藤原敏行朝臣
住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ
三十六歌仙の一人。
能書家としても知られ、小野道風が空海と並んで古今最高の能書家としてあげた。
その小野道風は、小野篁の孫になるのだが、実は三跡の一人に数えられており(他の2人は藤原佐理と藤原行成)、書道の神でもある。なので後世の評価は道風の方が上。
ここまで古代から平安初期までの歴史を書いてきたが、藤原敏行は菅原道真と同時代の人で、このころには摂関政治はほぼ完成していた。
だが、一概に藤原氏といっても主流もあれば傍流もある。そして敏行は藤原南家の出身で、摂政関白になることはない傍系の人である。
ここで藤原四家について説明をしておきたい。
藤原氏の始祖はいうまでもなく藤原鎌足(中臣鎌足)で、その後を次いだのが藤原不比等という大政治家。
脱線するが不比等が子供の頃は藤原氏はそれほど栄えてなく、下級官吏から地道に官位をあげ、30代半ばで文武天皇(42代)の擁立(697年)に功績があったことでようやく政治の表舞台に登場する。藤原氏の実質的な礎はここから築かれたといっていい。
その不比等には四人の子がいた。
藤原武智麻呂->藤原南家の祖
藤原房前->藤原北家の祖
藤原宇合->藤原式家の祖
藤原麻呂->藤原京家の祖
この4人は最終的に全員公卿にまで昇り、政敵である長屋王を讒言で死に追いやり聖武上皇崩御後には、自分たちの妹である光明子を皇后(もともと聖武天皇の夫人であったが)にたてて次代の天皇もこの光明皇后が生んだ娘(後の孝謙女帝)をつけることに成功した。ちなみにこれまでの女帝は全て皇后だった女性が後継ぎが成長するまでの中継ぎとしての即位だったのに対し、孝謙の場合、女子でありながら皇太子になるという前代未聞の待遇を受ける。そのため生涯独身にならざるを得なかった。
が、天然痘の流行により兄弟4人が全員死ぬ。これは当時、長屋王の祟りと考えられた。
その後この南家から藤原仲麻呂がでるが大伴家持のところで書いたとおり失脚。以後、南家は振るわなくなり、変わって光仁天皇擁立に功があった式家が栄え、その後に承和の変で権力を手にした北家の藤原良房が人臣として初の摂政、その養子の基経が初の関白となり、以後摂政関白は藤原北家の独占となる。ちなみに上で三跡として紹介したは藤原佐理と藤原行成は藤原北家。
その藤原北家は鎌倉時代初期に5つの家(九条、一条、二条、近衛、鷹司)にわかれ、摂政関白もこの5つの家からのみ選ばれるようになった(そのため五摂家という)。豊臣秀吉ですら関白になるために近衛前久の養子となってようやく関白になった。もっとも豊臣姓を下賜されたことにより、関白は五摂家+豊臣家ということになったため、秀吉が後継者に指名した秀次は豊臣氏のまま関白に就任した。
豊臣氏が大阪夏の陣で滅んだ後は元の五摂家体制になり、明治に入って太政官が廃止されるまで続く(摂政だけは明治以降も存在したが)。
南家からは以後、歴史上の重要人物はほとんどでてこず、平家全盛期に藤原通憲こと信西がでたくらいである。
百人一首では北家から20人、南家からはこの敏行1人、京家からも藤原興風の1人、式家は1人も選ばれていない。
住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ
三十六歌仙の一人。
能書家としても知られ、小野道風が空海と並んで古今最高の能書家としてあげた。
その小野道風は、小野篁の孫になるのだが、実は三跡の一人に数えられており(他の2人は藤原佐理と藤原行成)、書道の神でもある。なので後世の評価は道風の方が上。
ここまで古代から平安初期までの歴史を書いてきたが、藤原敏行は菅原道真と同時代の人で、このころには摂関政治はほぼ完成していた。
だが、一概に藤原氏といっても主流もあれば傍流もある。そして敏行は藤原南家の出身で、摂政関白になることはない傍系の人である。
ここで藤原四家について説明をしておきたい。
藤原氏の始祖はいうまでもなく藤原鎌足(中臣鎌足)で、その後を次いだのが藤原不比等という大政治家。
脱線するが不比等が子供の頃は藤原氏はそれほど栄えてなく、下級官吏から地道に官位をあげ、30代半ばで文武天皇(42代)の擁立(697年)に功績があったことでようやく政治の表舞台に登場する。藤原氏の実質的な礎はここから築かれたといっていい。
その不比等には四人の子がいた。
藤原武智麻呂->藤原南家の祖
藤原房前->藤原北家の祖
藤原宇合->藤原式家の祖
藤原麻呂->藤原京家の祖
この4人は最終的に全員公卿にまで昇り、政敵である長屋王を讒言で死に追いやり聖武上皇崩御後には、自分たちの妹である光明子を皇后(もともと聖武天皇の夫人であったが)にたてて次代の天皇もこの光明皇后が生んだ娘(後の孝謙女帝)をつけることに成功した。ちなみにこれまでの女帝は全て皇后だった女性が後継ぎが成長するまでの中継ぎとしての即位だったのに対し、孝謙の場合、女子でありながら皇太子になるという前代未聞の待遇を受ける。そのため生涯独身にならざるを得なかった。
が、天然痘の流行により兄弟4人が全員死ぬ。これは当時、長屋王の祟りと考えられた。
その後この南家から藤原仲麻呂がでるが大伴家持のところで書いたとおり失脚。以後、南家は振るわなくなり、変わって光仁天皇擁立に功があった式家が栄え、その後に承和の変で権力を手にした北家の藤原良房が人臣として初の摂政、その養子の基経が初の関白となり、以後摂政関白は藤原北家の独占となる。ちなみに上で三跡として紹介したは藤原佐理と藤原行成は藤原北家。
その藤原北家は鎌倉時代初期に5つの家(九条、一条、二条、近衛、鷹司)にわかれ、摂政関白もこの5つの家からのみ選ばれるようになった(そのため五摂家という)。豊臣秀吉ですら関白になるために近衛前久の養子となってようやく関白になった。もっとも豊臣姓を下賜されたことにより、関白は五摂家+豊臣家ということになったため、秀吉が後継者に指名した秀次は豊臣氏のまま関白に就任した。
豊臣氏が大阪夏の陣で滅んだ後は元の五摂家体制になり、明治に入って太政官が廃止されるまで続く(摂政だけは明治以降も存在したが)。
南家からは以後、歴史上の重要人物はほとんどでてこず、平家全盛期に藤原通憲こと信西がでたくらいである。
百人一首では北家から20人、南家からはこの敏行1人、京家からも藤原興風の1人、式家は1人も選ばれていない。