ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

古里の風景2019年1月

2019年01月03日 14時18分37秒 | 身辺出来事

毎年正月とお盆に生まれた古里に帰っています。古里の実家には家を継いでいる弟家族が棲んでいます。その近くに三女の姉夫婦が住んでいるので、姉夫婦の家に一泊させてもらっています。ふるさとに帰ると必ず周辺を散策します。畑や田んぼに囲まれたところは昔とはちが耕地整理がなされて広い田畑になりました。麦畑の先に見える山は赤城山です。

深谷の隣町なので畑には深谷ネギが栽培されています。

キャベツ畑

にブロッコリーカリフラワーや大根などが栽培されていました。

耕地整理されて広い畑が広がっています。子供の頃の景色はありません。畑の中に案山子さんが立っていました。

里山のように見えるのは関越道です。関越道の下です。木々が成長して林のようになっています。

必ず田舎の菩提寺には行きます。長勝院です。お地蔵さんはもう150年も立っているのでしょうか。

山門です。本堂です。本土の前に植わっている百日紅は70年以上も経てだいぶ老化していました。改修されてい綺麗になりました。70年前の昔はこの松の下をホームベースにして、学校に行く前に集まって野球をしていました。低学年だったころは、早く学校に行きたいのに無理やりやらされていたので、これが嫌でした。自分が上級生になったらやめて、早く校庭に行って遊ぶようにしました。笹井家の墓は墓地の中央に立っています。家を継いでくれた弟が笹井家のルーツをまとめて書き出しました。笹井家は享保18年(1733年)2月に弥七郎さんが亡くなったのが最初のようです。

次に小学校と中学校の跡地に行ってみました。小学校の時から残っているクスノキです。

思い出のくすの木として、二宮金次郎像とともに残されています。小学校の校舎の前のこの庭で毎朝ソフトボールや冬はサッカーをして飛び回っていました。この根本は暑いときは涼しい木陰となっていました。小学校の有ったところは更地で町民の運動場になっています。

奥に見える建物は農協の倉庫で、時々燻蒸中という張り紙がしてありました。こちらは中学校の校歌の碑です。「東中」は東児玉中学校という意味です。

昔は川を挟んで小学校と中学校に分かれていました。私たちのころはプールがありませんでしたが、その昔は川を止めてプールにしていたようです。今は暗渠になっています。

中学校側の校庭です。ちょうど中学校に入った時に、この部分は拡張され、野球部が創部されました。1年から3年生とも同じスタートだったので、対外試合では1年生から全試合に出場しました。左手奥にバックネットがあり、中学3年間は1日も休まず野球に夢中でした。冬場も休まず、トレーニングと称して1kmほど離れた河原までランニングし、柔軟体操を行っていました。

中学校は統合移転されたため中学校のあったところに小学校が建てられています。今はプールや体育館になっていますがライト側に校舎があって、バッテングでは校舎まで飛ばすのが目標でした。

小学校の入り口の脇に築山があって忠魂碑というのが建っていました。なんとなく軍国主義の匂いを感じていました。いまはいろいろな碑をまとめてありました。

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