新聞投稿。 「12月8日は 何の日 ?」 から。
”太平洋戦争の始まった日”と答えたのは70歳代。
”ジョン・レノンが凶弾に倒れた日”とは音楽好きの60歳台。
真珠湾の奇襲、米・英と日本が戦争を始めたのを知っていても、それは、歴史上の出来事。
戦争・凶弾 何れに倒れても理不尽な死だ。
「もう戦争はしませんと世界中が誓った日」と人々が言える日に。
私の人生では間に合いそうではないが、風になっても平和を唱えて、世界中を飛んで行きたい。
と結んでいる。 お見事なご意見。
新聞投稿。 「12月8日は 何の日 ?」 から。
”太平洋戦争の始まった日”と答えたのは70歳代。
”ジョン・レノンが凶弾に倒れた日”とは音楽好きの60歳台。
真珠湾の奇襲、米・英と日本が戦争を始めたのを知っていても、それは、歴史上の出来事。
戦争・凶弾 何れに倒れても理不尽な死だ。
「もう戦争はしませんと世界中が誓った日」と人々が言える日に。
私の人生では間に合いそうではないが、風になっても平和を唱えて、世界中を飛んで行きたい。
と結んでいる。 お見事なご意見。
大東亜戦争の開戦された、日だ。
敗戦後は唯の日だ。
しかし、昭和16年の12月の8日の高揚した気分は忘れられない。
ラジオから、軍艦マーチが流れ、大本営から「米・英と交戦状態に入った」と放送された。新聞も続いて、報道された。
当地の戦争死に残りの海軍野郎が集まって怪気焔を上げている。寄る年波で、20名余のメンバーが3人になった。
新聞のお悔やみ欄を見て、自分より若い人が出ると何か、そわそわするとの話がでる。同じ思いのようだ。
久しぶりに軍歌・海軍歌謡を歌った。
勝利していたら歌うべしの海軍宴会歌を披露しましょう。
あまり、ご存知の方はおられまい。
”俺が ぶーじで 凱旋したらばよ~~
町を総、上げ~て
酒ケェ~ を のむよ ~~”
”俺が死んーだら 三途のかわらでよ~~
鬼を あつめ~て
すもー を とおーる よ ~~
”万里の長城で~~ しょうべん すればーよ ~
ゴビの砂漠に
虹がたつ よ~
”ガンジス がわらで 昼ねーを すれば よ~
ワニがでて きーて
キスをーすーる よ~
”ギャング絶えたる~シカゴのまーち で よ~
孫ともうでーる 忠霊とぅー よ
戦争に負けても、国は繁栄した。。
海軍航空隊の爆撃・雷撃 隊だから、撃墜される危機は高い。特攻作戦の時代だ。しかし、生還出来るか、どうか と、必死の特攻とでは離陸の時から、気分は違う。
八人のクルーは命令に従って、攻撃に飛行した。卑怯なことは、無かった。生きていてどうだった。
一式陸攻
上海航空隊で航法・電信(通常 偵察員と称す)の練習生だった時。新任の少尉が航法員で搭乗し九州の大村まで連絡(要務)飛行で飛んだ。しかし、これが推測飛行の経験未熟で着いたところが何と、「松江」であった。そこで、給油、大村に着。
これが反面教師で「今の学習期間にしっかり勉強せよ。日本の本土で良かったが、これが南海の島への飛行だったらその機諸共水付く屍になる。自分のみならず乗員皆だ」と批評された。
その後、それを訓示した隊の教員が同じく大村に要務で往復。帰来して「大村にはドンピシャリ着陸した」と手腕を示していた。
確かに自分が正確に推測航法で目的地に着けるかと不安だった。 それで、推測航法の習得と完熟に励んだ。
攻撃704飛行隊での話し。
沖縄攻撃を終わり帰途に付く。何としたことか、九州を右に見過ごし着いた所が朝鮮半島。燃料切れで海上に不時着水。好意的な現地人に離れていた郵便局に案内され、そこで日本人の職員と会い、近くの海軍基地に連絡され、やっと船と国鉄で帰隊した。格別のお咎めは無し。このペア(クルー)は終戦まで生き残った。しかし、なんぼなんでも、朝鮮まで行ったとは、考えられないと思った。彼らが帰隊するまでの数日間は攻撃作戦には参加しなくて良かったから、それを計算したのかと推し量ることも出来たが、何れにしろペアの命が掛かっている。洋上に燃料切れで不時着水する可能性もあった。勿論必死の飛行の結果だったのだろう。
同期生の話し。
彼は同じく一式陸攻で台湾の高雄から、索敵・哨戒で1千kilo洋上を飛んで、そこでUターンして基地に帰る。
これこそ、洋上何の目標物がなく、波を測っての推測航法。
帰途にどんどん、北上し、着いたところがしな大陸。
海岸に不時着水し海岸の小屋で休憩中に全員が眠りに陥る。
人声がする。目を覚ますと、銃剣が眼前に突きつけられている。ドキッと(殺されるかと)した。そこは蒋介石政権の支配地区。彼らはその正規軍兵士だった。
捕虜になったのだ。しかし、終戦まで紳士的に取り扱ってくれたそうだ。戦友もそれ以上に捕虜記を語ろうとはしない。
終戦になり、駐留していた日本軍・在留民間人と同じく日本に帰国。上陸時にも何の調べも無く、拍子抜けしたそうだ。
だが、戦時中の感覚としては「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」捕われた事の恥辱で戦友の前には顔を出す気には成らなかったとのこと。
戦死の公報を受けていた家族もさぞや驚いたことだろう。
仏壇に鎮座している自分の位牌は善光寺に納めたよし。
以上で数回に渡り掲載した海軍爆撃機の稿は一応、修了です。
なお、704飛行隊の根本正良中尉(故人)の手記で硫黄島・沖縄戦記があります。詳しくはご一読を。
昭和31年4月 文芸春秋。同41年 光人社「丸」 に掲載。
根本 匠 安部総理補佐官(財政・経済)は御長男です。
ランクUPにご協力を 。
↑ ここからリンク します。
「硬派的社評の漫筆」のタイトルです。
追記4月21日で63位です。
25位以内ですトップ頁に常時掲載されます。
他のブログも面白いですよ!序にご一読を。
やっと沖縄の中央飛行場の上空に達する。此処まで来られたのが幸運。
多くの艦船が島を取り囲んでいる。初期はこれに対し魚雷攻撃をしていたがあまりに攻撃機の損害が多いので、飛行場に爆弾を投下攻撃をする作戦になった。
飛行場は日本陸軍の夜襲に備えて煌々と灯火で照らされている。偶に来襲する、空からの攻撃は意に介せずと言った所。それより地上からの夜襲を怖れたのだ。
高度5千から3千迄 緩降下し、爆弾を飛行場に落とす。
(急降下爆撃なら、格好が良いのだが、一式はそんなに強度がないので緩降下爆撃となる。しかし、水平爆撃よりは投下した爆弾が加速されるので、地上での爆発力は大きいから)
しかし、敵も手を拱いて見ているわけでは無い。先ずは上空警戒中の夜間戦闘機、地上砲火。
投下し終えたら全速力でその場を退避。
戦闘機の追撃を交わすために右、左と飛行することで自機の位置を見失ってしまう。
我が機の場合
やっと飛行場の上空に達する。爆撃進路に入る「宜候」(ようそろと海軍用語でその進行を保つ)その瞬間右上方より、夜間戦闘機が一銃撃してきた。右エンジンが過熱し赤くなって黒煙を引いている。「わー、やられた!」機は右に傾き急速に落下。照準は出来ず、兎に角爆弾を投下。弾着地点・効果は不明(米軍地帯のどこかに落ちたのだろう。まぐれで、当った所はさぞや、驚いただろう)
機体が軽くなったのと、落下ショックで不調の右エンジンが意気を吹き返し、推力が出てきて飛行機は水平を取り戻した。
なんたる、強運。さー、この危険空域からの離脱。エンジンをオーバーブウスト(全開・全速力)で右や左に機を滑らして逃げる。
それで、航法員は機位を図面上で把握出来なくなり、これからは完全な推測航法となった。
しかし、北に飛べばその内に九州に着くだろうと思った。下界は暗いが時々日本の山の森林j状態の島らしきが見られる。
その内に夜明けとなり、どうやら、九州上空を飛んでいるようだと判断された。
鹿児島・宮崎の上空から日向灘にでたようだ。夜明けにより「宮崎飛行場」を見つけて着陸した。
機位不明については次のお題で書きます。講 ご期待
海軍爆撃機の1連のコラム。
攻撃704飛行隊の沖縄爆撃のこと。
ちょこちょこ来襲する、決死的米戦闘機も薄暮からは来ない。
そこで、一式陸攻に燃料・爆弾が積み込まれる(日中だと敵機の地上掃射の流れ弾に当たり、火災になる危険性がある)
夜中の12時ごろの出立に備える。
灯火管制で真っ暗。慣れているが機内も灯火は操縦員席の計器盤と航法・電信デスクの読み取りようの小さなスタンド。
夫々配置につく。地上のガイドで滑走路の離陸開始場所に着く。オリジス(灯火信号)で「リ?」 とモールス信号で指揮所に「離陸よろしきや?」とこちらの離陸態勢の整ったことを伝える。
指揮所より「リ」 と信号があるといよいよ、離陸だ。
機内では操縦員がブザーを押して離陸用意を知らす。
エンジンの回転を上げつつフットブレーキから足を外すとゆっくり機体が動き出す。燃・弾満載で機体が重いので加速がつき難いのだ。発動機員(搭乗エンジニア)も操縦席の計器盤とエンジン音を聞きながら操縦員と共にエンジンのスロットルレバーを調整しつつ全開に持っていく。
滑走路は離陸開始点の線上の左右両側にカンテラ(灯油ランプ)が置かれ先ずその幅を示し、そこから、100m.間隔に3つのカンテラが置かれ、滑走路の終点にもう1つのカンテラが置かれて、操縦員に滑走路の幅と長さを示している(現在の空港のように滑走路全域・センターラインを電灯で照射するのでは無い)
滑走を始めて車輪のゴロゴロ音が消えるとやっと、離陸したことをしり、先ずは安心。しかし、加速が中々付かず高度が取れない。その高度で飛行すると前途の小山を越えられない。
やや、上昇し左に旋回、もう一度左旋回し、今、飛び立った飛行場を左に見て、航法始発点に向かう。
さて、沖縄にはどうして到達するのか。
無線で地上から誘導されるのでも、機から電波を発信するのでは無い(機からの無線の発信は敵に機の飛行を示すことになるので、発信は封鎖される)
地図上で目地点までの方向度を測り、機中の羅針盤により、南下する。直線で飛行すると敵戦闘機の邀撃を受けるのでやや、東よりに飛ぶ。爆撃照準機で海の波頭を測定し風速・風量・風力を知り、飛行速度と計算し飛行経路を算出するのだ。これを推測航法と称す(現在の飛行と比べれば難しいことを名人芸でこなしていたものだ)
敵の戦闘機は味方同志の誤射を避けるために識別で翼の両端にライトを付けている。我々乗員は目視で見張りを続ける。それらしき識別灯の戦闘機を発見したら、避退して一時、飛行経路を外し、迂回をする。逃げるのだ。
高度を3千~5千kiloで飛ぶと空気が希薄になり、各自が備付の酸素マスクをつける。これを使うと喉が渇く。給水器は初めから、説定は無い。全て軍事が優先で足らぬところは大和魂・軍人精神で補うのが海軍流だ。
前夜、景気付けで飲んだ酒の一升瓶に水を入れて乗り込む。
爆撃を終わり基地に帰到する稿は次回に。攻 ご期待。
さて、一式陸攻部隊の海軍攻撃704飛行隊での記録はサイドバーの下方「カタゴリ」の軍事に記録があるので、軍事をクリックしてご覧下さい。
昭和二十年一月から在隊中で起こった事故のこと。
4月に千歳基地で速成の訓練があった。薄暮から夜間の訓練に10数機の一式が飛び立つ。そこに、濃霧が掛かった。目視飛行だし無線通信も役には立たぬ。操縦員が感で雲の中を飛んでいるのだ。ベテランの操縦員・航法員も顔面蒼白。その中になんとか雲の切れ目で、飛行場を見つけて着陸できた。
1機は室蘭近辺の陸軍飛行場に着陸。さらに、青森の三沢基地まで飛んでいった 機もあった。
しかし、悲劇があった。それは、濃霧中を山に激突したのだ。全員死亡。4,5日後、訓練終了後に沖縄作戦に参加するのに。
なんたる、悲惨。不運。雲さえなければ。
訓練はいかなる場合でも行はれるし、天候の急変は如何ともし難い。どうせなら、沖縄の空で敵に激突したら立派な戦死だったのに。無念だったろう。我々、戦友はその捜索のことも知らずに九州の基地に移動した。
鹿児島の鹿屋基地から、沖縄攻撃を行っていた。夜の12時ごろ、燃料・爆弾を積んで飛び立つ。燃弾満載で、夜間の離陸で緊張する。操縦員の高度の技量のいる飛行。だが、積載量が大で中々浮力がつかない。そして、小高い小山を跳び越す高度が執れずにその、山に激突。
白木の墓標を麓に建てた。それを、している我々も何れは沖縄の空に散っていく身だ。そこでは墓標は建てられぬ。
軍艦に当るか、山に当るか、格別の感傷も考慮も出ない時期だった。
基地を移動して出水に居た(今は、鶴の飛来地でなんとも平和な土地だ)6月末で沖縄作戦は終了。仙台の松島基地が原隊で、やっと沖縄攻撃で生き延びた攻撃機は帰還となった。
太平洋沿岸を飛行すれば最短距離だがそこには既に米軍の戦闘機が時により、飛来しており撃ち落される危険があった。
それで、単機(まとまって編隊を組むのでは無く)で日本海側を飛行して松島に帰投する事になった。
そして、その中の1機は出雲地方で雲中を飛行せざるを得なかったのか、これ又山に当り墜落。この機には隊の戦闘記録等を担当している飛行要務士が便乗しておったので、飛行隊の記録が全部失はれる結果となる。5月半ばまで宇佐に駐在していた時の記録は、戦後も見るのだが、それ以降の記録が出て来ないのは矢張り、それの為だろうとおもった。
熾烈な沖縄作戦を戦ってやっと無事に原隊に帰れるのに不運なことだ。と同情した。しかし、基地に帰ってもそこには特攻作戦が待っていたのだが。不必要な無駄死によりは名誉の戦死を撰ぶ。
その地の人は「山に閃光があった。飛行機が堕ちたようだ」山に分け入り散乱した乗組員・機体を処理して、慰霊碑を建てて戴いた。
戦後、遺族の1人が厚生省の記録から同地を探し当てこの慰霊碑の存在をしることになる。
遺族一同・隊員の有志が訪問し慰霊祭を催した。
終戦後の自爆
県内の同期生の遺族を訪問。焼香する。戦死の記録では「8月5日に索敵行動で06:20福岡県島郡山村木の口、林中 に被弾のため自爆戦死」となっている。
遺族は「そうではない。真実は8月15日以後に一式陸攻のペア(一クルー)8名に機長は『戦争に負けた。多くの戦友が攻撃に特別攻撃に散っていった。我々もそうなるべきだった。しかるに、生きて終戦を迎えて戦死した戦友に申し訳ない。また、占領政策で我等搭乗員は連合軍にどんな取り扱いを受けるかわからぬ。虜囚の辱めも受けたくない。よって、我がペアは名誉ある自爆を選ぼう』と宣言して、自爆したのです」と語られた。
戦後の記録で終戦の大詔が発せられてから自爆行に飛行した話は聞いたことはあるが、身近でも有ったことに驚いた。
機長の思いつめは理解は出来るが、ペア全員の気持ちはどうだったろう?今の時代を考えると、あたら、優秀な人材をみすみす失ったように思う。
次はもう少し続編です。高 ご期待。
と
九六式の次に一式陸攻(皇紀2601年=昭和16年)が第一戦機として配備されてきた(上の写真)この機は脚の出し入れは電動式。
このあたりから、開発された軍用機の脚は引っ込み式になったようだ。
しかし、機械の不具合・戦闘の被弾・着陸時の衝撃等で主脚が全く出ずに胴体着陸する事はあった。何時も命を懸けた危険と向き合っていたから事故の発生に慌てることでは無かった。
さて、米英との戦闘となり、陸攻は九六・一式と併用されたが徐々に一式が主力となり九六は2線機・練習機となった。緒戦では昼間の艦船に対する魚雷攻撃も敢行、戦果も上げた。
伸びきった南方戦線では航続距離の長い一式は攻撃に索敵に大活躍、困難な作戦に戦果を上げていた。
ラバウル基地からガダルカナルへの攻撃までが海軍飛行隊の華で、以降は米軍の高性能・大量の空軍力に圧倒されだした。
その証左は前線に移動される山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗した一式陸攻が米戦闘機に撃墜されたことだ。
フィリピン・台湾の基地に集約した一式陸攻部隊はレイテ・台湾沖作戦に活躍したが戦果の割には消耗が激しかった。
硫黄島・沖縄作戦にも一式陸攻部隊は参戦した。
夜間の雷撃・爆撃に数機が単独で行動。多くの未帰還機をだした。
追記 一式陸攻は胴体の下部に弾倉があり、60kilo爆弾が12発取り付けられた。空気抵抗を避けるために弾倉覆いが着いてある。これの開閉は機内から手動であった。
戦後 米軍は一式陸攻を本国に持ち帰り構造・性能等を研究したそうだ。もう、日本と戦うことは無いにしても、学ぶべき点は取り入れるとした米国の研究態度は尊敬すべきと思った。
次は一式陸攻での参戦体験記録を書きます。紘 ご期待。
4月7日で56位です。
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<
映画祭があった。「海軍爆撃機」が上映された。観覧す。
全日空のボンバルディア機が前輪が出ずに胴体着陸。
この、2つがお題。
映画「海軍爆撃機」は昭和15年に製作された、戦意高揚の劇映画。しかし、ストリー性は無い。当時の軍事機密のベールに囲まれて爆撃機とその爆撃作戦行動が撮影されている。
大東亜戦争中にこの飛行機に搭乗していたので映画のシーンは良く解った。
出ていた飛行機は九六式陸攻と称された日本海軍の攻撃機。
海軍には水上機・母艦搭載機と陸上を基地とする大型の攻撃機と3通りの機種があった。大型の攻撃機は「陸上攻撃機(陸攻)」または「中型攻撃機(中攻)」と呼称された。
九六式陸攻は皇紀2596年=昭和11年から実用機として海軍航空隊に出現した。
その存在を一躍有名にしたのは九州の基地から上海・南京を爆撃した”渡洋爆撃”作戦だった。
その頃、世界の軍備で海を渡って、飛行機で軍事拠点を爆撃する発想も飛行隊の実力も無かった時代。
その常識を破って日本海軍が作戦を実行したのだから世界中から驚倒され、日本海軍の空軍力は各国の海軍が脅威した。
内外の新聞記者が鹿屋基地での渡洋爆撃の取材を許可されたが九六式は遥かな飛行場の外れに駐機していて、近寄ることは出来なかった。詳細に機体すら見せなかったのだ。
以降、中国大陸では南京・武漢と陸軍は進行したが蒋政権は重慶に遷都した。そこまでの陸戦は不可能と判断し空からの攻撃で制圧を期した。
しかし、広大・大民衆の国には空襲だけでは期待どうりの戦勝は上げられなかった。日本海軍は多大の機材・搭乗員・エネルギーを大陸での対支作戦に消耗した。やはり海軍航空力としては、来るべき洋上作戦に温存すべきだった。
だが、大東亜戦争が勃発すると、九六式陸攻は台湾の基地からフイリッピンを渡洋攻撃し在駐の米陸・空軍を壊滅した。
さらに、大戦果としてはマレー沖で英国の2大戦艦を撃沈したことだ。沿岸用攻撃機の面目、躍如。
世界中が有り得ないことだと驚いた。
それらの戦訓を学んだ米軍は日本の都市を焼夷弾で焼き尽くし遂には原子爆弾までも投下した。艦隊では大和・武蔵・ほか航空母艦等を充分な航空戦力で撃沈し、日本軍は開発した作戦を見事に米軍に駆使され、手酷いしっぺい返しを受けた。
映画の主役の九六式の説明はここまで。
さて、映画は。
主・副操縦員がその席に座っているのを外から風防を通して写している。主の後ろが指揮官席。その、後ろ下が電信員席、それの左横が航法員。その、間に立っているのが搭乗発動機員。予備知識が無いと映画を見ているだけではわかり辛い。
編隊を組んで飛んでいるシーンがあるが、これは下手な飛行だ。何故、こんな編隊を映画にしたのか疑問だ。
日常の訓練でも1小隊3機、3小隊9機で一中隊として、正確な3角形を容易に組んだのに、堂々とした3中隊編成の1大隊を写すべきだ。この点ではアメリカの軍事映画では上手い描写をしている。宣伝上手だ。
編隊飛行中に敵戦闘機の攻撃に防御の機銃掃射をする場面も素人にはわかり辛い。
その中の一機がエンジンに被弾し煙を引く。墜落はしないで帰還するのだが、航続距離を伸ばすために機体を軽くしなければならぬ。
そこで、無線の送信機が重量で大型だ。之を、機内で胴体中央の扉より放り出したのだ。その経過で送信機を動かしているシーンがあったが、これも説明不足(または機密事項か?)で何のことかは観衆にはわかり辛い。
今の旅客機で飛行中にドアを開けて物を落下させるなんて思いもよらぬだろう。昔の軍用機はこの様な物だった。
当時の海軍の飛行機で車輪を引っ込み式にしたのはこの機が始めて。しかも、出し入れは手動(昔の軍用機の脚が搭乗員が機内でハンドルを手で回すなんて想像だに出来ないだろう)だから、車輪が着陸時に出ないなんて事は起こりえない。
もう1つの車輪は後部の尾輪だ。前輪構造は近来のことだ。
爆撃機のみで作戦をしたが、敵の戦闘機の反撃をうけ、墜落を受けてきたので、遠距離の爆撃行程に同行できる戦闘機の開発で出てきたのが零戦(皇紀2600年制定の戦闘機)である。
之は、電動式引っ込み式車輪だった。尾輪はそのまま。しかし、この脚の故障は無かったようだ。
しかし、ブレーキ系統の油圧力不足での故障は多かった。
ボンバルディア機の前輪なしでの着陸では戦時の危険な飛行を思うと格別危ない着陸では無いと思った。
しかし、今は平和な民間の輸送だし、考えの基礎がまるで違うのだ~大騒動になったのだろう。
先ずは操縦員の沈着な判断・技量で見事に危機なしで着陸したことに敬意を表す。
お後は次号に。功 ご期待
「硬派的社評の漫筆」のタイトルです。
追記4月4日で51位です。 ..。
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