近場のランドマーク探しをしていますが、最近は江戸時代に書かれた江戸名所図会を参考に散策しています。
江戸名所図会(えどめいしょずえ)は江戸時代後期の天保年間に斎藤月岑が7巻20冊【前半1–3巻(10冊)は1834年、後半4–7巻は1836年(天保7年)】を刊行、鳥瞰図を用いた江戸の名所図会(地誌紀行図鑑)。日本橋から始まり、江戸の各町について由来や名所案内を記しています。長谷川雪旦の挿図も有名です。
今回は柳橋から篠塚稲荷、第六天(榊神社)、西福寺、淨念寺、龍寶寺を巡ってみました。
篠塚稲荷です。
江戸名所図会では第六天と篠塚稲荷は隣り合っていますが、第六天は少し離れたところに移転しています。
★ランドマーク篠塚稲荷神社:当社の創起年代は詳らかではないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり。
正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年神仏分離の際玉蔵院は廃せられた。古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る。
句碑「涼風や月雪 はなの隅田川」
第六天榊神社の鳥居
第六天榊神社
★ランドマーク榊神社(第六天榊神社):景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したということで、古くから「第六天神宮」と呼ばれてきました。明治6年(1873年)に社号を「榊神社」へ改称しました。現在の所在地には、かつて官立の図書館浅草文庫があったところです。浅草文庫跡碑浅草文庫は明治14年(1881年)5月に閉館、その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現東京工業大学)の校地となっていました。関東大震災後に東京高等工業学校が目黒区大岡山へ移転したことから、昭和3年(1928年)にはその跡地の一部(同校正門付近)に移転し現在に至っています。(ウイキペディアを参考にしました)
拝殿です。
繁盛稲荷社
七福稲荷神社
江戸切絵図より
西福寺です。
わたしの彩(いろ)の「江戸名所絵図」 大人の塗り絵より。
★ランドマーク西福寺:「貞阿が西福寺と号して駿河に創建、慶長3年(1598)駿河台下に移り一寺となし、また、別院真行院、塔頭六ヵ院(源祟院、法林寺、林照院、長應院、存心院、智光院)を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めていました。」触頭の意味が分からず調べてみましたがあまり理解できませんでした。goo辞書によると「江戸時代、寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達し、また、配下の寺院からの訴願を奉行に伝えるのを役とした寺。」と書かれていました。
次は淨念寺です。江戸名所図会には淨念寺、東漸寺、龍寶寺と並んで描かれています。
わたの彩(いろ)の「江戸名所図会」大人の塗り絵より
東漸寺は不明ですが龍寶寺は残っていました。淨念寺には台東区の有形文化財の木造阿弥陀如来立像があります。浄念寺平成2年度登載
浄念寺は浄土宗で、慶長元年(1596)江戸神田駿河台に開創、同10年現在地に移転しました。本像は、開創後間もない頃、ある老翁から寄進されたと伝えますが、詳細な点は不明です。ただし、文政12年(1829)編集の『御府内寺社備考』という記録には、当寺の本尊として記載されていますので、それ以前の伝来は確実です。
像高は、84.8センチメートル。材質はヒノキで、肉髻珠(頭部の隆起した部分)や白毫(額部の隆起した部分)には水晶をはめこみ、両手は来迎印を結んで、両足を揃えて直立します。
また、背中には横にノコ入れがあります。像内には、本像の制作に用いたノミ・カンナを納めたという伝承がありますので、背のノコ入れはその際のものかと思われます(納入品については現在のところ未確認)。
本像は、衣の彫りが深く、足首の深い張りが顕著となっている点で、鎌倉時代初期の制作と推定されます。また、優れた彫刻技術による丁重なつくりであることから、京都あるいはその周辺で造像されたと考えられます。(台東区のHPより)
淨念寺の化用天神は、亀戸天神や湯島天神、平河天神などの江戸二十五天神のひとつに数えられるようです。
お寺さんにはいろいろな有名人の墓がありますが、浅学の私には残念ながらほとんど知らない人です。
墓地に入ったすぐのところに「千代の山雅信之碑」が建っていました。こちらは私たちが相撲に夢中になっていたころの横綱です。鏡里、吉葉山、千代の山、この後に栃錦、若乃花の時代だったと思います。
千代の山は、昭和17年1月初土俵、20年11月入幕、24年10月大関、26年5月場所後に横綱、34年1月引退。11代九重となり、42年2月に出羽海部屋からの破門の形で九重部屋を創設。52年10月29日歿。
龍寶寺です。もと宇治・平等院にあったものを慶長年間、神田駿河台に創建の時、宇治より寄付されたといことです。また、初代・柄井川柳の菩提寺で古くから「川柳寺」として知られていたそうです。
江戸名所図会より
手前に新堀川が流れ、川に沿った門前には柳の木となっています。中に入れなかったので、ぐるりと一回りしてみました。下の切絵図のように、淨念寺には及びませんが、当時はかなり広かったようですが、だいぶ狭くなってしまったようです。
江戸切絵図より
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