goo blog サービス終了のお知らせ 

ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

亀戸天神梅まつり2018年(2.12)

2018年02月12日 23時48分05秒 | 季節の花

寒さが続いていますが2月4日から始まった亀戸天神の梅まつりに行ってみました。

午後の寒い中でしたが、結構観光客が来ていました。

ピンクの梅が多く咲き始めていました。

鳥居の前の梅です。

呉服枝垂です。

呉服枝垂と太鼓橋

寒衣

夫婦紅

紅梅澱のところの紅梅も咲き始めました。

紅梅澱のところの梅に鳥が止まっていました。

八重松島

こちらは旭牡丹です。

蘇方梅奥のピンクは姫千鳥

 

 

白い梅の月影です。白い梅も冬至梅以外も咲き始まました。

青軸冬至

老木も頑張っています。

冬至梅とスカイツリー

拝殿の前の梅も一株だけ咲き始めました。

蠟梅と太鼓橋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小村井梅園・梅屋敷跡(18.2.9再訪)

2018年02月09日 23時50分43秒 | 季節の花

9日、仕事の予定が2時間ほど時間が空いたので再び小村井香取神社にある梅園を訪れてみました。まだ、白い梅は少ししか咲いていませんが紅梅はだいぶ咲いてきました。

一ようやく咲き始めた紅千鳥花が集まっています。

こちらは境内の外から撮りました。

紅千鳥の近くにもピンクの花が咲いています。

玉牡丹もだいぶ咲いてきました。

花王の工場の裏にも梅園があります。

北十間川と浅草通りの間の梅屋敷跡の紅梅です。

スカイツリーと梅の花

街灯がちょっと邪魔になりますが、背比べで摂りました。

下流の橋が福神橋です。

左側のピンクに見えるところあたりから左手が梅屋敷だったようです。

明治通りにかかる福神橋を調べてみましたが何故福神橋になったのかの由来はわかりませんでした。

橋の右手花王の敷地の一部?に銅像がありました。

梅の花のついでに梅次郎さんを少し調べて見ました。

★ランドマーク大沢梅次郎像:大沢梅次郎は、明治22(1889)年にこの地の旧家小山家に生まれた。大正6(1917)年、28歳で吾嬬町の町会議員となり、その後同13年(1924)吾嬬町長、昭和3年(1928)から東京府会議員、さらに都議会の二代目議長を終戦を挟む前後1年歴任し、都議を4期(昭和18年9月13日から昭和34年4月29日まで)務めた。昭和34年(1954)9月に没。

銅像は初代の墨田区長勝田菊蔵氏が昭和37年に建てたもののようです。

この碑は大沢梅次郎氏が吾嬬町長大正14年に建てたもののようです。

前から気になっていたので、今回初めて撮って調べてみました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花めぐり・新宿御苑寒桜(18.2.8)

2018年02月08日 23時29分11秒 | 季節の花

寒さが厳しく、早く花の季節をと願って2月8日に新宿御苑を散策しました。

新宿御苑の目的は日本庭園の寒桜でした。千駄ヶ谷門からまっすぐ旧御涼亭に向かいました。旧御涼亭からみた日本庭園です2本の寒桜が見えます。脇から見ています。

正面から見ました。

これが右側の寒桜です。

2分咲きというところでしょうか。

隣の寒桜には立派なカメラを構えていました。メジロが数羽花に来ていました。

スマホではうまく撮れません。

上の池に向かうと途中にちょっと寂しいけどこれも寒桜3本目です。

これは4本目の者です。少し大きな木でした。

これが上の池です。いつもは橋のところから撮りますが、今回は逆にしてみました。

ここから脇の梅園に行きました。かわいいピンクの花が咲いていました。

ここの梅林はピンクが少しだけ、隅に1本白い花が咲いて今咲いた。

新宿門から近い休憩所の前の梅林はほとんど咲いていません。2本ある河津桜も1-2輪です。

梅林の近くにも5本目の寒桜がありました。ここにも人が集まっていましたが、通過して、最も早く咲きだした寒桜のところへ

6本目の寒桜です。ボリュームのある花が咲いています。

ここのところには蠟梅も咲いています。寒桜の隣の蠟梅花は少しでした。奥に行くとたくさん花を付けた蠟梅がありいい匂いをまき散らしていました。

さらに奥にこんな花がありました。

蛇の目エリカと書かれていました。

エリカというと西田佐知子の「エリカの花散るとき」という歌を浮かびました。当時はどんな花か考えたことはありませんでした。エリカという言葉だけはおぼえています。

中の池、氷もほとんど解けていました。

前回と違って少しゆっくり見て歩きました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧小松川閘門、旧中川と荒川ロックゲート

2018年02月07日 23時46分39秒 | 史跡散策

仕事を終えていつものようにリハビリサイクリングで周辺を散策しました。時々訪れる中川船番所跡に行きました。

小名木川と中川の合流地点、この左側あたりあったようです。番所橋の上から。

江戸名所図会より

★ランドマーク中川船番所跡:中川船番所は、寛文元年(16611)6月6日小名木川の中川口北岸に設置され、江戸に出入りする人と物資を査検した川船改のための関所である。
中川番役を勤めたのは寄合の旗本で、旗本自身は平常、番所には詰めず、家臣を派遣していた。規模については、『新編武蔵風土記稿』に東西26間余(約47メートル)、南北17間余(約31メートル)と記されている。また、『江戸名所図会』の挿絵によると、番所の周囲には木柵がめぐらされ、槍10筋が装備されており、小名木川縁には番小屋が建てられている。通関手続きは次第に形式化していったとみられ、「通ります」というと、「通れ」と応えて通行を許したという川柳もある。
明治2年(1869)2月、全国の関所廃止の通達後も査検が続けられたが、4月、正式に廃止が指令された。(江東区HPより)

右手の河川が隅田川に繋がっています。見えている工事中の橋が番所橋です。

河口口の方面です。江戸名所図会の釣の絵はこの辺だったのでしょうか。

今回の新しい発見は対岸の景色でした。

昔はここのところは新川も合流していたということで、どこでつながっていたのかが疑問でしたので、対岸を訪ねてみました。明治38年の地図です。明治43年の大水害の前です。大水害を期に荒川放水路が掘られることになります。

こんなものがありました。

旧小松川閘門跡です。

★ランドマーク旧小松川閘門:この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。

 川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。

ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。

この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。

 本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。

また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。と説明書きがありました。なかなか風格のある建造物でした。いろいろ探してみたらこんな写真を発見しました。これは東映映画の撮影で使われたもののようです。こちらは建設中の写真です。今はほとんど埋まってしまって門の上部だけが現れています。閘門といえばこの先に荒川ロックゲートがあるので行ってみました。

今の旧中川と荒川を繋げる閘門(ロックゲート)です。

いろいろ説明書きがありました。赤い線は人工的に掘られた荒川(荒川放水路)です。荒川と旧中川と繋ぐところに小松川閘門と小名木川閘門が並行していたようです。

当時の小名木川閘門

小名木川閘門が混んでいたので、小松川閘門が増設されたようです。

こんな図もありました。大正4年(1929年)の水門(閘門)では新川から小名木川に繋がっていました。

平成21年(2009年)現在の水門(閘門)です。旧中川は荒川とロックゲートのみで、つながっています。

源流の碑があります。

帰りに番所橋のところに稲荷神社があったので寄ってみました。

★ランドマーク陶首稲荷神社: 『南着飾郡神社要覧』によれば、寛永年間(一六二四~四四)初め、小名木村の又兵衛という者がこの地を開発し、今の地に祠を建て、三神を合せ祀り、産土神とした。殿内の古い額に陶首稲荷と神号があったという。『新編武蔵風土記稿』巻之二五によれば、この社は又兵衛新田及び中田新田、大塚新田の鎮守であるという。戦災で焼失し、昭和二九年に再建された。(「江東区の民俗城東編」より)(猫の足跡さんより)

★産土神:産土神は、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す。その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。産土神への信仰を産土信仰という。(ウイキペディアより抜粋)

土公神と庚申塔と道祖神が並んでいました。

★土公神(どくしん・どこうしん)とは:陰陽道における神の一人。土をつかさどるとされ、仏教における「堅牢地神」(けんろうちしん=地天)と同体とされる。地域によっては土公様(どこうさま)とも呼ばれ、仏教における普賢菩薩を本地とするとされる。

土をつかさどるこの神は、季節によって遊行するとされ、春はかまど(古い時代かまどは土間に置かれ、土や石でできていた)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされた。遊行している季節ごとにかまどや門、井戸、庭に関して土を動かす工事を行うと土公神の怒りをかい、祟りがあるという。

 また、土公神はかまどの神(かまど神)ともされ、かまどにまつり朝晩に灯明を捧げることとされる。この神は、不浄を嫌い、刃物をかまどに向けてはならないとされる。

★道祖神(どうそじん、どうそしん):路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている

庚申塔(こうしんとう):、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。

周りを注意深く見渡すといろいろな発見があります。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立春の花めぐり(河津桜と梅の花とスカイツリー)

2018年02月06日 23時40分41秒 | 季節の花

寒さと大雪の今年で、花も咲くのが遅れていますが、いつものところに花を見に行きました。江東区は木場公園脇の大横川の堤の河津桜です。

いつもはもっと多く咲いていますが、今年は早咲きの河津桜だけが咲き始めていました。遠くにスカイツリーが見えます。

蜜を吸いに来ているメジロを見つけました。

次に東京スカイツリーの前の北十間川のところに咲く、河津桜に向かいましたがこちらは全く咲いていませんでした。ここを通過して、墨田区側の隅田公園に行きました。

牛島神社の近くにピンクの梅が咲いていました。

ここから桜橋を渡って台東区側の隅田公園に行きました。

山谷掘の埋め立て地のところに竹谷の渡し跡の碑がありました。

 

奥に見える階段ところのが隅田川に注ぐ水門です。今は暗渠になり水門(排水口)になっています。

★ランドマーク竹屋の渡し跡:「竹家の渡し」、「向島の渡し」とも称された。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島三囲(みめぐり)神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。(ウイキペディアより)こんな感じだったようです。向島三囲神社のあたりでしょうか。

「すみだ川」の台詞にでてくるのを思い浮かべました。

作詞:佐藤惣之助、作曲:山田栄一
唄:東海林太郎、台詞:田中絹代

1 銀杏返しに黒繻子(くろじゅす)かけて
  泣いて別れたすみだ川
  思い出します 観音さまの
  秋の日暮れの鐘の声

台詞)
   「あゝそうだったわねえ、
   あなたが二十歳(はたち)、
   わたしが十七の時よ。
   いつも清元のお稽古から帰って来ると、
   あなたは竹谷(たけや)の渡し場で
   待っていてくれたわねえ。
   そして二人の姿が水に映るのを眺めながら
   ニッコリ笑って淋しく別れた、
   本当に儚(はかな)い恋だったわねえ」

梅林ほどではありませんが、梅の木があちらこりたに植えてあります。

今咲いているのは八重寒紅でしょうか。

冬至梅でしょうか白いのも少し咲いています。

ここから吾妻橋の今の渡し場(水上バス乗り場)のところに行きました。東京スカイツリーのビューポイントの一つです。

アサヒビールのビール色のビルの上に泡の見立てたオブジェです。

隣のフラムドールのオブジェ(通称うんちとか火の玉とか読んでいますが)は暮れに大掃除して磨かれて、輝いています。

近くの居酒屋さんでいっぱいやって帰る頃にはスカイツリーは点灯されていました。真下から京成橋から横十間橋からです。

お店の盆栽も咲いていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする