小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

444 允恭系と大阪府

2015年10月25日 02時39分44秒 | 多言語
大国主の誕生444 ―允恭系と大阪府―
 
 
 しかしながら、允恭系の皇統が大日下王の皇統と姻戚関係を結ぼうとした理由は
何なのでしょうか。
 これについては3つの理由が考えられます。
 
 1つ目は、允恭系の皇統が皇位を継いでいくために、大日下王と敵対するのでは
なく取り込もうと考えたとみることです。
 ただし、安康天皇は大日下王を討ち滅ぼしてしまいました。
 この事件を、『古事記』も『日本書紀』もともに根使主が虚偽の讒言をしたために
起こったと記しますが、疑うなら、初めから安康天皇によって仕組まれたことだと疑う
こともできるものです。
 
 では、2つ目の理由。これは3つ目の理由と関連するのですが、大日下王やその
妹の若日下王は太陽祭祀にたずさわっていたと思われることです。
 つまり、允恭系の皇統にとっては太陽祭祀を独占したかった、だから巫女的存在
であった若日下王を雄略天皇の后に迎えたかった、というわけです。
 この時代に、皇祖神を太陽神にもとめる「高光る日の御子」の思想ができたことが
影響しているものと思われます。
 
 そして3つ目の理由。その若日下王が河内に坐したことです。
 このことは、『古事記』に、若日下王を訪ねるために雄略天皇が生駒山を越えていく
場面が登場することや、『日本書紀』に、根使主が討たれた後、雄略天皇はその一族を
2つに分け、一方を大草香部民(おおくさかべのたみ)として皇后に与え、もう一方を
負嚢者(ふくろかつぎびと)にして茅渟県主に与えた、とあることからうかがえます。
 根使主が天皇の軍勢に対抗するために籠城したのが日根であり、これが現在の
大阪府泉佐野市周辺に比定されているからです。
 
 一方で葛城氏も大阪府に進出していたとされていますので、允恭系にとって、大阪府を
押さえる必要があったのです。
 と、言うのも、允恭系の宮があった場所を見てみますと、
 
 19代允恭天皇 遠飛鳥宮
 20代安康天皇 石上穴穂宮
21代雄略天皇 泊瀬朝倉宮
 
と、いずれもが大和に宮を置いているのです。
 允恭系は大和に比重を置いた皇統だと言えるでしょう。そのために、隣国であり、瀬戸
内海の玄関口である大阪府を押さえたかったのでしょう。
 
 さて、そんな允恭系ですが、陵墓について言えば允恭天皇も雄略天皇も河内にその
陵墓があります。
 これまでにも何度かお話ししたことですが、天皇陵というものは、『古事記』や『日本
書紀』に記された歴代天皇の陵墓の場所に当てはまる古墳をその天皇の陵墓と指定
しているだけで、近年の技術でおこなった調査結果によりその古墳が造られた年代と
その天皇が治世していたとされる年代が一致しないケースが多くあります。
 反対に、河内大塚山古墳(大阪府松原市と羽曳野市にまたがる)、丸山古墳(奈良県
橿原市)、土師ニサンザイ古墳(大阪府堺市)などは、その大きさで全国5位、6位、7位
であるにも関わらず天皇陵には指定されていません。(ただし陵墓参考地にはいずれも
指定)これは、記紀に載っていないためです。
 
 それで允恭天皇陵ですが、これは大阪府藤井寺市国府1丁目の市野山古墳が指定
されています。調査によりこの古墳が造られたのは5世紀中頃であることが判明しました
ので允恭天皇の治世と一致します。
 注目したいのは市野山古墳が築かれた場所です。
 ちょうど長尾街道が通る場所にあるのです。長尾街道は葛城と旧堺港を結ぶ古代道で、
葛城氏が大いに関係していたと見られます。
 しかも、この辺りは太陽祭祀にも関わっていたと考えられる土師氏の拠点でもあるの
です。
 
 雄略天皇陵に指定されている島泉丸山古墳は大阪府羽曳野市にあります。
 島泉丸山古墳は円墳で、濠で囲まれ全長が76メートルありますが、巨大古墳が多く
存在する古市古墳群にあっては小ぶりです。そのため雄略天皇の陵墓にしては小さすぎ
るという理由で被葬者が雄略天皇なのか疑問視する声も少なくありません。
 では、それならば本当の雄略天皇陵はどこにあるのか、と言うと、候補に挙がっている
のが藤井寺市藤井寺4丁目にある岡ミサンザイ古墳や、先に登場した、大阪府松原市と
羽曳野市の境にある河内大塚山古墳などです。
 岡ミサンザイ古墳は14代仲哀天皇陵に指定されていますが、造られたのは5世紀後半
と見られ、雄略天皇の治世と一致するのです。
 これに対して河内大塚山古墳は造られた時期が6世紀後半と見られるのでその点で
雄略天皇陵とは見做しにくいという面があります。
 
 ただ、允恭・雄略天皇にかぎらず多くの天皇の陵墓が河内平野に造られた理由につい
てはよくわかっていません。
 以前には、大和政権は河内で誕生し大和に遷ったので(河内王朝説)、古代天皇家に
とって河内は古代天皇家誕生の聖地であった、と考えられていましたが、河内王朝説が
否定される傾向にある今日においては、河内平野に天皇陵が造られた理由は謎のまま
です。
 
 それでも、大和に宮を置いていた天皇たちもが河内平野に眠るのには河内平野を
重要視する何らかの理由があったのでしょう。
 だからこそ允恭系には大阪府を押さえようとしていたものと思われます。