ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

花と猫とおじさん

2016年05月11日 23時16分30秒 | 公園散策

リハビリ病院の帰りに木母寺の前の花壇にポピーが咲いているのに目を奪われて、自転車を降りて撮りました。

遊歩道側の生け垣

奥にはポピーの赤い花が

生け垣のところにはシランがまだ咲いていました。

木母寺に入る右手には

紫のアヤメとツユクサがあります。

少し病院の方に戻るとバラや

アヤメではなくてジャーマンアイリスというらしいです。

最近はどこででも見られるので、調べて見ました。

「ジャーマンアイリスは虹の花(レインボーフラワー)とも呼ばれるように、色とりどりの花を咲かせ、アイリスの仲間では最も華やかで、非常に多くの品種があります。ヨーロッパに野生する自然交雑種ゲルマニカをもとにして、ほかのいくつかの原種も取り入れて交配育成が行われた系統です。ビアデッドアイリス(ヒゲアイリス)の類に含まれ、花弁のつけ根の近くにブラシのように毛が密生しているのが特徴です。単色のもののほかに、上の弁と下の弁で色が異なるものも多く、ドレスをまとったような優雅な花の姿が個性的で香りもあります。近年は育種が進んで、下の弁が垂れずに横へ大きく広がり、フリルやフリンジが入った品種も多く育てられています。草丈1mぐらいの高性種から10~20cmのミニタイプまで、大きさのバラエティーもあり、開花期の早晩性も見られます。いずれも地際の根茎が丸く大きくふくらんで球根のような形になり、横に這うように伸びて株が広がり、ふえていきます。ジャーマンアイリスは虹の花(レインボーフラワー)とも呼ばれるように、色とりどりの花を咲かせ、アイリスの仲間では最も華やかで、非常に多くの品種があります。ヨーロッパに野生する自然交雑種ゲルマニカをもとにして、ほかのいくつかの原種も取り入れて交配育成が行われた系統です。ビアデッドアイリス(ヒゲアイリス)の類に含まれ、花弁のつけ根の近くにブラシのように毛が密生しているのが特徴です。単色のもののほかに、上の弁と下の弁で色が異なるものも多く、ドレスをまとったような優雅な花の姿が個性的で香りもあります。近年は育種が進んで、下の弁が垂れずに横へ大きく広がり、フリルやフリンジが入った品種も多く育てられています。草丈1mぐらいの高性種から10~20cmのミニタイプまで、大きさのバラエティーもあり、開花期の早晩性も見られます。いずれも地際の根茎が丸く大きくふくらんで球根のような形になり、横に這うように伸びて株が広がり、ふえていきます。」とかなり専門的に書かれています。

こちらはだいぶわかりやすいです。

結論からいうと、あやめとアイリスは別物です。大きな違いとして、あやめは日本古来の品種であり、アイリスは地中海原産の洋種という点です。アイリスはギリシャ語で「虹」を意味し、その名の通り色が豊富なのが特徴です。あやめは紫かまれに白の花を咲かせる程度の色の少なさです。

一般的にアイリスというと、ジャーマンアイリスかダッチアイリスを指すことが多いようですね。ジャーマンアイリスの大きな特徴として、花びらの根元にひげがあることから「ひげアイリス」、花の色が豊富なことから「レインボーリリー」とも別名を持つ華やかな花です。あやめにはもちろん「ひげ」はありませんので、見分ける際のポイントになるでしょう。

遊歩道の反対側には、もうアジサイが咲き始めていました。

花壇を通り過ぎて行くと、猫ちゃんが3匹いました。

近寄って撮っていました。

動きを見ていました。

おじさんの方に向かって歩き始めました。

2匹はおじさんの座布団に座ってしまいました。

おじさんはネコおじさんのようで、いつまでも寝そべっているのが2匹の親だと言っていました。

最後は3匹ともおじさんのベンチに行ってくつろいでいました。

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待乳山聖天・今戸橋

2016年05月10日 13時59分59秒 | 社寺仏閣

今戸神社の近くに山谷堀(今戸橋)と待乳山があります。14年4月にも仕事の途中で待乳山聖天は訪れたことがあります。http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/5833535fd07f9811fa5e9cb136d25476

桜の咲いて、天気も良い日でした。今回はテントが出ていてしたの看板は見ることができませんでした。

雨が降りそうな天候でしたが、今戸橋跡を渡ってきました。

 

山谷堀は暗渠になっています。

ここから吉原に船で通ったということで、

1803年の古地図にこのようになっています。隅田川のちょうど中ごろの三角になっている金龍山と書かれているところが聖天さんです。上の四角に囲われているところが吉原になります。濃い黒線は堤のようです。向かい側は三囲稲荷(神社)になります

この場所は浮世絵の歌川広重(初代)にも数作品で描かれています。

歌川 広重(初代) 名所江戸百景 真乳山山谷堀夜景

歌川 広重(2代)  江戸名勝図会 真乳山

歌川 広重(2代) 東都三十六景 今戸橋真乳山

いづれも川向こうの向島側から見た風景になっています。

歌川 広重(初代) 東都名所 真土山之図

下の川(堀)北十間川になりますか。

栄松斎 長喜

こちらは浅草側から聖天さん越しに隅田川を見ています。

階段がたくさんあ りましたが手すりと杖でどうにか本堂まで行けました。

★ランドマーク待乳山聖天PHより「古い縁起によりますと、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。
 この不思議な降起は実は十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」がご出現になるおめでたい先触れであったのです。それから6年後、天候不順に人々は悩まされていました。永い日照りが続き、人々を飢えと焦熱の地獄におとしいれました。そのとき大聖歓喜天がご出現になり、こうした人々を苦しみからお救いになられたそうです。
それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると天安元(857)年、慈覚大師が東国巡拝のおり、当山にこもって21日の間浴油修行をなされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられています。そして、ここに当山の信仰の基礎が形成され、その後ますます民衆の尊信をあつめるに至りました。
 ことに江戸時代元禄華やかなりし頃には境内地、諸堂が整備されて今日の土台が完成されました。
 以来、関東大震災、東京大空襲などにも遭いましたが今日まで篤い尊信は続いています。」となっています。

階段の所の大根と巾着が描かれていましたが、大根と巾着は御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表しているということだそうです。

一段上がったところに「トーキー渡来記」と書いてある碑がありましたが読む気になりませんでしたが

自宅で調べて見たらこれをしっかり読んで表記している人がたくさんいました。こんなことが書いてあるようですが長いので最初だけ写しました。

リ・デ・フォーレスト博士は明治6年米国アイオワ州に生まれ無線電信の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年更にトーキーを発明、紐育市に於けて上映世人を驚かせたり。大正13年故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、親しくその詳細を聴きて将来に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作および配給権を獲得したり、依て米人技師を帯同帰国。大正14年7月9日宮中に於天皇皇后両陛下の天覧に供し、各宮殿下の御覧を仰ぎ足る後一般の公開せり。トーキーの我国に招来されたる之を以て初めとす。(以下略です。)

その上はこの階段の

左側に

お地蔵さんがたくさいて、社がありました。

歓喜地蔵尊でした。

右側の観音様は出世観音です。

社務所の横の壁は築地塀だそうです。

塀越しにスカイツリーが見えます。

奥の本殿の右手には

宝篋印塔がありました。前回も撮っています。

雨水受け?大根が描かれています。

裏に回ると

糸塚です。

隅田川からの登りは天狗坂と呼ばれていたようです。

今は階段になっています。戸田茂睡の歌碑がありましたが、あまり知らない人なので写真を撮りませんでした。これは聖天さんのHPのものです。

調べてみると「戸田茂睡は江戸時代元禄期の歌人(1629 ~ 1706)です。渡辺監物忠の六男として駿府城内で生まれました。父の死後、伯父戸田政次の養子になります。名は馮(たのむ)、後に恭光(やすみつ)と改めます。茂右衛門、茂睡などと号します。一時期、三河岡崎藩本多家に仕えますが出家し、浅草寺近くに居を構えました。形骸化した伝統歌学への積極的批判者として知られます。代表作に江戸の最初の地誌である『紫の一本(ひともと)』のほか『御当代記』『梨本集』などがあります。」

ということで浅草公園内に墓があるようです。 墓石は、牛込萬昌院より発見され大正2年(1913)に浅草公園に移されたものです。自然石の土台、宝篋印塔の基壇、五輪塔の順にのせられています。五輪塔は茂睡自身が生前に自らの後世を供養した逆修塔です。

隅田川側の山の下には庭園がありました。

反対側には池波正太郎の碑がありました。

池波正太郎の脇には旧町名由来案内が立っていました。

 

 

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橋場不動院・今戸神社

2016年05月09日 22時42分04秒 | 近郊散策

午前中にリハビリ病院の外来にいってきました。雨が降りそうでしたが病院の前の歩道橋を通って上がり[この写真は3月25日の物です)水神大橋を渡って隅田川の西岸を浅草に向かいました。スパー堤防はシロツメクサが一面覆っていました。

白髭橋です。

 

白髭橋のところは

こんな場所だったようです。

歌川広重の「名所江戸百景「隅田川水神の森真崎」

遠くに筑波山が見えているとのことです。

古地図では船ワタシと書かれているところになるようです。

ちなみにリハビリ病院のあるとことろは、枹ヤシキ御殿場と書かれているところになります。

名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈

煙は今戸焼ぼ竃でしょうか。

こちらは雪景色

歌川 広重(2代)  隅田川八景 橋場暮雪

今の隅田川はこのようになっています。

見える橋が渡ってきた水神大橋です。

白髭橋からのスカイツリーです。

古地図にある不動インはこちらでしょうか。

★ランドマーク不動院:HPには「不動院(橋場不動尊)は、天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。当初は法相(ほっそう)宗でしたが、長寛元(1163)年に時の住職教円(一説には長円)によって天台宗に宗派を改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となりましたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。

 江戸時代には、周辺の三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大化、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されています。
 現在の本堂は、弘化2(1845)年建立のもので、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素なたたずまいをしめしています。」とかかれています。

奥に墓地とかあるようですが、これ以上中には入りにくいようになっていました。本堂の脇の地蔵尊です。

ここを通り過ぎると、次に今戸神社がありました。

 

古地図には見当たりませんでした。よく調べてみたtら八幡宮と書いてあるのが今戸神社の前身です。

永倉新八の”同志連名記”によると、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていたが、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのこと。
松本良順は今戸八幡に寓居して患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養したといわれています。
今戸八幡は現在、今戸神社と改称し、境内に”沖田総司終焉之地”の碑があります。

長昌寺の江戸名所図会にも今戸焼の煙が上っているのが描かれています。江戸名所図会大人の塗り絵より

歌川 広重(2代)東都名所ノ内 隅田川八景今戸夕照

歌川 広重(2代) 江戸自慢三十六興 今戸焼物

今戸焼招き猫(いまどやきまねきねこ)
 
”招き猫”は商売繁盛や招福への願いをこめて、よく店先や玄関などに飾られておりますが、猫は古代から神秘的な力をもつと考えられていました。
いわゆる招き猫の登場は江戸時代で、一方、人形としての招き猫はここ今戸の地で十六世紀から焼かれていた今戸焼が始まりといわれております。
伝わるところでは、江戸末期の話で、浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立って言いました。”自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる”と。
そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったとのことです。

今戸神社の絵馬は、丸い形をしています。「角が立たない」「円満に収まる」ようにと角をとってあるのだとか。そして赤い糸で結んであるのは「円結び」と「縁結び」をかけているのだということだそうです。

台東区有形文化財(歴史資料)
 
この狛犬は今戸焼職人によって宝暦2年(1752年)に今戸町の鎮守であった今戸八幡神社(現在の今戸神社)に寄進され、文政5年(1822年)に再興されました。
浅草新堀の石工・小松屋竹右衛門が制作したといわれています。
今戸焼は江戸時代から今戸周辺の地場産業。瓦、日常生活道具、土人形、工芸品などの焼き物を生産販売していました。
狛犬の台座に詳細な銘文があり、今戸焼職人と世話人の42人の名前があります。職人達が寄進したことが分かる貴重な資料です。職人は、火鉢屋、土器屋、焙烙(ほうろく)屋に所属し、食器や調理器具など日常生活道具を生産していました。残念なのは、いま、今戸焼を継承しているのはわずか1軒になってしまったことです。

 

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古地図亀戸天神・亀戸銭座

2016年05月06日 22時25分52秒 | 歴史の小道

小雨模様でしたが、リハビリで少し歩きました。近場で歩ける亀戸天神まで自転車で行き、境内を歩きます。

すでに藤の花は散ってしまいましたが、黄色の藤が咲いていました。

心字池の主?のアオサギも小雨の中で佇んでいました。

★ランドマーク亀戸天神HPより亀戸天神は菅原道真公をお祀りする当社は下町の天神さまとして広く知れわたり、多くの方々に親しまれております。
古くはご本社にあたります九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されておりましたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称いたしました。

正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩かれ 、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。

当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。

今は東京スカイツリーの近くで参拝客も大勢来ているようです。

花園社です。

こちらは弁天社です。

江戸の古地図で調べてみました。

古地図に乗っている

銭座の跡地が

日清紡績の創業の地です。

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旧千葉街道逆井の渡しから両国橋

2016年05月04日 07時45分30秒 | 歴史の小道

自宅は亀戸天神の近く、蔵前橋と京葉道路の中間にあります。

京葉道路の南側に旧千葉街道が走っています。自転車でリハビリを兼ねて江戸川区と江東区の堺の旧中川を渡って江戸川区側まで行き旧千葉街道を巡ってみました。

江戸川区側にある逆井の渡しの記念碑です。

小松川神社の入り口にも案内がありました。

江戸川区側から見た現在の逆井橋です。

左側の排水口は暗渠化されている堅川が中川に注いでいる出口です。

古地図で調べてみました。

左下の亀井戸村のところに中川と堅川の合流地点でありますが、そこのところに逆井の渡しと書いてあります。亀井戸村の上のハタとハタの間にあるのが浅間神社です。右上の神社が亀戸天神となっています。1800年ころの古地図ですが、両国に向かう千葉街道は整備されています。天神の上の掘割は横十間川で千葉街道との交差するところが旅所橋となります。

左上のとおろに社屋がありますが羅漢寺です。まだ五の橋ができていないようです。

江東区側には渡し跡の碑が立っています。

江戸川区でも江東区でもこの逆井の渡しの浮世絵を使っています。作者が江戸川区では安藤広重、江東区側では歌川広重になっています。

「歌川広重、幼名は安藤徳太郎、俗称は重右衛門、安藤重右衛門かつては安藤広重とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。」ということで江東区側の書き方の方が良いようです。

ここから右に行くと亀戸あさくさ古道になります。堅川に沿って両国方面に行くのが元佐倉道・旧千葉街道です。堅川は暗渠になり上を高速道路が走っています。

江東区内には旧千葉街道の案内が丁目ごとに出ています。

五の橋の所に碑です。

これは明治通りを管轄する都が管理しているものと思われます。

五の橋周辺を散策してみます。

入り口のところに五の橋の碑があります。

1879年に架けられたということですので、古地図には出ていません。

こちらは1846年の地図ですがこれにも載っていません。〇の所が五の橋のあるところです。近くに五百羅漢寺があり、ここにお参りする人が増えたこのなどで、架けられたと書いてあります。

今の羅漢寺です。

橋を渡って羅漢寺に行く道(明治通り)は「らかん通り」になっています。

 

五の橋の交差点のところ錦糸町方面に向かってみています。左に行くと羅漢寺、右が亀戸駅になります。

亀戸1丁目のところの案内です。間もなくまっすぐ行けなくなります。

横十間川に出ました。

旅所橋は昔この位置に架かっていたようです。

今は50mほど北側に架かっています。

旅所橋を渡って墨田区に入ります。

四つ目橋の近くで振り返ってみました。突き当りが横十間川のところになります。

四つ目通りの交差点は道はつながっていますが信号がないので渡れません。

墨田区に入ると旧千葉街道は横十間川から大横川までの間、両側がホテル街、いわゆるラブホテルが並んでいます。なんらかの歴史があるのでしょうか。大横川に交差するところでも行き止まりになっています。

ここを右折すると橋はなくて跡の碑がありました。撞木橋跡です。

 

 

以前はこんな橋があったという記事を見つけました。今のところからはまったく想像できません。堅川から北に2本目のこの道は墨田区で馬車通りと名付けられています。

ここを右南側にいくと

両国側からみた大横川との交差地点です。

あとはまっすぐ隅田川に架かる両国橋まで通っています。

 

両国橋はすこし北側になるので隅田川との交差する地点で右に曲がっています。今の両国橋とほぼ同じようなところに架かっていたようです。

この絵の左下にある橋が堅川に架かる一つ目の橋、橋の右側の通りが旧千葉街道ということになります。

古地図では下のようになっています。

今の両国橋です。

 

 

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