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【小倉百人一首】18:藤原敏行朝臣

2014年06月10日 23時40分20秒 | 小倉百人一首
藤原敏行朝臣

住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ

三十六歌仙の一人。
能書家としても知られ、小野道風が空海と並んで古今最高の能書家としてあげた。
その小野道風は、小野篁の孫になるのだが、実は三跡の一人に数えられており(他の2人は藤原佐理と藤原行成)、書道の神でもある。なので後世の評価は道風の方が上。

ここまで古代から平安初期までの歴史を書いてきたが、藤原敏行は菅原道真と同時代の人で、このころには摂関政治はほぼ完成していた。
だが、一概に藤原氏といっても主流もあれば傍流もある。そして敏行は藤原南家の出身で、摂政関白になることはない傍系の人である。

ここで藤原四家について説明をしておきたい。

藤原氏の始祖はいうまでもなく藤原鎌足(中臣鎌足)で、その後を次いだのが藤原不比等という大政治家。
脱線するが不比等が子供の頃は藤原氏はそれほど栄えてなく、下級官吏から地道に官位をあげ、30代半ばで文武天皇(42代)の擁立(697年)に功績があったことでようやく政治の表舞台に登場する。藤原氏の実質的な礎はここから築かれたといっていい。
その不比等には四人の子がいた。

  藤原武智麻呂->藤原南家の祖

  藤原房前->藤原北家の祖

  藤原宇合->藤原式家の祖

  藤原麻呂->藤原京家の祖

この4人は最終的に全員公卿にまで昇り、政敵である長屋王を讒言で死に追いやり聖武上皇崩御後には、自分たちの妹である光明子を皇后(もともと聖武天皇の夫人であったが)にたてて次代の天皇もこの光明皇后が生んだ娘(後の孝謙女帝)をつけることに成功した。ちなみにこれまでの女帝は全て皇后だった女性が後継ぎが成長するまでの中継ぎとしての即位だったのに対し、孝謙の場合、女子でありながら皇太子になるという前代未聞の待遇を受ける。そのため生涯独身にならざるを得なかった。

が、天然痘の流行により兄弟4人が全員死ぬ。これは当時、長屋王の祟りと考えられた。
その後この南家から藤原仲麻呂がでるが大伴家持のところで書いたとおり失脚。以後、南家は振るわなくなり、変わって光仁天皇擁立に功があった式家が栄え、その後に承和の変で権力を手にした北家の藤原良房が人臣として初の摂政、その養子の基経が初の関白となり、以後摂政関白は藤原北家の独占となる。ちなみに上で三跡として紹介したは藤原佐理と藤原行成は藤原北家。
その藤原北家は鎌倉時代初期に5つの家(九条、一条、二条、近衛、鷹司)にわかれ、摂政関白もこの5つの家からのみ選ばれるようになった(そのため五摂家という)。豊臣秀吉ですら関白になるために近衛前久の養子となってようやく関白になった。もっとも豊臣姓を下賜されたことにより、関白は五摂家+豊臣家ということになったため、秀吉が後継者に指名した秀次は豊臣氏のまま関白に就任した。
豊臣氏が大阪夏の陣で滅んだ後は元の五摂家体制になり、明治に入って太政官が廃止されるまで続く(摂政だけは明治以降も存在したが)。

南家からは以後、歴史上の重要人物はほとんどでてこず、平家全盛期に藤原通憲こと信西がでたくらいである。

百人一首では北家から20人、南家からはこの敏行1人、京家からも藤原興風の1人、式家は1人も選ばれていない。

【小倉百人一首】17:在原業平朝臣

2014年06月10日 01時45分35秒 | 小倉百人一首
在原業平朝臣

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

前回とりあげた在原行平の弟。また、以前とりあげた六歌仙と三十六歌仙にも入っている。
ついでに書くと本人は五男であり官位は近衛権中将であったことから在五中将という呼び方もある。
さて、『古今集』にある紀貫之の評では

 その心余りて言葉足らず。しぼめる花の色なくてにほひ残れるがごとし

 (歌の心情があり余り言葉で表現しきれない。しぼんだ花が色をなくして、においだけが残っているようなものだ)

これまでに取り上げた六歌仙の中ではましな方かも知れないが酷評には変わりない。

昔から美男子の代表格として知られているが、中身について『日本三代実録』という正史には、歌はうまいが教養はないと書かれている。
『源氏物語』より前に成立した古典『伊勢物語』の主人公のモデルともいわれている。その理由は実際に業平が詠んだ歌が物語の中で数多く収録されていたり、業平の近親者が実名で登場するためである。
そのため、逆に物語の中で描かれていた、清和天皇(56代)の皇后・藤原高子や、伊勢斎宮(伊勢神宮につかえる巫女)との禁断の恋愛が業平の事跡として認識されるという現象も起きた。実際のところはどうかわからないが清和期に業平は官位を上げており、特に懲罰人事を受けた痕跡はない。
余談だが、室町時代に生まれた能の傑作「筒井筒」は伊勢物語に材をとっている。

前回書いたとおり、この家は薬子の変で左遷にあい中央から遠ざかったが、その後風向きが変わったのか藤原良房が政敵紀氏らを葬った応天門の変では、紀氏の女性を妻にしているにもかかわらず特にあおりはうけていない。それどころか孫は菅原道真の政敵として有名な関白・藤原時平に嫁いでいる(というか強奪された)ことから、どちらかというと藤原氏との関係は良好だったのではないだろうか。

ちなみに応天門の変とは参議篁でも少しだけ書いたが、平安朝の政治史を知る上で重要なのでここで紹介しておく。

清和天皇期866年閏3月10日、内裏内にある応天門が炎上するという事件が起きた。
この事件について、善訴訟事件で出世していた大納言・伴善男が、犯人は左大臣・源信(みなもとのまこと)であると訴えた。源信の屋敷は兵に包囲されるのだが、当時の太政大臣・藤原良房が清和天皇に弁護したため解除された。
そして今度は8月3日、大宅鷹取という下級官吏が、「伴氏の連中が応天門から走り去った後に火があがった」と証言したため、首謀者とみられる善男らが拷問を受けるなど厳しい取調べにあう。なお、取調べの最中、大宅鷹取の娘が伴善男の従者に殺される事件も起きている。
結局善男が罪を認めたため、この事件は源信を冤罪に陥れようとした伴善男らの狂言ということでかたがついた。ちなみに善男が讒言をした動機は、源信を失脚させ、空いた左大臣の座に右大臣である藤原良相が繰り上がり、その右大臣に善男が繰り上がることを狙ったから、というもの。

かくして善男をはじめとする伴氏や紀氏の有力官人は朝廷から一掃され、藤原良房の独裁体制が確立されるにいたる。ちなみに官界を追放された紀氏の一人、紀夏井はまれにみる良吏として領民から慕われた人物なのだが、事件当時は肥後に赴任していたにも関わらず連座にあっている。配流先の土佐へ護送される際、領民たちはそれを嘆き悲しみ、護送を防ごうとしたというエピソードもある。

事件について、史書にはこの通り記載されているが多くの史家は疑問を呈し、真犯人は藤原氏ではないか、とかそもそも炎上自体は偶然の失火だったのではないか、と様々な説が提示されている。

最後に余談をひとつ。
業平の娘の一人が嫁いだ男に藤原保則という人物がいる。この人は藤原南家出身の中級官人なのだが、赴任先の備中・備前で善政を敷き、領民から慕われた。国守のことをこの頃から受領と呼ぶようになるが、受領は決められた年貢を中央に納めれば余剰分は自分の懐にいれることができた。そのため受領になることは宝の国に行くのと同じだと詠われるのだが、そんな世にあって保則の善政はひときわまぶしい光彩を放っていた。だが、活躍はそれだけにとどまらない。
878年、出羽で俘囚の反乱(これ自体、国守の苛政が原因だが)が起きると、保則はその手腕を買われて出羽権守に任じられて反乱の鎮圧に赴く。が、手持ちの軍勢で鎮圧は不可能と判断した保則は寛政を敷くことで平和裏に反乱をおさめることにした。朝廷も説得し、政治に着手した保則は見事に鎮圧に成功した。
887年に宇多天皇が即位すると保則を抜擢。最終的には公卿に列せられるほどになる。