小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

うっきいーえは「ゆうき姉ちゃん」?

2012年12月02日 01時20分32秒 | 日記
2010年1月29日(金)(1歳9か月)


 ゆうきもりえも、宿題をキッチンのテーブルでする。
 
 ふたりには小学校入学の時にそれぞれ勉強机を買って
あげたし、勉強部屋まで用意してあげたのに、そちらで
は宿題をしないでキッチンのテーブルでする。

 でも、かく言う僕も小学生の時は勉強机で宿題しなかっ
たなあ。
 
 子供のうちはそんなものなのかもしれない。

 ただ、キッチンのテーブルで宿題をすると、春奈が
ふたりの文房具をおもちゃにしてしまうことがしょっちゅう
なのである。

 それでふたりが春奈を叱り、今度はみんたから、

 「そんなところに文房具を置くから春奈がさわるんやんか」

と、ふたりを叱る。

 今日も春奈がゆうきの筆箱をさわろうとするから、

 「それゆうきのやで。さわったらアカン」

と、僕が言うと、春奈が、

 「うっきいーえの?」

と、訊いてきた。

 「うっき」はゆうきのことだから、やっぱり前から言っていた
「いーえ」はりえ個人をさす言葉ではなく「お姉ちゃん」の意味
のようだ。

 最近、ゆうきの名前を言うようになったけど、「うっき」とか
「うっきー」になる。・・・おサルかよ。

59 出雲の淤宇宿禰(オウノスクネ)

2012年12月02日 01時11分52秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生59 ―出雲の淤宇宿禰(オウノスクネ)―


 どうもすいません。
 しばらくこっちの方の更新をさぼってしまいました。
 今回はお詫びから始まってしまいましたが、これからもできる限り
更新をがんばろうと思っていますので、もうしばらくお付き合いして
いただけるとうれしい限りです。


 出雲フルネ滅亡後の出雲西部に、吉備や大和の影響が及んだことは多く
の研究家たちの一致した考えですが、その実態についてとなると、意見が
分かれます。
 大和と吉備の合同による統治とする考えに、吉備単独の支配とする考え、
あるいは、支配などではなく、出雲と大和・吉備との間で交流があったの
だとする考えに分かれます。
 ただ、ほぼ一致をみる考えとして、吉備(あるいは大和も)の影響は
西部にのみ見られることであり、出雲東部は西部と異なる古墳が築かれる
など、西部とはちがう文化を持っていました。
 東部を治めていたのは、淤宇宿禰(オウノスクネ)ら淤宇の一族たち
でした。オウノスクネは意宇宿禰とも表記されることもありますが、その
名前から、意宇郡に拠点を持つ豪族であったと推測されます。
 オウノスクネについては、『日本書紀』の「仁徳天皇即位前紀」に、
出雲臣の祖淤宇宿禰の名がみえることから、この淤宇氏が後の出雲臣に
なったと考えられています。
 その『日本書紀』には、オウノスクネは屯田司(みたのつかさ)で
あったことが記されています。屯田司とは、天皇供御料田、つまり天皇直轄
の領地(田)で、屯倉(みやけ)は朝廷直轄の領地(田)を指します。

 第15代応神天皇は、晩年、多くの息子の中から、大山守命(オオヤマモ
リノミコト)と大鷦鷯尊(オオサザキノミコト=後の仁徳天皇)の2名を呼び、
 「お前たち子どもは可愛いものだ」
と、言い、それから、
 「同じわが子と言っても、長男と末っ子とではどちらはより可愛いものであ
ろうか?」
と、尋ねます。
 オオヤマモリは、
「長男でございましょう」
と、答えますが、オオサザキの尊は、天皇の意志が、弟の莵道稚郎子(ウジノ
ワキイラツコ)を次の天皇にしたい、ということを悟り、
 「長男はすでに成人して安心ですが、末っ子はまだ幼く親の手から離れて
おりませんので末っ子の方が可愛いものでしょう」
と、答えます。
 応神天皇は、
 「汝の答えはわが意を得たり」
と、喜んだ、という話が、『古事記』と『日本書紀』の両方に記されています。
『日本書紀』の方には、この後ウジノワキイラツコを皇太子に立て、オオヤマ
モリに山川林野を掌らせ、オオサザキを皇太子の補佐にした、あります。
一方の『古事記』の方では、オオヤマモリに山海の政(まつりごと)をするよう、
オオサザキには食国(おすくに)の政をするよう、ウジノワキイラツコには天津
日継をするように命じた、とあります。
『古事記』のこの言葉はあたかもイザナギが、アマテラスに高天の原を治めよ、
ツクヨミに夜の食国を治めよ、スサノオに海原を治めよ、と命じた話とラップし
ます。

 さて、応神天皇が崩御した後の「仁徳即位前紀」には次のような話が記されて
います。

 額田大中彦皇子(ヌカアノオオナカツヒコの皇子=オオヤマモリの同母兄)が、
倭の屯田と屯倉を掌ろうとして、屯田司で出雲臣の祖オウノスクネに、
 「この屯田は、本来は山守のものである。だから吾が治めようと思う。汝は
屯田に関わるな」
と、言った。それでオウノスクネが皇太子(ウジノワキイラツコ)にこのことを
報告すると、皇太子は、
 「オオサザキの尊に相談いたせ」
と、答えた。そこでオオサザキに、
 「私がお預かりしております屯田ですが、オオナカツヒコの皇子が妨害してき
て任務を遂行できません」
と、説明した。
 これを聞いたオオサザキが、倭直の祖麻呂に、
 「倭の屯田は本来山守のものというのは、どういう理由なのだ?」
と、尋ねると、麻呂は、
 「どのような経緯があったものなのか私も知りません。ですが、私の弟の吾子籠
(あごこ)がその辺のことに詳しいのですが」
と、答えたが、この時アゴコは韓国に派遣されて日本にはいなかった。
 そこでオオサザキは、オウノスクネに、
 「その方みずから韓国に渡りアゴコを呼び戻せ」
と、言った。それから、淡路の海人80人を水手(かこ)としてオウノスクネに
つけ、オウノスクネを韓国に遣わした。
 かくして帰国したアゴコに問えば、
 「垂仁天皇の時代に、皇太子のオオタラシヒコの尊(後の景行天皇)に倭の屯田
を定められましたが、この時に、
 『倭の屯田は常に天皇のものである。たとえ兄弟といえども天皇でない者が掌る
ことはできない』
と、おっしゃられました。だから山守のものではありません」
と、答えた。

 ここに登場する山守について、岩波古典文学大系『日本書紀』の頭注には、
「応神天皇が定めた山守部のことを指すか山川林野を掌るオオヤマモリの命を指す
か」
と、ありますが、『日本書紀』本文の中に、オオヤマモリは応神天皇が自分を皇太子
にしなかったことを恨み、さらにこの件で怨念を積もらせた、とあるので、たとえ
山守が山守部のことだとしても、その上に立つ者としてオオヤマモリが大和の屯田を
掌握することになるものと思われます。

 もっとも、このエピソードは、応神・仁徳天皇の時代にはまだ設置されていなかっ
たと考えられている宿禰の称号や屯田が登場することから、後世に作られた伝承であ
ろう、とされているのですが、それでも出雲臣の祖先が大和の屯田の管理者に任命さ
れているというエピソードは、出雲臣と大和政権のつながりをうかがわせるものです。
 まだ意宇郡の豪族にすぎなかった淤宇の一族が出雲全土の掌握に向かって動いて
いくその背景に大和政権の後ろ盾があったことが想像されます。


・・・つづく