前大僧正慈円
おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣に墨染めの袖
藤原忠通の子。13歳で出家し、4度にわたり天台座主になった。歌人としてもすぐれていたが、『愚管抄』という史論を著して、公武協調路線を訴えたことでも有名。
忠通┳聖子(崇徳天皇中宮)
┣基実(近衛家)
┣育子(二条天皇中宮)
┣兼実(九条家)━良経━道家━頼経(4代将軍)━頼嗣(5代将軍)
┗慈円 ||
源頼朝━頼家━竹御所
上の系図にもあるとおり、兄兼実の子孫からは鎌倉幕府の将軍が2代にわたりでている。これは1219年、源実朝が八幡宮拝賀の際に暗殺されたのち、1226年、空位となっていた鎌倉将軍に迎えられたため(摂家将軍という)。
実朝の暗殺は一般に北条義時の仕業といわれているが、実朝の死によって後継将軍の人選に難航した経緯をみるに(7年間も将軍はいなかった)、北条氏にとって将軍を暗殺するメリットは薄いようにみえ、近年では北条氏の潜在的な敵対勢力たりうる三浦氏が本来いるはずだった義時の暗殺を主目的に、主犯の公暁を焚きつけたのでは、という説もでている。
当時、実朝と後鳥羽院の関係は良好だったのだが、実朝の死によって朝廷と幕府の蜜月は終わる。そして1221年に後鳥羽院が反鎌倉の武士(主に西国が中心)を集めて鎌倉政権の打倒を目論んだ承久の乱がおこる。幕府は尼御台と呼ばれた北条政子が東国の御家人たちを叱咤し、執権であった北条義時が軍勢を率いて上皇方の軍を駆逐して収まった。
1226年、8歳で将軍に迎えられた九条頼経は当初こそお飾りの将軍としておさまっていたが、年を経るにつれて自身の地位に不満を持つようになったのか、反得宗勢力と結ぶようになった。執権は泰時の死後、孫の経時が19歳で執権になるとますます頼経とその取り巻きは不穏な空気をまき散らしたため、退位させられた。次代の将軍は頼経の子・頼嗣が就任するが、それでも頼経は鎌倉で隠然たる影響力を持っていた。そのため1246年に、経時の後に執権を継いだ弟の時頼は鎌倉にいた道家と頼経を京へ送還した。これを宮騒動という。が、頼嗣ものちに別の謀反事件の関連を追及されて1251年に将軍職を解任された。
その後将軍には後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を迎えた。これを宮将軍という。
さて、天台座主とは比叡山延暦寺のトップのことをいい、初代は最澄(伝教大師)の弟子である義真から始まり、平安時代後期になる頃には皇族や公家から座主がでるのが通例となった。慈円の師にあたる明雲も公家源氏の出身である。ちなみにこの明雲は平家にべったりで、源義仲が京に攻め込んだ後、後白河に対してクーデターを起こした時(法住寺合戦)には信じがたいことに自ら戦陣に加わり義仲の部下に弓で討たれて戦死している。慈円は『愚管抄』で明雲のこの行為を痛烈に批判した。
室町時代には足利将軍家からもでるようになり、足利義満の五男・義円はくじ引きによって将軍に選ばれ、天台座主から還俗して足利義宣と名乗った(のちに義教と改名)。
おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣に墨染めの袖
藤原忠通の子。13歳で出家し、4度にわたり天台座主になった。歌人としてもすぐれていたが、『愚管抄』という史論を著して、公武協調路線を訴えたことでも有名。
忠通┳聖子(崇徳天皇中宮)
┣基実(近衛家)
┣育子(二条天皇中宮)
┣兼実(九条家)━良経━道家━頼経(4代将軍)━頼嗣(5代将軍)
┗慈円 ||
源頼朝━頼家━竹御所
上の系図にもあるとおり、兄兼実の子孫からは鎌倉幕府の将軍が2代にわたりでている。これは1219年、源実朝が八幡宮拝賀の際に暗殺されたのち、1226年、空位となっていた鎌倉将軍に迎えられたため(摂家将軍という)。
実朝の暗殺は一般に北条義時の仕業といわれているが、実朝の死によって後継将軍の人選に難航した経緯をみるに(7年間も将軍はいなかった)、北条氏にとって将軍を暗殺するメリットは薄いようにみえ、近年では北条氏の潜在的な敵対勢力たりうる三浦氏が本来いるはずだった義時の暗殺を主目的に、主犯の公暁を焚きつけたのでは、という説もでている。
当時、実朝と後鳥羽院の関係は良好だったのだが、実朝の死によって朝廷と幕府の蜜月は終わる。そして1221年に後鳥羽院が反鎌倉の武士(主に西国が中心)を集めて鎌倉政権の打倒を目論んだ承久の乱がおこる。幕府は尼御台と呼ばれた北条政子が東国の御家人たちを叱咤し、執権であった北条義時が軍勢を率いて上皇方の軍を駆逐して収まった。
1226年、8歳で将軍に迎えられた九条頼経は当初こそお飾りの将軍としておさまっていたが、年を経るにつれて自身の地位に不満を持つようになったのか、反得宗勢力と結ぶようになった。執権は泰時の死後、孫の経時が19歳で執権になるとますます頼経とその取り巻きは不穏な空気をまき散らしたため、退位させられた。次代の将軍は頼経の子・頼嗣が就任するが、それでも頼経は鎌倉で隠然たる影響力を持っていた。そのため1246年に、経時の後に執権を継いだ弟の時頼は鎌倉にいた道家と頼経を京へ送還した。これを宮騒動という。が、頼嗣ものちに別の謀反事件の関連を追及されて1251年に将軍職を解任された。
その後将軍には後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を迎えた。これを宮将軍という。
さて、天台座主とは比叡山延暦寺のトップのことをいい、初代は最澄(伝教大師)の弟子である義真から始まり、平安時代後期になる頃には皇族や公家から座主がでるのが通例となった。慈円の師にあたる明雲も公家源氏の出身である。ちなみにこの明雲は平家にべったりで、源義仲が京に攻め込んだ後、後白河に対してクーデターを起こした時(法住寺合戦)には信じがたいことに自ら戦陣に加わり義仲の部下に弓で討たれて戦死している。慈円は『愚管抄』で明雲のこの行為を痛烈に批判した。
室町時代には足利将軍家からもでるようになり、足利義満の五男・義円はくじ引きによって将軍に選ばれ、天台座主から還俗して足利義宣と名乗った(のちに義教と改名)。