ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

法泉寺(墨田区東向島)

2016年06月17日 23時04分20秒 | 社寺仏閣

リハビリ病院の通り道の近くに法泉寺があります。古地図でも大きく掲載されている施設です。(4月25日に訪れています。)

リハビリ病院は、古地図で御殿場と書かれているあたりにあります。

法泉寺山門

★ランドマーク法泉寺法泉寺は、大本山永平寺と大本山總持寺を両本山と仰ぎ、諏訪山吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。
 今から約八百年前に奥州を支配した葛西三郎清重が、父母の追善供養のために建立し、壮麗な伽藍が整えられていました。当山過去帳には清重の子孫と目される灌頂法泉大禅定門が記載されています。
 戦国期に入り、激しい乱戦で法泉寺のある寺島村も兵火に荒れ果てました。しかし、今も残されている貞和三年(1347年)から永禄十一年(1568年)の間に建立された八基の板碑(注)により、法灯が営々と守られてきたことがわかります。
 天文元年(1532年)に吉祥寺二世大州安充大和尚が法泉寺の伽藍を再建しました。この地の領主遠山新三郎が亡妻の追福のために数十畝の地を寄進した記録があり、中興開基とされています。
 江戸期には幕府の外護により、慶安元年(1648年)に八石五斗の御朱印を賜りました。寛文二年(1662年)には石造地蔵菩薩立像が建立され、貞享三年(1686年)には千余名から寄進をうけて梵鐘(宇田川藤四郎作/喪失)を鋳造しています。さらに享保二年(1717年)には銅造地蔵菩薩立像(宇田川善兵衛作)が建立されるなど、檀信徒から篤い尊崇を集めて今日に至っています。
 現在も墓地には百余年から四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる数百基の石仏が祀られ、粋でゆとりあふれる江戸の文化が、継承されています。

本堂

大覚殿

銅造地蔵菩薩立像

法泉寺の銅造地蔵菩薩立像:法泉寺は曹洞宗に属し、近世以前開創という区内でも古い寺院です。縁起によると、戦国時代に吉祥寺2世の大州安充により開山されたといわれます。
法泉寺の山門を入りすぐ左手に安置されている総高357センチメートルの地蔵菩薩立像は、享保2年(1717年)の造立です。三段の石造基壇の上に、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち円光背を持ちます。
十方万霊供養と施主の先祖、及び一家霊魂菩提のために建立されたことが記されています。
この像には、蓮台式茄子に陽鋳銘を、地蔵の背面に記年銘・願主名(念蓮社十誉)・作者名(鋳物師(いもじ)宇田川善兵衛)を陰刻し、地蔵の全身に数百名にも及ぶ結衆者の名前がくまなく刻まれています。その職業が、やかん屋・豆腐屋などと分かることは特筆されます。
宇田川姓の鋳物師は中世末期から続く名家で、代々小伝馬町(現日本橋小伝馬町)に住み、数多くの作品を手がけています。

法泉寺の石造地蔵菩薩立像:総高142センチメートルの舟形光背型の浮彫地蔵菩薩です。右手は欠損していますが、裳裾(もすそ)の状態から、おそらく錫杖(しゃくじょう)を持っていたと思われます。
彫りは丁寧で眉目秀麗な姿をしていますが、台石はなく、石壇に直に安置されています。
光背には、寛文2年(1662年)の年号と「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成佛道」と刻まれています。これは、中世より回向文として最も多く刻まれる法華経第七化城喩品(けじょうゆぼん)の一節です。その下段には3人の導師の名と20名の男性の名とともに「玉」という女性の名が刻まれています。

2013年度 文化財維持・修復事業助成   助成対象紙本著色 涅槃図(ねはんず)保存修理事業
[江戸時代]

紙本著色 涅槃図(ねはんず)

東京都墨田区の法泉寺(ほうせんじ)は、葛飾北斎の浮世絵にも描かれ、江戸時代には尊崇を集めた寺院である。第二次世界大戦の空襲により多くの寺院が焼失した中にあって、被災を免れた法泉寺の所蔵する文化財は、歴史、文化を伝える貴重なものである。
 涅槃図は、江戸時代中期に描かれたと思われる。描き表装部分を含めて縦3メートルを超える大きな図でありながら、その構成は、鎌倉時代以降の構図を充分に咀嚼し、描写においても悲しみを示す表情や精緻で多様な文様などに特徴がある。
 制作以降一度も修理歴がなく、画面では絵具の粉状化、剥離、剥落や折れに伴った亀裂、肌裏紙からの糊浮きも生じ、描き表装部分も損傷している。修復は、今年度から2ヵ年計画で行う。

 実家のお寺さんにも同じような涅槃図がありました。

葛飾北斎 寺島法泉寺詣

 

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