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【小倉百人一首】7:安部仲麻呂

2014年06月04日 23時12分17秒 | 小倉百人一首
安部仲麻呂

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

前回の大伴家持より一世代上にあたる。
この歌自体は唐から日本へ帰国する際の送別の席で王維たちの前で詠ったという説もあるが、日本から唐へ向かう際に詠ったという説もある。

この仲麻呂は717年、遣唐使にくっついて唐に留学し、そのまま唐で科挙に合格し、楊貴妃の寵愛で有名な玄宗皇帝のもとで出世をして安南(ベトナム)の総督となるばかりか詩人(漢詩)としても李白、王維などから認められた超一流の人物である。漢詩も現在まで残っている。唐での名前は晁衡、または朝衡。

『日本書紀』に続く史書である『続日本記』では、日本の留学生の中で唐で認められたのは吉備真備とこの安部仲麻呂のみ、と書かれている。
ちなみに吉備真備も仲麻呂と一緒に留学したあと日本に戻り、聖武天皇期から称徳天皇期まで続く激しい政争の嵐を潜り抜けている。

仲麻呂といえば結局日本へ帰れず唐で客死したという話が有名だが、実は日本へ帰国する機会は何度かあった。しかし、唐でもっと出世したいから、という理由で断ったり、安禄山の乱(755年)で治安が乱れてるからという理由で帰国を認められなかったり、最終的には船が難破して帰国に失敗して、とうとう唐で客死した(770年)。

仲麻呂がいた時代の唐について述べると、安禄山とその盟友というべき史思明の反乱(安史の乱)によって副都の洛陽は占拠され、皇帝は蜀へ避難、さらに安禄山も史思明も自分の息子に殺され、皇帝をおろされた玄宗、あとを継いだ粛宗は相次いで崩御、さらに吐蕃が帝都長安を一時占拠という非常にカオスな状態になった。この影響は日本にも波及し、当時権力の頂点にいた藤原仲麻呂はこれを機に新羅討伐の準備を進めた(結局仲麻呂が斃れたことにより実現しなかったが)。唐は反乱討伐のためにウイグル帝国の力を借りてようやく国土を回復するが見返りとしてウイグルに公主を降嫁するハメになり、ウイグル人が唐ででかいツラをするようになった。
なんとこれだけの出来事が8年の間に起きたのだ。