ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

妙亀塚(妙亀神明宮)・玉姫稲荷神社、江戸名所図会めぐり

2017年08月10日 16時23分14秒 | 江戸名所図会めぐり

何回か訪れていますが、江戸名所図会でまとめてみました妙亀塚

★ランドマーク妙亀塚:この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田小将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。

  塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には、梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。江戸名所図会では手前が中央に妙亀明神社、左奥が玉姫稲荷、右が浅茅が原のようです。

キャプション

人めさへかれて淋しき夕まぐれ浅茅が原の霜をわけつつ 道興准后

浅茅が原にて あだし野や焼きもろこしのかはばかり 其角

                                     この辺別荘多し

切絵図には妙亀明神社は描かれていません。田と書いてある印を付けた当りと思われます。

妙亀塚の上の板碑。弘安十一年(1288年)の銘

当日は奥の玉姫稲荷から下に降りてきました。鳥居の左手に常夜燈が建っています。

拝殿です。

拝殿の両側に明日のジョーの白木洋子とジョーが飾ってありました。前は並んでおいてありましたが今回は離ればなれで左右に置いてありました。手水舎

★ランドマーク玉姫稲荷神社:天平宝字4年(760)、京都・伏見稲荷大社より御分霊を勧請し創建されたということです。

正慶2年(1333)に新田義貞公(新田神社の御祭神・新田義興公の父)が、鎌倉の北条高時追討の折に当社で戦勝を祈願し、弘法大師直筆という稲荷大神の像を瑠璃の玉塔に奉納したことが「玉秘め」の社号の由来となったとされます。社殿は明治44年(1911)に新吉原で発生した大火や大正12年(1923)の関東大震災、さらには昭和20年(1945)310日の空襲によって、たびたび焼失しており、昭和27年(1952)5月に現社殿が再建されたということです。

拝殿の左手の所に境内社の八神殿があります。

・・白山神社(菊理媛神・伊邪那岐神・伊邪那美神) 八幡神社(応神天皇・神功皇后・比売大神) 八坂神社(須佐之男命) 春日神社(経津主命・天児屋根命・武甕槌神・比売神) 金刀比羅神社(大物主神・崇徳天皇) 松尾神社(大山咋神・市杵嶋姫命) 天祖神社(天照大御神) 王子神社(宇迦之御魂神・宇気母智之神・和久産巣日神)

右手には

口入稲荷神社

★ランドマーク入稲荷神社:かつて新吉原の高田屋という口入宿(当時の職業安定所)に稲荷社があったが、安永年間(1772~1780年)のある夜、店主が夢で「玉姫稲荷に遷すように」と告げられたため、これに従いその年の11月20日に遷座したということだそうです。

手水舎です。

手水舎の脇の所に

お狐さんが、中に入ってみると穴稲荷がありました。こちらは口入稲荷神社の境内社。水神宮と若宮八幡大明神の石祠のようです。

境内にいた猫さんです。

句碑のようですが調べられませんでした。

 

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普門院(亀戸)再訪・伊藤左千夫の墓

2017年08月02日 22時18分03秒 | 江戸名所図会めぐり

仕事が早めに終わったので、近くにあっていつも気にしている普門院に行ってみました。今回は事前に江東区の登録文化財などを調べて行ったのですが、あまり解明できませんでした。山門

門手前左側に伊藤左千夫の墓の碑があります。

墓は墓地の中にありあります。

★ランドマーク伊藤左千夫墓:伊藤左千夫は、明治時代の歌人・小説家。元治元年(1864)千葉県に生まれ、長じて上京し法律を志したが、眼を病み、治療のため一時帰国した。大正2年49歳の時亡くなった。いかにも若い死だった。明治18年再上京、同22年本所茅場町で牧場を営み、同33年正岡子規に入門し、師の没後は根岸短歌会の中心的な歌人として、『馬酔木』『アララキ』の誌上で活躍した。歌風は子規の写実主義を強調したおおらかな万葉調で、写生文の小説にも優れ、代表作に『野菊の墓』がある。

同45年に大島6丁目に居を構え、門下からは島木赤彦・中村憲吉・斉藤茂吉・土屋文明などを輩出した。墓石の文字は、書家で洋画家でもあった中村不折の手で「伊藤左千夫之墓」と刻まれています。

野菊の墓の文学碑は松戸にあります。

普門院にある伊藤左千夫の歌碑

  

「牛飼いが歌よむ時に世の中の. あらたしき歌おほひに起る 左」と書かれています。 

右側に

普門院大島伯鶴歌碑

大島伯鶴之墓は 墓地にあるそうです。明治~昭和期の講釈師。

こちらが歌碑です。

★ランドマーク普門院:普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永二年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合う辺り(現足立区千住)城中に創建され、元和二年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。

江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。江戸名所図会より古地図では亀戸天神と隣り合わせになっています。

門を入ると左側に

【持経観音 じきょうかんのん】は岩に坐り手に経巻を持ち、左手は膝の上に置く姿となっています。この観音の奉持する経典には、如来の説法の内容がすべて込められており、声聞を教化する姿を現します『観音経』に「まさに声聞のみをもって得度すべきものには、すなわち声聞の身を現じて、ために法を説く」とあります。説明書きがありますがほとんど読めません。

奥に行くと亀戸七福神のひとつ毘沙門天があります。

毘沙門堂の脇に昭和二十年三月十日歿   戰災殉難者供養之碑

 

この碑は昭和貮拾年参月拾日の亀戸地区戦災殉難者供養のため建立せられたものであります。本年三十三回忌を迎えるに当り記念事業として永く後世に傅えるため碑及び周辺の整備改修を行い再び惨禍を繰り返さないことを念願し諸霊位の冥福を祈るものであります

昭和五拾貮年参月拾日  亀戸町会連合会

永遠平和:二度と戦争を起こさないという気持ちも込めて碑は建てられています。

本堂です。鬱蒼とした林の中にあるという感じです。六地蔵に並んで庚申塔があります。

これが庚申塔寛文8年在銘(江東区登録文化財)のようです。

水盤元文4年在銘(江東区登録文化財)でしょうか。

これが石造宝篋印塔天明8年在銘(江東区登録文化財)でしょうか。

これは歌碑のようですが。

勝田家墓地(江東区登録文化財)とあるので探してみましたらたくさんありました。これはもっとも新しかったです。

とにかく古いお墓がたくさんありました。こんな水瓶が置いてあるので、入ったとたんに蚊がわっと押し寄せてたちまち数匹が肌に止まりました。

蚊が感染症を運ぶのでせめて消毒薬を入れるなどしないといざというときに大変なことになるのではないかと心配しました。都会の中とは思えないような風景ですが、今度は蚊のいない冬場にゆっくりと散策します。

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中川口から富賀岡八幡宮(元八幡、江東区南砂)江戸名所図会めぐり

2017年07月25日 17時42分24秒 | 江戸名所図会めぐり

料理店の点検結果報告と講習を終えてからいつものように亀戸中央公園から旧中川に出て南下(下流)しました。中川は江戸時代風光明媚なところとして有名でした。旧中川の逆井の渡しだった近くにコサギがいました。歌川広重 名所江戸百景 逆井のわたしより当日のコースを古地図に落としてみました。

緑の所が中川と北十間川の交差するところに亀戸中央公園があります。しこから河川敷に出て下流に向かいます。ワタシと書いたところは逆井の渡しです。上下にある川は堅川です。

その先の小名木川となk側が合流するところに中川船番所があります。下流を見ています。こちらが小名木川です。中川船番所跡
★ランドマーク中川船番所跡:中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(1661)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取締るなど、小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。
 また、中川対岸の船堀川から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(現横須賀市)と並び、江戸の東側窓口として重要な役割を果たしてきました。
 明治2年(1869)、全国の関所が廃止されたのに伴い番所も廃止されました。
 平成7年に行なわれた発掘調査では、瓦や陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。
 平成14年10月 江東区教育委員会

江戸名所図会より中川口です。左手が小名木川小名木川は千葉方面からの物資を江戸に届ける重要な水路だったようです。番所跡から小名木川に架かる最初に橋は番所橋でした。

橋から番所跡を見ています。突き当りの森になっているところは新川と言って行徳に行く水路だったようです。

ここから今日目指した冨賀岡八幡宮に向かいました。古地図では水神と書かれている場所のようです。もう海岸に面しています。

★ランドマーク富賀岡八幡宮:元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624-1643)の初めに今の深川へ移し、そのため、寛文5年(1665)に旧地を元八幡と称したといわれています。
この付近は松樹が生茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所であったといわれています。また「江戸名所図会」や、安藤広重の「名所江戸百景」などにも当時の様子が描かれています。広重 江戸名所百景 砂むら元八まん

手前が元八幡宮で水草が茂っているのが海のようです。ここを埋め立てて田んぼにしたのが砂村新左衛門だったのでしょうか。境内の由緒書きには丁寧に説明が書いてあります。江戸名所図会より

キャプション:洲崎弁天より十八丁あまり東の海浜にあり。深川八幡宮の旧地なりといへり。

鳥居の前の道の先(手前)は海になっているようです。鳥居です。

拝殿拝殿に後ろに浅間神社と富士塚がありました。南東方向から見た砂町の富士塚〔昭和30年(1955)頃 江東区教育委員会所蔵〕

★ランドマーク砂町の富士塚:富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。
塚に附随している数多くの富士講碑により、現在まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。(江東区教育委員会)

 

江戸祭ばやし(江東区登録文化財):

凡そ270余年の伝統を継承し、江戸祭囃子を代表する一つとして砂村林派時代の変転とともに幾盛衰を経て今日迄伝えられ、此の間多数の名人上手を輩出して来た。昭和55年(1980)10月東京都江東区初の文化財保護条例の規定により区教育委員会より無形民俗文化財の認定を受け、翌昭和56年(1981)3月其の保持暖帯として砂村囃子睦会を指定されたことは郷土の爲欣幸の至れるよう此の伝統芸能を末永く伝承し地域社会に貢献すべきである。
本年は指定10周年に当り此処に記念碑を建つ。
 平成2年(1990)4月吉日
 江東区指定無形民俗文化財 砂村囃子睦会

こちらは出羽三山

出羽三山の碑ほとんど読めませんが:「出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山(いづれも山形県)の総称で江戸時代中頃から霊山・修験道の大和して主に東北や関東の村々から多くの登拝者を集めている。この三山碑は文政2年(1819)砂村の講中によって造立されたものである。碑面中央下部にみえる「大先達智憲院」は湯殿山の山上衆徒の三先達の一人で砂村地域は江戸時代この智憲院の支配下(檀那場)にあったと思われる。江戸から出羽まで往復350余里(1000キロメートル以上)を数え略1か月を要する行程であるにもかかわらず多くの信者を招聘し得たのは3年に1度の檀那廻り配札また宿泊施設への案内に奔走した御師たちの布教活動にあった。碑は高さ37センチ(糎)巾81センチ(糎)で安山岩(小松石)製である江東地区三山碑はこの富賀岡八幡宮のものだけである。
 平成11年(1999)8月 宮司 荒井八雲」と書いてあったようです。

力石 鳳卵石

 

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開山堂(両大師・慈眼寺)江戸名所図会めぐり

2017年07月21日 14時01分13秒 | 江戸名所図会めぐり

不忍池の蓮花を見て上野の山に登り奥までやってきました。最後にたどり着いたのが開山堂(両大師)です。

両大師の小史が書かれています。

★ランドマーク開山堂(両大師):開山堂(両大師)上野公園十四番は、正保元年(一六四四)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正は慶安元年(一六四八)朝廷より慈眼大師の諡号(没後に贈られる号)を受けたため、「開山堂」または「慈眼堂」と称していました。

その後、天海がもっとも尊敬した平安時代の高僧慈恵大師良源の像を寛永寺本坊内にあった慈恵堂(じえどう)から移し、安置したため、慈眼大師天海とともに一般には“両大師(りょうだいし)”と呼ばれるようになった。

天海僧正の像は木造の坐像で、寂後まもなく制作され、多くの天海像の中でも優れたものの一つで都指定有形文化財となっています。

良源を描いた「元三大師画像」は、室町時代初期の制作で、優れた画風を有し、江戸庶民の信仰を受けてきたもので台東区指定有形文化財となっています。また、江戸時代初期の銅鐘・銅燈籠が現存しており、いずれも、国の旧重要美術品となっています。

切絵図では慈眼堂となっています。

江戸名所図会にも描かれています。左奥が慈眼寺になっています。

厄除け角大師

慈恵大師良源大僧正(912~985)は、天海大僧正が尊崇した僧侶です。良源大僧正は正月3日に亡くなられたことから「元三(がんざん)大師」とも呼ばれています。
良源大僧正の当時、比叡山は度重なる火災で荒廃し、また山内の規律も乱れていました。そこで良源大僧正は堂宇の復興と教学の振興に尽力され、僧風の刷新をはかりました。こうしたことから「比叡山中興の祖」と称賛されています。
また大変に霊力に優れた僧侶であったことから、良源大僧正のお姿を護符にした「角大師(つのだいし)」「豆大師(まめだいし)」という魔除けの大師が広く信仰されました。さらに良源大僧正は「おみくじ」の創始者としても知られています。良源大僧正の幅広い活躍に対し、朝廷より「慈恵大師」の大師号が下賜されました。

両大師の詳細については開山堂のHPに詳しく載っていますので、興味のある方は訪問してみてください。

山門を入った右側には阿弥陀堂があります。阿弥陀さんはきれいに磨かれていました。

右:南無虚空蔵菩薩  中:南無阿弥陀如来   左:南無地蔵大菩薩 というような説明書きを見つけました。碑の下側に「昭和十七年」と記されているので、戦争に勝つことでも祈願しているのでしょうか。

山門の左手には地蔵尊があります。法華塔があります。

江戸時代初期の銅灯籠

水盤

拝殿

拝殿に近づいてみると感じる幟がありました。ぼけ封じ祈願です。

手水舎

参道を振り返ってみると

左手に行ったところに井戸と奥が鐘楼になっています。この銅鐘も江戸時代初期のもののようです。

井戸に近くに桜の木が御車返しの桜というようです。寝釈迦石です。

輪王殿とお間の門は幸田露伴旧宅の門だそうです。

寛永寺輪王殿:一般の方も利用できる寺院斎場

輪王殿の所には輪王寺門跡と

旧本坊表門があります。

★ランドマーク寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財): 江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は3500坪(約1.15ヘクタール)という壮大なものであったが、慶応4年(1868)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。
 これはその焼け残った表門である。明治11年(1878)、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。
 門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門である。薬医門とは、本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門をいう。なお、門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の先頭の激しさがうかがえる。
 平成8年7月 台東区教育委員会

切絵図の御本坊の前にあったものを慈眼堂のところに移転したようです。

御玄関、御本坊と書かれている手前の門が本坊表門です。

 

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五條天神社(上野公園)江戸名所図会めぐり

2017年07月20日 14時57分52秒 | 江戸名所図会めぐり

不忍池のハスを見てから上野の山に向かいました。斜めの坂道を自転車を押して登ると最初に五條天神社がありました。五条天神社は、景行天皇の御代(110)日本武尊が上野山内天神山(摺鉢山)に創建したということで、寛永18年に菅原道真公を合祀、寛永寺創建により、神職瀬川邸に殿座、昭和3年旧地へ環座したということです。

動物園側からは花園稲荷神社と五條天神の参道になっています。

不忍池のところから直接つながっています。江戸名所図会

によると上野の山より離れて左下のところが五條天神です。

切絵図で確認すると天神と書かれているところが五條天神で

写真のところは稲荷と書かれてある場所に移転しています。稲荷の所に穴と書きましたが、ここは、五條天神の隣にある花園稲荷(穴稲荷)神社となっているところです。

★ランドマーク花園稲荷神社:この神社の創建年代については不詳であるが、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。一説に空海が東寺の門前に建てた稲荷山]を太田道灌が勧請したとも、天海が勧請したとも、のちに木食浄雲により再興されたとも伝えられるが、社伝では、承応3年(1654年)に天海の弟子晃海により再興されたとされる。幕末には上野戦争(黒門・穴稲荷門の戦い)の舞台ともなった。1873年(明治6年)に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、現在の花園稲荷神社の社殿などが整備された。本務社である五條天神社に管理されているものの、花園稲荷神社は独立した法人格を持つ兼務社であって、五條天神社の境内社ではない。

手前は穴稲荷

穴稲荷神社(忍岡稲荷神社):花園稲荷神社の元宮であり境内社。「忍岡稲荷神社」が正式名称である。花園稲荷神社の整備後も元宮(旧社地)である当神社はそのまま残されている。

弥佐衛門狐:花園稲荷神社の境内社。穴稲荷の向かって左奥にある社。寛永寺建立の際に忍が岡の狐が住むところが無くなるのため、一洞を造り社を祀ったと伝えられる。(以上ウイキペディアより)

花園稲荷神社の社殿は奥にあります。

花園稲荷神社の不忍池よりが五條天神社の拝殿になります。拝殿や神楽殿なども含めて昭和3年に建てられたもののようです。

★ランドマーク医薬祖神五條天神社:第12代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ昭和65年には御鎮座二千八百八十年大祭が行われる、東都屈指の古社であります。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には昭和3年9月に御遷座になりました。

薬祖神二柱とは: わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。

  大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)

 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。

ということで、医薬祖神五條天神社は、御祭神が 大己貴命(おおなむじのみこと)と  少彦名命(すくなひこなのみこと)が主神で相殿が菅原道真命となっています。

 御利益  無病健康・病気平癒 学業成就

 七福社:五條天神社の境内社。江戸時代に上野山内の各門に作られたものの一つ。五條天神神楽殿銀杏の大木です。五條天神社と花園稲荷神社の間の碑

「一山霊神」の石碑。「一山霊神」とは、木曽御嶽神社の行者・一山のことであるそうです。

こちらの案内板は動物園口からの参道にあります。

参道に五條天神社の額が掲げられています。

額堂:伊藤博文揮毫の扁額「神徳惟馨」が掲げられています。

五条天神社手水舎

古地図で稲荷の上に「時ノ鐘」とありますがこちら

★ランドマーク時ノ鐘:時の鐘は石町時の鐘にできて以降、多くの鐘が市内にできた。最初の鐘は1666年にできた。その後、1787年に現存する鐘ができた。谷中感応寺で製造され、正面には「東叡山大銅鐘」、裏側には「天明七丁未歳八月」と彫られてある。

また、享保撰要類集には時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しとの順番で鐘が鳴ったという。その後、1996年6月に環境省の残したい日本の音風景100選に選ばれた]。今でも時の鐘は午前・午後6時と正午に撞かれている。

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」松尾芭蕉が詠んだ俳句 芭蕉が詠んだ時代は最初の時の鐘だったそうで、芭蕉が聞いた鐘の音を上野の時の鐘か浅草の時の鐘かと思案している。

ここの反対側に上野大仏があります。

★ランドマーク上野大仏:上野大仏(うえのだいぶつ)は、現在の東京都台東区上野恩賜公園内にあった大仏。像高約6メートルの釈迦如来坐像だった。度重なる罹災により損壊し、現在では顔面部のみがレリーフとして保存される。薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所が併設される。

往年の上野大仏:仏頭は関東大震災で落ちてしまい、寛永寺で保管されていましたが、仏体は解体され第二次世界大戦に献納されたようです。

かつて存在した上野大仏殿(以上ウイキペディアより)切絵図のように大仏殿があったようです。

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