リハビリを兼ねて大横川親水公園にあるテニスコートにリハビリの先生の応援に行ってきました。応援の甲斐あって予選を突破し、
本戦入りです。
応援席からのスカイツリー
コートの周りの花です。
自転車に乗るのもリハビリなので、スカイツリーのビューポイントの一つに行ってきました。北十間川、スーパーオリンピックの前からの景色です。
リハビリを兼ねて大横川親水公園にあるテニスコートにリハビリの先生の応援に行ってきました。応援の甲斐あって予選を突破し、
本戦入りです。
応援席からのスカイツリー
コートの周りの花です。
自転車に乗るのもリハビリなので、スカイツリーのビューポイントの一つに行ってきました。北十間川、スーパーオリンピックの前からの景色です。
手術した病院に退院後初めて行ってきました。順調回復していると、執刀医ににこにこして言われました。まだしびれて大変だといいましたが、少し時間かかりますと言われました。また、3か月間着けていた硬質のプラスチック製のコルセットは外してよいと言われ、圧迫感から解放されます。
行きは御茶ノ水の階段が大変なので、水道橋からタクシーでしたが、帰りは思い切って、二本杖にして歩いてみました。歩くといろいろなものが見えます。駅前の交番の隣のこんなものがありました。
水が出ていましたがこれはお茶には使えません。
「東都御茶の水」(歌川広重作)。
石碑にいわれが書いてありました。
『聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて 今その形もなし (再校 江戸砂子 より)
慶長の昔、この邊り神田山の麓に 高林寺という禅寺があった ある時 寺の庭より良い水がわき出るので 将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて大変良い水だとお褒め の言葉を戴いた。それから毎日 この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。
其の後、茗渓又小赤壁と稱して 文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。
お茶の水保勝会 坂内熊治 高林寺 田中良彰 昭和三十二年九月九日』
御茶ノ水から水道橋経由で内幸町から会社に行きました。
会社の帰りも思い切って新橋駅まで歩いてみることにしました。駅前は古本市をやっていました。それに見とれて駅まで行ってしまいましたが、久しぶりに歩いているので烏森神社に寄ってみることにしました。
都会の一等地にある神社は大変です。参道もこうなっています。右手前の角には焼き鳥屋さんがあります。
結構参拝客がいました。
由緒書きです。
本殿
5年間通っている会社に行くには新橋駅から、神社の前の小路を抜けて行きます。
家に帰って3か月お世話になったコルセットを外しました。
28日は会社に行きましたが内幸町から水道橋経由で帰りました。ほぼ半日会社にいて疲れて帰ってきたら、夕日が特にまぶしく感じられました。スーパームーンということでこれも疲れた体に鞭打って、リハビリと思って階段を昇って
ベランダに出て見ました。
雲がありましたがどうやら丸く見えました。
来週は手術した御茶ノ水にある病院に行くので、シュミレーションしました。結局御茶ノ水駅の階段を避けるので、水道橋駅まで行きました。御茶ノ水よりに降りてエレベーターで降りて、白山通りを横断します。横断したところでタクシーを拾って病院に行く予定です。
この横断には一本杖で歩いてあと5mのところで点滅して歩道につくと赤信号になりました。ぎりぎりの歩行速度です。渡ったとことに水道橋の由来がかいてありました。
ウイキペデイアには「江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していた。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあるが、この寺院は1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失し、本駒込に移転している。1670年(寛文12年)の地図では「水道橋」と表記されており、
この橋名は、本橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来する。1928年(昭和3年)6月30日に、長さ17.8m、幅30.7mの鋼橋が架けられた。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたものであり、先代よりやや大ぶりの橋である。」と書かれていました。
少し離れたところに神田上水の説明書きがありました。
神田上水は、徳川家康が江戸開府時飲用水を引くため開削した上水道。日本最古の上水で,天正 18 (1590) 年大久保忠行によって開設された。井の頭池,善福寺,妙正寺池の湧水を水源とする神田川水系の水を大洗堰 (文京区関口) によりせき止め,素掘りで小石川後楽園を経てお茶の水堀の上を木樋で渡し,神田,日本橋方面へ供給していたものです。
『江戸図屏風』に描かれた江戸時代初期の水道橋。橋の下側に描かれているのが懸樋
神田川、水道橋の上から御茶ノ水方面を見ています。
こちらは後楽園、昔は遊園地といいましたがいまは言わないようですね。落下傘降下は昭和49年生まれの娘が小学生の時に入院したので、快気祝いに連れてきた時の乗った記憶があります。もう30年以上も前のことになります。
帰りのエレベーターで水道橋のホームに出たところです。
夜は入院中に、毎週のようにお見舞いに来てくれ、お世話になったテニスのパートナー船木さんたちと浅草の飯田屋にドジョウ鍋を食べに行きました。20年ぶりです.
飯田屋の口上:磨き込まれた藤敷に胡座をかいて、「どぜう鍋」一刻文豪気分です。
明治の創業以来、言い継がれてきた家訓「親父の仕事はタレをとることと、下足番」お客様への心遣いは足元までというこの訓えを今後も肝に命じてまいりたいと存じます。元来、どぜうは安くて栄養価の高い食物として親しまれてきました。伝統の味を大切にするため、今でも天然物のどぜうを厳選しております。素朴な庶民の味、下町の味わいを、どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。…四代目主人。
ゴボウを敷いた上の載っているドジョウにたっぷりネギを載せて、ネギがしんなりしたらいただきます。
うな重もいただいて満足して帰ってきました。明日はリハビリ病院に外来で受診しリハビリをしてきます。
外来でリハビリ病院に行けるかどうかシュミレーションしてみました。実際にバスで病院まで行ってみました。錦糸町からちょうど30分の乗車時間です。バス停から二本杖で歩いてようやく着きました。特に病院には用事がないので、帰りのバスまで30分近くを散策しました。いつも病院から見えていたお寺さんに歩いていきました。
木母寺です。山門というほどの門はありませんが、
標札みたいなものがありました。梅若塚木母寺と書いてあります。
墨田区の紹介では「木母寺は中世の「梅若伝説」ゆかりの寺で開基は古く、平安の中ごろとされています。平安中期、吉田少将惟房の子「梅若丸」が人買いにかどわかされ、関東に下る途中病気になり、隅田川のほとりで「たずね来て とわばこたえよ みやこどり すみだ河原の露と消えぬと」の一首を残し、十二歳で世を去りました。
来あわせた天台宗の高僧忠円阿闍梨が梅若のために塚を築き柳の木を植えて供養したといいます。
この悲話は 謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄などにうたわれ、また、戯作や小説にもなって多く人の涙を誘いました。
境内には梅若塚をはじめ石碑も多く、浄瑠璃塚や歌曲「隅田川」の碑などがあります。
また、「幕末の三舟」と言われた山岡鉄舟の揮毫、高橋泥舟の筆になる「三遊塚」(明治22年、落語家三遊亭円朝の建碑)も興味深いものです。」とありました。三遊塚です。
都内で一番大きい「天下乃糸平(明治期の糸問屋、相場師)」の石碑だそうです。
これは梅若堂、塚は左隣(黒く山になっているものです)にあります。
下は焼失を免れた梅若堂で、強固なガラスの囲いに覆われています。中が見えました。
こちらは身代わり地蔵です。
境内の中の花
歌川広重「名所江戸百景」より「木母寺内川御前栽畑」。内川と呼ばれる水路で隅田川とつながっていた。
門を出たところにススキがまだ若穂です。
木母寺から見たリハビリ病院です。少し距離があるのがわかります。
前日の午後は文化コートに出かけました。コートに外にいたネコさん。
帰りがけに北十間川にかかる十間橋でスカイツリーが点灯する瞬間を見ました。
リハビリ2日目は高速の下の竪川を埋め立てた「竪川河川敷公園」を横十間川から入り旧中川まで自転車で移動しました。
旧中川の河川を上流にさかのぼってみました。総武線の鉄橋の手前から見たスカイツリーです。
もう少し上流に行くと黄色い花が、私たちはイモキクと言っていましたが咲いていました。
よく見ると黄色い蝶がとまっていました。
こちらは蛾見たいですけど
近くにはダリアの花壇
疲れたので、途中で引き返し北十間川をツリーに向かって行きました。
北十間川は隅田川と旧中川をつなぐ掘割です。堅川も同じくひとつ下流ある掘割です。
この絵は北十間川と横十間川の交差している柳島です。
この北十間川からみるスカイツリーはビューポイントのひとつになっています。
愛チャリです。杖をつけて乗っています。
午後はテニス仲間のところに行って壁打ちをさせてもらいました。
これが道具です。ラケットは貸していただき、ボールは子供用のものを買いました。
三日目はリハビリ病院への通路を点検してみました。
鐘ヶ淵駅までいきましたが、病院は先にあるのですが歩き気力は有りませんでした。亀戸線の曳舟のホームが電車とホームの段差があり危なく転ぶところでした。今はホームと列車の高低差は少なくなっているのですが、曳舟は差がありました。
鐘ヶ淵の駅もカーブのところにあるので、下車から出口まで結構距離がありました。
明日はバスでの通院のコースを見聞します。