ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

慶養寺・今戸橋・山谷掘(江戸名所図会めぐり)

2016年12月09日 22時56分00秒 | 江戸名所図会めぐり

小春日和に誘われて、リハビリサイクリングに出かけました。目的は江戸名所図会の慶養寺・今戸橋・山谷堀です。

いつものように地図も持たずに自転車で東京スカイツリーの脇を通り源森橋、隅田公園、牛島神社を抜けて桜橋から今戸橋の所に出ました。

最初の写真は源森橋から見た東京スカイツリーです。雲の形もなかかなでスカイツリーに向かっているように見えました。下を通るのは東武の特急列車です。

桜橋を渡って台東体育館の脇を抜けると寺が見えてきました。

近づいてみると慶養禅寺と書かれていました。仁王様が山門の両側に立っています。

★ランドマーク慶養寺:慶養寺略史によると、慶養寺は元和元年(1615年)に浅草鳥越の地に創建され、その後、浅草蔵前、本所押上への移転を経て、貞享二年(1685年)に現在地の今戸に移ったと伝えられています。かつて境内には、大榎、大欅、大銀杏等が群立し、慶養寺はうっそうたる森の中に堂々たる寺姿を誇っていましたが、大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で諸堂を消失。昭和十八年(1943年)にようやく総欅造の本堂の再建を果たすものの、間もない昭和二十年三月に戦災により再び諸堂を一堂も余さず消失し、大銀杏ただ一本を残して、ほとんどが灰になってしまいました。現本堂が竣工するのは、それから二十年後の昭和四十年(1965年)九月のことです。

こちらの絵が当時の様子を物語っているのでしょうか。

わたしの彩(いろ)の江戸名所図会大人の塗り絵より

山谷堀 俗に堀とばかりもいへり。

待乳(まつち)しづんで、梢のりこむ今戸橋 土手の合傘、片身がはりの夕時雨 君をおもへば、あはぬむかしの細布 右 英(はなぶさ) 一蝶戯作。

中に入らせてもらいました。

本堂へ続く道これは

「当寺ハ浅草西福寺ノ辺ニアリシ時。伊丹右京年16、舟川采女年18両人討果シタル事あり。藻屑物語トイフモノ此事ヲ記ス。当寺ニアリ(御府内寺社備考より)」という藻屑物語の男女を想像させるものなのでしょうか。こちらは厳しい顔をした石像です。ジュウガツサクラが咲いていました。観音像です。

本堂です。

左手に見える建物が鐘楼?

 

本堂の脇の花地蔵です。

本堂の左手奥にはお稲荷さんがありました。

稲荷の手前には庚申塔庚申塔は台東区の有形民俗文化財に登録されています。

石塔も古そうですが。

関東大震災も東京大空襲にも耐えたイチョウの木がありました。

 

寺を出るとすぐに今戸橋です。お寺側から待乳山聖天側から見たものです。

古地図(江戸切絵図)でみると山谷堀を挟んで待乳山聖天となっています。

山谷堀をさかのぼると日本堤に新吉原です。江戸名所図会では手前の日本堤の上に屋台などが並んでいるのが見えます。今も吉原の入り口えもんさかと書いてあるところは曲がっています。手前は日本堤通りになっています。

キャプション   闇の夜は吉原ばかり月夜かな 其角

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日)。

墨水八首 日本堤 大堤春水満ち/相袂春衣を送る/日暮公子に逢ふ/知らず何れのところより帰るを 南郭

服部 南郭(はっとり なんかく、天和3年9月24日(1683年11月12日) - 宝暦9年6月21日(1759年7月15日)

 

今戸橋 下流側、道路を挟んだ向うには東京スカイツリーが見えます。

山谷掘り、今は暗渠になっています。上流、吉原に向かう方をみています。

隣、浅草方面から見て橋の手前は待乳山聖天です。

こちらは次に紹介します。

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