http://bccks.jp/bcck/121362/info
Sai's Message for The Golden Ageは上記のリンクから、また「サイババが帰って来るよ。」四部シリーズは、紙本も含めて下記のポニョ書店からどうぞ。
http://bccks.jp/store/114521
ある日、いつものように、風呂上がりに服を召してもらっていると、突然、
「少しお伺いしたいのですが、私はいつもこんな風に、あなた方のお世話になっているのでしょうか。」
「もしそうだとすれば、私の人生は、一体どうなってしまってたのでしょうか。」
「このまま、あなた方にお世話になりっぱなしというのは、少しどうかと思います。」
「このような生活を続けて行くのが良いのかどうかを、今、それを私自身、真剣に考え直さなくてはいけない時に来ているんだと思います。」
とても立派な日本語だった。
東洋子は、昔から周りの状況を自分が受け入れられない時、関西弁が影を潜めて父親の言葉である標準語で話すのが常だった。
その夜、東洋子はそれ以上の事は話さなかった。
何を言っても、頷くだけで無言だった。
でも、目はしっかり何かを見据えていた。
世潮は自分の母は、ほとんど元の母に戻ったと感じていた。
以前、母が何かを決意した時、いつもそんな目をしていたものだった。
そして、その目が今、ここにあった。
あくる朝、いつものように朝の挨拶に行った。
昨夜のあの目が、まだそこにあった。
「おはようございます。東洋子お母さん。あなたの息子の世潮です。」
といつものように挨拶すると、「あんたが、息子だって事ぐらい分かっているよ。」と言いたいような軽蔑した顔で見た。
そして、いつものように嫁と手早く、しもの世話をして部屋を出て行こうとすると、
「これが、あんたの仕事かい?情けないね。男の仕事じゃないよ。ほんとに。こんな風に私の面倒を何年もしているのかい?本当にご苦労様と言いたいけれど、こんな調子であんたや嫁に私の知らない間に迷惑をかけて来たんだっら、早く死んだほうがマシだ。長生きしたくないね。」と言った。
アルツハイマーになって、記憶を失い日常生活もままならなくて、自分が気がつかないうちに色々と、人の世話になる。
そしてある日突然、記憶が蘇ってもとに戻り、自分の置かれている状況に唖然とする。
しもの事まで、息子の世話になっている自分が情けない。
全く知らなかった。こんな風に自分がなっているなんて。
息子や嫁に、申し訳ない。
でも、自分でどうしていいのか分からない。
そんなやり切れなさでいっぱいだった。
ただ、唯一の救いだったのは、家族の皆が幸せそうに、私に接してくれている事。
私の世話をすることが、まったく負担になっていないように見えることだった。
東洋子は、世潮の還暦祝いのパーティーの写真を手に持っていた。
孫たちも、そして自分も一緒にその写真に収まっていた。
自分がいつも行く、大好きなインド洋の海岸だった。
東洋子は、その写真に写っている世潮を見ていた。
少し年を取ったようだ。白髪も増えて、顔にも深いシワが刻まれている。
もう、還暦を迎えたのか。あの子が…
主人を若くして亡くして以来、必死で二人の子を育て上げて来た。
世潮が還暦を迎えるのを見れるまで、自分がまだ生を受けていることに感謝した。
幸せを感じた。そして自分の目の前に、その世潮がいる。
日常生活の細々した事さえ自分で出来ないということが分かって落ち込んだが、今はそれを受け入れようとしていた。
今まで、何か自分が現実から離れたところにいて、テレビのスクリーンを見ているような感じで、見るもの聞くもの全てに現実感が感じられなかったが、今は違う。
突然、この世界での自分の存在感を確かめたくなって、目の前にいる息子に声を掛けようと思った。
「世潮、一体何をしているのや。忙しそうやな。またなんか機械の修理か?あんたが今、手に持っている道具は何の為に使うねん。」と言った。
きちんと顔を見て名前呼び、しかも他人の仕事に興味を持って話しかけるなんて、ここしばらく記憶にないぐらい前のことだったので、世潮は飛び上がる程驚いた。
東洋子はいつも、世潮の事を介護人だと思っていて、自分の二人の子供の自慢話をヨシオにするのが常だった。
何百回、同じ話を聞いただろうか。
東洋子にとって世潮はいつも、介護の兄ちゃんだった。
「俺のこと今、世潮と呼んだの?」と聞いた。
「そうや。あんたは、世潮やんか。」
「………。世潮って誰や。」と尋ねた。
「世潮ってあんたやないの。私の息子やないの。あんた自分の事忘れたんか。」と言った。
世潮は、返事をせず黙って東洋子に近づき横に座りながら手を握った。
「お帰りなさい。」
「俺はもう、介護の兄ちゃんと違うんや。」
「戻って来てくれてありがとう。」そして、顔を背けて泣いた。
「ひどい、病気やったな。アルツハイマーは。」
「サイババさん、ありがとう。」
「ヴェーダの贈り物をありがとう。」と言った。
そして、神への感謝の心でいっぱいになり、
「ハレラーマ、ハレラーマ、ハラ シヴァ シャンカラ」とバジャン(神への賛歌)を歌い始めた。
東洋子は、ハッピーそうに手拍子を始めた。
母と息子の二人だけのバジャン。
ハートに残るバジャンと手拍子。
息子の歌で母は手拍子
そのリズムに乗せて
神々は、歓喜のシヴァダンスを踊る。
清き心の母と、それを慕う孝行息子。
神々も喜ぶ 狂喜のシヴァダンス
クリシュナ神も、ラーマ神も、イエスも、仏陀も、アッラーも
一同に集って、さあ、この母と息子を祝福しよう。
これが東洋子の今生での最後のバジャンになった。
その後、東洋子は孫などの顔を見ながら名前を正しく呼んで、一人一人抱き合って喜んでいた。
「世潮や、嫁さんや、こうして、素晴らしい孫たちに囲まれて私は幸せや。みんなに会えて嬉しい。」と久しぶりに会ったように言った。
その後、興奮して疲れたのか熟睡したまま夕方まで起きてこなかった。
夕方、いつもの散歩に行くために起こすと、
「散歩に行こか。」
「行くよ。」
「いつまでも寝てたら身体に悪いもんな。」
「そうやな。」
という健常者と変わらない普通の会話をして、家を出た。
いつものように二人で手をつなぎながら、時には腕を組んで歩いた。
東洋子は、とても楽しげだった。
「この道良く来たな。」と、世潮は言った。
「うん。よく来た。」
「私はあなたから遅れないように、ずっと一生懸命後ろから着いて来たんだよ。」
「こんな高い霊的なレベルまで連れてきてくれてありがとう。」と、東洋子は言った。
世潮は「霊的レベル?いや、着いてきてくれてありがとう。」と言った。
すると「私は、良いお母さんやったやか?」と尋ねて来た。
「そうやな、世界一の最高のお母さんや。ありがとう。」と答えた。
それを聞くと東洋子は、「こんなお母さん、世界中探してもおれへんで。」
とイタズラっ子のような笑みを浮かべながら言った。
世潮は「またサイババさんがお袋になって、自分と話している」と感じた。
東洋子は長い間宙を見上げるようにしていたが、やがてポツリと言った。
「もうすぐやな。サイババさんが戻って来られるのは。」
その後、座り慣れた芝生の見える公園のベンチに腰を下ろした。
いつもだと、空を飛んでいるペリカンやオウムを見て喜んだり、クッカバラの鳴き声を聞いて楽しんだり、走りまわっている子供や犬を見たりするのだけれど、この日は、世潮の顔だけを目をいっぱいに大きく開けて、何も話さず満面の笑みを浮かべて見つめていた。
そして世潮の頭をなでたり、手を握ったりしていた。
世潮もほほ笑み返した。
東洋子は、世潮の目をそらさずにずっと見つめていた。
世潮は、「俺が生まれた時から、この人からこんなにも愛してもらっている。」
「ずっと愛してもらっている。なのに俺は、自分がすべき介護を放棄して、この人を一瞬でも老人ホームへ入れようと思った。」
「なんて罪作りな息子なんだろう。」
「俺はあなたが死ぬまで、どんなことがあっても愛を最大限捧げて、あなたを最後まで自分で面倒見ます。」
「あなたが経てきた苦労とは比べられないけれど、再婚もせず、私たち兄妹のために人生を犠牲にして育て上げてくれたことに対する、ほんの少しだけの御返しです。」
「母、東洋子は、世界で一番幸せなアルツハイマー病の患者だったと、世界中の人に誇りを持って宣言出来るぐらい最後まで精一杯介護をします。」
と心で誓った。すると、世潮を見つめていた東洋子の顔が、突然サイババさんの顔に変わった。
そして世潮を見て微笑んだ。あの見慣れたスワミの慈悲溢れる目で…。
世潮は、ベンチから落ちそうになるぐらい驚いた。
「スワミ、スワミだ。」と言おうとしたが声が出なかった。
涙を必死でこらえた。
身体全体が燃え尽きるぐらいの愛のパワーだった。
インタビュールームでサイババさんのすぐ横に座り、目を至近距離で見入られたときと同じ感覚だった。
こんなところで、サイババさんを至近距離で見れるとは予想だにしていなかった。
しばらく口もきけずに、唖然としてただ見つめていた。
やがて東洋子の顔は、元に戻っていた。
先ほどの興奮がまだ体全体を火照らせていた。
そして、少し気を落ち着かそうとベンチを立って10メートルほど歩くと、
突然、後ろから「世潮!どこに行くんや。どこにも行かないでー!」
「私のそばに戻って来て~!」
「ここに来て~!」と、
のどの底から、魂を振り絞ったような大きな声で叫んだ。
世潮は「どこにも行かないよー!いつもそばにいるよー!」
と言って走って横に座り手を握ると、東洋子は幸せそうに世潮の手をギュッと握り返した。
それが、東洋子の最後の言葉だった。
家に戻り、いつものように大好きなお風呂に浸かってしばらくすると、眠るように息を引き取った。
安らかな死に顔だった。
あくる日世潮は、気が抜けたように妻と二人で、東洋子が愛していたインド洋のビーチをフラフラと歩いていた。
どこに行っても、東洋子との思い出の場所から逃げることは出来なかった。
何を見ても、母親との事が思い出された。
十二年の介護の歳月の思い出は、すぐに拭い去ることは出来なかった。
風がとても強く荒れた日だった。波も結構高かった。
世潮は妻に何も言わず、海に入る合図をした。
いつもの合図だった。
しばらく沖に向かって泳いだ。岸が遠ざかり、だんだん波間からも見えなくなって行った。
波が高く、周りは波の壁しか見えなかった。
強風が、波と波の間を水しぶきを撒き散らしながら駆け抜けて行った。
世潮は東洋子に連れられて、カトリックの小学校に入れられた。
毎日、マリア様にお祈りをする習慣をつけられた。
寝る前に、マリア様にお祈りしていたお願い事というのは、母、東洋子の事だった。
父をあんなに愛していたのに、一人になってしまった母が不憫だった。
父と母と三人で夜になると、大阪の中之島界隈を大きなバイクでぶっ飛ばして走った。
そして最後に行きつけの屋台のラーメンを食べに行き、三人で仲良く顔をつき合わして食べた。
冗談の大好きな、とても明るい父だった。
母もよく笑っていた。
自分も二人が笑うと理由もなく一緒に笑った。
それを見て、父母も更に笑った。
父が亡くなったのは世潮が四歳の時だった。
世潮はそれ以来笑わなくなった。
母の嗚咽する声が、毎晩母の寝室から聞こえて来たから。
可哀想な母が幸せになりますようにと、毎日マリア様にお祈りをしていた。
自分ができる限り母を幸せにしてあげようと子供心に決意していた。
波に身体を浮かべながら世潮は東洋子に許しを乞うた。
お母さん。あの時、オムツが濡れていたのを知っていたのに、面倒臭くて替えませんでした。ごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん。あの時、お風呂の湯が熱すぎて、のぼせさせてしまったことを。ごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん。散歩が面倒な時があって、近道して帰ったことがありました。あなたの、唯一の楽しみだったのに。ごめんなさい。どうか許して下さい。
お母さん。朝寝坊して、朝の挨拶が遅れ、お腹をすかしたまま長い間ほおっておいてごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん。介護を始めてた頃とても辛くてあなたが早く逝けば楽になるのに、と思ったことが何度もありました。ごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん。あなたのしものお世話をさせてもらっている時、汚物が手などに付いて取り乱し、あなたを傷つけてしまいました。
ごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん……
母に、十二年間の介護生活で自分が思いつく限りの不手際の許しを乞うた。
そして、心にいつも思っていたけれど口に出して始めて叫んで言った。
「愛してたよ~!お母さん!今までいっぱい愛をくれてありがとう~!」
そして世潮は、東洋子が亡くなってから初めて大声で泣いた。
周りは、波の壁しか見えなかった。
波のしぶきが、時折り喉の奥に突き刺さって痛かった。
泣き声が、その度に壊れた蓄音機のような音になった。
しばらくすると声が聞こえた。
東洋子の声だ。
「世潮…世潮…私は…幸せでした。とても幸せでした。ありがとう…本当にありがとう……」
そのあと、東洋子の声がサイババの声に変わった。
「お前はいつになったら、気づくのかい。」
「私が東洋子だって事を。」
「私はパーフェクトなアクターなのだ。」
「お前にそのヒントを与えるために、東洋子を通じて私は私自身を顕して、お前を見つめたのだ。」
「実は、お前はずっと私の介護をしていたのだよ。」
「お前は今まで何度もそれに気付いていたはずだ。」
「もう泣くのはおやめ。」
「私まで苦しくなるから…」
「幸せになりなさい。」
「満足しておるよ。」
「息子よ……よくやった。」
神の恩寵は、真の信者の上に限りなく降り注ぐ。
信者と神の関係は、目とそれを守るまぶたのようなもの。
いかなるカルマを背負っていても、神は信者を見捨てることは絶対ない。
たとえ不治の病でも、癒せない病はない。
信者がいて神がいる。神がいて信者もいる。
愚か者よ。
お前が自分を信者と思っている限り、お前はずっと信者なのだ。
本当の本当は、信者と神はひとつなり。
二つは一つで、一つが二つに見えるだけ。
それだからこそ、信者が汚れなき心で神を呼べば、
この世の中で、癒せない難病など何ひとつもない。
アルツハイマー病でも、癌でも
それらは唯の、信者と神を結びつける為の創造主のオモチャなり。
(完)
今回の記事を歌にしてみました。是非お聞き下さいね。
https://m.youtube.com/watch?v=iJdpmdaJD40
東洋子のお話は、英語版ですがBlack Inc.より「TOYO」というタイトルで発売されています。
http://www.amazon.com/Toyo-A-Memoir-Lily-Chan-ebook/dp/B0090WXH3G
オーストラリア女流新人作家に贈られるドビー文学賞受賞作品
コリンローデリック賞候補作品
Sai's Message for The Golden Ageは上記のリンクから、また「サイババが帰って来るよ。」四部シリーズは、紙本も含めて下記のポニョ書店からどうぞ。
http://bccks.jp/store/114521
ある日、いつものように、風呂上がりに服を召してもらっていると、突然、
「少しお伺いしたいのですが、私はいつもこんな風に、あなた方のお世話になっているのでしょうか。」
「もしそうだとすれば、私の人生は、一体どうなってしまってたのでしょうか。」
「このまま、あなた方にお世話になりっぱなしというのは、少しどうかと思います。」
「このような生活を続けて行くのが良いのかどうかを、今、それを私自身、真剣に考え直さなくてはいけない時に来ているんだと思います。」
とても立派な日本語だった。
東洋子は、昔から周りの状況を自分が受け入れられない時、関西弁が影を潜めて父親の言葉である標準語で話すのが常だった。
その夜、東洋子はそれ以上の事は話さなかった。
何を言っても、頷くだけで無言だった。
でも、目はしっかり何かを見据えていた。
世潮は自分の母は、ほとんど元の母に戻ったと感じていた。
以前、母が何かを決意した時、いつもそんな目をしていたものだった。
そして、その目が今、ここにあった。
あくる朝、いつものように朝の挨拶に行った。
昨夜のあの目が、まだそこにあった。
「おはようございます。東洋子お母さん。あなたの息子の世潮です。」
といつものように挨拶すると、「あんたが、息子だって事ぐらい分かっているよ。」と言いたいような軽蔑した顔で見た。
そして、いつものように嫁と手早く、しもの世話をして部屋を出て行こうとすると、
「これが、あんたの仕事かい?情けないね。男の仕事じゃないよ。ほんとに。こんな風に私の面倒を何年もしているのかい?本当にご苦労様と言いたいけれど、こんな調子であんたや嫁に私の知らない間に迷惑をかけて来たんだっら、早く死んだほうがマシだ。長生きしたくないね。」と言った。
アルツハイマーになって、記憶を失い日常生活もままならなくて、自分が気がつかないうちに色々と、人の世話になる。
そしてある日突然、記憶が蘇ってもとに戻り、自分の置かれている状況に唖然とする。
しもの事まで、息子の世話になっている自分が情けない。
全く知らなかった。こんな風に自分がなっているなんて。
息子や嫁に、申し訳ない。
でも、自分でどうしていいのか分からない。
そんなやり切れなさでいっぱいだった。
ただ、唯一の救いだったのは、家族の皆が幸せそうに、私に接してくれている事。
私の世話をすることが、まったく負担になっていないように見えることだった。
東洋子は、世潮の還暦祝いのパーティーの写真を手に持っていた。
孫たちも、そして自分も一緒にその写真に収まっていた。
自分がいつも行く、大好きなインド洋の海岸だった。
東洋子は、その写真に写っている世潮を見ていた。
少し年を取ったようだ。白髪も増えて、顔にも深いシワが刻まれている。
もう、還暦を迎えたのか。あの子が…
主人を若くして亡くして以来、必死で二人の子を育て上げて来た。
世潮が還暦を迎えるのを見れるまで、自分がまだ生を受けていることに感謝した。
幸せを感じた。そして自分の目の前に、その世潮がいる。
日常生活の細々した事さえ自分で出来ないということが分かって落ち込んだが、今はそれを受け入れようとしていた。
今まで、何か自分が現実から離れたところにいて、テレビのスクリーンを見ているような感じで、見るもの聞くもの全てに現実感が感じられなかったが、今は違う。
突然、この世界での自分の存在感を確かめたくなって、目の前にいる息子に声を掛けようと思った。
「世潮、一体何をしているのや。忙しそうやな。またなんか機械の修理か?あんたが今、手に持っている道具は何の為に使うねん。」と言った。
きちんと顔を見て名前呼び、しかも他人の仕事に興味を持って話しかけるなんて、ここしばらく記憶にないぐらい前のことだったので、世潮は飛び上がる程驚いた。
東洋子はいつも、世潮の事を介護人だと思っていて、自分の二人の子供の自慢話をヨシオにするのが常だった。
何百回、同じ話を聞いただろうか。
東洋子にとって世潮はいつも、介護の兄ちゃんだった。
「俺のこと今、世潮と呼んだの?」と聞いた。
「そうや。あんたは、世潮やんか。」
「………。世潮って誰や。」と尋ねた。
「世潮ってあんたやないの。私の息子やないの。あんた自分の事忘れたんか。」と言った。
世潮は、返事をせず黙って東洋子に近づき横に座りながら手を握った。
「お帰りなさい。」
「俺はもう、介護の兄ちゃんと違うんや。」
「戻って来てくれてありがとう。」そして、顔を背けて泣いた。
「ひどい、病気やったな。アルツハイマーは。」
「サイババさん、ありがとう。」
「ヴェーダの贈り物をありがとう。」と言った。
そして、神への感謝の心でいっぱいになり、
「ハレラーマ、ハレラーマ、ハラ シヴァ シャンカラ」とバジャン(神への賛歌)を歌い始めた。
東洋子は、ハッピーそうに手拍子を始めた。
母と息子の二人だけのバジャン。
ハートに残るバジャンと手拍子。
息子の歌で母は手拍子
そのリズムに乗せて
神々は、歓喜のシヴァダンスを踊る。
清き心の母と、それを慕う孝行息子。
神々も喜ぶ 狂喜のシヴァダンス
クリシュナ神も、ラーマ神も、イエスも、仏陀も、アッラーも
一同に集って、さあ、この母と息子を祝福しよう。
これが東洋子の今生での最後のバジャンになった。
その後、東洋子は孫などの顔を見ながら名前を正しく呼んで、一人一人抱き合って喜んでいた。
「世潮や、嫁さんや、こうして、素晴らしい孫たちに囲まれて私は幸せや。みんなに会えて嬉しい。」と久しぶりに会ったように言った。
その後、興奮して疲れたのか熟睡したまま夕方まで起きてこなかった。
夕方、いつもの散歩に行くために起こすと、
「散歩に行こか。」
「行くよ。」
「いつまでも寝てたら身体に悪いもんな。」
「そうやな。」
という健常者と変わらない普通の会話をして、家を出た。
いつものように二人で手をつなぎながら、時には腕を組んで歩いた。
東洋子は、とても楽しげだった。
「この道良く来たな。」と、世潮は言った。
「うん。よく来た。」
「私はあなたから遅れないように、ずっと一生懸命後ろから着いて来たんだよ。」
「こんな高い霊的なレベルまで連れてきてくれてありがとう。」と、東洋子は言った。
世潮は「霊的レベル?いや、着いてきてくれてありがとう。」と言った。
すると「私は、良いお母さんやったやか?」と尋ねて来た。
「そうやな、世界一の最高のお母さんや。ありがとう。」と答えた。
それを聞くと東洋子は、「こんなお母さん、世界中探してもおれへんで。」
とイタズラっ子のような笑みを浮かべながら言った。
世潮は「またサイババさんがお袋になって、自分と話している」と感じた。
東洋子は長い間宙を見上げるようにしていたが、やがてポツリと言った。
「もうすぐやな。サイババさんが戻って来られるのは。」
その後、座り慣れた芝生の見える公園のベンチに腰を下ろした。
いつもだと、空を飛んでいるペリカンやオウムを見て喜んだり、クッカバラの鳴き声を聞いて楽しんだり、走りまわっている子供や犬を見たりするのだけれど、この日は、世潮の顔だけを目をいっぱいに大きく開けて、何も話さず満面の笑みを浮かべて見つめていた。
そして世潮の頭をなでたり、手を握ったりしていた。
世潮もほほ笑み返した。
東洋子は、世潮の目をそらさずにずっと見つめていた。
世潮は、「俺が生まれた時から、この人からこんなにも愛してもらっている。」
「ずっと愛してもらっている。なのに俺は、自分がすべき介護を放棄して、この人を一瞬でも老人ホームへ入れようと思った。」
「なんて罪作りな息子なんだろう。」
「俺はあなたが死ぬまで、どんなことがあっても愛を最大限捧げて、あなたを最後まで自分で面倒見ます。」
「あなたが経てきた苦労とは比べられないけれど、再婚もせず、私たち兄妹のために人生を犠牲にして育て上げてくれたことに対する、ほんの少しだけの御返しです。」
「母、東洋子は、世界で一番幸せなアルツハイマー病の患者だったと、世界中の人に誇りを持って宣言出来るぐらい最後まで精一杯介護をします。」
と心で誓った。すると、世潮を見つめていた東洋子の顔が、突然サイババさんの顔に変わった。
そして世潮を見て微笑んだ。あの見慣れたスワミの慈悲溢れる目で…。
世潮は、ベンチから落ちそうになるぐらい驚いた。
「スワミ、スワミだ。」と言おうとしたが声が出なかった。
涙を必死でこらえた。
身体全体が燃え尽きるぐらいの愛のパワーだった。
インタビュールームでサイババさんのすぐ横に座り、目を至近距離で見入られたときと同じ感覚だった。
こんなところで、サイババさんを至近距離で見れるとは予想だにしていなかった。
しばらく口もきけずに、唖然としてただ見つめていた。
やがて東洋子の顔は、元に戻っていた。
先ほどの興奮がまだ体全体を火照らせていた。
そして、少し気を落ち着かそうとベンチを立って10メートルほど歩くと、
突然、後ろから「世潮!どこに行くんや。どこにも行かないでー!」
「私のそばに戻って来て~!」
「ここに来て~!」と、
のどの底から、魂を振り絞ったような大きな声で叫んだ。
世潮は「どこにも行かないよー!いつもそばにいるよー!」
と言って走って横に座り手を握ると、東洋子は幸せそうに世潮の手をギュッと握り返した。
それが、東洋子の最後の言葉だった。
家に戻り、いつものように大好きなお風呂に浸かってしばらくすると、眠るように息を引き取った。
安らかな死に顔だった。
あくる日世潮は、気が抜けたように妻と二人で、東洋子が愛していたインド洋のビーチをフラフラと歩いていた。
どこに行っても、東洋子との思い出の場所から逃げることは出来なかった。
何を見ても、母親との事が思い出された。
十二年の介護の歳月の思い出は、すぐに拭い去ることは出来なかった。
風がとても強く荒れた日だった。波も結構高かった。
世潮は妻に何も言わず、海に入る合図をした。
いつもの合図だった。
しばらく沖に向かって泳いだ。岸が遠ざかり、だんだん波間からも見えなくなって行った。
波が高く、周りは波の壁しか見えなかった。
強風が、波と波の間を水しぶきを撒き散らしながら駆け抜けて行った。
世潮は東洋子に連れられて、カトリックの小学校に入れられた。
毎日、マリア様にお祈りをする習慣をつけられた。
寝る前に、マリア様にお祈りしていたお願い事というのは、母、東洋子の事だった。
父をあんなに愛していたのに、一人になってしまった母が不憫だった。
父と母と三人で夜になると、大阪の中之島界隈を大きなバイクでぶっ飛ばして走った。
そして最後に行きつけの屋台のラーメンを食べに行き、三人で仲良く顔をつき合わして食べた。
冗談の大好きな、とても明るい父だった。
母もよく笑っていた。
自分も二人が笑うと理由もなく一緒に笑った。
それを見て、父母も更に笑った。
父が亡くなったのは世潮が四歳の時だった。
世潮はそれ以来笑わなくなった。
母の嗚咽する声が、毎晩母の寝室から聞こえて来たから。
可哀想な母が幸せになりますようにと、毎日マリア様にお祈りをしていた。
自分ができる限り母を幸せにしてあげようと子供心に決意していた。
波に身体を浮かべながら世潮は東洋子に許しを乞うた。
お母さん。あの時、オムツが濡れていたのを知っていたのに、面倒臭くて替えませんでした。ごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん。あの時、お風呂の湯が熱すぎて、のぼせさせてしまったことを。ごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん。散歩が面倒な時があって、近道して帰ったことがありました。あなたの、唯一の楽しみだったのに。ごめんなさい。どうか許して下さい。
お母さん。朝寝坊して、朝の挨拶が遅れ、お腹をすかしたまま長い間ほおっておいてごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん。介護を始めてた頃とても辛くてあなたが早く逝けば楽になるのに、と思ったことが何度もありました。ごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん。あなたのしものお世話をさせてもらっている時、汚物が手などに付いて取り乱し、あなたを傷つけてしまいました。
ごめんなさい。どうか、許して下さい。
お母さん……
母に、十二年間の介護生活で自分が思いつく限りの不手際の許しを乞うた。
そして、心にいつも思っていたけれど口に出して始めて叫んで言った。
「愛してたよ~!お母さん!今までいっぱい愛をくれてありがとう~!」
そして世潮は、東洋子が亡くなってから初めて大声で泣いた。
周りは、波の壁しか見えなかった。
波のしぶきが、時折り喉の奥に突き刺さって痛かった。
泣き声が、その度に壊れた蓄音機のような音になった。
しばらくすると声が聞こえた。
東洋子の声だ。
「世潮…世潮…私は…幸せでした。とても幸せでした。ありがとう…本当にありがとう……」
そのあと、東洋子の声がサイババの声に変わった。
「お前はいつになったら、気づくのかい。」
「私が東洋子だって事を。」
「私はパーフェクトなアクターなのだ。」
「お前にそのヒントを与えるために、東洋子を通じて私は私自身を顕して、お前を見つめたのだ。」
「実は、お前はずっと私の介護をしていたのだよ。」
「お前は今まで何度もそれに気付いていたはずだ。」
「もう泣くのはおやめ。」
「私まで苦しくなるから…」
「幸せになりなさい。」
「満足しておるよ。」
「息子よ……よくやった。」
神の恩寵は、真の信者の上に限りなく降り注ぐ。
信者と神の関係は、目とそれを守るまぶたのようなもの。
いかなるカルマを背負っていても、神は信者を見捨てることは絶対ない。
たとえ不治の病でも、癒せない病はない。
信者がいて神がいる。神がいて信者もいる。
愚か者よ。
お前が自分を信者と思っている限り、お前はずっと信者なのだ。
本当の本当は、信者と神はひとつなり。
二つは一つで、一つが二つに見えるだけ。
それだからこそ、信者が汚れなき心で神を呼べば、
この世の中で、癒せない難病など何ひとつもない。
アルツハイマー病でも、癌でも
それらは唯の、信者と神を結びつける為の創造主のオモチャなり。
(完)
今回の記事を歌にしてみました。是非お聞き下さいね。
https://m.youtube.com/watch?v=iJdpmdaJD40
東洋子のお話は、英語版ですがBlack Inc.より「TOYO」というタイトルで発売されています。
http://www.amazon.com/Toyo-A-Memoir-Lily-Chan-ebook/dp/B0090WXH3G
オーストラリア女流新人作家に贈られるドビー文学賞受賞作品
コリンローデリック賞候補作品