこの世にポニョのようにグロ襟に代表される悪魔のような者達がいる反面、神を信仰して善行を為すことをいつも心掛けている善男善女がいるけれど、実はそのどちらも全て神の現れであり、悪いように見えるだけで本当はもっと高い神の視点から見ると、そういう一見悪いように見えているものがあって、初めて善があり全ては神の一つの側面であるって事が悟れるようになるんや。つまり全ては何が起こってもそれは神の大きな計画の中の一場面であり、この世界は、結果オーライの世界なんや。

ポニョ:つまりおいら達は大きな仏様の手のひらの上で、はしゃいでいる孫悟空みたいなもんなんやな。

ヨシオ:あのポニョが大好きなグロ襟の連中でさえも、回り道をしているけれど、神へと続く道を俺らのように歩いている求道者なんや。ただ神さんから与えられた役割が違うだけなんや。

絶対的善は存在しますが、絶対的悪は存在しません。悪は変化するものであり、善の一つの側面を歪曲したものが悪なのです。しかし、普通、肉体意識にとらわれている人は、善と悪を一つと見なすことは出来ません。自分自身と他の人のうちに存在する神性意識を知った時に、私たちはじめて善と悪を同一視する事が出来るのです。
善のみが真実であり、目に見えるものがたとえ歪んでいても、本質的にはすべてが善であるという真理を、不断の態度としてあなたが培えば、非常な力を得ることができるでしょう。~全ての人は良い人なのですが、悪い行動が伴っているのです。作用と反作用の法則です。それゆえ、邪悪な事件の被害者に関していえば、すべては何の例外もなく起こるべくして起こるのです。CWSSBJp139

ポニョ:そうなんや。あまりいろんなニュースを見たり聞いたりしてもあまりカリカリ来ないようにしようかな。こういう話を聞くと世俗的な事に一喜一憂するのが馬鹿らしくなってくるよな。世界に色々と大変な事が起こっているけれど、全ては良い事なんや。おいら達は自分が出来る範囲で、困っている人たちの助けになるようにこの肉体を神様に使ってもらえばええよな。

ヨシオ:俺が朝一番ババにこんなお願いをするんや。「ババさんお早うさんです。今日もこうしてこの肉体が目覚めて一日を始めようとしています。どうか今日一日、あなたを常に身近に感じれますように、そしてこの肉体に奉仕の機会を与えて下さいね。」と。

外に神を探す代わりに、自分に内在する神を実感認識するよう努めなさい。自分の中で、自分は誰かを探しなさい。肉体意識は脇へ置いておきなさい。自分を体と同一視してはなりません。「私」と「あなた」という問題が起こるのは、自分を体と同一視しているときだけです。「私」と「あなた」が一つに融合すれば、一体性が生じます。
しかし、不幸なことに、現代の人々は利己的な「私」を忘れられずにいます。どこを見ても、「私」の原理〔アートマタットワ〕があるのみであり、それはすべてに存在しています。ひとたび、同一のアートマ〔真我〕がすべての人の体に偏在していることを実感認識すれば、「私」と「あなた」の違いは消え去ります。ところが、皆さんは体と同一視する事を手放すことができずにいます。生まれたときから自分を体と同一視することに慣れてしまっているのです。21/3/04
神をアートマの化身として崇めなさい。「彼」をアーカーラ(身体)だと見なしてはなりません。肉体意識を放棄してアートマの意識を育みなさい。霊的な生活を送るときにのみ、あなたはアートマの化身を思い描くことができるのです。皆さんが私をこの身体であると見なすなら、私はただの2歩すら歩むことはできません。身体だけを見てはなりません。私がアートマの化身であることを信じなさい。そのとき、私は常に健康でいるでしょう。5/10/03


正義の味方のラーマやな【12】

2015-11-28 00:00:23 | 日記

ポニョ:プシュパカっていう飛行機のような乗り物に乗ってみたいぜよ。本当に空を飛んだんやろうか?

ヨシオ:ババは本当に空を飛んだと言っておられたな。

ポニョ:反重力装置でも付いていたんやろうか?それとも翼があってジェット推進を出す物があったんやろか?

ヨシオ:ババはマントラを唱えれば飛ぶ事が出来たって言ってたな。以前パトリナートゥからやって来た苦行者がババに挑戦して、ババに丹田から霊力を吸い取られてしまった話をしたよな。そして、来た時はとても激性の性質やったのに、帰る時はさよならも言わずにおとなしく借りてきた猫みたいに帰って行ったやろ。その苦行者がやって来たパトリナートゥはヒマラヤの奥深い山の中にあって、その当時は神社に続く道も無かったんや。でも人々はマントラを唱えて、空を飛びながらその神社に拝殿しに行ったんや。その時代はラーマの時代よりずっと後やから、昔の人にとって、マントラを唱えれば空を飛べるって別に特別な事では無かったんや。

ポニョ:そう言えば、日本にも天の浮船と言って石をくりぬいた大きな船形の大石が貴船や益田に見つかっているけれど、それらも昔は空を飛んでいたんやろか?

確か日本書紀には櫛玉饒速日命は、天岩船に乗って天降られたと書いてあったように記憶しているけどな。世界中の聖者達がプシュパカのような空飛ぶ馬車か船か知らんけれど、あちこちと飛びまくっていたんやろな。ナスカ高原の地上絵も空から見て描いたんやろな。まあババから見たら、空を飛ぶってそんなに大した事は無いやろな。ババが近い将来、世界中の大空に現れて人々に畏敬の念をもたらすけれど、ババは「ああなんや。こんな事で驚いているのかい君達。」ってな感じやろな。

ヨシオ:ババが若い頃も、しょっちゅうテレポーションとか、ポニョが好きなワープとか物品移動とかやられていたから、その程度の奇跡はババに取ったらお茶の子さいさい、へそで湯を沸かすぐらいの感じやろな。

ポニョ:お茶の子さいさいでも良いから、早くそんな奇跡を見てびっくりしたいぜよ。というわけでまた、取り留めも無い事を相棒のせいで話してしまいましたが、今日のラーマのお話はシータが身の潔白を証明するお話です。これがまた納得いかんぜよ。

◇厳しい試練

けれども、ラーマはシーターの方を見ようともしません。ラーマは言いました。 「わたしはシーターを見ることができない。わたしはこの世界を救うために生を受けた。この世 界に理想を示さねばならぬ。シーターはランカーで十月〈とうつき〉をすごした。このまま戻っ てこさせれば、人々にうしろ指をさされることになる。まずは、よく調べてみなければ、彼女を 迎えることはできない」
シーターはひどく傷つきました。ハヌマーンを見て、言いました。 「ああ、ハヌマーン。あなたが私にこのことを知らせてくれていたら、私はその場で喜んで命を 断ったことでしょう。いったいどうして私が猿〈ヴァーナラ〉や魔物(ラークシャサRakshasa) の中に連れてこられ、こんな辱〈はずかし〉めを受けなければいけないのでしょう」
学生も、家庭をもつ人も、大人も、若者も、ここに理想を見るべきです。シーターが空飛ぶ馬車から降りたとき、アンガダAngadaやスグリーヴァをはじめとして、みんなうやうやしく頭を 下げていました。ところが猿の中に品性の低い者がいて、シーターを見ようと首をのばしていま した。ラーマはそこで、アンガダAngadaたちのふるまいは徳の高いものであり、そうでない猿 〈ヴァーナラ〉のふるまいは、卑しいものであると言いました。徳の高いふるまいは人間の特性、 卑しいふるまいは猿の特性です。人間の特性とは何でしょうか。目上の人をうやまい、頭を下げることです。シーターは、女神ラクシュミーLakshmi〔ヴィシュヌ神の妻。美と富の女神〕の化身です。シュリー・ラーマの妻なのです。目を開けて見られるような人ではありません。ラクシ ュマナでさえ頭を下げていました。ラクシュマナは十年も同じところに住んでいても、シーター の顔を一度たりとも見ることはありませんでした。見ることが思いをかきたてます。


こんにちで は、悪意あるものの見方があふれています。人から悪意の目で見られたために、熱を出して倒れ たという人の話をよく聞くでしょう。だから人を見るときは、よくよく慎〈つつし〉まなくては いけないのです。
ラーマは、ラクシュマナに火をつけるように命じました。シーターに、その火の中に飛びこむ ように言ったのです。


シーターをアヨーディヤーに連れて帰るには、火の神さまに認められる必 要がありました。その言葉にラクシュマナは激しい怒りをあらわしました。それまでラーマに逆 らうことなど決してなかったのに、ついに口を開きました。 「ラーマさま、物に狂わせられましたか。知恵がくもられたのですか。いったい何をおっしゃい ます。何か誤った考えにとらわれてしまったのですか。シーターさまほど立派な女性はおりませ ん。この上なく清らかな、すべての女性の鑑〈かがみ〉です。ラーマさまはあまりにシーターさ まを卑〈いや〉しめておられます。ラーマさまのお疑いどおりであれば、どうしてシーターさま は十月〈とうつき〉も苦しむことがありましょう。そのことをお考えになられたのでしょうか」


ラーマにはラクシュマナのこころがわかっています。ラクシュマナにはラーマのこころがわか っています。ラクシュマナの怒りの声を聞いて、ラーマはこう言いました。 「ラクシュマナ、いまやわれらは、理想の人間として生きている。他の人々が従うことができる ように、模範を示さなければならないのだ。シーターが立派であることはわたしもわかっている。 だが、人としてのよさが明らかにされなくてはいけない。あの人は立派な人だと世間は語る。だ がよい人間であることは、立派な人間であることよりもはるかに大切だ。だからシーターが偉く 立派な女性である以上に、よい女性であることを、わたしはこの世に示さねばならない」
シーターはラーマの言葉を聞いていました。涙を流しながら炎のまわりを回り、祈りを捧げま した。
「私がまことに真理の化身であるならば、いつどんなときも私にいかなる悪いこころもないなら ば、どうかこの炎の熱が冷めますように。いかなるときも、どんな思いもどんな名前も、ラーマ さまの名前の他は私の心に浮ぶことはありませんでした。ただ、ラーヴァナ殿が私をチトラクー タの山から連れ去ったとき、私は捕らえられ、馬車に押しこまれたのです。どうして触れられる のを防ぐことができたでしょう。そのときも私は、ただラーマさまだけを思っていました。その上で、私を試すとおっしゃるならば、そのとおりにいたします」 そう言って、シーターは燃えさかる薪〈たきぎ〉の山に飛びこみました。 そこに多くの神々がその姿をあらわれました。


神さまも女神さまも、ラーマの行いをとがめていました。すべてを知っていながらこんな愚かなことをするラーマに異を唱えています。ところ がラーマはほんとうは、シーターに何の罪もないことがわかっていたのです。そうでなくてどう して多くの苦労をし、食べることも飲むことも忘れてランカーまで来て、魔物(ラークシャサ) に傷つけられたのでしょう。インドラジットとの戦いのあとなどは、ラーマの身体は血みどろに なっていました。ラクシュマナはとても見ていられず、気を失ったほどでした。この愛情がラー マとラクシュマナの絆〈きずな〉でした。ふたりの兄弟はどうしてそれほど多くの障害に立ち向 かったのでしょう。どうして海を渡る橋など架けたのでしょう。みんなシーターのためだったの ではありませんか。ラーマにはシーターのみさおがわかっていました。 「わたしはおまえがどんな女かわかっている。だが世間の者は、けたたましく鳴くカラスのよう に、あらぬ想像をするものだ」
シーターが言いました。 「烏〈からす〉がさわがしい声で鳴いていると、コーキラ〔美しく鳴く鳥〕もそのたおやかな歌 を止めるでしょう。ラーマさま。世間は烏〈からす〉のようにうわさ話にうつつをぬかしていま す。しかしラーマさまはコーキラのようなお方。どうして世間の言うことに気を取られることが ありましょう」
そこにいたみんなが、こぞってシーターを支持しました。
「まさしくシーターさまのおっしゃるとおり」
人は決して自分の欠点を見ようとしません。ところが他人の欠点は幾重〈いくえ〉にも大きく 見えるのです。ラーマはそうではありませんでした。ラーマには絶対にどんな欠点もありません でした。けれども人々に理想を示すためにこんなことをしなければならなかったのです。シータ ーが炎に飛びこむと、火の神さまがあらわれて、シーターをラーマに引き渡してくれました。 「シーター姫はこの上なく清らかな女性である。この方こそまさしく女神ラクシュミーの化身。 このお方のこころにはいかなるけがれもなく、いかなるあやまちからも、咎〈とが〉からもまぬ がれている」
火の神がそう言ったときに、ようやくラーマはシーターを迎えました。


◇シーターのまごころ

ここに、もうひとつお話があります。ハヌマーンがシーターにめでたい知らせを伝えに来たと き、こう言いました。 「姫。吉報をお知らせに参りました。ただし、もうひとつ務めをはたすお許しをいただかねばな りませぬ。それがしには、長い間姫を苦しめていた魔物を殺す役目もございます。魔物どもを八 つ裂きにいたします。どうか、お許しをたまわれ」
そこでシーターは言いました。 「ハヌマーン。魔物たちを責めるいわれはありません。ただ自分たちの主人に命じられたことを していただけではありませんか。あやまちはあの者どもにあるのではなく、主人にあります」
そこでシーターは、ハヌマーンに物語を聞かせました。猟師が虎のあとを追っていました。ところが虎は猟師を見つけて、逆に追いかけてきました。 猟師は木に駆け寄り、よじ登りました。猟師は虎が行ってしまうのを待っているのですが、虎の 方は木の下でじっと見張っています。そこで猟師がふと見上げると、もっと上の枝に熊〈くま〉 がいるのがわかりました。そこで虎は熊に話しかけました。 「熊さん。そいつはわしが遠くから追いかけてきた獲物なんだ。いまその木に登っている。そいつを食べられるように、こっちに落としてはくれないかね」


すると熊はこう言いました。 「虎よ。ここはわしの住みかなのだ。この猟師は助けを求めてここに来た。わしにとっては客人 だ。わしとしてはこの客人をどうあっても守ってやらねばならん。だからこの人を下に落とすわ けにはいかないのだ」
それでも虎は、あきらめてその場を去る気にはなりません。しばらくすると熊は眠ってしまい ました。そこで虎は猟師に話しかけました。 「おい、猟師のお方。わしはただ、食べものがほしいだけなんだよ。それがあんたか他の誰かか はどうでもいいんだ。わしのためにその眠っている熊の奴を突き落としてもらえれば、あんたの ことは見逃してやるよ。わしは熊を食べてどこかに行ってしまうからさ」


猟師に邪悪な気持ちがわきあがりました。あからさまな我欲のため、自分だけが助かりたいた めに、眠っていた熊を突き落としてしまいました。かわいそうな熊は、宙に落ちていくうちに、 うまく枝をつかむことができたために、死をまぬがれました。よい人はいつもこんなふうに守ら れるものです。熊にはやさしいこころがありました。その徳によって守られたのです。恩を仇〈あ だ〉で返すのは、とても悪いことです。熊はふたたび、ゆっくり木を登っていきました。そこで 虎が熊に言いました。 「おいおい熊さんよ。あんたがせっかく親切にしてやったのに、その男は恩を仇で返しやがった じゃないか。そいつは、あんたの親切を忘れた、感謝の気持ちなどまるでない奴だ。そんな奴は こっちに落としてしまうのが、賢いやり方ってもんじゃないか」
そこで熊は言いました。 「虎よ。人の罪は、あくまでもその人のものだ。人の徳もまた、その人のものだ。その報いは自 分自身が受ける。よいことをするのはわしの天性だ。悪いことをするのはこの男の天性だ。この 男は自分の罪のゆえにつらい報いを受けるだろう。わしは自分の徳のゆえに豊かに報われるだろ う。わしはこの男を下に落とすことはできない」
シーターはつづけて言いました。 「それと同じように、私の天性はまごころにあるのです。ハヌマーン、あの者たちは私を苦しめ たけれど、だからといって殺してしまうのは望みません。人を苦しめるのは魔物の天性です。苦しみにあっても許す心を忘れないのが私の天性です。だから、あの者たちを罰することはしない でください」
ハヌマーンはそれを聞いて、感動しました。この世界には、親切にされても恩を仇で返す人が たくさんいます。魔物とはそういう人です。けれども害に対して徳をもって報いる人、そんな人 こそは神の化身なのです。


シーターを迎えたあと、ラーマはアヨーディヤーに戻るために出発しました。その途上、聖者 バラドヴァージャBharadwaja〔『リグ・ヴェーダ』の多くの讃歌の作者とされる〕の庵〈いおり〉 に立ち寄りました。以前行く途中でも休ませてもらったことがあったのです。バラドワージャはたいそう喜びました。自分のもっていた武器をすべてラーマに与え、まもなくおこなわれる即位 の式を祝福しました。
ラーマがアヨーディヤーに近づいているうちに、ちょうど十四年という期間がすぎようとして いました。約束の時までにラーマが戻ってこなければ、バラタはみずからの身体を燃やしてしま うという誓いどおり、命を絶つつもりでいました。ラーマは聖者バラドヴ ァージャの庵にとどまっていたために、ほんの少し帰りが遅くなりました。バラタは積み上げて いた薪〈まき〉に火をつけました。飛びこむ覚悟はもうできていました。ちょうどそのとき、ラ ーマはハヌマーンに言葉を伝えるように言いました。風は飛行機よりも速く駆け抜けます〔ハヌ マーンは風の神の子とされている〕。だからハヌマーンは、ラーマがまもなく帰るという知らせ をバラタに伝える仕事をまかされたのです。バラタは大いに喜び、熱い思いでラーマの戻る時を 待ち、すべての支度を整えました。

温泉巡りをして身体を浄化しよう

2015-11-27 00:00:39 | 日記
純粋なハートは真理を映し出す最高の鏡です。
それゆえあらゆる修行はハートを浄化するためのものなのです。
ハートが純粋になるやいなやすべての真理が一瞬の内にハートに映し出されます。
あなたが本当に純粋であるならば宇宙に存在するすべての真理があなたのハートに顕れ出ることでしょう。プレーマ ダーラ P.47

ポニョ:学生時代に125ccのバイクを買ったんや。ホンダのパリダカのタンクが付いているやつで20リッター以上もガソリンが入るんや。燃費もめちゃ良かったので、一回タンクを満タンにすると、千キロは軽く走ったぜよ。

ヨシオ:千キロっていうと、リッター五十キロは走ったって事になるな。

ポニョ:お金を貯めてバイク屋さんで予約を入れて、バイクを買ってそのままフェリーに乗って一週間ほど九州一周の旅に出かけたんや。でも、まだ新品やったから別府から由布院に行く途中の急坂をバンバン飛ばしていたら、エンジンが焼き付いてエンストしてしまったんや。ドジやろ。

ヨシオ:ポニョらしいな。それで?

ポニョ:近くのバイク屋さんに行ってエンジンを冷やしたら動いたんやけれど、最初の千キロぐらいは慣らし運転しなさい。と言って叱られたな。それでのんびりとユースホステルや安宿に泊まって九州観光をしながら一周したんや。大阪に帰って来ても燃費が良かったから、まだ大阪で入れたガソリンが入っていたな。

ヨシオ:それは良かったな。ところでどこを周ってきたんや。ポニョの事やから温泉と食べ物巡りやろ。

ポニョ:流しソーメンが良かったな。高千穂峡をボートに乗って探索をした後、流しソーメン屋さんがあってそこで満喫したな。阿蘇山の外輪道路も何回か周ったな。とても雄大な景色で草千里も良かったぜよ。一番のハイライトは霧島にある韓国岳の近くの露天風呂やったな。男湯と書いてある方にタオルを肩にかけて歩いていると、十人ぐらいの団体さんがもうすでに入っていたんや。おいらが近くに行くとなんと全て女性やったんや。それで、ごめんなさい。間違えて来ちゃったとか言って戻ろうとすると、一人年配のおばさんが、あんたは間違ちゃおらんよ。こちらにいらっしゃい。私たちは男風呂の方が景色がええので、入らしてもらっちょるんや。と言ったのでそれじゃ遠慮なく一緒に入らせてもらいます。と言って十人の女性に囲まれて露天風呂に入ったんや。

ヨシオ:ポニョの旅のハイライトって多分そんな事やと思った。

ポニョ:そのグループは都之城から来ていて、娘さんが大阪のPLで剣道をしてるって言ってたな。またその温泉の湯は炭酸ガスが入っていて一升瓶に入れて持って買って家で飲むと胃に良いって言ってたから、お風呂の湯が湧き出しているところから飲んだら美味しかったな。一生でこれが最初で最後の体験やったな。綺麗な女性十人と一緒に露天風呂に入ったのは。

ヨシオ:それは良かったな。ごちそうさん。ところで今日は一体何がテーマなんや。

ポニョ:九州の温泉紹介やぜよ。

ヨシオ:いつの間にこのブログが旅日記に変わったんや?

ポニョ:あんたが話し出すといつも不二一元だとか、全てに神を見るとか難しい話が多過ぎるからたまにはええやないの。

ヨシオ:でも突然美人の女性達と一緒に露天風呂に入る話は無いやろ。

ポニョ:ああそうそう。指宿の砂風呂にも行ったんや。おばさんがシャベルで深い穴を掘ってくれて、浴衣のまま穴の中に寝ると上から砂をかけてくれるんや。まるでお墓に入ったみたいな気持ちになったな。砂の中はめちゃ暖かくて気持ち良か。でも、おいらの横に新婚のカップルがいて、二人で熱い会話を始めるんや。おいらのすぐ耳元で新婚の甘い話なんて聞きたくないぜよ。それでなくてもこちらはまだ若くて血の気が多いので、「あなた~。今晩も優しく愛してね~。」なんて話を聞いていたら思わず鼻血が出そうやった。早く出たかったんやけれど、沢山の量の砂がかけてあるので重たくておばさんが来るまで出れないし、本当に困ったな。

ヨシオ:何か違う事を考えたり想像したりしてたら聞こえないやろ。ポニョの事やから耳がダンボになって一生懸命新婚さんの会話を聞こうとしてたんやろ。

ポニョ:そうかもしれん。それより面白かったのは、砂をかけてくれるおばさんと後で話していたら、人が砂から出た後、砂の中で身体が浄化されるので砂がその人の毒を吸って砂にいろんな匂いが付くと言ってたな。

ヨシオ:ポニョは食べ過ぎるからガスが出たんと違うんか。上から重たい砂なんかかけられたら腹が押されて余計に出るやろ。

ポニョ:そうなんかもしれないけれど、人によって魚の匂いがしたり肉や大根などいろんな匂いがするから、砂が臭くなってすぐに次の人に使えないって言ってたな。

ヨシオ:それは完全にオナラやないか。でもババは肉体を浄化する五つの方法があってその中の一つが泥によるものと言っておられたな。砂もそのカテゴリーに入るかもしれんな。

ポニョ:そういや、泥を顔に塗る美容方法があるよな。残りの四つは何や。もちろん水はすぐ分かるけれど。

ヨシオ:灰で肉体を浄化する方法もあるな。

ポニョ:インドの苦行者が身体中を灰でまぶしてウロウロしてるよな。後二つは何や。ちょっと思いつかないぜよ。

ヨシオ:火が一つやな。拝火教の人って炎で浄化するやろ。

ポニョ:ゾロアスター教やな。タタ財団の経営者がゾロアスター教徒やったって以前このブログで紹介したよな。それで最後の一つは?

ヨシオ:風や。風によって肉体が浄化されるんや。もちろん汚染された空気じゃ逆効果やけどな。
ポニョ:それって、良く分かるぜよ。おいらはいつもカヌーで川下りしてるやろ。川下りって大体自転車と同じぐらいのスピードで下るんや。だから一日中顔に風を感じて下るんや。川下りが終わり家に帰って窓や扉を閉めきった部屋に座っていると、一日中風を感じていたのに、突然それが無くなると息が詰まるような、苦しい感じがするんや。風を感じながら一週間ぐらいおいらが大好きな四万十川を下ると身体が本当に浄化されたような気持ちになるぜよ。

ヨシオ:そうやろな。四万十川やったら空気もええし、水もきれいしな。肉体を浄化するには今言った五つの方法があるけれど、それじゃその肉体の中に位置する霊体を浄化する方法は知ってるか?

ポニョ:霊体を浄化する方法か?どうするんやろ。嘘をつかないとか、いつも真実のみを話すとか…

ヨシオ:それって一緒やないか。でもポニョが言った通りや。自分が話す言葉はいつも本当の事のみを話すようにしたら、霊体は汚れない。だから俺は五人の子供達に真実のみを口にしなさいという躾を一番重要なものとしてして来たんや。

ポニョ:このブログでも何度か紹介したよな。子供が嘘をついたのがばれたら、嘘一回についてあんたが24時間断食するんやろ。それって子供にとってはめちゃ影響がある躾の仕方やろな。

ヨシオ:おかげで子供達は素直な真実を大事にする子に育ってババに感謝してるんや。また、普段の日常生活も規律を持った生活をしなければいけない。例えば用もなく徹夜するとか、テレビを見過ぎるとか、ポニョのようにいつも食べ過ぎて胃を壊すとか、喋りすぎたり、人の悪口や陰口を言ったり、仕事もし過ぎたり、逆に怠けグセがついてダラダラしたり、なんでも中庸の道を歩むのが大切なんや。そして、一番大切なことは人生を歩む上で自分が肉体だと思い込まないように心掛ける事なんや。ポニョの今までの人生を振り返って見たら分かると思うけれど、落ち込んだ時や、悲しかった時、腹が立った時は絶対自分と肉体を同一視している時なんや。ちょっと思い出してみ?そうやろ。

ポニョ:うーむ。そう言えばそうやぜよ。おいらはあんたみたいにそれ程カリカリ来ないけれど、頭に来た時はそうやな、おいらは自分の事を肉体と思っているよな。特にお腹が空いた時に何を見ても聞いても腹が立ってくるのは、自分が肉体やと思っているからなんやろな。

ヨシオ:あのな、お腹が空いた時に何を見ても聞いても腹が立ってくるのは別に自分が自分を肉体だと思うとか思わないとか以前の問題やろ。

体は水で洗えば清潔になり、言葉は真理を染み込ませれば清められ、生活はタパス〔苦行〕で聖化すれば浄化され、知性はグニャーナ(霊的英知)で汚れを落とせばきれいにすることができます。
そして、何にもまして、自分は体ではなく、体に住んでいる者であるという確信が育たなければなりません。
もしもあなたが、自分の体と自分を同一視するなら、あなたを祝福しようとして待ち構えている喜びや平安の代わりに、あなたを覆いつくそうとする悲しみや苦しみを招くことになります。21/11/79

ポニョ:確かに人は感情的になったら自分の霊体が影響を受けるって分かるよな。

ヨシオ:俺は結構外からの影響を受けるんや。以前にも言ったけれど、人と握手するとその日の夜にその人の事についての夢を見るんや。例えば俺は魚釣りなんて趣味では無いのに、魚釣りに行ったり、プロレスの乱闘シーンの夢を見たりするんや。また人混みの中に行くとその日の夜にいろんな人の想念が入った雑夢を見るんや。

ポニョ:と言う事はあんたの霊体が、他の人の感情や衝動などを持った霊体から影響を受けやすいって事やな。

感情、情念、衝動、態度、反応を浄化しなさい。
それこそが、あらゆる宗教で定められている霊性修行の本質です。
心と思いを点検しなさい。
過ちの多い人間を求めてはなりません。
純粋なるものだけを求めなさい。
いかなる人の悪口をも言ってはなりません。
誰をもはずかしめてはなりません。
長所を見てその人を敬いなさい。
あなたの行いに対する人々の嘆きは、あなたが息を引き取るとき心につきまとって離れません。1008の宝石 P.97

ヨシオ:この前嫁さんがひどい肩こりで苦しんでいたので、俺はベッドの横に寝ている嫁さんの肩をマッサージしながら、えらい肩が凝ってるな、俺は肩こりなんてなった事が無いけれど、苦しそうやな。俺がその肩こりをもらったげるんやけどな。とか思い持って肩こりを揉んでいたら、あくる日に俺が肩こりになったんや。俺のお袋も、俺の親父が子供の頃に結核菌が股関節に入り込んで、足が片一方短いので大きく身体を揺らしながら歩かなくてはいけないんや。それでいつも可哀想に思い、私にそのカルマを下さいって神様にお願いしていたんや。すると、お袋の人生の終わりにお袋は股関節が痛くなり、親父のように身体を揺すって歩くようになったんや。

ポニョ:親父さんもカルマを持っていたのでそういう身体が不自由になったんやろうけれど、神の恩寵で少しは痛みもマシになったんやろな。

心の底から真剣に悔いるのであれば、あらゆる罪を洗い流すことができます。
神の恩寵がそれに応えるのです。
もし神が赦す意志を持てば、いかなるものもそれを防ぐことは出来ません。
すべてのカルマが消されてしまうのです。
すべての霊的な行為には反作用がありませんが、そのような行為の根底には、愛の種子があるのです。
過去に冒した罪が何であれ、深い悔い改めの気持ちと、神への愛があれば、罪は洗い流され、その人の性質は浄化されます。CWSSBJp199

ヨシオ:何れにしても、ババが俺たちに色々と教えを説かれているけれど、それらは全て俺たちの霊体が浄化されるように、そして神に少しでも近づけるように願ってされているんや。というのも、この広い無限の星がある宇宙の中で、この地球に生まれ変わった者だけが次の段階に進めるんや。この肉体を通じて自分の霊体を浄化し、神の持っている波動に少しでも近づけさすことが出来るんや。

ポニョ:だからババは人格を高めるようにいろんな規則規律を定めてモラルのある正しい生き方、倫理的な生き方をするように勧めておられるんやな。おいらも食べ過ぎに注意しよっと。

ヨシオ:食べ過ぎだけと違うやろ。ポニョ吉は。

神性は人間の中に潜んでおり、それは人間が自分で努力して引き出さなければなりません。
すべての行為は体を通してなされます。
ですから、体は永遠の至福に到達するための重要な道具なのです。
体は神聖な方法で保っておく必要があります。
人格を高めること、倫理的な生き方、規律が定められているのは、体を浄化するため、そして、神の栄光にまで高めるためです。18/1/85


正義の味方のラーマやな【11】

2015-11-26 00:00:38 | 日記

ポニョ:ラーマヤーナの物語の中でこのハヌマンが一番キーパーソンになるよな。なんと言ってもハヌマン無しにはラーマヤーナの物語は存在しないくらいや。

ヨシオ:ババもこのラーマヤーナは最高の帰依者とはどういう者なのかを、人々に知らしめる為にあると言われた事がある。実際、ハヌマンの帰依心って尋常じゃないくらい凄いもんがあるよな。ある時ラーマが小さな小屋に入って休もうとしたら、ハヌマンも一緒に入って行ったんや。それを見たシータはハヌマンに、「ハヌマン。ラーマはお疲れになっているのでお休みになられます。小屋に一緒に入って行って邪魔をしないように。」と言ったので、ハヌマンは四六時中ラーマと一緒にいたかったのにも関わらず、我慢して小屋の外に座っていたんや。でもしばらくすると、シータが休む為に小屋に入って行こうとしたのを見て、「どうして自分は小屋に入れないのに、あなた様は入れるのですか?」とハヌマンはシータに聞いたんや。
すると、シータは眉間にある既婚女性のシンボルである紅いマークを指差しながら、「私はこのように赤いマークを眉間に付けているラーマの奥さんです。だからラーマと一緒に小屋に入って行けるのです。」と言って小屋の中に消えて行ったんや。ハヌマンはもう矢でも立ってもいられなくなって、どこからか大量の紅い粉を探し出して来て、身体中にその紅い粉を振りかけて小屋に入って行ったんや。

ポニョ:あのね、ラーマとシータがムーチョ、ムーチョしてる最中やったらどうするんや。恥ずかしい話やぜよ。

ヨシオ:何がム~チョ、ム~チョや。神さんがそんな事をするんか?

ポニョ:するやろ。だってどうやってシータは双子を身籠ることが出来るんや?シータは聖母マリヤ様か?処女懐妊が出来るんか?

ヨシオ:あのな。シータはラクシュミー女神なんや。意志しただけで懐妊出来るんや。何年神の帰依者をしてるんやポニョ助は。もう神のメッセンジャーの役割から懐妊させられるで。

ポニョ:もしもし。字が違ってますよ。それより紅い粉ってクムクムの事やろ。インドの既婚女性が眉間に付けているよな。めちゃくちゃするなハヌマンって、自分の信仰心の為やったら何してもええんか?まるでダルシャンを与えておられるババに飛びついて、両足を抱きかかえながら僕を無視しないで下さいと言って泣き喚(わめ)いた星やんみたいやぜよ。それに夫婦の寝室に飛び込んでいくって確かに尋常じゃないよな。ハヌマンは独身やったんか?何にも知らんな。

ヨシオ:ハヌマンはその頃もう奥さんもいる既婚者やったんや。でもラーマへの愛がとても強くてそういう行動をしたんやろな。自分の信仰心の為やったら人の迷惑なんて考えないで何してもええんか?なんて言ってるけれど、俺たちだって大なり小なり同じ事をしてババに迷惑をかけているんや。ポニョは毎年のようにババのアシュラムに行ってたやろ。どれだけたくさんの人が何回も何回もアシュラム詣でをしてる?その為にどれくらいの人がアシュラムで料理を作ったり宿泊施設を用意したりして働いていると思う?このブログにも紹介したけれど、一時期下水道が詰まって大変やったんや。俺たちは自分の事だけを考えてババの迷惑なんて少しも考えずにババのアシュラムに通うやろ。それって自己中やろ。一度ババのお目通りさせてもらったら、あとは自分の住んでいる国で自分がいる場所でババの教えを守って生きていくのが正しい帰依者の生き方なんや。人はババを愛しているって言うけれど、ババの迷惑なんて考えもせずアシュラム詣でをするんや。もちろんババは神さんやからどれだけの人が来てもそれを受け入れられることは出来る。でも、帰依者としてババの為にどのような行動をすれば、ババに喜んでもらえるのかいつも頭に入れて行動をしなければいけないんや。

ポニョ:何かをする前に、自分が今からやろうとする行為はババが喜ばれるかどうかを検証しながら生きていくって事やな。

ヨシオ:心の中のババにいつも話しかけて人生を歩みましょうって前に記事にしたけれど、一歩進んで今ポニョが言ったように何かをする前に、自分が今からやろうとする行為はババが喜ばれるかどうかを検証しながら生きていくんや。自分の事だけを考えて生きて行くのはたとえその気持ちが神さんの方に向いていたとしても、アシュラムに行ってインタビューに呼んでもらえないと言ってババを嫌いになったり、無視されたと言って落ち込んだりするんや。ババは私の足を全ての帰依者にマッサージさせたら私の足は一体どうなってしまうのでしょうか?と言われた事がある。また、古いマンディールに住んでおられた頃帰依者の数が増え過ぎて御自分の寝るスペースが無くなり、朝まで寝れない状態が何日も続いた事があるんや。帰依者はババを思ってアシュラムに行くけれどババにとっては、君の中に私がいるのを早く気付いて欲しいというのが本音なんや。そうではなく、ババに毎日お会いしたいからアシュラムに住み着く人までいるやろ。もちろん一定の段階までは自分の波動をババの神聖な波動によって、浄化さす為にアシュラムに長い間滞在しなければならない人もいるけれど、ヒマラヤから来た聖者たちのように一度だけババに御目にかかって挨拶だけすればそれで十分なんや。

ポニョ:ババの迷惑なんて考えもせずその愛に甘えておいらも何回も行っちゃったな。そういやババは古い帰依者は、新しく来た人にスペースをあげなさいって言っておられたな。ハヌマンの話に戻るけれど、おいらが聞いた話はハヌマンがいつもラーマの顔を見ていたかったので、いつもラーマの近くにいてラーマの顔だけを見れる仕事をしたいと思ってした仕事は、ラーマが人々の前にいる時にあくびをしたら無作法のように見えるので、ラーマがあくびをしそうになったら、ラーマの目の前で指をパチンと鳴らしてあくびをさせないでおく仕事やったんや。

ヨシオ:猿知恵でも結構賢いやないの。

ポニョ:猿知恵ってあんた、このハヌマンはヴェーダをいくつも習得した、猿の王国の大臣なんやで。

ヨシオ:そうやったな。俺がハヌマンの話で驚いたのは、ラーマに言われて一生懸命探して持って来た物をラーマに差し出したんやけれどラーマは使われなかったんや。それでハヌマンは少し失望して目の前の石を蹴ったんや。しばらくしてハヌマンが歩いていると、石に蹴つまずいて転けそうになったんや。それを見てラーマは「その石は、君が自分が一生懸命探して来た物を私が使わなかったので失望してお前が先ほど蹴った石だったんだよ。その失望したという感情は、お前のエゴが持たらせたものなんだ。お前はまだエゴを持っている。その為に、まだこの生で私と融合する事は出来ないのだ。お前は私が次の神の化身として降臨するまで待たなければいけない。」と言われたんや。

ポニョ:ふーんそうやったんか。ハヌマンほどの帰依者でも少しのエゴを持っていたら神と一緒になれないんか。難しいもんやぜよ。

ヨシオ:俺がチェンナイにある政府が経営してる大きな工芸店に行った時に、細かい色の違う木で細工してある大きなマハバラータの絵を見つけて見とれていたんや。そこにはアルジュナとクリシュナが乗った馬車が描かれていて、とても見事に小さな細かい色の違う木のかけらを貼って描いてあったんや。その絵の中で俺は、奇妙な事に気がついたんや。それはその馬車の上にハヌマンが座っていたんや。俺は係りの人に、この絵は間違っていませんか?だってクリシュナの時代にハヌマンはいないでしょう。ハヌマンはラーマの時代に活躍したんだから。と尋ねると、その係員はそうですね。ちょっと聞いてきます。と言って店の主任を呼んできたんや。その店の主任もこれはおかしい。間違っていますね。と言ってまた、違う人を何人か連れて来たんや。そこにいた全ての人達も首を傾げてこの絵はおかしいとか言っていたんや。でも、その後俺はババがこんな事を講話で言っておられたのを読んだんや。ハヌマンはラーマが亡くなってからヒマラヤの山中に閉じこもり、ラーマが帰って来るのを何千年も我慢して待っていたんや。するとある日、ラーマが帰って来たというニュースを聞いて会いに行くとラーマとは全く違う姿だったので人違いと思ったんや。それでまた、ヒマラヤに戻ろうとすると、クリシュナが、「ハヌマン!お前は私の事を忘れたのか?」と言ってラーマの姿に戻りハヌマンを抱きしめられたんや。そして「私はこれから大きな戦争に出かける。お前は私の事を戦闘馬車の屋根の上にいて私を守っておくれ。」と頼まれたんや。ハヌマンはクリシュナがラーマの生まれ変わりと分かり、勇んでクリシュナの馬車の屋根の上で、戦争の間中、矢やミサイルやいろんな飛び道具から守ったんや。

ポニョ:そうやったんか。おいらも知らなんだな。ハヌマンがクリシュナの為に仕事をしたなんて。でもインド人も知らなかったって、自分の国の文化やのにちょっと恥ずかしいよな。

ヨシオ:ポニョだって歌舞伎や能などの日本文化を研究している外国人に、専門的なややこしい質問をされたら答えられないやろ。

ポニョ:もちろんそうやけれど、インド文化は能や歌舞伎と違って人類共通の霊的な宝やぜよ。インド人はそれを世界の誰よりもそれを理解し、守り、広める義務があるぜよ。おいら達のようにインド以外の外国で生まれた者より知っておかなければいけないんや。

ヨシオ:あのね、そんなに厳しくならなくてもええやろ。だって前にも言ったけれど、インドの文化、ヴェーダの教えを広める為に、たくさんのインド人達が、俺たちのように今世界中の国に生まれ変わっているんや。だから姿形はインド人ではなくても、頭のてっぺんから足の指の先までインド古代からの叡智が詰まっている人達がたくさん世界中にいるんや。だからインド人の格好をしているからと言うだけで、そういう事を求めるのは間違っているやろ。という事で、今日は長くなってしまいました。ごめんなさいね。それではラーマのお話しに移りましょう。

◇めでたい知らせ

魔王ラーヴァナが戦いで倒れたので、シーターにこのめでたい知らせを伝えるように、ラーマ はハヌマーンに命じました。ハヌマーンはひと飛びでアーショカの樹の庭まで飛んでいきました。 このうれしい知らせをシーターに伝えることができる日を待ちこがれていたのです。シーターの 前に行き、この知らせを伝えました。ハヌマーンのあとからヴィビーシャナが来て、言いました。 「シーターさま。ラーマさまとお会いになる支度をなさいますように。わたくしは空飛ぶ馬車の 支度をしてまいります」
そう言って、準備のためにその場を去りました。ヴィビーシャナの妻サラマーSarama と娘の トゥリジャーターTrijataとアジャーターAjataがさまざまな飾り付けをしてシーターの身支度を ととのえました。シーターの目から涙がこぼれました。とてもうれしかったけれど、これまでの ことを思い出してしまったのです。シーターは、ラーマと再び会えると思うと、胸が高鳴りまし た。
囚〈とら〉われの身から放たれて、 ついにこの目でラーマさまのお姿を見られます。 もうすぐ私はラーマさまに会える。 私の嫁いだラーマさま。ずっとお側〈そば〉にいられなかった。 ふたりが別れてもうすでに十〈とう〉の月がすぎました。 囚〈とら〉われの身から放たれて、 再びこの目でラーマさまのお姿を見られます。 大切なラクシュマナ!徳の高いあなたをどんなにおとしめたことでしょう。 私を置き去りにするための、 私の言葉はどれほどあなたを傷つけたでしょう。
あのときのことを思うと、とても悲しくなりました。ラーマの勝利の知らせが届いたときは、 冷たい恵みの雨が降り注ぐように感じられました。喜びのあまり、ハヌマーンに話しかけること さえできないほどでした。ほとんど動くもできず、どうしたらいいかもわからないほどでした。 シーターは、このうれしい知らせを十ヶ月もの間待ちこがれていたのです。サラマーたちに身支 度をしてもらったあと、空飛ぶ馬車まで連れていってもらいました。この馬車は何だったのでし ょう。〔魔王ラーヴァナの〕プシュバカPushpakaの馬車〔「花の車」を意味する〕でした。シータ ーはこれでさらわれてきたのです。馬車に座ると、あのときのことを思い出しました。
ほんの瞬〈まばたき〉する間に、シーターはラーマのそばに来ていました。