ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

甲子園・難波

2013年02月13日 22時47分56秒 | 訪問地周辺散策

大阪に出張でした。大阪へは年間10回ほど出張します。今回は甲子園や塚口、帝塚山、八尾と2日間で4カ所という強行軍でした。12日は少し早めに甲子園に着き、甲子園球場の周りを散策しました。甲子園は、1922年に武庫川の支流である枝川と申川(さるがわ)が改修工事によって廃川となり、その河川敷跡を阪神電鉄が兵庫県から買収し、大正13年には枝川と申川の分岐点に野球場が建設されました。その年が十干、十二支のそれぞれ最初の「甲(きのえ)」「子(ね)」の年であったことから、この付近一帯を「甲子園」と命名されたそうです。
球場に隣接している甲子園素盞鳴(スサノオ)神社です。必勝祈願に球児たちが訪れるそうです。こちらは最初の訪問地の近くの県立鳴尾高校です。なぜこの写真かというと、昔野球少年だったころ、巨人軍に藤尾茂という捕手がいましたが、この選手の出身校です。鳴尾というイメージから鳴門海峡の四国ではと思っていました。そのほかでは土屋正孝という内野手の松本深志高校もよく覚えています。
宿に行く途中で難波に立ち寄りました。我々の年代では「月の法善寺横丁」という藤島桓夫が歌ったものが懐かしく思え、どうしても寄りたくなります。法善寺の水掛不動尊最初見たときはびっくりしましたが
今回は角度を変えて撮ってみました。
法善寺の山号は天龍山で、本尊は阿弥陀如来です。そのほか水掛不動(西向不動尊)や金毘羅堂などがあります。当寺院は千日念仏を行ったことから俗に千日寺と呼ばれ、千日前は当寺院の門前に由来するものです。
隣のお初大神には提灯に囲まれてネコが暖かそうに鎮座していました。
昼間の道頓堀はちょっと興ざめです。
今日13日は河内山本を訪問しましたが、近くに山本八幡宮がありました。山本八幡は、享保元年(1716年)、石清水八幡宮より神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀されました。1956年に社殿が改築され、現在に至っています。本殿は社殿の中に収まっています。

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冬の新宿御苑

2013年02月08日 23時50分01秒 | 近郊散策

会社は3日勤務なので、休みの8日は、ノロウイルスの講習会を聞く機会を得ました。いつもの鍼灸治療を早めに終えて、少し時間があったので新宿御苑に寄ってみました。
4年前までは、御苑に接している会社に4年間勤めていたので、昼休みは、周辺を散歩したり、時々200円を払って20分ほど園内を散歩しました。花の咲く季節は多くの方が、訪れるのですが、花も少なく閑散としていました。
この時期の花というと、まず、千駄ヶ谷入口近くの寒桜です。すでに満開を過ぎていたようです。次に水仙です。池のほとりに咲いているのですが、こちらは、満開には少し早かったようです。
代々木といえばドコモのビルです。御苑からはどこからでも見えます。エンパイヤーステートビルをまねています。ちなみにこちらは同じ場所で、5月に写したものです。
中にどれくらいの人が働いているかと思うと、実はあれはアンテナビルで、ほとんど中は空洞?、少ししか人は働いていません。
今日は中には入れませんでした、御涼亭(台湾閣)です。この建物は昭和2年(1927年)に創建され、皇太子(後の昭和天皇)御成婚記念として台湾在住邦人の有志から贈られたものです。
新宿御苑の敷地は徳川家康が江戸城に入城した際、家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部で、明治に入り農業試験場や宮内庁管轄の植物苑になり、皇室の庭園を経て昭和24年から一般公開されています。太平洋戦争の空襲では旧御涼亭(台湾閣)と御休所を残して、ほぼ全焼という大きな打撃を受けました。日本庭園は剪定作業をしていましたが、落ち着いた雰囲気でした。
どこかに花が咲いていないかと思って歩いていたら、日本庭園の中に梅の花(紅梅・白梅)が少し咲いていました。
生き物らしきものを探していたら、水辺の鳥
誰もいない休憩所で、我が物顔のネコちゃんがいました。

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大宮駅のホームから

2013年02月06日 22時52分31秒 | 訪問地周辺散策

雪を心配しながら大宮に訪問しました。大宮へ行く途中の線路際には、多少雪が積もっていましたが、街中はみぞれと濡れた道路でした。
大宮へ来たならランドマークの氷川神社訪問などと考えていましたが、寒くて雨模様で、写真を撮る機会もなく帰りのホームで電車を待っていました。どんよりとして、霧がかかった線路で、やけに赤信号が目立っていました。
鉄ちゃんではないので、鉄道には詳しくないのですが、信号が人の表情にも見えて近づいてみました。私にはちょっと怖い感じがしました。赤信号なので少し迫力がないと無視されるので、怖い顔も必要かと納得して帰ってきました。赤信号の4体でした。人の目つきに見ますか?
信号の先に見えるのは「さいたま新都心」です。1984年(昭和59年)に機能を停止した国鉄大宮操車場の有効活用として、再開発・土地区画整理事業が行われたものです。2000年(平成12年)5月5日に「街開き」が行われています。街開き後は埼玉県内でも有数のビジネス拠点となっています。埼玉の本庄から高崎線でよく東京に出てきていたので、大宮操車場にはなじみがありました。

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日比谷公園

2013年02月05日 20時54分31秒 | 訪問地周辺散策

日比谷公園の隣のビルが今日の訪問地でした。会社から歩きで行ける場所で、何度も訪問しているのですが、今日は帰りがけに、公園に入ってみました。最初に出会ったのが、集会などで時々訪れていた、日比谷公会堂です。次に見えたのは今流の日時計(ソーラー時計)でした。
この土地は、幕末までは松平肥前守などの屋敷地でしたが、明治時代に陸軍練兵場となりました。その後、都市の公園」として計画、設計、造成された、明治36年(1902年)6月1日に「日本初の「洋風近代式公園」が誕生しました。
公園内は芝も枯れて、静かなたたずまいでした。
ただ、大噴水だけは、元気に水を挙げていました。大噴水は、昭和36年(1961年)に完成したものです。開園と同時に開店した松本楼の前の大木は、首賭けイチョウというそうです。松本楼は、日比谷公園が日比谷焼打事件など、度々政治活動の舞台となっていたこともあり、バルコニーから憲政擁護の演説が行われこともあるようです。奥は鶴の噴水がある雲形池でした。
隣の野音(こちらも昔、時々集会に通っていた日比谷野外音楽堂)では、集会があったようで、何やら不思議な奇声が上がっていました。

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新長田・阪神淡路大震災の真ん中

2013年02月03日 10時56分53秒 | 訪問地周辺散策

新長田を詳しく紹介します。
新長田は阪神淡路大震災の被害の大きかった町です。昨年も訪れましたが、今回もいくつか見てきましたので、掲載します。まずは、若松公園の鉄人28号モニュメントです。訪問先の施設では緊急避難の集合場所は鉄人28号の左足のところとなっていました。これは、阪神・淡路大震災の復興のシンボルとして2009年9月30日に完成した実物大鉄人28号モニュメント像で、高さ約15.3mあるそうです。
復興住宅・商店街の「アスタくにづか」大正筋の地下にある資料展示で当時の写真等がありました。
「アスタくにづか」とは、神戸市長田区の住商一体型の再開発地区です。神戸市震災復興再開発事業「アスタ新長田」のビル群のうち、国道2号以南のビル群を指すそうで、アスタとは明日とtownの造語です。震災で壊れた高速道の支柱震災前の震災当時の写真などがありました。表に出ると商店街は復興し新しい建物になり高速も走っていました。
アスタくにづか1番館は震災前、神戸デパートがあったところです。

靴の産業の中心だったということでしたが、工場らしきものは見当たらず、こんな看板がありました。午前中に訪れた三宮も震災で大きな被害がありましたが、今は大いににぎわっていました。しかし、新長田は建物は新しくなりましたが、商店街はシャッターが閉まっている店がたくさんあり、まだまだ復興途上だと感じました。

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