この記事を書くのは気が重い。
「硫黄島ー戦場の郵便配達」がテレビ・ドラマで放映された。
昭和20年2月、木更津基地にあった海軍752航空隊の作戦がストリーの基礎になっている。
この部隊の戦歴については平成5年6月20(硫黄島)・27日(海軍攻撃704飛行隊)で記載した。
特に20年1~2月には硫黄島に船での物資輸送が難しくなった。輸送1023航空隊は硫黄島への専門空輸部隊であったが米機がどんどん本土までも侵攻してきて輸送機では硫黄島への飛行が困難になり、752空の爆撃機での輸送が行はれた。
その空輸の中で軍事郵便物が送受されたことがドラマの原作になっている。
この、輸送作戦でも犠牲機が発生した。隊長は「艦船攻撃機を輸送任務で失うのは耐え難い」と嘆いていた。、米海兵隊が上陸してから、数度攻撃作戦に出撃し多くの先輩搭乗員が戦死した。当方は2月に飛行隊に配属されたので硫黄島作戦には飛行攻撃には参加しなかった。多くの先輩・同期生が戦死していったことを思うと気の重くなる理由である。
このテレビドラマは硫黄島・沖縄作戦で武運・戦技で優れていた同隊の「根本正良 中尉」の自伝の記録をご子息の「根本 匠 総理補佐官(財政・経済)」が提供されベースに成っている。ドラマの中でやや時代考証・事実誤認が見受けられた。未だ当時に活躍していた人々が健在しているのだから良く参照されるべきだと思って見ていた。しかし、最期に市丸少将が刀を振りかざして敵陣に切り込むシーンは迫真的で感動した。
クリント・イーストウッド監督の米映画「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作を見た。硫黄島の戦争映画だし、米軍がいかに攻撃したか大いに関心のあったところだ。
この時期に作成されたのもイラク戦争が背景にあるようだ。
アカデミーの受賞は逸した。が迫真的で事実に忠実で良く」調べて作成されている。
興行的には米側サイドからの「父親~」が面白かった。擂鉢山に星条旗を建てるシーンは圧巻だ。戦後にこれを始めて見たときその凄さに唸ったことを記憶している。
今、まさに建て様としている場面だからよくもその瞬間を未だ弾丸の下で撮影したなーと思った。
しかし、旗を建てられた後に日本軍は擂鉢山を取り返し星条旗をちぎり降ろして日の丸を掲げた。勇敢で戦意旺盛な日本兵だったのだ。その攻防は数度繰り返された。
「硫黄島からの手紙」は日本軍から見ている戦争物語。一部は先掲のドラマと同画面もある。しかし、この映画が事実に良く即している。見ていて違和感は無い。渡辺 謙の扮する栗林中将も威厳と貫禄のある武将として描かれている。
空輸で硫黄島を知っている者は「硫黄臭く、地熱があって、荒涼としていて、居住性は悪いところだ。直ぐに飛び立って帰ってきた」と言っていた。
地下陣地にl居住し、水・食料も不十分。衛生状態も悪く病人の手当ても出来ないような所で。襲撃に備え、長期に防御していた。
飛行機により爆撃・銃撃、また、敵の上陸直前には軍艦からの昼夜の別なく太砲による大型爆弾の攻撃。精神的にも参ってしまいそうだがそれに耐えた軍隊。そして、地上戦闘。
日・米軍ともよくも戦ったものだ。
両映画とも戦闘シーンは思わず固唾を呑んだ。米画はこんな場面の撮影は日本映画の追従を許さぬ。
米側は硫黄島の飛行場を使えることにより戦闘機が日本本土の攻撃が可能になり、マリアナ基地から飛び立って本土を爆撃したが、被弾・故障した飛行機の不時着場所の確保で作戦上大変有利に展開されたようだ。
しかし、米側で多大の戦死・負傷者を出した。日本側は2万人の戦死者である。
4月には沖縄に上陸するのだから、多くの犠牲を出して硫黄島を占拠する、作戦上の必要があったのだろうか?
飲まず・食わず ・劣悪な生活条件の下で こんなに、壮絶 悲惨な陸上戦闘をやれる日本人は今の時代に居るだろうか?
今に戦争は無人の武器・ロボットが動き、人はコンピュータとボタンの操作をコーヒーを片手に行う時代になるのでは。
アフガン・イラクで今、戦っている、米軍は偉大だ。
参考文書 硫黄島の戦い HP
17歳の硫黄島 秋草鶴次 著(文春新書)
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上記の記事と全く関係ありません。畏れ入ります。
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