半農半漁、自給自足生活への挑戦
自給自足生活をめざす釣り、家庭菜園、養蜂の話です。
趣味のギターや三線のことも少しづつ。
 






山梨県甲府市に武田信虎・信玄・勝頼3代にわたる武田氏の居館があります。
現在は武田信玄を祭る武田神社として参拝客を迎えますが、中世の武家の居館であります。
朝8時半に家を出発、相模湖インターから中央高速に乗り2時間半、一気に走って到着しました。
道のりはアップダウン、カーブが多くて疲れます。







「人は城、人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」

と武田信玄作の和歌で伝えられる通り、武田信玄は城を作らなかったことで知られています。
躑躅ヶ崎館も水掘りに土塁のみ、石垣(正面のは後世のもの)も天守閣もありません。
本当に城ではなく居館というのが似合っています。
城を作る替わりに「人は石垣、人は城、人は堀」の言葉、それは武田二十四将という結束の固い家臣団を作り上げたのです。

信玄は城にかけるお金を使わず、民のために治水工事を行い、信玄堤を完成させました。
統治する領地に住む民の心を掌握することも「人は城・・・」の心から来るものです。






日本100名城スタンプラリーのスタンプは宝物殿の受付にあります。
おそらく宝物殿(有料)に入館しなくても押せると思いますが、館内には信玄の功績を江戸時代にまとめた書物の甲陽軍鑑、そしてあの有名な風林火山の旗印も展示してあります。実物の旗印は想像以上に大きかったです。
信玄公の墓碑の拓本などもあり、興味のある方は入った方が良いかと思います。
武田氏館の3キロ隣には日本100名城25番、甲府城があります。


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安納芋は、種子島の芋を代表するさつまいもです。水分が多く、焼くとクリームのようにネットリとした食感です。
糖度が16度にもなり、時間をかけて上手に焼くと蜜がしみだして糖度が40度に及ぶ幻の芋?なのです。
栽培に関しても通常の紅あずまなんかに比べますと収量が少なく貴重なものです。
私には種子島出身の畑友がおりまして、その方の実家から送ってもらったものを食した時には、その甘さに驚きを隠せなかったのでした。


種子島では安納芋の種芋、および苗を5年間島外への持ち出しを禁止した(している?)ということがありました。
5年間なら期限切れなのですが、平成25年まで延長されたという話もあり。
それは島外での栽培を差し止めたということです。


大きな理由として、品質の低下やウイルス混入を恐れてのことであります。
種子島がもつ栽培条件が日本全国どこでもというわけではありません。
条件悪化による糖度の低下や価格破壊は種子島の生産者の利得を損なうものです。

安納芋の商品化の歴史はそれほど古くなく、種子島西之表市安納地区産の芋をバイオ技術によって無菌状態で苗を作ることに成功しているものです。
古来からある芋を平成10年に「安納芋」としてブランド化して販売、以降人気を博しております。


家庭菜園をする身であれば変わった野菜、不思議な野菜を栽培したくなるものです。
苗が近所で売っておりました。20本購入。ホンモノかどうかわかりません。
なぜ売っていたのかも。持ち出し制限期間が切れてるのでしょうか?。
もし未だに制限があるのならば一番売ってはいけないところにありました。
それではまた秋に報告します。


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畑に植えた落花生がやっと元気になってきました。
隣の畑の仲間と話しても発芽と成長が思わしくないとのこと、
心配してましたので安心しました。

落花生の栽培で一番気を使うのは種まきです。
種といってもピーナッツそのものですのでカラスがほじくり出して食べてしまいます。
この鳥除けの工夫が大事なのです。

ある程度成長したらあとは収穫まで放置です。
9~10月まで何の心配もいりません。
別にこれで生計を立ててるわけではないので立派なのができなくてもよいのです。

生産者の特権、落花生の塩茹でが食べたくて収穫が待ち遠しいのです。
冷凍庫には去年収穫した塩茹でまだあるんですけどね。

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小田原城は北条早雲を祖とする後北条氏の居城として有名です。
二代氏綱、三代氏康、四代氏政が拡張した関東の領土は最大期240万石とも言われてます。

豊臣秀吉による小田原征討は秀吉の天下統一最後の大仕事になりました。
北条氏を滅ぼしたことにより北条氏以東の関東大名、東北大名が秀吉に従順を示したからです。
秀吉は小田原城を兵糧攻めにすると共に、秀吉に帰順していない大名に戦陣に馳せ参じるように命令して秀吉に忠誠を誓うことをさせています。
それは馳せ参じない大名は滅ぼすの意であったとのことです。






北条氏滅亡後、関八州を与えられた徳川家康は江戸に城を築き、小田原城は家臣の大久保氏が守り、のちに箱根の関所を管理する重要な藩として幕末期まで存続します。
秀吉にとって最大の敵は家康であったため、京、大阪から家康を遠ざける必要があったからです。
家康としても配置換えは本位でなく、家康の人生の中で苦難の一時として考えられています。
今日、東京が日本の首都として機能しているのは、秀吉のこの施策があったからなのです。






小田原城天守閣は昭和35年に再建されたコンクリート製ですが、外観は1706年製の雛形に酷似しており、当時の様子をうかがい知ることはできます。
城内は武家社会を知る上での展示品が豊富で見て損は無いと思います。

現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画しており、天守の復興を手始めに(昭和46年)には常盤木門(ときわぎもん)(外観復元)、(平成9年)には銅門(あかがねもん)、(平成21年)には馬出門を復元しました。
幕末期、明治初期の古写真による復元は全国各地で行われているものです。

発掘にもとづいても研究が進み、昨年、大発見といわれる弓が発掘されました。

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1102150019/


平成18年、日本100名城(23番)に選定され、初期の大阪城より巨大とされた近世の大城郭としてこれからも名を残していくことでしょう。





ゴールデンウィークに訪れた千葉県の佐倉城に続き、2個目のスタンプをゲットしました。
千葉県と神奈川県は100名城の指定が1つづつですので千葉県と神奈川県は終わりです。


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寛仁親王殿下がご逝去された。長年にわたる癌闘病の末、とうとうお亡くなりになった。
ヒゲの殿下の愛称で親しまれ、その言動には皇室らしからぬものもあり、非常に我々国民にも親近感が沸く存在であった。
1975年には皇室として初めてオールナイトニッポンのパーソナリティを務められた。
アルコール中毒の治療を告白したこと、若い頃はトルコ風呂に通ったことを告白。
開かれ過ぎた皇室?の先駆けであったに違いない。

実は私は殿下にお会いしたことがある。20年弱くらい前のことだ。
幕張メッセで釣りの見本市、東京フィッシングショーが行われたときである。
開催日前日は一般客を入場させずに釣り関係の業者が新製品を目の当たりにし、釣り道具の進歩、トレンドに接する機会が設けられるのだ。
私も釣具店主と共に見本市を物色していたときのことだった。

当日、殿下は王妃信子様を伴われてフィッシングショーに来られていた。
殿下の釣り好きは結構有名である。
会場に設置されたプールの前に足を運ばれ、バスプロの田辺哲男プロが信子様にロッドを渡された。
信子様はルアーを躊躇なくキャストされ、田辺プロの指導の下、何回かルアーを引いた結果、1匹のニジマスを釣り上げられたのであった。
信子様を見守る殿下の笑顔が素敵だったのと、ヒゲのせいか強烈な威圧感があったことを覚えている。

本当にご冥福をお祈りいたします。


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