絶対的善は存在しますが、絶対的悪は存在しません。
悪は変化するものであり、善の一つの側面を歪曲したものが悪なのです。
しかし、普通、肉体意識にとらわれている人は、善と悪を一つと見なすことは出来ません。
自分自身と他の人のうちに存在する神性意識を知った時に、私たちはじめて善と悪を同一視する事が出来るのです。
善のみが真実であり、目に見えるものがたとえ歪んでいても、本質的にはすべてが善であるという真理を、不断の態度としてあなたが培えば、非常な力を得ることができるでしょう。
~全ての人は良い人なのですが、悪い行動が伴っているのです。
作用と反作用の法則です。
それゆえ、邪悪な事件の被害者に関していえば、すべては何の例外もなく起こるべくして起こるのです。CWSSBJp139
ポニョ:今週がルーミーの詩の特集の最終回です。ルーミーって五行詩も入れたら何万もの詩を書いたんやろ。すごい量やぜよ。少しでも良いからそんな才能が欲しいな。
ヨシオ:詩を書こうと思う熱情はどこから出てくると思う?
ポニョ:おいらの場合は、動物や人や、生きとし生けるものに対する愛かな。
ヨシオ:そのポニョの愛と現実の間に大きなギャップがあるから、ポニョはそれに憤って、やるせないその思いが詩になるんやろな。
ポニョ:自分の感情を分析なんかしたことがないから、よく分からないけれど、多分そうやぜよ。
ヨシオ:ルーミーさんの詩が国境や宗教の違い、時代を超えて人々のハートに届くのは、ルーミーさんが真理に近いところにおられるからなんや。だから、人々のハートに届くんや。
ルーミーさんは、この世は真ではなく、移ろいゆくものであると悟り、人々がこの移ろい行く世界の事象に囚われているのを見て同情されているんや。
そして、真の知識を分かりやすく伝えようとされているんや。ルーミーさんの周りは神さんを求める人たちでいっぱいやけれど、その神さんも自分の外側を探すのではなく、自らの内側を探求しなければいけないと諭しておられるんや。
そして神さんと融合するには、エゴと欲望を無くしていかねければいけないとも諭しておられるんや。
ポニョ:それってサイババさんの教えと同じやんか。
ヨシオ:ルーミーさんは、人々がゾンビのようにこの移ろい行く世界を、儚いものを求めてさまよい歩いているのを、自分の詩によって人々を悟らせようと努力されているんや。
このように人が真理に近づくと、周りの人たちのこの世界に囚われている生き様に同情し、真理の光を世に示したいという欲望がどんどん強くなって、その真理の言葉がハートからほとばしって出て来るのが、聖者たちの詩なんや。だから世界中の人々に愛されるんや。
という事で今日は最終回ですね。皆さん、ルーミーの詩を楽しまれましたか?今日の最初の詩は、今言ったように、この世は移ろい行く、儚い夢のような世界ですよと謳った詩です。
翻訳は
http://levha.net/rumi/様からです。有難うございました。
進化の道程
最初にかれがあらわれたのは無生物の領域
そののち植物の領域にはいりこみ
しばらくのあいだ 植物の生を生きていたが
その間じゅう自分が何をしているのか
考えたこともなければ 思うこともなかった
それから道の先へ 動物の領域へ歩みを進めた頃には
植物であった頃について 二度と思い出すこともなかったが
まるで赤子が 何故とも知らず乳房を探し求めるように
自分が 甘い香りの花咲く季節を恋い焦がれているという感はあった
こののち更に あなた方も知るかしこき創造の御方は
動物の領域から人間の位階へと かれを引き上げたもうた
こうして領域から領域へと上昇するごとに
知性を持ち 狡猾さを身につけ ますます聡くなり
このようにして かれは今あるかれになった
今のかれの何処を探しても 過去の記憶は残っていない
そして今ある魂の如何により かれは再び変化を遂げるだろう
たとえかれが眠っていようとも 神はかれを忘却の淵に留めたまわぬ
目覚めてかれは つい今しがたまで見ていた悪夢を思って笑い
今あるこの幸福の状態を なぜ忘れていたのかと不思議がるだろう
あの痛みもその悲しみも すべては眠りがもたらすまぼろし
悪夢を見ていたことに なぜ気づかずにいたのかと思うだろう
永遠に続くかのように見えても この世は眠り人の見る夢に過ぎない
約束されたその日 昏い夢想から逃げおおせる者は誰か
まぼろしの悲哀を笑いに転じ 永遠の住処を手に入れる者は誰か
ポニョ:おいらが気に入った詩は、神様がモーセに苦言を呈している詩なんや。羊飼いが自分なりに神への愛を捧げているのにモーセは、それは何や?と文句を言ったけれど、神さんは
われは舌や言葉を見るのではない、
心と、意図とを見る
言葉に飾られた愛を受け取るのではない、
愛そのものを受け取る
美辞は要らぬ、麗句は要らぬ、虚飾は要らぬ!
愛を燃やせ、愛を燃やせ、
愛の炎を絶やしてはならぬ!
と言われるんや。そこのところが圧巻やったぜよ。
ヨシオ:神が、モーセはもっときちんと神の教えを申せと叱ったんやな。
ポニョ:何やそれ?
羊飼いの祈り
道の途上でモーセは羊飼いを見た。
羊飼いは涙をこぼして一心に祈っていた。
わが主よ、選ばれたる御方よ
どこにおられますか
おそばに参りましょう
そしてお世話をいたしましょう、愛しい御方
服を洗って差し上げましょう
シラミを退治して差し上げましょう
おなかが減ったらミルクをお持ちしましょう、
わが主よ、お仕えしがいのある御方よ
靴をこしらえて差し上げましょう
柔らかな髪をくしけずりましょう
小さな御手にくちづけましょう
小さな御足をさすって温めましょう
そしておねむの時間が来たら、
小さな寝室を掃き清めて差し上げましょう
これらの愚かな言葉を聴いてモーセは言った。
男よ、おまえは誰にむかってものを言っているのだ
なんとまあ良くしゃべる口か!
なんたる冒涜、なんたる愚劣!
その口に、綿でも詰めておくがいい!
無知な友にまさる敵なし、とは良く言ったもの
いと高き神は、おまえの言う奉仕など欲されてはおらぬ
羊飼いはそれを聴いて苦しみ悶え、
大きなためいきをひとつついた。
そして荒野へと去って行った。
その時、モーセに啓示が下った。
われとわがしもべを引き裂いたな
そなたは一体何者であるか
われとわがしもべの絆を結ぶために使わされた預言者か、
それとも引き裂くために使わされた預言者か
われは全ての者に、それぞれの方法を授けてある
それぞれが、それぞれにのみ為し得る方法でわれに仕える
ヒンドにあってはヒンドの方法が最良であり、
シンドにあってはシンドの方法が最良である
われは舌や言葉を見るのではない、
心と、意図とを見る
言葉に飾られた愛を受け取るのではない、
愛そのものを受け取る
美辞は要らぬ、麗句は要らぬ、虚飾は要らぬ!
愛を燃やせ、愛を燃やせ、
愛の炎を絶やしてはならぬ!
そなたの魂に、愛の炎を燃やし続けよ
愛の炎で、言葉も思考も焼き滅ぼせ
モーセよ、知っておけ
宗教を熟知する者の一群とは別に
魂に愛の炎を燃やす者の一群があることを
愛の宗教と、その他すべての宗教は峻別される。
神を愛する者は、もはや宗教すら持たない。
あるのはただ神のみである。
ヨシオ:ルーミーは自由意志についても言及しているな。自由意志って人が神の領域に近づけば近づくほど、その人の意志が神と重なり合って来る事なんや。それまでは、人は欲望やエゴ、嫉妬や執着によって心が汚れているので、自らの意志と神の意志は大きく乖離しているんや。
ポニョ:なのに自分は自由意志を持っていると思い込んで、この世界で好き放題しているのが人間なんやな。でも人がエゴや欲望で心を汚れたまま行為をすると、往々にして間違いを犯すよな。それらの間違った行為は、カルマの法則によってその人だけではなく、全ての人類に返って来るんやぜよ。
きらきらひかる羽飾り
「全部ゼンブ、引ッコ抜イテシマワナキャ」、孔雀は泣き叫んでそう言いました。
「コンナ豪奢ナ羽、ワタシヲ自惚レニスルバカリデ何ノ役ニモ立タナインダモノ」
才とか知とかといったものには、用心するに越したことはない。
ましてや、中途半端な愚か者ならなおさらのこと。
餌には夢中になるくせに、決して罠を見ようとしないのだから。
神への畏れという名の手綱に、きみ自身をつなげ。
きみの持つ強さと才知は、まさしくそのためにあるのだから。
自分で自分を制御できない者にとり、自由意志なるもの以上に、
致命的な災禍をもたらすものはないのだから。
ポニョ:さあ、ルーミーの詩も終わりに近づいて来ました。おいらが今回のルーミーの詩で一番学んだ事は、この世に絶対的な悪など存在しないという詩からなんや。おいらは支配層たちの悪行をいつも見ているから、どうしても奴らを許せないとか思ってしまうけれど、ルーミーによると、悪って相対的なものだから、悪も愛で持って見ないといけないなと痛感したぜよ。
ヨシオ:サイババさんも、悪人を自分の放蕩息子だと思って見れば許せるやろって言われているもんな。
悪きもの、この愛すべきもの
この世に、絶対の悪などというものは存在しない。
悪とは相関的なものだ。この事実を認めなくてはならない。
永遠ならばいざ知らず、時の領域においては、
ある者の足であると同時に、またある者の足枷でないものなど
何ひとつ存在しない。
ある者にとっては足、ある者にとっては足枷。
ある者にとっては毒である何かが、
ある者には砂糖のように甘く、活力を与える。
蛇の毒は、蛇にとっては生命そのもの。
だが咬まれた者にとっては死を意味する。
海は、そこに棲む生き物達にとっては庭となるが、
陸に棲む生き物達にとっては閉ざされた迷宮となる。
ここにザイドという一人の男がいる。
ある者にとっては悪魔のようにも思える男だが、
同時にまたある者にとってはあたかも天使のよう。
もしも彼に、良い振る舞いを期待するのなら、
彼を愛する者の眼差しを以て接するといい。
あなた自身の眼を用いてはならない、
あなたにとって美しいものを見ようとしてはならない。
冒険者の眼は、探すものを見失ったりはしない。
探すなら、全てを見通す者の眼を以て探せ。
愛する者の眼を通して、全てを見よ。
愛する者の眼を通して、愛する者の顔を見よ。
愛する者はこうも言う、
「誰であれ、われを愛する者をわれは愛する
われと共にある者とわれは共にある
われは愛する者の眼となり、手となり、脈打つ心臓となる」
この世に、絶対の悪などというものは存在しない。
たとえどれほどのものであろうとも、全ては愛への道しるべ。
それを知れば、この世の全ては愛すべきものとなる。
ヨシオ:ポニョが好きな詩の紹介が終わったので、俺が好きな詩を紹介するけれど、俺は神の工房という詩が好きやな。これは神さんが、この世界を創造されたけれど、人はこの世界に惹き付けられてこの世界の虜になり、この世に囚われてしまうけれど、それを神さんの工房に例えられているんや。つまり、工房で作られた作品に夢中になったらダメだよ。その作品を作った職人を探し求めなさいねという詩なんや。
神の工房
職人は工房の奥深くに隠れている。
工房の扉を開けて、中に入れ!
次から次へと運び出される、技巧を凝らした細工の数々。
見とれていると、あなたは職人を見失ってしまう。
職人は工房の奥深くで仕事をしている。
工房の外にいたのでは、職人には出会えない。
ならば、さあ、工房の中に入れ!
無を転じて有を生ずるその工房に立ち会え。
ファラオは、細工に心を奪われた。
それで神の工房の存在を知ることもなかった。
従って神の命ずるところを理解する機会もなかった。
職人の手によって自らを変化させることも叶わず潰えたのだ。