サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

クリシュナ物語(49)

2016-08-31 00:00:17 | 日記
ポニョ:このブログを始めた時から応援して下さっているさわこさんが長野の御自分の自宅でバジャン会とヴェーダを唱える練習を始めると連絡があったぜよ。再婚された旦那さんとあんたが知り合いやって言っておられたけれど、どこで知り合ったんや。

ヨシオ:二十二、三年前に、俺たち家族がホワイトフィールドのサイババさんのアシュラムに滞在していた時に、毎日のように熱心に俺の話を聞きに、インド人か日本人か分からんような肌の色が黒い方が来られていたんや。俺が不思議に思って聞くと、信州のスキー場で雪上車のドライバーの仕事をしているので日焼けしている九州男児ですって言っておられたな。

ポニョ:松岡さんって言われるんやろ。今ではサワコさんとの間にお子さんも出来て、幸せに暮らしておられるぜよ。今住んでおられる綺麗な二階建ての家の二階でバジャン会をされるんやて。その家は屋根から光を取り入れている設計で、人体の相似形のような造りで気に入っておられるんやて。将来、旦那さんは得意の足圧マッサージをそこで開業したいなって言っておられたぜよ。

ヨシオ:人の家の事にえらい詳しいやないか。でも昔から知っている古い帰依者の人達が、こうして活躍されているのを聞くと嬉しいよな。

ポニョ:という事で、会場は長野の茅野市湖東にある「けろっく」というパン屋さんの斜め前にある二階建ての家です。明日夕方五時からヴェーダの練習とバジャン会をされるそうですので、お近くの方はどうぞ。詳しくはサワコさんのブログで。http://ameblo.jp/premasaibaba/
記事に戻るけれど、前回の話でこんな興味ある事を言っておられたぜよ。「神は自分がまとった姿を用いて、アヴァターの使命を果たします。これはどの時代にも起こります。」って。ババは肉体を脱ぎ捨てられました。ハイもう、ババ様は目には見えませんよ。特別な修行をした人か、霊体の存在を感じる事が出来る人、またはババの微細体を見れる人にしかババ様を見たり、話を聞いたりすることが出来ません。君たちはババ様の微細体を見たり、感じれないんですか?そうですか。修行が足りませんね。もっと修行に励んで下さいね。とかなんとか言っているけれど、ババははっきり、御自分がまとった御姿で全ての人々の目の前で見えるようにアバターの使命を果たされるんや。だからもうすぐ、再降臨されてその肉体を持っておられた時の、御姿で大空に現れたり、山脈を持ち上げたり、何千もの体になって世界中に現れたりされるんやぜよ。

ヨシオ:そういう事やろな。

ポニョ:でも毎年、今年こそは現れられるだろうって思うけれど、まだ現れそうにないよな。

ヨシオ:結婚式のお色直しみたいなもので、花嫁さんは綺麗なドレスに着替えお化粧をやり直して披露宴にもう一度御姿を現わすには、時間がかかるんやぜよ。綺麗な色直しをすればするほど、時間がかかるんや。だからもうちょっと待ちなさい。

ポニョ:世界が本当にややこしくなって来ているぜよ。自称エリートたちが発行し、毎年、奴らが世界でどんな悪さをするかを表紙いっぱい絵に描いている経済雑誌エコノミーの三十年前に描かれた絵に、来年、新しい世界通貨を発行するっていう予言の絵が描いてあるのを見つけたぜよ。だから今年、世界経済をドンと落とすつもりなんやぜよ。ババが降臨されるのはその後やろな。もうちょい辛抱せなあかんかな。ガマンガマン。ダルシャンでババが出てこられているのをじっと待っているような気分やぜよ。というわけで、クリシュナのお話です。

クリシュナ神が生涯を共にしたヤーダヴァ族は、自分たちのエゴと憎悪のために滅亡しました。最後に、クリシュナ神は人間の衣を捨て、神の住処へと旅立ちました。その出来事をなすすべもなく見ていたアルジュナは、沈み込んですすり泣きました。愛しい神であり、友であり、哲人であり、指導者であったクリシュナ神との別離に耐えられず、アルジュナは泣き叫びました。

「おお! クリシュナ! あなたは、つねに私を守護しくださいました。あなたが天界の住処にお発ちになった今、私は誰に庇護を求めればよいのですか?」

アルジュナも、結局は、悲しみで時を過ごす無益さを悟り、ハスティナープラ〔クルクシェートラの首都〕に戻ることにしました。

ドワーラカーの都は、完全なる崩壊の様相を呈していました。ヤーダヴァ族は全滅していました。アルジュナは、そのような状況の中で自分はどうしたらよいのか分かりませんでした。アルジュナは、きっと母クンティーがクリシュナ神とヤーダヴァ族の人々の暮らし向きについて尋ねてくるだろうと、思いを巡らせました。多くの問いかけが頭に浮かんできましたが、アルジュナはそのどれにも答えることはできませんでした。

最終的に、アルジュナは神の命令により、ゴーピカー〔牛飼いの女性〕たちを全員集め、ドワーラカーを出て歩き始めました。途中、突如として、アルジュナとゴーピカーたちは森に住む遊牧民の集団に囲まれてしまいました。実に奇妙なことに、アルジュナは自分の弓、ガーンディーヴァを持ち上げることさえできず、愕然としました! クルクシェートラの戦いで敵軍の陣をやすやすと打ち破った偉大な戦士、アルジュナが、今やガーンディーヴァを持ち上げることさえできなかったのです。アルジュナは自らの無力さを嘆いて、クリシュナ神に祈りました。

「おお! クリシュナ神よ! 私の力はどうしてしまったのでしょう? 私の力はいったいどこに行ってしまったのでしょう?」

それに対して、アルジュナは自ら答えを出しました。

「私に力を授けてくださったお方が、今、それを持っていったのだ」

まったく無力となったアルジュナは、苦悩して最後にこうクリシュナ神に祈りました。

「ああ! 神よ! あなたは、ご自身であなたのゴーピカーたちを守らねばなりません。私は無力なのですから」

ようやくアルジュナは、クリシュナ神の聖なる恩寵によって野蛮人たちの手から救われた何人かのゴーピカーたちと共に、ハスティナープラにたどり着きました。そこでアルジュナが見たものは、絶望しきっている人々でした。アルジュナには人々の悲しみの理由が分かりませんでした。

一方、ダルマラージャ〔パーンダヴァ兄弟の長兄〕は、アルジュナからクリシュナ神の息災を聞きたくて仕方ありませんでした。アルジュナは答えました。

「起こったことをすべて詳細に話しましょう」

けれども、母クンティーは、どうしてもクリシュナ神の無事を聞きたいと思いました。クンティーは尋ねました。

「息子よ! アルジュナよ! 私の愛するクリシュナは無事なのですか? どうか私にドワーラカーでの滞在中に起こったことを、すべて話しておくれ」

クンティーは、しきりに事実を知りたがりましたが、アルジュナには、やはり真実を明かすことができませんでした。結局、アルジュナは心を静めて、クリシュナ神が天界の住処に発たれたこと、そして、その後の事の次第をすべて語りました。

クリシュナ神がこの世の肉体を脱ぎ捨てたことをアルジュナが明かした瞬間、母クンティーは悲しみに耐え切れず、腰掛けていた寝台の上に倒れました。ダルマラージャがそばに駆け寄り、こう言って慰めようとしました。

「母上! 起こるべきことが起こったまでです。これらはすべて、クリシュナ神の聖なるリーラー〔戯れ〕なのです。事態を嘆いたとて何の役にも立ちません。どうか起き上がってください」

しかし、母クンティーは返事をしませんでした。ダルマラージャは母がこの世の肉体を去ったことに気づきました。そこで、母の頭を膝に乗せ、弟たち全員を呼びました。そして、弟たちに母クンティーの葬儀の指示を与えました。それと同時に、後継者である若いパリークシット王子〔アルジュナの息子であるアビマンニュとウッタラーの子〕がハスティナープラの王となるための戴冠式に必要な手配の指示をしました。

その後、ダルマラージャは弟のナクラとサハデーヴァをそばに呼んで、パーンダヴァ兄弟のヒマラヤへのマハープラスターナ(大いなる行進)〔死ぬための歩行〕の用意をするように言いつけました。

これらに立ち会っていたパーンダヴァ兄弟の妃ドラウパディーは、もはや心の平静を保つことができませんでした。一方ではクリシュナ神の死去、そして、もう一方では突然の母クンティーの急逝という、二重の死に耐えられなかったのです。

ダルマラージャはアルジュナを呼んで、母クンティーの遺体の火葬の準備をするよう指示しました。アルジュナはそれに従いました。兄弟たちは悲しみを抑えることができませんでした。兄弟はクリシュナ神と愛する母を失い、二つの悲しみで涙を流しました。

ダルマラージャは、焼き物でできた壷に火を入れて携え、葬列を先導しました。その当時も現代と同じ慣わしが行われていたのです。葬列が進むにつれ、ハスティナープラの人々は感情を抑えられなくなりました。ついにクンティーの遺体が火葬場の薪の上に置かれ、ダルマラージャは薪に火をつけました。クンティーの体は瞬く間に火の中で葬られました。そして、パーンダヴァ兄弟は家路に就きました。
https://m.youtube.com/watch?v=uDFfkqNs6YE

内的視力と独り言

2016-08-30 00:00:26 | 日記
インド人のヨギの持つとてもセンシティブな内的視力の直感に基づくヴィジョンにより、宇宙のたくさんの秘密や過去や将来を、彼らの望む範囲内でのぞき見ることが出来た。
現在、イギリス人がインドの支配を捨てて20年以上になろうとしている。
このことは太古の聖者により、インドは西の果てからやって来る奇妙な人種の支配からナンダの年に自由になると5043年前に宣言されている。
どのようにしてこのようなことが5043年前に分かり得ることが出来るのであろうか?
ビハールの地震は、地震の起こる2年前にバルナーシの占星術師により正確に予言されていた。
何を基にして、天啓経典や占星術師はこのようなことをやってのけられるのであろうか?それは現代の科学者がよりどころとしている科学ではない。
それは直感にもとづく霊的体験からである。SSSvol6p210


ポニョ:昨日は太陽を凝視する事で内的視力を養う話をしました。

ヨシオ:太陽を見るだけで内的視力を養うことが出来るんか?

ポニョ:そうではなく、太陽を凝視して、その後瞑想をすれば太陽の光が網膜にしばらく残っているので、それに集中したら心が落ち着いて来て、いつも外側の世界の物ばっかり追っている心を鎮めることが出来るっていう話やんか。

ヨシオ:それを内的視力って言うんか?

ポニョ:そんな事を言ってないぜよ。内的視力を養うことが出来るって言ってるんや。人の言うことをよく聞いてくんろ。

ヨシオ:以前も言ったけれど、この世界は鉄粉が充満しているようなもので、神さんの純粋意識が磁力なんや。その磁力によって鉄粉がいろんな形を取ったのがこの宇宙であり、俺たちが住んでいる世界なんや。実はこの鉄粉と磁力である純粋意識の二つとも神さんなんや。そしてその神さんは、宇宙として姿を現されていて、いつも至福に満ちておられるんや。だから神さんのことをサット、チット、アーナンダ、つまり磁力である純粋意識であり、常に鉄粉のように充満していて、至福に満ちているんや。

ポニョ:今思い出した。そんな事を言っていたよな。神さんってサット分かろうとしてもチットも分からんアーナンダそうなんだって。それってずっと昔の記事やったよな。

ヨシオ:そんなしょうもないダジャレばっかり覚えてるんやな。今、神さんという言葉を使っているけれど、実は神さんって世界が創造される前は存在していなかったんや。世界が創造されてから、人々が出現し、その人々が拝む対象として神さんとして出現したんや。それまではたった一つの「私」しか存在していなかったんや。

ポニョ:その話も記事にしたよな。確かババが学生たちに「私は誰でしょう?」という質問をされて、学生たちが、「あなたは神です」とか、「クリシュナです」とか、言ったんやけれど、ババは「私は『私』です。」と言ったので、学生も「あなたがあなたなら、私も私です。」と返答してババに頭を殴られたんや。

ヨシオ:頭を殴ってないっちゅうに。それはポニョの作り話やないか。ババは、私は「私」ですと言われた意味は、肉体的な目でこの世界を見ると多様ないろんな物が目に飛び込んで来るけれど、内的視力を養うと全てのものは一つに見えるんや。それがババの言う「私」なんや。

ポニョ:そういう事なんか。鉄粉もそれを形にする磁力も全ては「私」やから、この世界には「私」しか存在しないんやな。

ヨシオ:だからそういう英知を得た人は、ポニョのようにグロ襟は悪いから嫌いや、とか言って誰かを毛嫌いしたり、逆に誰かを好きになって夢中になったりしないんや。その人の身に何が起こっても、どんな嫌な出来事の中にでも「私」つまりたった一つの唯一者しか見えないんや。それが内的視力なんや。

不活性物質と純粋意識は全宇宙の二つの本質的要素であり、それは至高神と自然の関係に当たる。
純粋意識の力が歓楽の思いを抱けば、この世界を現出する。
そして、不活性物質は肉体となる。
この両者とも私である。
この事により、創造、維持、破壊をもたらすイーシュワラは私なのだということを覚えておくのだ。
私以外の物質は存在しない。
私以外は、実体が無いのである。
私は第一原因であり、根本物質である。
私は唯一者である。
その私が多となろう、といって私自身がスリシュティと呼ばれる多様性の形で自らを拡大することを決意したのである。
その決断が、マーヤーシャクティに影響を及ぼして活性化させ、宇宙の原理が生まれた。それが自然界の進化の第一歩であった。
物質的な目で見れば宇宙には多くのものが存在しているように見えるがそれは間違っている。
沢山の物が存在しているのでは無く、内的意識は常に唯一者に向けられている。
それこそが真の視力である。
内的視力が英知に満ちている時、世界すなわち宇宙はブラフマン(神)として映り、それ以外のものには見えない。GithaVahini c11


ポニョ:人はこういう事を頭で分かっていても、目の前の幸せを追い求めて必死のパッチで生きてるやろ。欲望を満たせば幸せを得る事が出来るって思い込んでいるから、なかなか内的視力を探求する事なんて難しいぜよ。

ヨシオ:もちろん人はその人の欲望を満たせば、少しの間幸せ感に浸れるかもしれないけれど、それはあくまで一時的な幸せに過ぎないんや。永続に幸せを得る事が出来るものなんてこの世に存在していないように、わざと神さんがこの世界を創られたんや。

ポニョ:全てのものには始まりがあれば終わりもあるから、この世の全てのものは一時的一過性なものに過ぎないぜよ。

ヨシオ:でも人は誰でも多かれ少なかれ欲望を持っているやろ。大事なことはその欲望を膨らまさずに、コントロールする事なんや。以前記事にしたやろ。「我、唯足るを知る」って。

ポニョ:思い出した。今の自分に与えられた物で満足するって事やったよな。この世で一番貧しい人は、どれほど多くの物や金を持っていても満足出来ない人で、この世で一番富んでいる人は、今持っている物や地位で満足している人やという話をしたっけ。

人々は、欲望を満たすことによって幸福が得られるという誤った認識に陥っています。
実際は、幸福は欲望が満たされたときではなく、それがコントロールされたときにもたらされるのです。
人は欲望をコントロールすることによって至福の状態を味わうことができます。
自分の欲望を満たしたいと強く願う人は、いつも落ち着きがありません。
欲望は外側に向かう道(プラヴリッティ)に対応していますが、そこにはひとかけらの幸福も存在しません。
皆さんは、世の中に幸福があると考えて迷妄に陥っていますが、そうすることによって、内に向かう道(ニヴリッティ)からますます離れていくのです。5/7/01

ヨシオ:内的視力を養うには、太陽を凝視したあと、その光に集中して瞑想をするのも良いかもしれないけれど、それって心を落ち着かせるだけやろ。それはそれでええかもしれないけれど、霊性修行って常に自分自身、つまり、本当の自分自身であるアートマに話しかけて、エゴを持っている自分が行っている事が正しいかどうかを常に検証していく事が大切なんや。だからババは人々に、神さんって、神を親しい友達として付き合ってもらえるのが一番嬉しいと言っておられるんや。

ポニョ:なるほど。毎日の生活を自分一人ではなく、神さんと歩むってそういう意味があるんやな。今から食事にするけれど、まだちょっと早いかな?そう?ちょっと早い?それじゃもう一仕事片付けてから飯にしよか。なに?お前は食べ過ぎやて?おかわりを三杯したぐらいでごちゃごちゃ言うなよ。ババさん。糖尿病になるから、食べた後はゴロゴロ寝ないで食後の散歩に行けって?よっしゃ分かった。ちょっとオクラの丸みちゃんが伸び過ぎていないかアクアポニックスに行ってチェックして来るわ。オクラもあまり伸び過ぎたら硬くなるぜよ。とか言っていろいろうるさいんやろな。世の中には人の事をいちいち干渉するチェック魔って呼ばれる人がいるけれど、常に神さんと友達のようになって自己分析をするって、こうるさいチェック魔がいつも横にいてるようなもんやろな。それって面倒くさいな。

あなた方は多くのサーダナ(霊性修行)を行ってきました!
あなた方は行ってきたすべてのサーダナにより、大変高い段階にまで到達していなければなりません!
あなた方の日課は、吟唱、バジャン、読書、と霊的な活動がぎっしり詰め込まれています。
しかしこれらすべての霊性修行にもかかわらず、あなた方はまだ到達すべき段階に到達していません。
なぜでしょう? わかりますか?
「サーダナ(霊性修行)そのものがあなた方をその段階に連れて行くことはできません。それは自己分析(自己内観)とサーダナ(霊性修行)の両方によって成就すべきものです。霊性修行は自己分析と結びつかなければなりません。なぜなら自己分析のみが、 あなたが人間としてどこで道を誤ったかを指摘してくれるからです」
私たちはアートマ(真我・魂)のレベルから行動していません。
「自己分析(自己内観)はあなたの過ちを指摘し、霊的にどこが欠けているかを指摘する手助けになります。自己分析をしないのなら、進歩することはできないでしょう。 今、あなたは霊性修行を 4 分の 1 に減らし、(残りの)4 分の 3 は自己分析しなければなりません。そうすればあなたは急速に進歩するでしょう! 」
「あなたがどのように話し、何を聞き、何を行うか、何を食べるか、人生のすべての歩みを細かく分析(注意して検討)しなければなりません! 私は正しいことをしている だろうか? それは霊的に大丈夫だろうか? 私は正しく考えているだろうか? 正しく話しているだろうか? 正しいことを行っているだろうか? 」ラニマーへのインタビュー

ヨシオ:それってただの独り言やないか。O型の人がよく使う三つの言葉があるって言ってたよな。「お腹が空いた。眠たい。面倒くさい。」の三つやけれど、ポニョは本当にO型の典型的な人物やな。これから大艱難を経て人類を愛の世界に放り込んでしまうゴールデンエイジがやって来るけれど、その三つのうち「面倒くさい」だけでも取り除けば、ポニョはゴールデンエイジで、もうちょっとマシなキャラになれるのにな。

ポニョ:それって面倒くさいぜよ。でもおいらも、いつも神さんと一緒に人生を歩むようにして努力すれば、少しは内的視力を身にけることが出来るんやろか?そうしたらヨギが五千年先の地震を予言したように、今年はオクラが豊作かどうか分かるもんな。オクラの丸みちゃん!今年も豊作お願いね。そうすればしっかり食べてあげるからね。

ヨシオ:その前に先ず、ポニョは食欲をコントロールせなあかんやろな。

人は人間社会を全面崩壊の寸前にまで追い込んでいます。
人はその知性を使って、土地と大気と水を汚染しています。
また解脱の道具である心を自分を縛る鎖に変えました。
人は、教育、法、政治、商売、科学を通して自らを偏見や、教条主義や、国家エゴの中に閉じ込めてきました。
通信技術の発達に伴い、世界はますます小さくなってきましたが、隣人への愛はどこにも見られません。
人類がこれまでに体験した、いかなる革命よりももっと強力で 政治的、経済的、科学的、技術的よりもっと深く普遍的に広まる 根源的な革命が今進行しつつあります。
それは霊的革命です。
それは、人間の内的視力を研ぎ澄まさせてアートマに関する真実を見ることができるようにします。
その影響は、必ずや人類社会全体を包んで豊かにし、人々を神性という無限の海に向けて流れる求道者たちの中に放り込むことでしょう。
インドはこの霊的革命を先導するのです。
この革命の手段と目的は愛です。
それは世界中の教育、道徳、法律、政治、商業、科学の分野に、愛の泉を呼び覚まします。
それは、父なる神と人類同胞という意識を人々にもたらして同胞に奉仕するよう啓発するでしょう。
どんな人でも、どこにいようが、どのような身分であろうが、また何を信仰していようともこの霊的革命に加わって、人類を無知から解放するための道具になることができます。Prema Dhara2
https://m.youtube.com/watch?v=kJVD10ykFY4





クリシュナ物語(48)

2016-08-29 00:00:16 | 日記

ポニョ:前回の話で面白かったのは、牧女たちの前世はラーマと肩を並べて戦ったお猿さんたちだった。という話や。しかもその前の人生は、神の姿を見るために苦行をしていた
聖仙やったって事や。これは知らなかったぜよ。

ヨシオ:そうやな。不思議な話やな。クリタユガ、トレタユガそしてドワーパラユガと三つのユガの内、二つのユガに渡って神の化身と一緒に生まれ変わり、重要な役割をしたんやろ。とても、特別な魂なんやろな。

ポニョ:聖仙がお猿さんたちになって、その後は可愛い牧女になるってキモキモやぜよ。こんな話を聞いたら、人って本当にぬいぐるみ人形みたいやなって思うズラ。生まれ変わるたびにいろんなぬいぐるみを着てウロウロするんやもんな。ところでその聖仙からお猿さんになり、そして牧女になった魂はこのカリユガではどんな人になっているんやろうか?
ヨシオ:ババは冗談かどうか知らないけれど、学生たちはラーマの時代ではお猿さんだったと言われた事があるな。

ポニョ:ふーん。面白い。聖仙の時は苦行をして神さんを見れただけやったけれど、お猿さんとなって生まれ変わり、ラーマとお話しする機会が与えられたんや。そして牧女となって生まれ変わった時は、一緒に踊ったり遊んだりしてクリシュナに触れる事が出来たんや。それって本当に祝福されているよな。

ヨシオ:コダイカナルで山に続くクネクネ道をババが乗っておられる車が走っていたら、後ろからモーターバイクが猛スピードで追いかけて来たんや。ババと一緒に車に同乗していた人たちは、「変なのがバイクで追いかけて来てる。これは危険な行為だ。多分頭がいかれた奴が乗っているんやろうな。」とか言っていたら、ババは「いやそうじゃない。彼らは立派な帰依者だ」と言われたんや。そしてヘヤピンカーブでそのバイクが転倒したので、ババは運転手に命じて車を止まらせて、その転倒したバイクライダーに駆け寄り、傷の手当てをされたんや。そのバイクライダーは、ババに道で横たわりながらこう言ったんや。「ババ様、これで自分はこの世の目的を果たす事が出来ました。あなた様が車から下りて来られ、こうして自分の目の前におられ、そして優しく声をかけ、自分の傷口を神様御自らの手で介抱して下さっています。この事は気が遠くなるほど苦行を重ねた聖仙でさえ叶わぬ事です。神の御姿を見、神様と言葉を交わし、そして神様に触れる。今日この日、自分は、人が人生で一番望む三つの偉大な望みを一度に叶える事が出来ました。あゝ自分はなんて幸せ者なんだろうか。」と。

この事は、3つの属性〔グナ〕である、激性、鈍性、浄性でも表しています。鈍性を有する者は神の姿を見ること(ダルシャン)がかなうのみであり、激性を有する者は会話(サムバーシャナ)も得ます。浄性を有する者はさらに触れ合い(スパルシャナ)も得ます。

神との接触(スパルシャナ)によって得られる神聖な相を明らかにするために、ちょっとした例をあげましょう。炭は黒い色をしており、黒いことで無知を象徴しています。火は光明すなわち光を放ち、知識を象徴しています。火と炭が離れたところにある限り、炭は火を見ることができるだけで、光明を得ることはできません。しかしながら、炭が火に入れられて接触すると、炭も赤く燃えて光明を得、火の1部となります。このように、神の御姿と触れ合うと、人の体の中の無知が取り除かれるのです。少し風を当てれば、炭はもっと速く燃えて火になります。霊性修行とは、風を当てるということです。霊性修行によって、無知な人も賢者になることができます。

この真理を認識していたので、牧女たちはクリシュナの近くに集いました。クリシュナにとっても、牧女たちは愛おしく大切な存在でした。牧女たちの行いの一切は、不死へと到ることを意図したものであり、どんな利己的な動機でなされたものでもありません。『バーガヴァタ』で読むことのできる出来事の一切は、純粋で神聖なハートを持った牧女たちによってなされた行為と見なさなければいけません。牧女たちは自分を神の1部と見なしていました。牧女たちは万物が1つであることを体験しました。行為を表面的に行ってはいけません。牧女たちの欲望は神を想うことで完全に燃え尽くされました。

もし牧女たちの至福の状態を体験したいなら、牧女たちの信愛の状態に到達しなければいけません。目に見えるものはすべて、本当は存在しておらず、いつか消えゆくと言われています。消えゆくものが人に幸福をもたらすことはできません。世の中のものを手に入れると、その瞬間は幸せですが、それと引き離されると悲しくなります。お金や財産が入ってくると人は幸せを感じ、それらが出て行くと不幸せだと感じます。こういったものはすべて、やって来ると人に幸せをもたらし、出て行くと悲しみをもたらします。人は結合によって幸福を得て、分離によって悲しみを得ます。愛という神聖な相だけを探し求めようとすべきです。なぜなら、その愛には結合も分離もないからです。この種の神聖な愛は理由を持ちません。これは人の内にある神性の自然な姿です。これは、実に、人間の本当の財産です。

人間としての生を得ることは大変な幸運です。けれども、人はそれほどのものである人間としての生をありとあらゆる物欲で満たしているために、自分の人生を悲しみで満たしているのです。欲がなければ悲しみは一切得ることはありません。欲がない人よりも幸せな人はいません。悲しみはすべて自分で作り出したものです。心配には姿形はまったくありません。心配はあなたが自分で作っているものにすぎません。心配は無形です。自分の欲望が自分の悲しみの原因です。実体のない問題からは離れているようにして、幸せな人生を送りなさい。

神が人間の姿で誕生するとき、神は他の人々のように母親の子宮から生まれるのか、それとも、自らの意志によって生まれるのかと、人々は疑問を持ちます。その真相は、神が人間の姿で誕生する際、神は両親を選定するということです。神は自分がまとった姿を用いて、アヴァターの使命を果たします。これはどの時代にも起こります。ドワーパラユガのクリシュナ神も同様でした。クリシュナ神はパーンダヴァ兄弟との友情を築きました。実際、パーンダヴァ兄弟にとってのクリシュナ神は、友人であり、哲人であり、指導者でした。クリシュナ神は、つねにパーンダヴァ兄弟を邪悪なカウラヴァ兄弟の陰謀から守っていました。パーンダヴァ兄弟がクルクシェートラの戦いでカウラヴァ兄弟と交戦したとき、クリシュナ神は、アルジュナのラタ サーラティ(戦車の御者)の役割を引き受けて、パーンダヴァ兄弟を勝利に導きました。

戦いが終わり、クリシュナ神はパーンダヴァ兄弟に、自分はドワーラカー〔クリシュナが君主として治めた王国の首都〕の宮殿に帰ると告げました。クリシュナ神は、五人のパーンダヴァ兄弟の中の一人がその旅に同伴することを求めました。パーンダヴァ兄弟の母クンティーは、アルジュナを連れて行くことを勧めました。アルジュナはクリシュナ神ととても親しかったからです。それに応じて、クリシュナ神はアルジュナをドワーラカーに連れて行き、滞在中あらゆる便宜をはかり、最高のもてなしをしました。アルジュナは、クリシュナ神から世話を受けることに、少し気後れしていました。アルジュナはクリシュナ神に言いました。

「おお! 神よ! どうして私にあなたからの奉仕が受けられるでしょうか?」

クリシュナ神は答えました。

「アルジュナ! あなたは間違っている。私は誰に奉仕しているのか? あなたの体か? あなたの体とて私のもの。私は世界中の全生物の守護者である。ゆえに、自分は体だと考えて思い違いをしてはならない。

身体は五大元素から成り、いずれは滅びゆく運命にある
しかし、内在者には生も死もない
内在者はいかなる執着も持たない永遠の目撃者である
真実を言えば、デーヒ(内在者)はデーヴァデーヴァ(神々の神)自身である

(テルグ語の詩)

私は、そのデーヴァデーヴァ(神々の神)である。あなたは迷妄により自分を体と同一視して『私』と言う。しかし、それはあなたの本当の自己ではない。あなたは体ではない。自分と体を同一視している限り、あなたは個別の存在(ジーヴァ)のままだ。いったん迷妄から覚めれば、あなたはデーヴァ(至高の自己)と一体の存在となる。それゆえ、体への執着を捨てよ。人間の体は人形のようなものだ。しかしながら、人は体を道具に自分のあらゆるカルマ〔行為〕をなさねばならない。人にはカルマをなすという権利があるのみだ。全世界はカルマゆえに動き続けている。私はその宇宙劇の監督である。おお! アルジュナよ!」とクリシュナ神は言いました。
https://m.youtube.com/watch?v=VbJcr5CGGWE

太陽凝視とガヤトリマントラ

2016-08-28 00:00:51 | 日記
神はどのような姿ででもやって来ます。
すべての姿は神の姿です。
スワミは誰か少年を通じて何かを言うかも知れません。
スワミはアニール・クマールに何かを言うかも知れません。
スワミは誰かを通してメッセージを送るかも知れません。
ある人は蛇に咬まれて死ぬかも知れません。
ある人は雷に打たれて死ぬかも知れません。
またある人はすべってころんで死ぬかも知れません。
人々は、「どうして彼はあのようにして死んだのか? なぜ、神は彼を救わなかったのか?」と考えるかも知れません。
しかし、蛇と雷は神によって送られたのです。
蛇も雷も神のメッセージにほかなりません。14/7/1992。


ポニョ:数日前に上記のメッセージを載せたけれど、もう一度読んでみて思ったのは、神様はこの宇宙のすべてに充満されているやろ。だから自分たちの周りは神様だらけで、毎日朝起きて夜寝るまで神様に囲まれているわけやから、実はおいら達が体験する全ては神様のメッセージなんやぜよ。

ヨシオ:そうなんやけれど、と言ってもポニョを神さんから引き離すようなメッセージもあるやろ。そういうメッセージも神さんのメッセージなんか?

ポニョ:全ては神さんからのメッセージやと考えれば、おいらを神さんから離れさせて悪の道に引きづり込もうとしても、おいらがその欲望や誘惑にどれくらい耐えれるかを神さんがテストされていると考えれば、それも神さんからのメッセージになるぜよ。

ヨシオ:そしてそういうメッセージを有り難く受け取って、今回は悪の道に行きませんよ。ご苦労さんでした。と軽くいなすわけやな。でも、ポニョがまた持って来たババのメッセージのように、滑って転んで頭を打って死んだり、蛇のかまれて死んだり、雷に打たれたりしてもそれを神さんからのメッセージと受け取れるか?

ポニョ:もちろん難しいけれど、それを神さんからのメッセージだとしっかり受け入れれば、受け入れられるかもしれないぜよ。もちろん少しは取り乱すやろけど。おいらが友達の田舎のある丹波にいた頃、玄関先に立っていたら家の玄関の横に立っている電柱に雷が落ちた事があったんや。衝撃で被っていた帽子はぶっ飛んでしまうし、家の窓ガラスも割れたんや。おいらはすごい轟音とショックでぶっ飛ばされて一瞬死んだと思ったな。でも、意外と落ち着いていてまだ生きている事を確認するために手の指を動かしたりしてたんやけれど、人間って死に直面しても意外とあたふたせずに、それを受け入れられるんやなって思ったぜよ。

ヨシオ:それはヤバかったな。ポニョが病気知らずでいつも活動的なのは、その時にその雷のエネルギーがポニョに入ったんかもしれんな。

ポニョ:何でやねん。

ヨシオ:俺もまだ子供の時に家のお風呂に一人で入っている時に、風呂の底にひいてあったタイルで滑って、仰向けにひっくり返った事があるんや。目を開けて見ると水の表面がどんどん遠くになっていって、手を上に伸ばしても水面に届かないくらいやったんや。足をバタつかせてもタイルで滑るし、大きな声を出そうとしても水が口からどんどん入って来るし、息も出来なくてもう死ぬなって思ったんや。その時のフィーリングは意外と落ち着いていて、もう仕方がない。このまま死んでしまうな思ったな。でもその時に水面の向こう側にお袋の顔が映ったんや。そして手を突っ込んで来たので、水面の向こう側のお袋の顔は水で歪んで見えているのに、湯の中に突っ込んで来た手は普段見ている普通の手やったので、とても現実感があったな。それでその手を掴んで引っ張り上げてもらったんや。大量の水を口から出してから泣く事ができたな。それまでは苦しいという気持ちなんて無かったけれど、水を出す時と出してからが苦しかったので泣いたと思う。

ポニョ:人って死ぬ時ってそんなもんなんやろな。人が死ぬって霊体が肉体から離れる事やから、第三者が思うほどそれほど痛みって感じないんやろな。この前も言ったけれど死ぬ時には、脳の中でドーパミンが性行為の快感より何百倍も分泌されるって言ってたもんな。

ヨシオ:快感をもたらすドーパミンはどっちでもええやろ。そんな化学物質は霊的な体験の後に自然について来るんや。霊主体従っていうやろ。スタニグフグロフとか何とかというニューエイジの科学者は、逆にそういう化学物質を投与すれば誰でも至福体験が出来ると言って、ヒッピーたちにドラッグカルチャーをもたらしたんや。もちろんババはそれは良くないと言っておられる。それよりババは死の瞬間に、人の魂はどの様になるのかを講話で言われたことがあるんや。このブログで何回か紹介したけれど、とても興味深いコメントなのでもう一度紹介すると、
太陽エネルギーは人の無数の神経系統を通って降り注いでいます。
感覚は死の瞬間、心に融合します。
心によって制約されながらも、このことを認識した者の魂は、神経を通ってハートの虚空にたどり着き、ついに身体が死ぬ瞬間、魂はハートより上昇するきわめて微かな一筋の神経通路に沿って太陽光線に赴き、さらに太陽界へと旅立つのです。
しかし、旅はそこで終わるのではありません。
魂は更にブラフマ神の司る界へと赴くのです。
しかし、無知な者の魂は、心の働きを、心そのものが為していると思い込み、目や耳やその他の感覚を経て、カルマの支配する界へ赴くのです。
熟睡した人が、目覚めたのちでないと満ち足りた喜びに気づかぬのは、彼の魂がまだ無知によって包まれているからです。UVc9

ポニョ:このババの話は覚えているぜよ。確か第三の眼の話をしている時にこのメッセージを紹介したよな。でも魂はハートより上昇するきわめて微かな一筋の神経通路に沿って太陽光線に赴くって、めちゃ興味深いぜよ。だっておいら達が思っている神経通路って肉体の中だけに存在し、そこで働いてるものなんやと思っていたけれど、その神経通路が太陽光戦にまで魂を導くってババの話を聞くまで全然思いもよらなかったよな。霊的な教えを知るって大切やなって実感するぜよ。

ヨシオ:俺もこういうババの教えを知ってから、出来るだけ朝陽と夕陽を凝視しながらガヤトリマントラを唱える事にしてるんやけれど、太陽を凝視すれば自らの持っている神の力と太陽の力が繋がるっていうか、ジーヴァとパラマートマが繋がるっていうか、言葉では表せないけれど霊的なエネルギーが自らの内から湧き上がって来るような気がするよな。

ポニョ:おいらも朝陽はちょっと無理やけれど、夕陽に向かってだけ凝視するけれど、凝視が終わっても太陽のイメージが網膜に焼き付いているやろ。だからそれが消えないうちに瞑想をすると、目を瞑っても太陽のイメージに集中出来るから、心があちこち彷徨わないので結構集中して瞑想が出来るんやぜよ。

ヨシオ:それってええ事を聞いたな。俺も一度やってみようかな。どれくらい太陽のイメージが網膜に焼き付いているんや?

ポニョ:五分ぐらいかな。計ったことがないから分からないけれど、だんだん太陽の丸い形が崩れて来て最後は点になり、線香花火のようにふっと消えてしまうんや。でもその光に集中しながらソーハムやサイラムなどのマントラを唱えると心が落ち着くぜよ。特においらの心は、いつも外界にあるいろんなものに向いて落ち着かないので、夕陽を見て瞑想をする時が自分の内的視力を養う良い機会なんや。

ヨシオ:ふーん。ポニョも結構努力してるんや。俺はポニョって食べる事しか興味がないって思っていたけどな。

ポニョ:でも、夕陽を凝視して瞑想が終わるとお腹がク〜〜と鳴り、瞑想の後はご飯ですよって教えてくれるんや。お腹の中に目覚まし時計があるんかな。めちゃ時間が正確やで。

ヨシオ:あのな、瞑想をした後にすぐに飯を食うなよ。もうちょっと内観をしている時に神様と話す習慣をつけるとかしないと、せっかく内的視力が付こうとしているのにもったいないやろ。

ポニョ:お腹が鳴るのも神様からのメッセージでヤンス。

この世に対する執着を段々と減らして行きなさい。
あなたが死ぬ時、この世はあなたと一緒に来てはくれません。
あなたは一握りの土さえも持って行くことができません。
あなたは自分で培った美徳しか持って行くことができないのです。
あなたの先生と目上の人と両親を敬いなさい。
「母親を神として敬いなさい。
父親を神として敬いなさい。
教師を神として敬いなさい。
客人を神として敬いなさい。」
すべての人を神と見なしなさい。
犬の中にすら神は存在します。
神が万物に浸透していることを堅く信じなさい。
これ以上に偉大な霊性修行は存在しません。
人々がこのような信念を育てたとき、国家全体が豊穣と繁栄とあらゆる吉祥に恵まれます。
あなたのハートを神聖な感情で満たしなさい。
これが、あなたが今日学ぶべきことです。24/7/02
https://m.youtube.com/watch?v=5KfHZnTTgP4













クリシュナ物語(47)

2016-08-27 00:00:29 | 日記

ポニョ:今日はアルジュナとアルジュナの第二夫人である、クリシュナの妹さんのスパトラーとの間に出来た子供であるアビマンニュの話です。アルジュナには第二夫人がいてたんやな。羨ましいぜよ。

ヨシオ:なんでやねん。なんで二人も嫁はんが欲しいんや。人生の重荷が倍になるだけやないか。俺の知り合いのインド人はアシュラムのホールで外国から来た帰依者たちにババの話をしていたけれど、いつも口癖のように、人生で一緒に住む悪魔は一人で十分やなんて言って笑かせていたけどな。確かに彼はめちゃ恐妻家やったな。ところでアビマンニュって、早くに殺されたよな。まだお母さんであるスバトラーのお腹の中にいる時に、アルジュナが盾で迷路のような陣を作りその中に入っていかに戦うかを話していたんや。その陣はマントラで守られていて、普通に入っても盾の隙間のあちこちから矢や剣、槍などが飛んで来てすぐにやられてしまうんや。だから、それを破るには先ず、特別なマントラを唱えてその陣の弱点である陣の奥深くまで侵入し、その陣の中心で戦わなくてはいけないんや。アルジュナは身重の妻にベッドに腰掛けながら、実際に特別なマントラを唱えて、陣を撃ち破る方法を教えていたんや。そして陣を撃ち破った後、その陣から抜け出すために、また違うマントラを唱えなければそこから抜け出せないので、そのマントラを唱えようとしたら、突然クリシュナが部屋にやって来て、別の会話を始めたので、お腹の赤ちゃんは、お腹の中で陣に入り方のマントラを聞いて知っていたけれど、抜け出る為のマントラ知らずに生まれて来たんや。

ポニョ:ふーん。だからアビマンニュが陣に上手く入れたけれど、そこから抜け出せなかったから、殺されたんやな。でもクリシュナはそういう風になるって分かってわざと部屋に入って来たんやろ。神様って全てを与えるお方であり、全てを奪われるお方でもあるんやな。

ヨシオ:クリシュナが部屋に入って来た時に一番最初に言った言葉は、身重の妻の前で、そんな戦闘の話をしたら、お腹の中の赤ちゃんが聞いているから、胎教に良くないよと言ってたしなめられたんや。

ポニョ:でも本当の理由は、陣から抜け出すためのマントラを赤ちゃんに聞かせたくなかったからなんやな。聞けばアビマンニュが陣から抜け出すことが出来て、話が続かないようになるもんな。本当に神様ってお人が悪いぜよ。キャラがちょっと歪んでいるよな。あんたみたいに。

ヨシオ:あんたみたいには余計や。という事で今日はアビマンニュのお話です。

マハーバーラタの戦いの前にはいくつかの悪い兆しがありました。パーンダヴァ兄弟が森に入る1年前にアビマンニュ〔アルジュナとスバドラーとの間の息子〕が生まれました。その年の1年と森での12年、それから、世を忍んでいたもう1年を合わせると、14年になります。ですから、マハーバーラタの戦いのとき、アビマンニュは14歳で、ダルマラージャの前で子供のように遊んでいました。ダルマラージャが戦いを仕掛けられたとき、アルジュナがいっしょにいなかったため、ダルマラージャはいくらか躊躇しました。するとアビマンニュは、

「何が問題なのですか?」

とダルマラージャに尋ねました。ダルマラージャは、

「ビーシュマのような偉大な人物が私に戦いを仕掛けてくるのだ」

と説明しました。ダルマラージャが心配していると、アビマンニュは即座に言いました。

「戦争を仕掛けられているのに、そこから引き上げるのは私たちにとって正しいことではありません。そんなことをするなら、いっそ私が戦いに行きます」

私が皆さんにこの出来事を話しているのは、パーンダヴァ一族に生まれた者たちがいかに立派で勇敢であったかを示すためです。

ダルマラージャは言いました。

「アルジュナが不在であるがゆえ、戦いに行く前に母君から許しを得るように」

ここでもダルマラージャは、両親に尋ねて両親の指示を受け入れることが非常に大事であることを示していました。

アビマンニュは母のもとに行き、戦いに行く許可を求めました。母はアビマンニュに向かってこう言いました。

「偉大なる神の祝福があなたに注がれますように。そして、あなたがこの家の貴い伝統を守ることを可能にしてくださいますように。あなたが、主なる神の恩寵により、この家に勝利と栄光をもたらしますように」

聖典のなかには、この場面について、アビマンニュの母は息子がまだ幼いので戦いに行くのを嬉しく思わなかったという見解を述べているものもあります。しかし、それは正しくありません。そうではなく、アビマンニュの母は戦いに行きたがる息子の勇気を知って喜びました。

アビマンニュが16歳のとき、息子のパリークシット〔アビマンニュとウッタラーの子〕が生まれました。パリークシットが生まれたのはアビマンニュが死んだ後でした。パリークシットは母の胎内で死にかけましたが、クリシュナによって救われました。このように、パリークシットは母の胎内にいるときでさえクリシュナの恩寵を得ていました。こうして、パリークシットは、『バーガヴァタ』〔ヴィシュヌ神とその化身の神話集、シュリーマド バーガヴァタムとも呼ばれる〕の中で最も重要な登場人物となりました。それゆえ、長老の呪い〔パリークシットは晩年ある聖者の呪いにより王国を捨てて隠遁し、そのおかげで神に浸る生活を送ることができた〕さえ祝福と見なされました。それはパリークシットが常にクリシュナのことを考えていて、心の中にクリシュナの御姿が焼き付いていたからです。パーンダヴァ兄弟も、クリシュナを思うがゆえに自分たちが持っていたものすべてを犠牲にした偉大な帰依者でした。パーンダヴァ兄弟は、クリシュナの偉大な力だけでなく、クリシュナの神の相も認識していました。

牧女たちはそれとは性質を異にしました。牧女たちはクリシュナの神の相に完全な信仰を置いており、クリシュナへの揺るぎない信仰心を抱いていました。牧女の信仰心は神聖で、純粋で、無私無欲な信愛でした。牧女と牧童たちはカリユガ〔最悪の時代の意、末世〕に生きる人々の理想的な手本です。

「ラーサクリーダー」というクリシュナと牧女たちの戯れ〔クリシュナが分身して牧女一人ひとりと踊ったり遊んだりしたこと〕は、人間的な楽しみを伴う遊びだと思われていますが、それは違います。実際には、それはジーヴァートマ〔個々の真我〕とパラマートマ〔至高我〕の神聖な合流でした。牧女たちは自分のハートをブリンダーヴァン〔クリシュナが子ども時代に牧女たちと戯れた緑豊かな森〕へと変え、自分の思念を聖なる小川へと変えました。

牧女たちは神性の相においては無形でした。自分の体に執着があると、人は五感に執着します。牧女たちは自分の体にまつわる錯覚に陥っていませんでした。その理由は、牧女たちはクリタユガ〔正の時代の意、黄金時代〕の前世で聖仙だったからです。クリタユガで聖仙だったときには、神の姿を見ること(ダルシャン)を得ることだけができました。聖仙たちは、トレーターユガ〔三なる時代の意、銀の時代〕では、神の化身ラーマの猿となりました。クリタユガでは神の姿を見ること(ダルシャン)がかなっただけでしたが、トレーターユガでは神との会話(サムバーシャナ)の機会を得ました。その後、猿たちは神に祈り、神に触れる(スパルシャナ)機会を得ました。神に触れる機会を得るために、クリタユガの聖仙たちは、トレーターユガでは猿になり、ドワーパラユガ〔疑いの時代の意、胴の時代〕では牧女になったのです。
https://m.youtube.com/watch?v=rfsigJBK8Lw