サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

人相と手相のお話です

2016-03-30 00:00:25 | 日記
その人がどんな人かは、その人の行為を見れば分かります。
結果に捕らわれない行為が大切なのはその為なのです。
鏡を見れば、自分がどんな顔つきか分かります。
それと同じように何をしているかによってその人の心があらわになるのです。
人と接しているとき、相手がどんなことをしているかを見れば、その人がどんな人かが容易に分かります。
サトヴァな感じで、立派な犠牲の心を持っているように見えて、神聖な心を持っている人かなと思っても、実は、まるで違うことをやっている人かもしれません。
動物の性質や悪魔の性質の表れのようなことをしているかもしれません。
その人のしている行為によってその本性が分かるのです。
逆に思いやりなど全くなさそうな人もいます。
礼儀もわきまえないし、慎みも無く、立派な品格も感じられません。
ところが、その人の行為を見ると、真心があり、いろいろな德性が表れています。
それならその人は、浄性な人だということになります。
~行為はその人の性格を見事に顕します。SGc33

ポニョ:昨日まで三回にわたり、この世にとらわれるってどういう事かについてお話をしました。おいらが今回学んだ事は前世からの傾向の話など、いろいろあるけれど最後のババのメッセージが興味深かったぜよ。

ヨシオ:どんなメッセージやった?ちょっとその部分だけでも再掲してみ。

ポニョ:おいらが面白いと思ったのは、心に何が浮かんでもそれは顔に表れるってところなんや。だって顔は心の窓って言うやろ。本当にそうやなって思うぜよ。

心にどんな思いが浮かんでもそれは顔に表れます。
だから顔つきは心の窓と言われるのです。
どんな思いも顔に表れます。
悲しみに打ちひしがれていれば、その気持ちが顔に出るでしょう。
そんな風に、心はそのまま顔に出るのです。
神聖な思い、神聖な気持ち、神聖な理想に溢れているときにはじめて悦びに満ちた幸せな人生を生きることが出来ます。
悪い思いにとらわれているときに、誰かに話しかけられて、微笑みを返したところで、それは作り物の笑顔でしか無いでしょう。
ぎこちない笑顔は、心の乱れをさらけ出してしまいます。
心を乱してはいけません。
いつも幸せなことを思うのです。
どんな時に幸せな楽しい気持ちでいられるのでしょうか。
それは神聖な良いことを思うときです。
その為にはできる限り心を落ち着かせることが大切です。

ヨシオ:ババは人が一定の年齢になれば、その人の人相はその人が責任を持たないといけないと言っておられたな。

ポニョ:星やんも人相読みの天才やったぜよ。どんな人の顔を見ても、すぐにこの人は短気で暴力を振るう人やとか、この人はあまり良いカルマを持っていないとか、この人は性的な欲望をコントロール出来ない人やとか、街に出て一緒に歩いたらいろんな人の顔を見て興味深いコメントをしてたぜよ。

ヨシオ:そうやったな。俺の背中の方に行って、首の後ろの方をジッと見てたなと思ったら、突然ヨシオさんは、英知を持っていますね。その印がついてるわ。なんて言ってたので、そんな事が何で言えるんやって聞いたら、インドの人相学を学んだ時にいろいろ教わったって言ってたな。それで嫁さんに家に帰ってから、俺の首の後ろに何か印が付いてるかって聞いたら、ホクロが首の後ろに付いているって言ってたな。

ポニョ:ホクロが首の後ろにあるかどうかで、その人が英知を持っているか分かるんか?ホクロが首の後ろに付いていたら、誰でも英知を持っているんか?

ヨシオ:そんな事は知らんっちゅうに。俺は、星やんが多分それを見ていたんじゃないかなって思ってるんやけれど、そうじゃないかもしれん。

人は皆、自分の源からはぐれて荒野をさまよっています。
そして、その源へと戻る帰り道を見つけるために肉体をまとって、この喜びと悲しみ、成長と衰え、希望と失望の世界にやって来るのです。
それは決められた滞在時間内で果たさなければなりません。
一日ごとに、太陽は、こっそりと、ほんの少しずつその期間を盗んでいきます。
けれども、幻の明かりと荒野のざわめき、そして、それらの強い印象の見せかけの甘さに心引かれて、人は運命の神の呼び声をないがしろにしています。
五感は人をだまし続け、迷路の奥へ奥へと連れていきます。
これは人が笑顔と感謝の身振りをしながら死んでいく代わりに、うめき声と嗚咽を上げながら死んでいく時まで続けられます。
生まれてから死ぬまでの年月は、無駄なものを手に入れること、価値のないことを達成することに費やされています。
なぜなら、満たされない欲望と不健康な感情でハートがいつもチクチク痛み、それが人の本性である平安に影響を及ぼしているからです。
これがずっと人につきまとっている迷妄、マーヤー(幻力)であり、それが人の神髄である神性を影に隠しているのです。22/12/70

ポニョ:おいらは星やんに手相を見てもらったぜよ。よく当たるんやこれがもう。でも、手相はその人の仕事などによって後天的に変わってしまうので、足の裏の相、足相の方が正確に読める何て言ってたぜよ。

ヨシオ:それで星やんはポニョの手相を見てなんて言ってたんや?

ポニョ:おいらは神の方に向いているけれど、元々そういう方向に向くような人ではなく、後天的に得たものだ、何て言われたぜよ。

ヨシオ:つまり間違っていたら、ポニョは今頃、料理研究家とか、どこかのレストランのシェフだとか、料理で生計を立てている仕事をしてたかもしれないよな。

ポニョ:そういう可能性はとても大きいぜよ。ところで星やんはあんたの手相を見てなんて言ってた?

ヨシオ:インドの手相学によると、薬指の下にその人が信じている神様のマークが現れるんやて。お袋はヴィシュヌ神の印が付いていて、俺の場合は全てが神さんやと信じている印が付いていたんや。それでそういう珍しい印が付いているの見た時は、まるで神のダルシャンに出た時のように、ありがたくその印を拝まなくてはならないとインドの手相学のグルに言われたって言ってたな。

ポニョ:あんたには良い事しか言ってなくて、おいらにはそんなに良い事を言ってないぜよ。

ヨシオ:星やんの手相見や人相見の技術はすごいよな。

ポニョ:すごくないですよ。おいらの顔を初めて見たときも、もうちょっと感覚をコントロールした方が良いですよ何て言われたぜよ。

ヨシオ:それって当たっているやないか。やっぱりすごいよな。

ポニョ:すごくないですよ。

ヨシオ:あのな、自分の事をよく言ってないからと言って、そういうネガティブなコメントをするなっちゅうに。俺に言わせれば、ポニョの笑顔は心から発している光のようにキラキラと輝いているし、まるでポニョが神聖体験をして至福に包まれているみたいに見えるな。

信者はいつも微笑みをうかべていなさい。
喜びを顔からにじみ出させなさい。
その喜びは、あなたが内なる神性を体現したときにこそ出てくる喜びなのです。
もしあなたが幸せでないとしたら、それはあなたがその神聖さを体現していないからなのです。SS8月p,203

ポニョ:あのね、前から言っているけれど、このおいらのモナリザ級の謎の微笑は生まれつきなんでヤンス。

ヨシオ:どこがモナリザ級の謎の微笑やねん。俺が言いたいのは、ポニョのようにいつも微笑みを浮かべて人生を送るってとても大切なんや。というのも前から言っているけれど、この世にある全てのものは俺たちも含めて神さんなんや。俺たちは自分が神さんやと気づいたら、他人と自分の違いが無くなってしまうんや。全ては「自分」なんや。そして全てが「自分」だと分かれば、すべてのものの中には、いつもポニョのように微笑みを浮かべている至福に満ちた「自分」しか見えなくなってしまうんや。

皆さんは神をどこかで探す必要はありません。
その代わりに、あなたの目を内に向けなさい。
外側の世界で見る顔はどれも、実際のところ、あなたの中に既にあるものの投影にすぎません。
ですから、万物はあなたの中にあるものの反映であり、反動であり、反響です。誰かがあなたを批判していると、あなたは悲しくなります。
誰もあなたを批判していません。
あなたがあなたを批判しているのです。
他人が自分を傷つけていると、あなたは考えますが、実際には他人など存在しないのです。27-7-02




神さんの一言一句

2016-03-29 00:00:08 | 日記
人生の旅を行くときには、神を信じ、英知を身につけ、執着を捨てることによって、心をきれいにすることが大切です。
ラジャス(激性)の性質を沢山持っている人は、何をするときも、慌ただしくしています。
耐える心も許す心もありません。
少しも落ち着いていられません。
大きな怒りをあらわにします。
つきることのない欲望があります。
~人の心にラジャスの性質が忍び込むと、身体も思いも落ち着かなくなって、いつも動き回ります。
落ち着かないだけでは無く、妄想にとらわれてしまうのです。
妄想があると、世間のものへの激しい欲望が生まれます。
心に欲望が生まれると、次は様々なものを自分のものにするために行動を起こします。
この妄想、欲望、行動がラジャスの特徴です。SGc30

ポニョ:今日はいよいよこの世にとらわれるというテーマの最終回です。

ヨシオ:普通、ポニョのようにお腹が空けばジキルとバイドみたいに性格が変わってしまう人は、肉体意識に囚われてしまって、そこから抜け出せない人が多いんや。

ポニョ:以前、おいらの事をEarth Manだなんて言ってたよな。それってアースつまり五大元素の一つである地に深く関係してるって事なんやろか?

ヨシオ:性格はシンプルで自分の肉体を維持していくための基本的なものさえあればいつもニコニコして、あまり大きな欲望もなく、自分の輪を作ってそこに入る人たちだけを大事にするけれど、そこに入らないカテゴリーの人は、自分とあまり関係が無いので、その人の事を気にしないタイプなんや。だから、その硬直して死んだコーチョクはその輪の中に入っていたんやろな。死んだ時に涙を流したんやろ?

ポニョ:そう言われればそんな生き方をしてるような気がするぜよ。

ヨシオ:そうやろ。そういう人は、肉体意識を持っているので、悪と善の一体性を認識出来ないんや。比較的正義感は強いけどな。

ポニョ:そう。悪いものは悪い。良いものは良いのだ。グロ襟とおいらを一緒くたにしないでくれますか?

絶対的善は存在しますが、絶対的悪は存在しません。
悪は変化するものであり、善の一つの側面を歪曲したものが悪なのです。
しかし、普通、肉体意識にとらわれている人は、善と悪を一つと見なすことは出来ません。
自分自身と他の人のうちに存在する神性意識を知った時に、私たちはじめて善と悪を同一視する事が出来るのです。
善のみが真実であり、目に見えるものがたとえ歪んでいても、本質的にはすべてが善であるという真理を、不断の態度としてあなたが培えば、非常な力を得ることができるでしょう。
~全ての人は良い人なのですが、悪い行動が伴っているのです。
作用と反作用の法則です。
それゆえ、邪悪な事件の被害者に関していえば、すべては何の例外もなく起こるべくして起こるのです。CWSSBJp139

ヨシオ:でもいつまでも、そのレベルに留まらないでくれますか?そろそろ上の段階に昇ってもらわないと、後がつかえてますよ。

ポニョ:後がつかえてるって言われても、そういう元々のおいらの性格を変えるなんて並大抵の事じゃありませんが。

ヨシオ:それはそうやけれど、このブログの一つのテーマである「全てのものの中に神を見る」を実践してもらえないと困るんですが。

神聖な人々は、いつも善に目を向け、悪にとらわれることはありません。
世の中に見られる悪い行為に関する思いで心を満たしてはいけません。
あらゆる種類のサーダナの目的は、全てのものの内に神を見るように心を訓練することです。CWSSBJp275

ポニョ:全てのものの中に神を見る事を前からトライしているけれど、少しずつ出来るようになってきているぜよ。まだいろんな事に心が踊らされるけれど、神様が言われている事が自分の欲望ややりたい事に反していても、それを受け入れて、出来るだけ実践して行くと、神様の意思と自分の意思がだんだん一つになっていくような気がするぜよ。

いつも静かで落ち着いた心のまま、我欲にも執着にもとらわれないでいるのは、ごく普通に神を求める人にはたいそう難しいことです。
特に家族のある人にとっては、まず無理だといっても良いでしょう。
神の命じる意思と自分の意思とを区別している限り、我欲をなくすのはひどく難しいことなのです。
あらゆるものの中にただ一つの神が満ちている事を悟るなら、神に従うことは少しも難しくなくなります。
神があらゆるところ、すべての人の内に永遠の光りとして輝いていることがわかれば、我欲と執着を捨て去ることが出来ます。SGc5

ヨシオ:今、ポニョが言った事はとても重要なんや。というのも、ババが言われた一言一句をしっかり守って生きていく事が、どれほど大事か人々は分かっていないんや。ババの御言葉は神そのもので、それを自分の息吹のようにして自分の中に取り入れて行けば、やがて自分の言葉や思いがババの言葉となって出て来る時が来るんや。

ポニョ:ふーん、そうなればすごいよな。でも、ババの霊が乗り移ったとか言ってババのメッセージを伝えている人がいるけれど、ババが言われた事と違う事を言っているぜよ。それって今、あんたが言った事と違うやろ?

ヨシオ:全然違う。ババが私は絶対に誰かを通じてあなたにメッセージを送るなんてしないと言われているので、その教えを尊重しなければいけないやろ。

彼らはスワミ の命令を無視しています。
そのようなことで、どうしてスワミを得られるとでもいうのでしょうか?
スワミの命令というものはスワミ自身よりも重要で価値がある、という認識に基づいて行動するように努めれば、スワミは容易に彼らのものとなるでしょう。
節度のない無駄話をし、傲慢な態度を取り、よこしまな目で見、悪い行為をする。
そのようなことをしなければ、悪意に満ちた汚れた心は存在できません。
健康的でない、望ましくない思いが心に浮かんだとしても、それは過ちではありません。あなた自身がその悪い思いでもって行動を起こさぬ限りは。PD31

ポニョ:今、世の中はややこしい方向に向かっているぜよ。サイの組織の中にもこうして影響を受けているくらいやから、世界がどんな酷い状況か想像できるよな。

ヨシオ:俺たちはババが今まで教えて下さった事をしっかり守って、この世の中のゴタゴタに囚われず巻き込まれず、一歩でも神様の方に近づくように霊性修行をして行こうぜ。

三つの霊性修行があります。一つ目は身体の修行で、良いことをする為に自分の肉体を使うことです。
二つ目は、言葉の苦行です。
神を思い、神だけに心を定めるのです。
神の持つ輝かしい特性を讃えるために、上手に舌を使って下さい。
本当に人の為になる言葉を話して下さい。
人に正しい道を示すために話をするのです。
自分が経験した偉大な素晴らしい出来事を、人に話してあげて下さい。
人が良くない道に進もうとしていたら、美しい言葉と、甘くまろやかな話し方で、その人の誤りを正してあげて下さい。
心にも言葉にも、ほんのわずかな偽りも混じらせ無い、と言う信念を持って下さい。
真実と非暴力を身につけるのです。偽りを口にしてはいけません。
とは言っても本当のことを言えないときもあります。
言葉の修行に取り組む人にはそういう難しいことも起こりうるでしょう。
嘘を言わなくてもすむ道を何とか見つけ出して下さい。
どんな事情があっても嘘を言ってはいけません。
本当のことが言えない場合は、黙って静かにしているのが一番です。
嘘を言うよりはるかに良いでしょう。
三つ目は心の修行です。
心の修行によって良い特性を磨いて下さい。
心にどんな思いが浮かんでもそれは顔に表れます。
だから顔つきは心の窓と言われるのです。
どんな思いも顔に表れます。
悲しみに打ちひしがれていれば、その気持ちが顔に出るでしょう。
そんな風に、心はそのまま顔に出るのです。
神聖な思い、神聖な気持ち、神聖な理想に溢れているときにはじめて悦びに満ちた幸せな人生を生きることが出来ます。
悪い思いにとらわれているときに、誰かに話しかけられて、微笑みを返したところで、それは作り物の笑顔でしか無いでしょう。
ぎこちない笑顔は、心の乱れをさらけ出してしまいます。
心を乱してはいけません。いつも幸せなことを思うのです。
どんな時に幸せな楽しい気持ちでいられるのでしょうか。
それは神聖な良いことを思うときです。
その為にはできる限り心を落ち着かせることが大切です。SGc12

聖なる心は何処にあるの?

2016-03-28 00:00:49 | 日記
人間のあらゆる迷妄の原因は人間自身にあります。
皆さんは自分が悲しみに捕らわれていると考えています。
しかし、その悲しみは本人が創ったものであって、神が与えたものではありません。
全ては本人の思考が創造したものです。
神に責任はありません。
あなたのどんな苦しみも、神のせいだと考えてはなりません。
神はただ、幸福を授けるのみです。29/10/09

ポニョ:昨日の執着心の話をしていて思い出したんやけれど、子供の頃、ペットの犬を飼っていて名前をコーチョクっていうんや。

ヨシオ:えらい酷い名前を付けたな。硬直って死んだら体が硬くなる事やろ。

ポニョ:その犬は死ぬ前から体が硬かったのでコーチョクという名前を付けたんやけれど、死んだら本当に硬くなったな。

ヨシオ:当たり前やろ。

ポニョ:それで、死ぬ前はとてもおいらになついていて、可愛かったんやけれど、近所の犬が死んでも全然何も思わなかったのに、コーチョクが死んだ時は涙が出たんや。それを思い出してやっぱり、誰かが死んだりした時に悲しく思う心は執着心から来てるって分かったぜよ。

ヨシオ:そだけを言うのに長かったな。でもコーチョクはないやろ。酷い名前や。この前も言ったけれど、自分がこの世のガタガタに巻き込まれそうやなと感じたら、この世界は神様がディレクターとなっている劇の世界やと思うんや。自分はその劇の俳優でポニョという役割を演じているだけやって思うんや。すると目の前にある全ての出来事がまるでスーッと潮が引くみたいに自分と距離を作り、他人事みたいに思えてしまって、自分がそれまでそのゴタゴタに関与していたのが嘘のように思えてくるんや。

ただ一回限り、今世のみを生きなさい。
あまりにこの世の魅力にとらわれてしまって喜びと悲しみから成るこの世に繰り返し生まれ変わるべきではありません。
すこし身を引いて、世間に巻き込まれることなく、この世はすべて神をディレクターとする劇であると気づきなさい。
でないと、あなたはあまりにもこの世間に巻き込まれ、逃れることが出来なくなってしまうでしょう。
この世を犠牲、奉仕、あなたのハートを広げ、心をきれいにする修行の場とみなしなさい。
実はそれこそがこの世の持つ価値なのです。2-62 SIP

ポニョ:この前も同じようなアドバイスをしてくれたんやけれど、おいらにはちょっと難しいな。だいたいおいらは何かを演じるなんて柄じゃ無いし、そんな事をしたら背中が痒くなってしまうぜよ。

ヨシオ:そんな事を前にも言ってたよな。でもこの世に囚われないように努力しないといけないよな。でも静かに自分を振り返ってみたら、この世的なものから得る喜びって全て一時的で限られたものって分かるやろ。永遠の喜びなんて絶対にこの世から得ることは出来ないんや。何か思いつくものがあるか?この世から得れる永遠の喜びって。無いやろ。何かスポーツをして大会で優勝して喜んでも、次の大会がまたやって来るし、何か欲しいものがあって、苦労して手に入れても、その維持費がかかったり、それより新しいモデルが出来て自分のやつが魅力的じゃないように見えたりするやろ。

本当の悦びはただの満足とは違います。
この二つの違いを理解していただくために、神への讃歌を歌う場合を見てみましょう。
口から出てくるだけの歌と、心から湧き上がって出てくる見事な歌、大きな悦びが自然にあふれ出るような歌があります。
それと同じように、目に見える物質的な世界で手に入るつかの間の楽しみと、心の底から湧き上がる本当の悦びがあります。
本当の悦びは、真実と結びついた永遠のものです。
世間のはかない楽しみにとらわれることの無い魂は神と一つです。
本当の悦びは移ろいゆくことがありません。
そこに付け加えるものは何もありません。
それ自体が満たされていて完全なのです。
この話の深い意味は、神を信じる者は世間のことに気を取られ、溺れてはいけないということです。
時間をかけて、彷徨う心を抑え、静かな心でいるように努めるのです。
本当の悦びは、静かで落ち着いた心からやって来るのです。
勝ち負けや損と得、喜びと悲しみのどちらにも左右されない涼やかな心から生まれるのです。SGc3

ポニョ:そうやな。永遠に得られる喜びか。だいたいこの肉体自体が、滅びていくものやから永遠の喜びってあるわけが無いぜよ。それにババは何か欲しいものを手に入れても、その物が後でその人の重荷になるって言っておられるぜよ。

ヨシオ:そうやろな。だいたい人って自分が生きていく上で必要とするもの以上のものを欲しがるんや。たとえそれを手に入れても、もっともっと欲しがるやろ。きりが無いんや。しかもそれらを手に入れる為には手段を選ばないっていうか、他の人に迷惑をかけても全然平気な自己中な人がいるやろ。

人間を除く全てのものは、自然の法則にしたがって生きています。
明日を、思い煩うこともなく、あるがままに満ち足りた生活を営んでいます。
自然は、創造物に何の不足もないように面倒を見ます。
然るに人間は、例えどのように多くのものを持とうとも、どのような安楽を享受しようとも満足を知りません。
彼はさまざまな物を欲しがり、そして物を欲しがる心を愛と考えます。
一旦そのような執着心が身につくと、欲望を追う衝動は止どまることを知りません。
そのような愛は、自分の利益と自己中心的な心に根ざしていることを、彼は気付かないのです。
今日の世の中で愛といわれているものは、実は利己心と自分の利益のみを考える心に他ならないことを、はっきり知っておかねばなりません。
彼のどの想念、どの言葉、どの行為をとってみても、利己心という悪魔が存在します。
人間は利己的衝動によってもてあそばれています。
利己心によってがんじがらめに縛られた人生は、迷妄にとらわれた人生といえます。
彼は、利己心という牢獄にとらわれた囚人です。
そのような人は、真の実在について経験することは出来ません。6/1985

ポニョ:おいらの周りにはその手の人間が掃いて捨てるほどいるぜよ。でもそういう人たちは、この世に生まれてからこのような利己的な自己中人間になったのではなく、前世から引き継いだ傾向がそのようにさせているって、以前言ってなかったか?確か三つの傾向があるって。

ヨシオ:そう。その三つの前世からの傾向とは、世の中の富や権力、名誉などを欲しいと思う世俗に関する欲望傾向が一つ目で、二つ目は学者たちが互いに足を引っ張り合いして競争相手を負かそうとする学問に関する欲望傾向。三つ目が自分の体を鍛えて筋肉をつけたり、ダイエットをして痩せて化粧ばっかりして自分の肉体誇る身体に関する欲望傾向があるんや。

不浄の傾向は、低い欲望をかきたてるもの、例えば映画などを見たがったり、魚や肉などを食べたいと思ったり、人格を台無しにするアルコール類を飲みたいと思ったり、怒り、迷い、貪欲、自惚れ、欺瞞、憎悪、嫉妬などの念を生じさせます。
そのような不浄の傾向には、栄光、権力、個人的な栄耀栄華を手に入れようとする世俗に関する前世からの欲望傾向、世に名の聞こえた学者となり、同じ分野の競争相手を負かそうとする学問に関する前世からの傾向、美しい肉体、筋骨たくましく、なめらかな肌を愛し、それらが皺や筋肉の歪みで衰えるのを好まない身体に関する前世からの傾向の三つがあり、それらは、あなたを生々流転の浮世の車輪に縛り付けます。
そして、ハートに侵入して次々に悩みを作り出します。
それは、過去の経験を思い起こさせ、快楽を思い出させるので、人はまたそれを味わいたいとの欲望を持ち始めるのです。
心は執着という傾向を持つゆえに、物資と外界に引きつけられ物質のことを絶えず考えるようになり、物資の属性に囚われます。
すべてそれは、心に前世からの傾向があるからなのです。
心に前世からの傾向が無い人は、外界の事物によって影響を受けません。DVJp80~3

ポニョ:そうやったぜよ。今思い出した。自分の今までの人生を振り返って、「あゝ、自分には肉体を美しくしたいという欲望が常にあったんや。それって前世からの欲望傾向やから、今までダイエットをしてお腹のポックリを引っ込めようとしたり、少し太り気味だったのでジョギングでもして体重を減らそうとしたけれど、そういう事は全て忘れて、今日からダイエットなんてせずに体重が増えるのも気にせずに、好きなものをたくさん食べようっと。」という風に決めたんやぜよ。ババの教えって、とても役に立つから嬉しいな。

ヨシオ:何でそうなるねん?

君の身体の中には聖なる心がある。
その心の中には神がいる。
それとともに、君の身体の中には一人の存在としての魂がある。
この二つ~神と一人の存在としての魂~は、身体の中では別々のものとして現れ、大いなる物語における役割をともに演じている。
この物語の作者の命ずるままに、この二つは、一つに出会ったり別れたりする。
物語の作者は良い方と悪方のそれぞれの役割を決める。
だが本当は、すべての役を演じているのは、ただ一人の神なのだ。
肉体の側から考えれば、内にひとつの魂があり、そのまた心の奥に、神がいることになる。
肉体に捕らわれていれば、二つは別々の存在のまま、それぞれの役を演じているように思うだろう。
だが自分は肉体だというまやかしが消えれば、この二つは一つになる。
そうなれば神の意識を悟り、永遠の悦びを味わうことが出来るだろう。
~すべては一つなのだ。
感覚にとらわれて、このすべては一つという気持ちを忘れ、落ち着きを無くしてはいけない。
悲しみと喜びから、執着と憎しみから心を自由にするのだ。褒められても、とがめられてもそれにとらわれてはいけない。
誰に対しても変わらない態度で接するのだ。
~この宇宙のすべてのものが神の現れだと信じれば、最高の英知あるものとなる。SGc34


心が囚われるって何?

2016-03-27 00:00:30 | 日記
感覚器官が感覚的なものに触れたときにはじめて喜びや悲しみが起こるのです。
世の中に感覚的なものは沢山あります。
ただ感覚器官がいろいろなものに触れすぎないように気をつけた方が良いのです。
感覚的なものははかなく移り変わります。
小さなものに捕らわれているから、人生のすべてが小さく汚れてしまうのです。
ご存知のように、たいていの生き物は、一つか二つの感覚にとらわれています。
~ところが人間は五つの感覚器官すべてに捕らわれてしまうのですから、人間こそ、あらゆる生き物の中で何よりももろい存在と言えるのです。SGc17

ポニョ:あんたが時々、おいらはこの世俗的な世の中に囚われているって言うから、一体、この世界に囚われているってどんな事を意味するのかなって考えてみたんや。

ヨシオ:ほぉ~ポニョがそういう事を考えるって珍しいやないか。いつもちょっと考えただけで脳みそが考え過ぎてショートして、耳の穴から煙が出るなんて言ってるのに。それでどんな結論になったんや?

ポニョ:別に結論っていうものは出ないかったんやけれど、この世の中に囚われるって、この世の中が真の世界やって思い込んでしまう事やろ。だから全ての問題がそこから派生して発生してしまうので、発声練習をしたらオリビアハッセーのような良い声が出るんやって、長谷さんが言ってた?

ヨシオ:あのな一体何を言いたいんや?人がこの世の物事に囚われてしまって、物事に執着してしまうのは、いつも言っているように肉体をコントロールしている五感が、見境なしに自分が見たものや聞いたもの、感じたものを追い求めてしまうからなんや。そうではなく、五感をコントロールしているはずの心が、五感を制御すればこの世の中の物事に囚われて執着してしまう事はないんや。ちょっと難しいけれど、今日から三回に分けてこの世にとらわれるって事をテーマに話してみよか?

心は感覚器官や感覚的なものに魅せられがちなものだが、執着を捨てるというのはそうしたものに捕らわれないことなのです。
感覚器官や感覚的なものの奴隷で無くなれば心は清められ、迷いに捕らわれることも無くなります。
この世のどんなものも、はかなく移ろいゆくことがわかれば、心は清らかになるでしょう。SGc12

ポニョ:という事は、五感をコントロールするはずの心がきちんと働いていれば、そういう事が起こらないって事になるんか?

ヨシオ:心って感覚器官を通じて表に出て行こうとする傾向があるんや。というのも昨日行ったように、心は月に代表されるように水の性質を持っていて、心の下にある五感と、心の上にあるブッディ英知は火の性質を持っている為に、水が火に挟まれると落ち着かない性質を持つんや。

ポニョ:ババは、心を馬の尻尾に例えておられたぜよ。いつも動いているって。

ヨシオ:尻尾だけじゃないやろ。馬のたてがみも、体の皮膚も耳も常に動いているのが馬やからな。そのいつも動いて落ち着かない心は、感覚器官から悪いものを見たり聞いたりして取り入れてしまうと、汚れてしまうんや。だから心を外ではなく、神様の方、英知の方に向ければ汚れは取れて、心本来の神のメッセージを伝えて、人を神さながらのように変貌さすという仕事が出来るようになるんや。

心が感覚器官の虜になってしまったら、心は汚れてしまいます。
ところが感覚器官から離れて、感覚の影響を無くしてしまえば汚れの無い心にまた戻るのです。
汚れた心と汚れの無い心の違いはそう理解することが出来ます。
心が感覚器官のために汚れていなければ汚れの無い心と言えます。
心が感覚器官に捕らわれてしまうとそれは汚れた心になるのです。
汚れた心は様々な思いの寄せ集めです。
考える働きそのものです。
心は考えるうちに汚れてしまいます。
汚れた印象を感覚器官から取り入れると、汚れた心になるのです。
汚れた心には決まった形はありません。
ただ考えるだけです。
汚れた心は感覚器官の印象から生まれます。
感覚器官から離れて心を神に向ければ、汚れた心から生まれるどんな苦しみや問題からも解放されます。
だから感覚器官から離れて、思いを神に向ける様努力をすべきです。
これが瞑想であり、神と一つになる道です。
汚れた心をきれいにして、再び汚れの無い心に戻る道です。
心には安らぎが必要です。
身体に休息が必要なのと同じように、心には平安が必要です。
どうすれば平安な心になれるでしょう。
思いを落ち着かせ、心の動きを鎮めれば平安でいられます。
心はいつでも感覚器官を通って、いろいろな感覚的なものを求めて外に出て行きます。
それが考える働きとなります。
外に向かおうとする心の働きを、内なる神に向ければ汚れた思いは無くなっていきます。そうなれば、正しく心を働かせ、心を静めることが出来るでしょう。
これが修行を続けるという意味です。SGc20

ポニョ:うーん。心を汚れさすのは、感覚器官ってわけやな。でも、人はこの世界に生きている限り、目は物を見たり、耳はラジオから流れて来るコマーシャルや人のうわさ話を聞いたりして、どうしても外界の影響を受けてしまうぜよ。

ヨシオ:それは誰でも受けるやろうけれど、そんな時は自分が心を惹かれそうになっている物の欠点や悪いところを探すんや。ババはいつも良いところだけを見なさいって言っておられるけれど、何かに心が惹かれそうになって、この世俗の世界に捕まりそうになった時は、その欠点を見るようにすれば、それから心を離す事が出来るんや。

すべての感覚の働きを正すのです。
私は何度も、あまりいろいろなものを見たり聞いたりしすぎないように言っています。
何かを見たり聞いたりすれば、そのことを思うようになります。
思っていれば、そのものへの執着が深まり、自分のものにしたくなります。
あるものについて話していると、その姿を思い浮かべるでしょう。
ですから、どんなものについても、最初にこう考えて下さい。
「それはどこかに欠点があるはずだ。」と。
欠点に気がつけばもうそれに捕らわれることは無いはずです。SGc17

ポニョ:物についてはそのように努力すればなんとか、自分が欲しいなとか、手に入れたいなとか思っても、コントロール出来るかもしれないけれど、人への執着はちょっと難しいぜよ。というか、人生、生きていて、親しい人との別離が一番苦しいぜよ。しかもそれが事故や災害などで突然予期しない時にやって来たら余計に苦しいぜよ。

ヨシオ:それは誰でもそうやろな。でも、ポニョは自分の友達や親戚家族の人が死んだら悲しむけれど、隣のおっさんが死んでもなんとも思えへんやろ。

ポニョ:そうやな。あのおっさんとうとう逝きよったか。もっと早くくたばると思ったんやけどな。結構頑張ったやないかぐらいにしか思わないやろな。

ヨシオ:その違いは一体なんやろな?

ポニョ:やっぱり、隣のおっさんは一年に二、三回しか声をかけないし、通りで見かけても、また一升瓶買って家で飲むつもりやな。あの飲み助ぐらいの関係やけれど、家族やったら毎日顔を合わしているし、もっと気持ちが入っているぜよ。

ヨシオ:その気持ちが入っているという事を執着っていうんや。執着心があるから人は自分の身内や友人が死んだら悲しむんや。

すべての人は必ず死にます。
誰もが死に向かって進んでいます。
それなのに誰かが死んだと聞くと、まるで死がいつかは誰もが迎える当たり前のことでは無くてひどく珍しい思いも寄らないことのように感じるのです。
特に身近な人や大切な人が亡くなった時には、悲しみにとらわれます。
そこに執着があるからです。
死は当然のことと分かっていながら、それでも人の肉体のことで悩むと言うことは、その人の肉体に執着を持ってしまったからです。
すべての悲しみの原因は執着にあります。
だから、誰かが亡くなって悲しむ最大の理由は愛では無くて執着なのです。SGc19

ポニョ:亡くなった人を恋しく思うは執着心のせいなのか?そう言われればそんな気もしない事はないけれどな。

ヨシオ:ポニョがそんな気がしないかするかに関係なく、執着心がある為に身内や知人が亡くなれば悲しみ、その執着心が無いから、隣のおっさんが死んでも悲しまないんや。このように今の人たちは、生まれてから死ぬまで執着心にまみれて人生を送っているんや。

ポニョ:人に言われるまで、自分がそれほど執着心にまみれて生活しているって気が付かなかったぜよ。そう言われればおいらの身の回りを見渡しても、自分のものがたくさんあるぜよ。先ず、家族やろ。それにアクアポニックスのシステムに、鯉ちゃんたち。それとオクラの丸みちゃんや…

今の人は実に容易く執着や憎しみの餌食になってしまいます。
「自分のもの」という思いに巻きこもれ、エゴに溢れています。
今、人々がどんな状態か、何をしているか、よく見てご覧なさい。
この世で誰よりも自分が大事だと思っているでしょう。
自分より偉い人は誰もいないと思いこんでいます。
その為に正しくものを見極めることが出来ません。
自分が混乱していることさえ気づかない有様です。
何でも自分がやっていると思い、自分を喜ばすために世の中が回っているような気でいます。
ところが世の中を動かしているのは自分ではありません。
良いことでも悪いことをするにしても、自分にはたいした力などありません。
この世界を創り守護している存在、この世界の父であり、母である存在、全世界の王である存在だけに世界を動かす力があるのです。
この宇宙の移ろいゆき、移ろうことの無いすべてを、ただ一つの存在が支配しています。それこそは、すべての人が悟らねばならない大事な真理なのです。
一時の感情にとらわれて、怒って我を忘れてはいけません。
怒れば心の平安は消えてしまいます。
悲しみ、挫折、苦しみ、心配などは、どれも皆さんが弱さを乗り越えられるかどうかを試す試練です。
本当に神を信じているか、辛いことがあっても耐えられるか、それにとらわれないかどうかが試されているのです。
学校の試験に合格するだけでは何もなりません。
人生が与えてくれる試験に合格しなければならないのです。SGc34


オクラのマルミちゃん

2016-03-26 00:00:42 | 日記
心の中の小さな想念は、池に投げ込まれた小石のように乱れを作り出し、心全体に広がって、さらにそこから全身に広がっていきます。
全身はその想念の性質の影響を受けます。
目はその想念に促されたとおりの光景を探します。
手はその想念の波の影響で、その想念とよく似た性質の行為をします。
同様に、足も感化されて、心にある想念に促された場所へと向かいます。
ですから、心に純粋で神聖な思いを育てるべきなのです。
純粋な思いが心からハートに入ると、それは体の隅々にまでに広がって全身を清めます。反対に、思いが不純でも、同じように全身がその不純物の影響を受けます。
もし、国中の人が純粋な思いでいるならば、国中が神聖になります。
それゆえ、神聖な思いを育てることが重要なのです。
もし、すべての人のハートに良い思いがあれば、人類は慈悲深くなります。
それと同じように、人生も甘美なものになります。
近ごろでは、人の心もハートも、汚れた不純な思いでいっぱいです。
不純がはびこる原因は何でしょう?
悪い想念こそが悪の源です。
いつも自らの心を検証し、その思いが正しいか間違っているか、純粋なものか汚れたものかを、まず最初に調べなさい。24/11/00

ポニョ:アクアポニックスはどうですか?上手く回っていますか?

ヨシオ:ポニョが大好きなオクラが育って来ているんやけれど、なんか病気かどうか知らないけれど、色が変な色なんや。

ポニョ:オクラって普通、緑色やけれど、どんな色をしてるんや?黄色やったら病気かもしれんな。

ヨシオ:黄色でも緑色でもなく赤色っていうか、紫色なんや。

ポニョ:それは別の種類のオクラでベニーっていうんや。別名赤オクラとも言って、とても美味しいでヤンス。あんたが種を蒔いたんやろ?なんでそんな事を知らないんや。

ヨシオ:俺が種を蒔いた時に、福岡正信さんみたいに自然農法をしようと、すべての種をごちゃ混ぜにして蒔いたんや。だから一体どれがなんの種かさっぱり分からんようになってしまったんや。

ポニョ:あのね、アクアポニックスは福岡さんみたいに種を混ぜなくても、バクテリアが上手く育ててくれるんでヤンス。赤オクラは普通、市場には並んでいないもんな。オクラには形状によって三種類あって、今あんたのところで大きくなっている赤オクラは五角形の形やろ。あと七角形のもあるし、おいらが好きな丸型のもあって、おいらのアクアポニックスのシステムには丸型の丸みちゃんという種類のオクラを育てているんや。というのも丸みちゃんは、他のオクラと違って15センチぐらいに成長してもまだ柔らかいんやぜよ。あんたが育てている赤オクラは五角形オクラやけれど、7センチぐらいまでに収穫しないと固くなって来て食べれないんや。もちろんアクアポニックスは水分をたっぷり含んだオクラが収穫出来るから、少しぐらい大きくなっても柔らかいんやぜよ。

ヨシオ:ヘェ~そんないっぱい種類があるんか?丸みちゃんってかわいい名前やな。誰かに子供の名前を決めて下さいって頼まれたら、丸みちゃんはどうですか?って言いたくなるよな。

ポニョ:赤ちゃんの時は丸くても、大きくなったら面長の顔やら、細長い痩せてる子供になったら逆に嫌味になるぜよ。他の子にいじめられるかもしれんで。細長い顔やのに、丸みちゃんなんて名前やったら。

ヨシオ:そうかもしれんな。そんな顔やったら、細身ちゃんという名前にしたらええやないか。丸みちゃんと細身ちゃんって可愛い姉妹になるやろな。

ポニョ:ならないっちゅうに。そのオクラやけれど、おいらのようにいつも早食いで胃が悪い人にはぴったりなんやで。もちろんビタミンやカルシウムが多く含まれているし、あのネバネバしたやつは、ベクチンヤムチンと呼ばれる物質で、消化を助けてくれるんや。

ヨシオ:あのな、野菜に消化を助けてもらわなあかんぐらい食べるなよ。だいたいポニョは食べ過ぎや。オクラだけではなく、今、トマトの収穫期やし、レタスは腐るほど育っているな。また俺が大好きなそら豆も順調に育っているし、とうもろこしや茄子、キヌサヤやプチトマト、ネギ、唐辛子やピーマンもどんどん大きくなって来ているな。野菜を買いにスーパーに行かなくてもええから助かるよな。全部自然農法で肥料や殺虫剤などを使っていないので安心して食べられるしな。朝ご飯は、アクアポニックスに行って適当にトマトやレタスなどを口に入れたら、お腹がいっぱいになるんや

ポニョ:それって贅沢な暮らしやぜよ。健康的やしな。

ヨシオ:ミミズもシステムの中に放してるけれど、どんどん増えてきてるな。この前海岸を散歩してたらたくさんイカの骨が打ち上げられていたので、たくさん拾って帰り、システムの中に入れたんや。多分カルシウムやミネラルがシステムの中に入って行くのでええやろな。

ポニョ:イカの骨を入れたんか?そんな話は聞いたことがないけれど、やってみる価値はあるやろな。本当はリンをたくさん含んでいる髪の毛なんかがええって聞いたけどな。でもその髪の毛の持ち主の想念なんかが入って来るし、誰の髪の毛かよくチェックしてから入れた方がええやろな。

ヨシオ:想念の力は、髪の毛に蓄積されるっていう話を以前したよな。

ポニョ:爪にも蓄積するんやったよな。

ヨシオ:また普段使っている食器やら、いつも身に付けている指輪やネックレスにもその人の想念の力は溜まっていくよな。だから、ベテランの運命鑑定師なんかは、その人がいつも身に付けている腕輪などを手に取るだけで、その人の事が分かるんや。

ポニョ:それってすごいよな。昔よくスプーン曲げなんてやっていたけれど、真新しいスプーンよりも使い古して人の想念がたくさん入っているスプーンの方が、曲げやすいなんて言っていたよな。

ヨシオ:想念の力って自分の内側の世界から湧き上がって来るもんやろ?だから、それをもっと深めて、もっと根源的な至福の源泉であるアートマと直接繋がった想念の力が出て来るようにすれば、常にポニョのようにいつも喜びに溢れた人生を歩めるんや。

身体も心も魂も健全な修行者は、内なる世界をじっと見ては内的歓喜に包まれて大喜びするのです。
そしてすべての想念、言葉、行為は内的世界に関する知識を完全に意識して、そこから発するものでなければなりません。
知性はさ迷う事なく、常に内なる世界に安住していなくてはなりません。
それが、内なる目なのです。
瞑想はそれを得るための、最も重要な道具なのです。DVJp26

ポニョ:おいらがいつもニコニコしてるのは、そんな顔やからなんや。意識的にやっているわけではないんや。想念の力って良い事だけではなく、悪い想念もあるぜよ。

ヨシオ:そういう悪い想念は人が自分の欲望を募らす事から生じるんや。人が今自分が持っているものや、置かれている立場に満足していれば、別に悪い想念は湧いて来ないんや。

ポニョ:つまり欲望が悪い想念の原因の一つって事なんか。確かに悪い想念を持っている人って何か欲望でギラギラしてる人って多いよな。それにそういう人は、何かを得ようといつも緊張してるから、早死にしたりする人が多いよな。おいらが会社勤めの頃、取引先のやり手の若い社長がいつもアメリカなど世界中をあちこちに飛びまくって契約を決めてきたりして頑張っていたけれど、ある日幼い子供を残してポックリ逝っちゃったな。

悪い想念は、心配、恐れ、そして緊張とともに病気をもたらします。
すべてのこれらの原因は、貪欲から生じます。
貪欲な人は権力や名声をもっと得たいと思います。
貪欲の行き着く先は苦悩と絶望です。
満足は霊性から得ることができます。
この世の物質的な欲望とは手を切らねばなりません。
自分のための仕事と神様のための仕事を区別してはいけません。
すべての仕事はどのような結果が得られようと、それは神からの贈り物だと思わねばなりません。
もしこのような態度をとることができるのであれば、苦悩や痛みは私達をタフにするだけではなく、神への道へと歩む助けにもなります。SSSvol,11p255

ヨシオ:それは気の毒な事をしたな。そういやそんな事を昔話していたよな。なんでもオレゴンでビジネスを展開していた若い社長が亡くなったって。

ポニョ:そう。その社長や。いつも精力的やけれど顔色が悪いので心配してたんや。

ヨシオ:人はいつ死ぬか分からないもんな。だからそういう世俗的な事に一生懸命やり過ぎて、この人生で一体何をしなければいけないのか、見失って生活をしている人がほとんどやもんな。

ポニョ:以前、全ての人は神様に向かう大きな山の登山者やっていう話をしたけれど、人それぞれ何合目を登っている人かによって、どれくらいその人の人生に神様がいるかが違って来るよな。

ヨシオ:でも、一度神様の方に心が向いてその御名を唱える事によって体験出来た至福の気持ちを得たら、それが忘れられない体験になって、ずっと内的世界の方に向かって生きて行けるようになるんや。もちろん人によってその人の前世からのカルマによって違うけどな。

心を甘美さを与える神聖な事物と、神と交わって得られる甘美さに向けなくてはなりません。
もちろんそれには時間がかかります。
どれくらいの時間かは、各自の想念や言葉と、それを促す動機によって違います。
肝心なことは、その人が祈りのために使った金の額や、修行の年数、礼拝の儀式の仕方や祈りの回数とは関係なく、どれ位、心底から祈ったかが重要であり、成果を得られるまでにどれほど忍耐強かったか、世俗の喜びに対して執着を持たず、成果が上がらなかってもただ一筋の真心を持って神聖至福を希求したかが、大事なのです。DVJp12

ポニョ:神への愛をこの生でどれくらい培えたのか?そしてそれだけが次の生に持って行けるもんやって言ってたよな。人生の最後がおいら達に近づいて来ているけれど、一体どれくらい心を込めて神の御名を唱え続けて行く事が出来るか、一人ひとりに問われているよな。

御名を唱えることで神聖歓喜を味わったなら、もはや一刻たりとも、御名無しにいることは出来なくなります。
そして、神の御名を、今、あなたの意識の中を占有させない。
そうでないとあなたが亡くなる最後の瞬間に、あなたの心に浮かんでくるであろう情緒と想念のうねりの中に、神の御名は呑み込まれて思い起こすことが出来なくなってしまうでしょう。OCSp152

ヨシオ:お互いあまり人生も残されていないし、この肉体を離れるまで一体どれくらい自分たちのハートを神聖で純粋なものに出来るかが大事な事なんやろな。

ポニョ:それには先ず、口に入れるものがどれくらい汚染されていなくて新鮮なものかという事が大切やぜよ。赤オクラは美味しいよ。ちょっと分けてくれますか?

ヨシオ:…。

ハートは柔らかく、心は甘く、時間は神聖である、と言われています。
その状態の下で、一体どこから欠陥が生じるのでしょう?
あなたの心が神聖で、純粋で、柔らかく、甘い思いに満ちていることを確実にする必要があります。
偉大なサーダカでさえ、まず第一に優しいハートを育てるべきです。
神の贈り物である今回の人間としての生を無駄にすべきではありません。
神には神の計画があり、そのために神はあなた方全員に命を授けたのです。
神は、各人がそれぞれ他の人々の理想となることを意図しています。
あなたはその理想を知るよう努力すべきです。
その理想は、純粋かつ神聖です。
人間のハートの重要性は、ハートの純粋さと神聖さにあります。
不純な思いが入ってくると、ハートは不純になり、行動は邪道に陥ります。
あなたの想念や欲望はすべて全身に広がりませんか?
自分が言っていることと別の行動を取るのは正しいことですか?
言うことと考えることの出所は別ではありません。
体の各部へと向かう流動体の流れの源は一つであり、それはハートです。
ハートを愛で満たすなら、あなたの発言と行動は純粋で神聖なものになります。
五つのインドリヤ〔五感〕は、主要タンクから給水される複数の蛇口のようなものです。もし、主要タンクが純粋な思いという水で満ちていれば、どうして不純な思いや行動が生じることなどあるでしょう?
ハートが純粋な愛に満ちていれば、舌が不純な言葉を発することはなく、目が淫らなものを見ることもありません。
また耳は神聖さを汚す音を聞くことを避けるでしょう。24/11/00