大国主の誕生⑯ ―野見宿禰の伝承―
番外編で始めたこのシリーズですが、気がつきゃ15回もやってたんです
ねぇ。
1度ここらで今までのことをまとめてみます。
八百万といわれる日本の神様の中でもメジャーな神様である大国主命。
ところが、この大国主が登場するのは『古事記』だけなのです。
おそらくオオナムチやアシハラシコオなどの神様を大国主という神に
まとめてしまったのだろう、と研究者たちは考えています。
それなら、大国主という神はどのようにして誕生した神なのでしょう?
そこで、まずは『古事記』に登場する、大和政権と出雲が関わるエピソ
ードをピックアップしますと、意外にも、愛知、岐阜、三重といった中部
地方と関わりの深い物語だったのです。
中部地方にはホアカリノミコト(火明命)を始祖にする尾張氏がいて、
近畿の鴨氏、物部氏と関係があり、大阪府の旧三島郡(現在の高槻市、
茨木市、摂津市、吹田市、豊中市、箕面市、島本町を含む地域)にも、
ホアカリや、ホアカリと関わりの深いニギハヤヒ系の氏族、それに鴨氏
が存在していたのでした。
さて、出雲と中部地方をつなぐ線はこの旧三島郡だったのでしょうか?
実はもう1つ、出雲と中部地方を結ぶ線があるのです。
それは大和の葛城地方です。
尾張氏は葛城の高尾張邑に拠点を持っていたといいます。それから、
明日香村の小墾田(おはりだ)も尾張氏の大和における拠点であった、
考える研究家もいます。
そして葛城地方の北部には当麻と呼ばれるところがあり、野見宿禰の
伝承を有する土地なのです。
ところで、ヒッポ・ファミリー・クラブは全国に活動の場所があり、
その場のことをファミリーと呼ぶことは前にも書きました。
奈良県五條市にあるファミリーに車で遊びに行くとき、大阪府唯一の
村、千早赤阪村から金剛山(葛城山)を越えて奈良県の御所市に入りま
す。御所市を行くと、途中「高天」という地名があり、その近くにはア
ジシキタカヒコネを祀る高鴨神社があります。
この高天が高尾張邑ではなかったか、といわれるところなのです。
『古事記』、そして『日本書紀』では、尾張の豪族である尾張連が葛城
に拠点を持っていたこと、そして、出雲からつれてこられた野見宿禰(ノ
ミノスクネ)が葛城地方の当麻に土地を与えられたことが記されています。
垂仁天皇7年の7月のこととして、野見宿禰と当麻蹴速(タイマノケハヤ)
の決闘について書かれた記事です。この勝負は相撲の起源と言われています。
葛城の当麻(たいま)に当麻蹴速という強者がいた。常々、
「どこかにオレより強い者はいないものか。どうにかして強い者と出会っ
て命をかけた勝負をしたいものだ」
と、言っていたのが、天皇の耳に入り、
「当麻蹴速とはずいぶんと強い男らしいが、この者と肩を並べる者はい
ないのか?」
と、群臣に問いかけたところ、1人の臣が、
「出雲に野見宿禰という強者がいる、と聞いたことがあります」
早速、倭直の始祖ナガオチを遣わして野見宿禰を召し、当麻蹴速と勝負
させた、2人は互いに蹴り合い、ついには野見宿禰が当麻蹴速を蹴り殺した。
そこで、当麻蹴速の領地をすべて野見宿禰に与えた。
鳥取県鳥取市には、大野見宿禰神社があり、ここでは野見宿禰を祀ってい
ます(祭神の名前は正確には大野見宿禰命)。
以前、東京の墨田区でファミリーをされているヒッポのフェロウさんの家
にホームステイさせてもらったことがあるのですが、夜、お酒を買いに教え
てもらった近所の酒屋さんに向かうと、途中に野見宿禰神社と書かれた神社
がありました。
家に戻り、
「近くに野見宿禰神社があるんやね」
と、言うと、
「うん、両国国技館の近くだから」
なるほど。野見宿禰は相撲のご先祖様ですからね。
ちなみに、これまで出土した埴輪の中には、ふんどし(まわし?)姿の
人物埴輪も多数あります。
ところで、兵庫県たつの市にも野見宿禰神社があり、『播磨国風土記』に
よると、野見宿禰はこの地で没したとあります。
そして、なによりも注目したいのが、『日本書紀』垂仁32年の項に記され
た、皇后ヒバスヒメが亡くなった時のエピソードです。
それまで皇族が亡くなった時には、生きている人も一緒に埋めるという殉
死の風習があったものを、野見宿禰が、殉死は蛮習だと意見を述べ、出雲か
ら土師部のヒトモモヒト(壹佰人)を呼んで埴輪を作らせた、というエピソ
ードです。
垂仁天皇は野見宿禰を大層ほめ、土師部を司る職につけ、これにより、野
見宿禰は姓を土師臣に改めます。土師氏はここから始まり、葬儀を司るよう
になった、と「垂仁紀」は記しています。
土師氏は奈良時代には多くの下級官人を排出してきましたが、高官はおろ
か中級官人のポジションについた人物が極めて少ないのが特徴です。
「垂仁紀」でも、野見宿禰は土師臣と記していますが同時に、「これは土
師連等の始祖なり」と記しており、すでに臣姓でなくなっていることを伺わ
せています。
直木孝次郎(『日本古代の氏族と天皇』)は、その理由として、土師氏が
葬儀に関係する氏族であり、
奈良時代には火葬が普及したために地位が低下したのではないか、と考察し
ています。
さらに奈良時代後期には、土師氏は、土師・菅原・秋篠・大枝の4支族に
分かれました。
この4氏の拠点ですが。
大枝氏は、大阪府堺市の百舌鳥古墳群のある百舌鳥(現在も土師町という
地名があります)、菅原氏が平城京右京三条あたりの菅原の里(現在も菅原
寺があります)と、考えられています。
秋篠氏ですが、こちらの本貫については、奈良市の楯並古墳群のあたり
(現在も秋篠寺があります)とする説と、河内国志紀郡の秋篠(道明寺にあ
る旧地名)とする説があります。
さて、ここで1つ見落としてはいけないのは、この野見宿禰を出雲から連れ
てきたのが、倭大国魂神を祀るナガオチだということです。
倭大国魂神とは、
「大国主神、またの名を大物主神、または国作大己貴命と申す。または葦原
醜男と申す。または八千戈神と申す、または大国玉神と申す。または顕国玉
神と申す。」
とある、大国玉神のことです。
・・・つづく
番外編で始めたこのシリーズですが、気がつきゃ15回もやってたんです
ねぇ。
1度ここらで今までのことをまとめてみます。
八百万といわれる日本の神様の中でもメジャーな神様である大国主命。
ところが、この大国主が登場するのは『古事記』だけなのです。
おそらくオオナムチやアシハラシコオなどの神様を大国主という神に
まとめてしまったのだろう、と研究者たちは考えています。
それなら、大国主という神はどのようにして誕生した神なのでしょう?
そこで、まずは『古事記』に登場する、大和政権と出雲が関わるエピソ
ードをピックアップしますと、意外にも、愛知、岐阜、三重といった中部
地方と関わりの深い物語だったのです。
中部地方にはホアカリノミコト(火明命)を始祖にする尾張氏がいて、
近畿の鴨氏、物部氏と関係があり、大阪府の旧三島郡(現在の高槻市、
茨木市、摂津市、吹田市、豊中市、箕面市、島本町を含む地域)にも、
ホアカリや、ホアカリと関わりの深いニギハヤヒ系の氏族、それに鴨氏
が存在していたのでした。
さて、出雲と中部地方をつなぐ線はこの旧三島郡だったのでしょうか?
実はもう1つ、出雲と中部地方を結ぶ線があるのです。
それは大和の葛城地方です。
尾張氏は葛城の高尾張邑に拠点を持っていたといいます。それから、
明日香村の小墾田(おはりだ)も尾張氏の大和における拠点であった、
考える研究家もいます。
そして葛城地方の北部には当麻と呼ばれるところがあり、野見宿禰の
伝承を有する土地なのです。
ところで、ヒッポ・ファミリー・クラブは全国に活動の場所があり、
その場のことをファミリーと呼ぶことは前にも書きました。
奈良県五條市にあるファミリーに車で遊びに行くとき、大阪府唯一の
村、千早赤阪村から金剛山(葛城山)を越えて奈良県の御所市に入りま
す。御所市を行くと、途中「高天」という地名があり、その近くにはア
ジシキタカヒコネを祀る高鴨神社があります。
この高天が高尾張邑ではなかったか、といわれるところなのです。
『古事記』、そして『日本書紀』では、尾張の豪族である尾張連が葛城
に拠点を持っていたこと、そして、出雲からつれてこられた野見宿禰(ノ
ミノスクネ)が葛城地方の当麻に土地を与えられたことが記されています。
垂仁天皇7年の7月のこととして、野見宿禰と当麻蹴速(タイマノケハヤ)
の決闘について書かれた記事です。この勝負は相撲の起源と言われています。
葛城の当麻(たいま)に当麻蹴速という強者がいた。常々、
「どこかにオレより強い者はいないものか。どうにかして強い者と出会っ
て命をかけた勝負をしたいものだ」
と、言っていたのが、天皇の耳に入り、
「当麻蹴速とはずいぶんと強い男らしいが、この者と肩を並べる者はい
ないのか?」
と、群臣に問いかけたところ、1人の臣が、
「出雲に野見宿禰という強者がいる、と聞いたことがあります」
早速、倭直の始祖ナガオチを遣わして野見宿禰を召し、当麻蹴速と勝負
させた、2人は互いに蹴り合い、ついには野見宿禰が当麻蹴速を蹴り殺した。
そこで、当麻蹴速の領地をすべて野見宿禰に与えた。
鳥取県鳥取市には、大野見宿禰神社があり、ここでは野見宿禰を祀ってい
ます(祭神の名前は正確には大野見宿禰命)。
以前、東京の墨田区でファミリーをされているヒッポのフェロウさんの家
にホームステイさせてもらったことがあるのですが、夜、お酒を買いに教え
てもらった近所の酒屋さんに向かうと、途中に野見宿禰神社と書かれた神社
がありました。
家に戻り、
「近くに野見宿禰神社があるんやね」
と、言うと、
「うん、両国国技館の近くだから」
なるほど。野見宿禰は相撲のご先祖様ですからね。
ちなみに、これまで出土した埴輪の中には、ふんどし(まわし?)姿の
人物埴輪も多数あります。
ところで、兵庫県たつの市にも野見宿禰神社があり、『播磨国風土記』に
よると、野見宿禰はこの地で没したとあります。
そして、なによりも注目したいのが、『日本書紀』垂仁32年の項に記され
た、皇后ヒバスヒメが亡くなった時のエピソードです。
それまで皇族が亡くなった時には、生きている人も一緒に埋めるという殉
死の風習があったものを、野見宿禰が、殉死は蛮習だと意見を述べ、出雲か
ら土師部のヒトモモヒト(壹佰人)を呼んで埴輪を作らせた、というエピソ
ードです。
垂仁天皇は野見宿禰を大層ほめ、土師部を司る職につけ、これにより、野
見宿禰は姓を土師臣に改めます。土師氏はここから始まり、葬儀を司るよう
になった、と「垂仁紀」は記しています。
土師氏は奈良時代には多くの下級官人を排出してきましたが、高官はおろ
か中級官人のポジションについた人物が極めて少ないのが特徴です。
「垂仁紀」でも、野見宿禰は土師臣と記していますが同時に、「これは土
師連等の始祖なり」と記しており、すでに臣姓でなくなっていることを伺わ
せています。
直木孝次郎(『日本古代の氏族と天皇』)は、その理由として、土師氏が
葬儀に関係する氏族であり、
奈良時代には火葬が普及したために地位が低下したのではないか、と考察し
ています。
さらに奈良時代後期には、土師氏は、土師・菅原・秋篠・大枝の4支族に
分かれました。
この4氏の拠点ですが。
大枝氏は、大阪府堺市の百舌鳥古墳群のある百舌鳥(現在も土師町という
地名があります)、菅原氏が平城京右京三条あたりの菅原の里(現在も菅原
寺があります)と、考えられています。
秋篠氏ですが、こちらの本貫については、奈良市の楯並古墳群のあたり
(現在も秋篠寺があります)とする説と、河内国志紀郡の秋篠(道明寺にあ
る旧地名)とする説があります。
さて、ここで1つ見落としてはいけないのは、この野見宿禰を出雲から連れ
てきたのが、倭大国魂神を祀るナガオチだということです。
倭大国魂神とは、
「大国主神、またの名を大物主神、または国作大己貴命と申す。または葦原
醜男と申す。または八千戈神と申す、または大国玉神と申す。または顕国玉
神と申す。」
とある、大国玉神のことです。
・・・つづく