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【小倉百人一首】90:殷富門院大輔

2014年09月25日 04時33分25秒 | 小倉百人一首
殷富門院大輔

見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず

父は藤原信成。この家は藤原定方から始まる藤原北家観修寺流という家柄。ちなみに紫式部の夫である藤原宣孝もこの血統である。

本名は不明だが、後に鴨長明は当時を代表する女流歌人として彼女の名をあげている。

この歌は源重之が詠んだ

 松島やをしまの礒にあさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか

の本歌取りとなっている。

殷富門院とは後白河の皇女・亮子内親王のことで、平家追討の令旨で知られる以仁王や式子内親王とは同母姉弟。

【小倉百人一首】89:式子内親王

2014年09月25日 04時26分22秒 | 小倉百人一首
式子内親王

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

後白河の皇女。以仁王は同母弟にあたる。
賀茂斎院を10年間勤めた。

和歌については藤原俊成に師事しており、定家は彼女に仕えた。そのため後世、この二人が恋愛関係にあったという説が生まれた。

【小倉百人一首】88:皇嘉門院別当

2014年09月22日 02時33分37秒 | 小倉百人一首
皇嘉門院別当

難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき

本名は不明。父は源俊隆(村上源氏)。
村上源氏は村上天皇の皇子・資定王が臣籍降下して源師房と名乗ったことから始まる。
この師房はなぜか藤原道長にかわいがられ、その嫡子・頼通の養子となって、もし頼通に男子が生まれなければこの師房にあとを継がせようとしたほど。
その後も藤原摂関家との蜜月は続き、頼通のあとを継いだ師実の時代にはむしろ師実が源氏の一員であるかのごとき状態でもあった。

皇嘉門院は、その摂関家の当主藤原忠通の娘・聖子で、この人は崇徳天皇の中宮である。ただし子は生まれなかった。


【小倉百人一首】87:寂蓮法師

2014年09月16日 18時12分24秒 | 小倉百人一首
寂蓮法師

村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ

俗名は藤原定長。藤原俊成の甥にあたるが、養子となり、その後定家が生まれたため出家した。
後鳥羽天皇から賞賛される才能の持ち主で、『新古今集』の選者の一人だったが完成前に死去した。

【小倉百人一首】86:西行法師

2014年09月08日 10時16分00秒 | 小倉百人一首
西行法師

嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな

本名は佐藤義清。平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫にあたる。
元々家は裕福で、後に徳大寺家に使えたり、鳥羽院の北面の武士として仕えていたことがわかっている。
北面の武士とはもともと白河上皇が作った、延暦寺の強訴に対し上皇の警護を主な任務とする武士団で(厳密には側近の貴族もいるが)、平清盛の祖父・正盛とその嫡子の忠盛も勤めていた。平氏はこのときに上皇のおぼえめでたく、後の躍進のきっかけを作った。

西行は23歳で出家したが原因ははっきりわかってはいない。また出家したときは円位と名乗った。
その後は諸国を旅し、多くの歌を詠んでいるが、その生き様は歌道界の枠を超えて後世の人々に強烈な印象を残したらしく、幕末の高杉晋作は、藩の命令で蟄居を命じれられた際、出家して東行と号した(もっとも出家は形だけだが)。
1186年、平氏によって焼き討ちされた東大寺再建のための勧進(寄付)を奥州藤原氏に求めるために行く途上で源頼朝と会っており、その際頼朝から弓馬の道をたずねられたが一切忘れたととぼけたという。ちなみに歌舞伎で有名な勧進帳も同じく東大寺の勧進がテーマになっている。