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【小倉百人一首】95:前大僧正慈円

2016年01月11日 03時20分13秒 | 小倉百人一首
前大僧正慈円

おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣に墨染めの袖

藤原忠通の子。13歳で出家し、4度にわたり天台座主になった。歌人としてもすぐれていたが、『愚管抄』という史論を著して、公武協調路線を訴えたことでも有名。

忠通┳聖子(崇徳天皇中宮)
  ┣基実(近衛家)
  ┣育子(二条天皇中宮)
  ┣兼実(九条家)━良経━道家━頼経(4代将軍)━頼嗣(5代将軍)
  ┗慈円            ||
         源頼朝━頼家━竹御所


上の系図にもあるとおり、兄兼実の子孫からは鎌倉幕府の将軍が2代にわたりでている。これは1219年、源実朝が八幡宮拝賀の際に暗殺されたのち、1226年、空位となっていた鎌倉将軍に迎えられたため(摂家将軍という)。
実朝の暗殺は一般に北条義時の仕業といわれているが、実朝の死によって後継将軍の人選に難航した経緯をみるに(7年間も将軍はいなかった)、北条氏にとって将軍を暗殺するメリットは薄いようにみえ、近年では北条氏の潜在的な敵対勢力たりうる三浦氏が本来いるはずだった義時の暗殺を主目的に、主犯の公暁を焚きつけたのでは、という説もでている。
当時、実朝と後鳥羽院の関係は良好だったのだが、実朝の死によって朝廷と幕府の蜜月は終わる。そして1221年に後鳥羽院が反鎌倉の武士(主に西国が中心)を集めて鎌倉政権の打倒を目論んだ承久の乱がおこる。幕府は尼御台と呼ばれた北条政子が東国の御家人たちを叱咤し、執権であった北条義時が軍勢を率いて上皇方の軍を駆逐して収まった。

1226年、8歳で将軍に迎えられた九条頼経は当初こそお飾りの将軍としておさまっていたが、年を経るにつれて自身の地位に不満を持つようになったのか、反得宗勢力と結ぶようになった。執権は泰時の死後、孫の経時が19歳で執権になるとますます頼経とその取り巻きは不穏な空気をまき散らしたため、退位させられた。次代の将軍は頼経の子・頼嗣が就任するが、それでも頼経は鎌倉で隠然たる影響力を持っていた。そのため1246年に、経時の後に執権を継いだ弟の時頼は鎌倉にいた道家と頼経を京へ送還した。これを宮騒動という。が、頼嗣ものちに別の謀反事件の関連を追及されて1251年に将軍職を解任された。
その後将軍には後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を迎えた。これを宮将軍という。


さて、天台座主とは比叡山延暦寺のトップのことをいい、初代は最澄(伝教大師)の弟子である義真から始まり、平安時代後期になる頃には皇族や公家から座主がでるのが通例となった。慈円の師にあたる明雲も公家源氏の出身である。ちなみにこの明雲は平家にべったりで、源義仲が京に攻め込んだ後、後白河に対してクーデターを起こした時(法住寺合戦)には信じがたいことに自ら戦陣に加わり義仲の部下に弓で討たれて戦死している。慈円は『愚管抄』で明雲のこの行為を痛烈に批判した。
室町時代には足利将軍家からもでるようになり、足利義満の五男・義円はくじ引きによって将軍に選ばれ、天台座主から還俗して足利義宣と名乗った(のちに義教と改名)。

【小倉百人一首】94:参議雅経

2016年01月11日 02時47分05秒 | 小倉百人一首
参議雅経

み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり

本名は飛鳥井雅経。先祖をたどると関白藤原師実(道長の孫)の五男・忠教にたどりつく。
雅経の父・頼経は源義経と懇意だったため、平家滅亡後に義経が謀反人にされると、罪を問われて配流になり、雅経自身も鎌倉へ護送された。が、人の運命とはわからないもので、鎌倉では得意の蹴鞠を生かして源頼家・実朝と親交が深くなり、なんと頼朝の猶子(相続権のない息子)に迎えられる。1197年に罪を許されて京へ戻ると後鳥羽上皇の近臣として頭角を現す。経歴からもわかるとおり親幕府派であり、定家と実朝の間をとりもったのも雅経である。

この飛鳥井家は蹴鞠を家道としてその後も続き、徳川家康からは蹴鞠道の家元として認定されている。
ちなみに明治になり飛鳥井家が東京へ移転すると、飛鳥井家の跡地には淳仁天皇・崇徳天皇を祀る白峯神社が建立された。飛鳥井家が蹴鞠の家であったことから球技競技者から人気があるのだが、祀られている淳仁は奈良時代に廃位されて淡路島に配流になった天皇であり、崇徳は前に述べた通り保元の乱で讃岐に入るになり皇室を呪って崩御した天皇。

【小倉百人一首】93:鎌倉右大臣

2016年01月11日 01時34分15秒 | 小倉百人一首
鎌倉右大臣

世の中は常にもばもな渚こぐ 海人の小舟の綱手かなしも

鎌倉幕府の第三代将軍。本名は源実朝。
源頼朝の次男になるが、実際には頼朝は流人時代に一人子をもうけており(すぐに舅に殺害された)、厳密にいうなら三男になる。

生まれたのは1192年なので、頼朝は名実ともに武家の頂点の時にあたる。その頼朝は7年後に死去し、18歳の長男頼家が後を継ぐ。
頼家は最初、独裁体制を目論んだようだが、すぐに北条時政らの圧力により有力御家人による合議制を敷くことになった。と言われている(近年の研究では合議制はあくまで頼家に助言する補佐的な機関という説もある)。
頼家が将軍になったことにより、外戚の比企氏(頼朝を流人時代から支え続けてきた)の立場が北条氏に比肩するほどになると、危機感をいだいた北条時政は、1203年、比企氏を謀略により族滅に追い込み、おりしも重病で臥せっていた頼家は将軍職を降ろされて、修善寺に幽閉される。その後北条氏の刺客により翌年に殺害されたといわれている。
ちなみに北条時政自身も、娘婿である平賀朝雅を次の将軍につけようと画策したために実の息子である義時によって引退に追い込まれている。

この時代はまだ鎌倉幕府の黎明期といってよい時期であるが、北条氏は独裁体制を確立するために、頼朝の股肱として活躍した有力御家人を片っ端から粛清に追い込んでいる。先に述べた比企氏もそうだが、梶原景時(1203年)、畠山重忠(1205年)、和田義盛(1213年)などが代表的な人物。その先の歴史まで書くと、北条時頼時代の三浦氏の殲滅(宝治合戦)で一区切りついたといえる。

さて、1203年に頼家の退位により後をついで将軍となった実朝は武芸の達人といわれた頼家とは逆に、公家文化にあこがれる青年であった。
和歌は藤原定家に師事し、完成直後の『新古今和歌集』を贈ってもらったり、自身の和歌の添削を依頼したりしている。この時代の和歌はのちに新古今調とよばれる歌風が流行しており、実朝自身も新古今時代の最高の歌人の一人として数えられる。また『金槐集』という歌集もある。金は鎌倉の鎌の字を意味し、槐は大臣の唐名から。実朝の和歌はのちに江戸時代の国学者・賀茂真淵が激賞したが、明治時代に入り、正岡子規がさらに「真淵のほめ方は足りない」といったほど評価した。

朝廷とは蜜月が続いたようであり、後鳥羽上皇(1198年に退位している)も実朝には比較的好意的だったといわれている。1218年には武士として初めて右大臣に任官されている。
が、もともと鎌倉政権は朝廷による束縛から脱却して、武士が自分たちの領地を自分たちで保証できることを一番の目標として結成されているだけに、この実朝の態度はおそらく北条氏をはじめとする武士たちからは顰蹙だっただろう。

1219年、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、甥の公暁によって暗殺される。この事件の首謀者ともいわれる北条義時は1221年の承久の乱で幕府軍の指揮をとり朝廷方を破り、3人の上皇を配流しているため、のちの時代には悪人のイメージが強くなった。
公暁は実朝の首を持ち去ったため、胴体だけが埋葬された。