BLOG in Atelier.Minami

ゲーム攻略、読書感想文など。

【小倉百人一首】80:待賢門院堀河

2014年08月26日 01時55分05秒 | 小倉百人一首
待賢門院堀河

長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ

白河法皇の寵姫であり後に鳥羽天皇の中宮として崇徳・後白河の二人の天皇の母となった待賢門院藤原璋子に仕えたことからこの名前となっている。

ちなみに院号というのは本人になじみのある土地名などからつけられるが、この待賢門とは内裏の外側にある門のこと。
同じく鳥羽天皇の寵愛を受けた美福門院得子の場合の美福門も同じく内裏の外側の門の名前である。

他に藤原道長の姉で円融天皇の女御だった東三条院詮子の場合、実家が東三条邸という邸だったため。この邸は藤原良房が建てたといわれ、後に代が下って詮子の父・兼家の持ち物となり詮子に譲られ、その後は歴代天皇が里内裏(内裏が使用できない時の代わり)として使われたことから、藤原摂関家にとっての重要拠点となる。
藤原忠通もこの邸を父・忠実から受け継いだが、忠実から義絶された際に取り上げられている。
摂関家といえば、もうひとつの重要拠点が土御門邸。こちらは藤原道長が舅の源雅信から譲られ、こちらも里内裏として使われ、ついには内裏がここになった。この邸は別名を上東門第ともよばれ、道長からこの邸を受け継いだ一条天皇の中宮・彰子は上東門院という院号で呼ばれることになる。


【小倉百人一首】79:左京大夫顕輔

2014年08月23日 03時30分08秒 | 小倉百人一首
左京大夫顕輔

秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ

本名は藤原顕輔。崇徳上皇の命により六番目の勅撰和歌集である『詞花和歌集』を選進した。この『詞花和歌集』では平安中期の歌を重点的にとりあげており、最多入選は曾禰好忠の17首、ついで和泉式部の16首となっている。
左京大夫とは京の左京(地図上では東(右)側。玉座からみると左側になるため左京という)の行政を執行する官位で、右京大夫の方は室町時代に細川家の世襲となった。左京大夫は戦国時代には売官の対象となり、多くの戦国大名がこの官職を名乗っている。

【小倉百人一首】78:源兼昌

2014年08月23日 03時25分04秒 | 小倉百人一首
源兼昌

淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守

名臣といわれた源雅信を始祖とする宇多源氏の出身。ちなみに雅信の娘・倫子が藤原道長の正妻であるため、雅信の系統は摂関期に栄えることになる。ついでにいうと、雅信から倫子に譲られた土御門第は後に道長を通して藤原氏の重要拠点となる。
歌に詠まれている須磨といえば『源氏物語』。光源氏が右大臣の娘で、朱雀帝に入内している朧月夜と逢瀬を重ねていることが発覚し、進退窮したとき(自業自得だが)、政界を引退してその地に住んだというエピソードから知名度があがった。また、この歌自体も、須磨で光源氏が詠んだ

 友千鳥 もろ声に鳴く暁は ひとり寝覚の 床もたのもし

が元ネタになっている。ただし兼昌自身はこの歌を須磨で詠んだわけではなく、歌合の際に出題された「関路ノ千鳥」から詠んだ。

『源氏物語』でもわかるとおりこの地は田舎に過ぎず、流刑先でもあり在原行平もこの地に流罪にされている。また、後に源義経が平家の軍勢を破った一の谷もこの地にある。
ちなみに『源氏物語』ではこの須磨で明石入道の娘と源氏が逢瀬を重ね、後に生まれた娘が今上帝の中宮となった(明石中宮)。

【小倉百人一首】77:崇徳院

2014年08月16日 03時20分53秒 | 小倉百人一首
崇徳院

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

保元の乱までの経歴については藤原忠通のところで書いたので省略。
保元の乱後、讃岐に配流になった崇徳は、反省の証として写経に専念し、書写した経文を後白河に送り、京の寺に納めてもらうよう依頼した。が、「呪詛がこめられているのではないか」と疑った後白河がそれらを送り返したことに崇徳は激怒。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で写経に書き込み、最後は夜叉のような姿で配流から8年後の1164年に崩御したと伝えられている。この時点では朝廷は崇徳の崩御にまったく関心を示さず、なんら措置はなかったが、1177年になり事態は変わる。

その前に保元の乱後の歴史をたどると、乱後、信西が政治の実権を握り、国政改革に乗り出す。また、平氏を優遇して平清盛とその弟たち4人を国司に任命した。源氏が待遇面で平氏に差をつけさせられたのは、おそらく源氏が代々摂関家の爪牙の役割を担っていたため、摂関家の力を削ぐ意味があったのだろう。
乱の2年後に後白河は息子の二条に譲位する。これは元々後白河の即位自体が、鳥羽の寵姫であった美福門院得子の養子(実父は後白河)である二条の中継ぎとしてのものだったため。後白河も得子の威光には逆らえず、信西にしても美福門院には頭があがらない立場だった。そのため後白河はわずかな近臣だけがブレーンであった。そして二条即位により朝廷は後白河上皇派と二条天皇派に別れる。
また、後白河派内部においても権力争いがあった。きっかけは後白河が近臣を育成するために目をつけた藤原信頼と信西が反目したことであった。信頼の家系は藤原北家経輔流といい、元をたどれば道長の伯父である関白・藤原道隆(儀同三司母の夫)にたどりつく。この信頼の家は武蔵や奥州に地盤を持ち、源氏とも縁が深く、そもそも兄の基成は奥州藤原氏の三代目・秀衡の舅でもある。また、嫡男・信親は清盛の娘を妻に迎えている。
そのため貴族の中では軍事力はかなり大きかったといえる。
信西の方は、二条天皇やその近臣とのつながりを太くしようとしたことが逆に反発を買い、さらに信頼との対立も深まったことから逆に孤立した。そんな中、1156年に平家一門が熊野詣でに行った隙に、信頼が源義朝や源頼政らとともに挙兵。敗れた信西は自害する。
が、その後も後白河院が政治の中心にはならず、相変わらず二条天皇の親政になるのだが、中立を保っていた平清盛は帰京後に二条天皇を奪還することに成功し、官軍の資格を得ると、信頼・義朝らの勢力を一気に打ち砕いてしまった。敗れた信頼は義朝と一緒に東国に落ち延びようとするが天皇を奪還された不手際に対して「日本一の不覚者」とののしられて拒絶され、最後は六条河原で斬首される。
義朝の方は東国に落ち延びる最中、尾張の地で長田忠致の家に泊まったところだまし討ちにあって殺される。
後白河の近臣はほぼ一掃され、二条天皇の時代が本格的に到来することになるのだが、二条の近臣であり叔父にあたる藤原経宗(頼通の六男・師実の子孫)らが後白河の怒りを買うことをしたために流罪になった。そのため後白河派、二条派どちらも有力者不在となった。ちなみに1161年、後白河と平滋子の間に後の高倉天皇が誕生すると平氏一門の中から、この皇子を立太子しようとする動きが起きたが、これは二条の勅勘にあい当事者たちは解官等の処分にあっている。その中の一人、平時忠が後に「平氏にあらずんば人にあらず」といった張本人。
が、1166年、二条天皇が22歳の若さで崩御すると、次代の六条天皇が幼少であることもあり、一気に後白河有利な状態になる。

           ┏忠通━基実(近衛家)
  ┏━師通━━忠実━┻頼長
師実┻━経実━┳━経宗
       ┗━懿子
 鳥羽┳━崇徳  ||━━二条━━六条
   ┣━━━━後白河
   ┗━近衛 ||━━高倉
  平時信┳━滋子  ||━安徳
     ┣━時忠  ||
     ┗━時子  ||
       ||┳━━徳子
       ||┣━宗盛
       ||┗━知盛
       平清盛

この間、清盛は後白河・二条どちらとも良好な関係を築いてきており、徐々に勢力を拡大していたのだが、六条の摂政であった近衛基実が急死すると、その未亡人は清盛の娘・盛子であったことから基実が保持していた膨大な荘園を接収することに成功する。後白河とも円満な関係が続き、平家一門(平姓全体を指す場合は”平氏”、清盛一家を指す場合は”平家”)は絶頂期を迎えた。

さて、ここまで長々と脱線を続けたが、崇徳に話を戻すと、1176年に平滋子、二条中宮(鳥羽と得子の娘)、六条上皇、近衛中宮(忠通と得子の養女)が相次いで死去、さらに1177年には鹿ケ谷の陰謀や大地震など物騒な事件が相次いで起きた。これらの出来事が保元の乱で敗死した藤原頼長や崇徳上皇の祟りとされた。
そこで頼長には正一位太政大臣が追贈され、崇徳はそれまでの讃岐院という諡号から崇徳院に改められたのだ。
自ら大魔縁になると宣言しただけあって、その後も崇徳のインパクトは大きく、承久の乱(1221年)に三上皇(後鳥羽、順徳、土御門)が鎌倉幕府によって配流になった際は、まさに「皇を取って民とし民を皇となさん」という呪いが実現したと噂される。他にも様々な物語で怨霊として登場しており、『太平記』でも魔物の親玉として登場している。

ちなみに明治維新後、明治天皇は即位する前に勅使を讃岐に遣わし、崇徳の霊を京に呼び戻す儀式を行い鎮魂のための神社を建立している。

【小倉百人一首】76:法性寺入道前関白太政大臣

2014年08月10日 03時53分29秒 | 小倉百人一首
法性寺入道前関白太政大臣

わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

本名は藤原忠通。藤原忠実の嫡男。
父・忠実はその父である師通の急死により若くして藤氏長者となったが(最年少記録の22歳)政治家としては未熟で、当時院政を行っていた白河法皇(72代)を失望させるような失態をたびたび繰り返し、最終的には関白を嫡男の忠通に譲らされ、結果的に摂関家の権威を完全に天皇家より下にしてしまった。ただし父祖の代から分割相続によって減り続けていた荘園は、忠実が様々画策したことでかなりの量を得ていた。

忠通は40代になるまで男子に恵まれず、父・忠実の勧めもあって25歳年下の弟・頼長を養子としたが、後に男子が生まれたため縁組を解消。ここから忠実・頼長と、忠通の対立が始まる。


    白河
    ||━━堀河━━鳥羽━┳崇徳
  ┏━賢子     ||  ┣後白河
師通┻━忠実┳━━━━泰子 ┗近衛
      ┣━忠通
      ┗━頼長

その前に白河以降の皇統を簡単に述べると、白河は天皇位を譲った堀河に先立たれ、孫の鳥羽を天皇に立てるが、自分の養女である璋子を鳥羽の中宮とさせた。そして信じがたいことに璋子に密通した。そうして生まれたのが崇徳である。なので鳥羽から見て、崇徳は親子の関係ではあるものの、血縁的には祖父の子であるという非常に醜悪な親子関係ができあがってしまった。
実は璋子は鳥羽に入内する前に、忠通との縁談を白河から忠実に持ちかけていたのだが、璋子の素行に問題があったらしく、忠実が断り白河の不興を買っていた。おまけに忠実の娘・泰子を鳥羽に入内させる話を白河の方から持ちかけられたときも忠実は断っている。これはおそらく泰子が璋子の二の舞になるのを恐れたからだろう。が、これが白河の怒りを買った。忠実が関白を罷免になった直接の原因はこれである。そして白河の崩御後に泰子を鳥羽へ入内させている。

鳥羽は崇徳が成長すると白河の命により譲位させられ、その後に白河は77歳の長寿で崩御、ようやく鳥羽の院政が始まる。忠実もこれを期に久々に政界復帰する。ただし関白は忠通に譲っているので摂関家版院政の様相をていした。

白河法皇は日本史上では珍しい、ほぼ完全な独裁者であり、その地位は最後まで揺らがなかった。これに比肩するとしたら足利義満か豊臣秀吉くらいではないだろうか。
父帝・後三条の政策により豊富な荘園を持つことができ、上皇となった後は三代に渡って幼帝の後見人として政治を思うままにした。ただし、有名な三不如意(思い通りにいかないのは延暦寺の僧兵、賀茂川の氾濫、サイコロの目)にも謳われているとおり、宗教勢力だけはついに排除できなかった。これは迷信深い時代背景もあるだろうが、いずれにしろ完全に宗教勢力を政治から排除できたのは織田信長以降になる。

さて、鳥羽上皇は泰子を中宮に冊立し、さらに藤原得子が皇后に冊立(美福門院と呼ばれる)。その得子との間に生まれた子が近衛。崇徳は鳥羽によって近衛に譲位させられた。崇徳と近衛の間にいる後白河が飛ばされているのは、鳥羽の実の子とはいえ、母が璋子だからだろう。
ちなみに美福門院得子は藤原北家の出だが、忠通の家は藤原北家の開祖である房前の三男・真楯の流れで、得子の方は房前の五男・魚名の流れなので、同じ北家といえど格差は天地ほどもある。ただし、この魚名流は白河・鳥羽の院政期に近臣として取り立てられ、最初で最後の栄華を誇ることになる。
ついでに璋子(こちらは待賢門院)と忠通の共通の祖先をたどると、道長の祖父・師輔になる。師輔の十一男・公季の流れが璋子になり、師輔の三男・兼家の流れが忠通。

この近衛に、忠通・頼長兄弟はそれぞれ養女を入内させ、後宮政策で対立する。これに怒った忠実は忠通を義絶、藤氏長者の地位も頼長に渡す。この摂関家内部の抗争に対し、鳥羽は基本的には不干渉というかあえて口出しをしない姿勢を貫いており、地位についても忠通は関白、頼長は内覧を与え、ぎりぎりの均衡を保たせていた。
ちなみに内覧とは、天皇に奉る書、または天皇が下す書を誰よりも先に見る権利のことで、基本的にこれは摂政・関白のみの権利だった(摂関を置かなかった時代の大臣に与えられることも例外としてあったが)。

頼長は摂関家の貴族には珍しい非常に熱心な読書家で、毎年年末に日記に記載している「今年読んだ本」は数百冊にのぼる。また、集めた書籍を保管するための耐火性能つき文庫までつくるほど読書に執着をもった。学識においては並ぶものがなく、ある意味この時代の天才の一人といってもよい。
また、頼長の政治に対する姿勢は苛斂誅求であり、時間にルーズな貴族たちを取り締まったり、規則に違反する人に対しては無罪放免となった後に刺客を差し向けて殺害するなど、度を越えるところもあった。

さて、忠通・頼長兄弟の後宮政策だが、皮肉にも近衛自身が17歳の若さで跡継ぎのないまま崩御してしまい、次代の天皇は忠通が推す後白河となった。頼長と忠実親子はまったく廟義からのけ者にされただけでなく、頼長には近衛を呪詛したという嫌疑までかけられる(これは得子と忠通の陰謀だろうが)。この嫌疑について、忠実は娘である泰子を通して鳥羽の誤解を解こうと努力するも、タイミング悪く泰子が死去し、その後、鳥羽も死去してしまった。

そして事態は急変し、頼長は謀反の嫌疑をかけられた。そのため頼長は後白河政権を打倒する以外に活路がなく、自身の正当性を確保するために、復権をもくろんでいた崇徳上皇と手を組んだ。崇徳は近衛に譲位させられる際、近衛を”皇太子”にした上で譲位すると鳥羽に言い含められた(そのため天皇の父という立場になり、院政をしける)。が、実際には近衛は”皇太弟”にたてられており、そうなると院政をしくことはできない、という背景があった。

こうして始まったのが保元の乱である。ただし、この事件を裏で糸を引いていたのは当時後白河の側近であった信西といわれている。信西は藤原南家の出身で、頼長すらも一目を置く学者。ただ、自身の出世が血統的に絶望的なため、高階家の養子になったりもしたが、後白河がいずれ皇位につくとにらんで、その乳母を妻にしたことから運が開け、後白河のブレーンとして権勢をふるようになった。
保元の乱はある意味、頼長と信西という二人の天才の対決であったともいえる。
ちなみに頼長の専門は儒学であったのに対し、信西の専門は史学である。

乱といっても実際の戦闘は両陣営とも武士を雇って行うわけで、このとき後白河側が雇ったのが平清盛、源義朝という二人の名将や、摂津源氏で後に以仁王の令旨によって挙兵する源頼政である。ちなみに清盛は崇徳と乳母兄弟にあたり、本来なら崇徳上皇側につきそうなものだが、得子が後白河陣営に引きずり込んだ。ある意味清盛にとっては運命の分かれ目でもあったのだ。

戦闘は1156年7月11日、夜中に後白河側が夜襲をかけるが、本朝一の弓使いといわれた源為朝の奮戦によりうまくいかなかったものの、焼き討ちが功を奏し、わずか一日で片がつき後白河側が勝利する。頼長は戦闘で受けた傷がもとで死亡する。

他、崇徳側の武士たちは処刑となったのだが、公式な処刑は平安時代初期、薬子の変で処刑された藤原仲成以来である。また、崇徳上皇は讃岐に流罪となったが、天皇や上皇の流罪は奈良時代の淳仁天皇以来である。
忠通は勝利者となったが、父・忠実は崇徳側陣営だったため処罰の対象となった。が、それはすなわち忠実が持っていた膨大な荘園を失うことも意味したため、親子喧嘩はいったんお預けとし、忠実の助命に奔走。結果、忠実は不問とされた。

とはいえこの乱の代償は大きく、摂関家が保持していた人事権を失ったほか荘園を警備するための武力も解体され、忠通自身も関白の地位こそ保持したものの、政治の中枢から遠ざかった。
おりしも時代は平清盛一門の全盛期を迎え、公卿は相対的に勢力を弱めるのだが、それを象徴する事件が1170年に起きた「殿下乗合事件」。
これは忠通の五男・松殿基房(当時摂政)が清盛の孫である資盛(父は重盛)の車に、無礼があったとして恥辱を与えたところ、あとで持ち主が資盛と知り、基房が謝罪。が、重盛はそれを受け入れず、報復を恐れた基房は参内をやめ、ついには重盛の郎党たちに従者が報復されるという事件(『平家物語』では報復を行ったのは清盛ということになっている)。

こうしてみると、忠通の生涯は、常に父・忠実の失敗のツケを背負わされ続けたといえる。
ただ、この後忠通の子孫から五摂家(九条、一条、二条、近衛、鷹司)が生まれ、摂政・関白はこの五摂家の独占となった。