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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

東覚寺(北区田端)江戸名所図会めぐり

2018年07月20日 22時52分42秒 | 江戸名所図会めぐり

江戸名所図会では八幡宮の隣は東覚寺となっています。

江戸名所図会、左手にあるのが東覚寺です。

赤紙のモンスターのようなものがありました。

説明書きでは赤紙仁王尊となっています。

★ランドマーク赤紙仁王尊:石造金剛力士立像(赤紙仁王)

東京都北区指定文化財(有形民俗文化財) 平成10年4月28日指定

石造金剛力士立像は、全身に赤紙が貼られているので、通称赤紙仁王とも呼ばれています。身体の悪い人が、疾患のある部分に赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復すると信じられ、現在も、なお、祈願する人が絶えません。横の草鞋(わらじ)は、祈願して病気の回復したとする人々によって供えられたものです。

 寛永18(1641)年8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために造立されたとつたえられます。

 赤紙仁王は、江戸時代の末期までは、田端村の鎮守である八幡神社の社前にありましたが、明治維新の神仏分離を契機に、別当寺であった東覚寺の境内に移され、以後、都内に現存する比較的古い時代の石造の仁王像としても広く知られています。

 仁王像は赤紙が貼られてが埋め尽くされています。また、願いがかなった人は草鞋を奉納する習わしのようで、草鞋がたくさん吊るしてありました。

説明版には

東京都北区指定有形民俗文化財

 赤紙仁王(石造金剛力士立像)

”参詣客が赤色の紙を貼るため‘赤紙仁王’の名でよばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。

参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ個所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。

なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人々のお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のため従来の位置から7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世に趨勢を見つめてゆくことになりました。”

平成21年9月東京都北区教育委員会 と書かれています。

 

 東覚寺の門前、八幡神社との塀沿いにはこんな石仏がありました。

 東覚寺の山門です。

ランドマーク東覚寺:東覚寺は真言宗豊山派。白龍山寿命院と号し、本尊は不動明王像です。東覚寺は、延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違に創建、根岸への移転を経て、慶長年間(1600年頃)に田端の地に移転したと伝えられます。江戸時代には、寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。御府内八十八ヶ所霊場66番札所、豊島八十八ヶ所霊場66番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場29番札所、谷中七福神の福禄寿です。

山門を入った左手に

観音菩薩が建っています。

鼓翼平和観音像です。鼓翼これは読めませんでしたが説明書きによると「はばたき」と読むようです。

本堂です。

切絵図で説明されている九品仏・仁王尊二番や西国二十九番丹後松尾などの石碑が並んでいます。中央は庚申塔です。

右手に進むと子育・水子地蔵尊

奥には

犬猫の墓や古い石仏などがありました。

この石碑は読めませんでした。

庭にはハスの花が配置されていました。

こちらは新しそうです。

次の与楽寺に向かいます。切通しを渡りますが、手前に坂道があります。駅から歩いてきてこの坂を上りかけましたが、この坂道が東覚寺坂のようです。

★ランドマーク東覚寺坂:田端切通しにそって台地へ上る急坂で、昔は田端八幡神社の別当寺東覚寺墓地への参道で「東京府村誌」に「長さ二十間、広さ一間三尺」と記されている。寺の前には2基の大きな仁王の石像があり、病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されており、谷中七福神の1つ、福禄寿も祀ってある。蜀山人の狂歌「むらすずめさはくち声もももこえもつるの林の鶴の一声」の碑がある。

現在はリハビリウォーキングを兼ねた「ランドマーク探し」ということで、出たとこ勝負のように、特に調べずに現地に行きますが、赤紙仁王のように思わぬものに出合うことができます。なかなか歩くのが大変ですが、次が見たくて歩く気力がわいてきます。

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田端八幡神社(北区田端)江戸名所図会めぐり

2018年07月19日 22時49分31秒 | 江戸名所図会めぐり

鍼灸治療に曙橋にいったついでに、新宿に出て田端に向かいました。田端の駅の近くに江戸名所図会に描かれている神社と寺があるので、暑かったのですが訪れてみました。江戸名所図会より田端八幡宮 中央に八幡と書かれています。

田端駅は山の向こう側にあるので、北口を出て切通しを抜けて、山の裾のところを右に曲がると参道に到着します。片手杖で歩きながら山の上だったどうしようかなどと考えながら切通しを抜けました。参道

北区の案内板がありました。

★ランドマーク田端八幡神社:この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠(あんきょ)となった谷田川(やたがわ)に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年2月20日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われています。東京都北区教育委員会

富士塚と三峰神社稲荷神社

富士塚を登って拝殿のところに出ました。手水舎です。脇にこんな石像がありました。

 拝殿と狛犬です。

 拝殿

帰りはこの階段を下りました。

下から見たところです。

次に隣にある東覚寺を訪れました。わたし彩(いろ)の「江戸名所図会」~大人の塗り絵~より

八幡神社の左手奥が東覚寺入り口のところに赤紙仁王像があります。

切絵図では東覚寺が中心になっています。

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寛永寺中堂(台東区上野桜木)江戸名所図会めぐり

2018年07月18日 08時22分45秒 | 江戸名所図会めぐり

昨年7月にも上野の山をリハビリサイクリングで散策しましたが、肝心の寛永寺の中堂を見ていなかったので、それを目標に向かいました。昨年は青い線で不忍池から山を登りましたが、今回は鴬谷の方から陸橋を一気に登りました。かなり急な坂なので、自転車を押して登ります。陸橋の上から鶯谷の方を見ています。

こちらが寛永寺中堂(本堂)です。

★ランドマーク寛永寺本堂:寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。野戦争の碑

現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。

上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したものの、寺の規模は大幅に縮小した。

第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。(ウイキペディアより)

寛永寺銅鐘
台東区登録文化財 平成18年3月登載

 本銅鐘は、青銅製鋳造。大きさは、総高177.2センチメートル、口径91.8センチメートルあります。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる延宝9年(1681)5月8日に廟前の鐘楼に奉献されました。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられます。ちなみに、本銅鐘が元々掛けられていた厳有院殿廟の鐘楼は、戦前まで残されており国宝に指定されていましたが、空襲により焼失してしまいました。現在本銅鐘は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されています。
 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住していました。延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られています。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、将軍家との関係が深かったと思われます。
 本銅鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつです。

境内にはいろいろな史跡がありました。

★慈海僧正墓 (じかいそうじょうはか):墓石の正面中央に、聖観音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」と刻む。
 慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる『法華経』『薬師経』の翻刻や『四教義算注』『標指鈔』三十巻の著作がある。
 寛永元年(一六二四)目黒で生誕。七十歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和三十三年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。

鬼瓦

 

蟲塚です。

★了翁禅師塔碑:了翁は号、諱名を道覚といい、黄檗宗の僧である。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から僧門に入った。承応年間(1652-55)隠元禅師に師事し、のち諸国を巡錫している途中、夢の中でたまたま一種の薬法を修得し、これを錦袋円と名づけて、江戸上野不忍池の池畔に店舗を営んだ。数年にして数千両を得、江戸大火に際し、罹災民の救済に私財を投じ、さらには経典七千巻を購入して経庫を造ってこれを寛永寺に寄贈した。天和3年(1683)には勧学院を建てて教育に尽力、その功によって輪王寺宮より勧学院権大僧都法印に任じられた。宝永4年(1707)5月没。ときに78歳。昭和43年10月1日建設(東京都教育委員会)

以前の中堂は江戸名所図会の不忍池からも見えていました。

現在の噴水の所のようです。

 

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不忍池蓮見Ⅱ(台東区上野公園)江戸名所図会めぐり

2018年07月17日 23時15分24秒 | 江戸名所図会めぐり

昨年もハスの花を見に来ましたが、今年も同じように散策してみました。今年は寛永寺中堂を散策してから到着しました。

中島弁天堂と不忍池です。ここから寛永寺の中堂も見えています。昔の中堂は今の動物園の前の噴水の所にあったようです。

蓮の花は江戸時代から有名で江戸名所図会にも描かれています。

キャプション

不忍の池は江府(えど)第一の蓮池なり。夏月に至れば荷葉累々として水上に蕃(はん)えんし、花は紅白色をまじへ、芬々人を襲ふ。蓮(はちす)を愛するの輩(ともがら)、凌晨(しののめ)をことさらの清観とす。

小林清親 不忍池

今の時期はハスでいっぱいですが冬は蓮が枯れるので弁天堂がよく見えます。

弁天堂に行く道の所でとりました。谷中七福神が見えます。

不忍池の蓮

不忍池は、上野公園の南西部にある周囲2キロメートルの池。天海僧正(1536 - 1643)は、この池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえた中島を築造し弁天堂を建てた。江戸時代以来、文人墨客の集う蓮の名所として知られ、その壮観さは訪れる人々を魅了してきた。

東側から見ています。

池に入り込むようなハス観察ゾーンの歩道があります。

蓮の花の「見頃時間は早朝」
咲く時間は朝だけ(特にキレイなのが早朝)、昼以降は閉じてしまいます。

昼咲いているのは

◆1日目、早朝ほんの少し開きますが、昼頃には花を閉じます。
◆2日目、早朝から開き始め、キレイな満開の花を咲かせ、昼になると花を閉じます。
◆3日目、早朝から開き始め最大に開花しますが、花の色は薄く力強さもありません。昼頃閉じ始めそのまま夜をむかえます。
◆4日目、朝完全に開き切りますが、閉じる力もなく全ての花は散ってしまいます。

4日目の花のようです。咲いているが花びらが散りつつあります。つぼみは朝は咲いていたもののようです。

ということで、機会があれば早朝のハスを見たいと思っています。

 

 

 

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傳通院(文京区小石川)江戸名所図会めぐり

2018年07月13日 12時48分41秒 | 江戸名所図会めぐり

錦糸町から大塚行のバスは春日通を通っており、傳通院前というバス停があるので、以前から傳通院という名前は知っていました。最近、江戸名所図会めぐりをするようになり、ぜひ訪れたいと思っていました。病院で胃カメラ検査で胃の組織をつままれて、食事も摂れない中で、暑く炎天下を散策したので下着から上着まで汗で、すっかり濡れてしまいました。

もう動くのもおっくうでしたがあきらめていた場所だったのでさらっと散策しました。慈照院を出て作業している方に春日通りへの道を聞いた時に、このまま行けば傳通院に行けると思いました。最初の真珠院から坂を上ってついに傳通院の前に到着しました。

★ランドマーク傳通院:無量山寿経寺と号し、浄土宗中興の祖了誉聖冏上人が応永22年(1415)に小石川極楽水(今の宗慶寺の地)に創建されました。慶長8年(1603)徳川家康公の生母於大の方(法名傳通院殿)埋葬に際して寺を当地に移して再興、増上寺源誉上人が兼務したといいます。浄土宗関東十八檀林のひとつ、増上寺の次席で、830石の朱印状を拝領、徳川家の菩提所となり、数多くの末寺を擁していました。江戸三十三観音霊場12番、東京三十三観音霊場25番札所です。

昭和20年(1945年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失しました。かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去っってしまいました。昭和24年(1949年)に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年(1988年)に戦後2度目に再建されたものです。平成24年(2012年)3月には山門が再建されました。山門です。

山門のところに

★ランドマーク浪士隊結成の処静院跡の石柱:この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院(ふくじゅういん)北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修業と戒律のきびしさを伝えている。処静院は、その後、廃寺となった。

  文久3年(1863)2月4日、幕末の治安維持を目的とした組織ー浪士隊ーの結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久3年2月8日、京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことであった。

  東京都文京区教育委員会  平成元年3月

★新選組の前身 新徴組発会の処静院跡

  幕末の歴史に1頁を残した新選組の前身新徴組は、江戸市中から応募した浪士隊として清河八郎、山岡鉄舟らの呼びかけで、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが参加し、文久3年2月4日伝通院山内処静院で発会したと記録されている。

  処静院は、その後火災に遭い消失したが、この碑建立の一帯が処静院で大黒天に隣接していた。幕末時、処静院住職琳瑞和尚は、清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺されたが、今なお伝通院内に墓碑が建立され供養されている。

江戸名所図会より、手前の通りは今の春日通りでしょうか。図で総門は春日通りに面しています。今の山門は中門と書かれているところのようです。

境内にはいると正面に本堂

本堂の右手に伝通院書院

本堂の左手に観音堂

境内・墓地の案内鐘楼堂は昭和41年再建。大梵鐘は戦火を免れたもので 天保10年(1839)作のもののようです。

★法蔵地蔵尊:正門を入って境内左側にある金仏様です。中央のご本尊は法蔵地蔵尊、脇待は、向って右が観世音菩薩、左が勢至菩薩です。このような組合せの三尊はあまり外に例を見ないが、このお像は本来、法蔵菩薩から仏となられた阿弥陀様が、大衆信仰として親しみ易いお地蔵様の姿をもってお出ましになった仏と思われる。ということのようです。

(当初は三体共立派な光背があったが、現在は失われている)

★佛足石:明治18年 第六十六世泰成上人造立

★指塚:敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚がある。

春日通り向かう際に納得しました。

今回の寺院めぐりは極楽水がキーワードだったようです。

もう一度訪れてゆっくり散策するつもりで、次は無量院なども見ようと思います。

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