みなと保健所に新年のごあいさつで訪問しました。港区三田にあり、保健所を出たところで東京タワーが間近に見ることができます。近くの駅は都営地下鉄の赤羽橋です。高速道路の下が古川(渋谷川の下流)です。国道1号を挟んで向かい側に伏見三寶稲荷がありました。稲荷は「明治初期に、小林七兵衛が近くの三宝稲荷を敷地内へと移す。そして、明治中期になり、京都伏見稲荷より勧請し、伏見三寳稲荷神社となる。その後、何回か移動を繰り返し、昭和60年に現在地へ移る。」ということだそうです。当然ながら総本社は京都の伏見稲荷大社です。写っている女性はあまやどりをしていました。
脇に馬頭観音菩薩碑がありました。赤羽橋を渡って行くと妙定院の災除地蔵尊がありました。お寺さんの紹介では「江戸南方四十八所地蔵尊参 第二十七番開創当時から境内に地蔵堂があり、木造寄木造丈六金箔置の大地蔵尊坐像が安置されていました。相貌は崇高な中にも温容慈光が参詣者の心を打ち、延命子育・利益広大と言い伝えられてきました。のち、「江戸南方四十八所地蔵尊参」(寛政六年(1794)撰)の第二十七番に列せられ、多くの参拝者でにぎわいました。昭和二十年(1945)の東京大空襲で消失しましたが、惜しむ声多く、唯一残った守護札版木をもととして石像で再建され、霊験あらたかと親しまれています。」と書かれています。妙定院本堂ですお寺さんのHPでは「妙定院は、宝暦十三年(1763)、徳川九代将軍家重公を開基と仰ぎ、三縁山増上寺四十六世妙誉定月大僧正によって開山され、寺号は増上寺、院号は定月上人の戒号より妙定院と称しました。増上寺の別開蓮社また別院として位置付けられて、六時勤行・念仏不断の道場であり、また当時山内五十一ヵ寺中、明蔵(一切経)を有し仏典研究の中心的存在でもあり、後さらに、浄土宗の准檀林の寺格を持った、念仏道場・学問研究の名刹として知られてきました。
当院の地は当時三縁山中、山下谷と呼ばれた所で、幽水閑雅、古川の清流は浄土を思わせる名所として、東京名所四十八景の一として人々に親しまれていました。現在も首都の中心地として、近くには東京タワーはじめ近代的な高層建築や高速道路がある一方、芝公園内にあって濃い緑に囲まれた環境の中、境内にも、多くの保護樹木などでおおわれた庭園も持ち、都心の安らぎの地となっています。
円光大師東都二十五霊場 第一番法然上人の御直作で、熊谷直実公の念持仏と伝えられています。像はこの中にあるようですが写真には写っていないようです。
お寺さんの紹介では「真理を求める鋭い相貌の中に、おおらかな暖かさが感ぜられる気高い御像です。「三縁山志」によりますと、高野山に祀られていたこの像が当院に伝来。この像をお祀りしていたため、安永三年(1774)東国に大師遺跡が移り定められたときに、当院を二十五拝所第一番として、美作国(岡山県)誕生寺を模して定めた、としています」となっていました。
増上寺と古川、赤羽橋は広重の絵などにも出てきます。増上寺側から広尾を見たものと、こちらは古川から増上寺を見たもののようです。芝公園駅まで歩く途中で、芝公園の軟式野球場に出合いました。ここで45年から40年程前になりますが野球をしていました。左バッターだったので、高速道路に打ち上げてしまのではないかと心配したものです。よく見たら高層道路の壁にネットが張ってありました。