BLOG in Atelier.Minami

ゲーム攻略、読書感想文など。

【小倉百人一首】17:在原業平朝臣

2014年06月10日 01時45分35秒 | 小倉百人一首
在原業平朝臣

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

前回とりあげた在原行平の弟。また、以前とりあげた六歌仙と三十六歌仙にも入っている。
ついでに書くと本人は五男であり官位は近衛権中将であったことから在五中将という呼び方もある。
さて、『古今集』にある紀貫之の評では

 その心余りて言葉足らず。しぼめる花の色なくてにほひ残れるがごとし

 (歌の心情があり余り言葉で表現しきれない。しぼんだ花が色をなくして、においだけが残っているようなものだ)

これまでに取り上げた六歌仙の中ではましな方かも知れないが酷評には変わりない。

昔から美男子の代表格として知られているが、中身について『日本三代実録』という正史には、歌はうまいが教養はないと書かれている。
『源氏物語』より前に成立した古典『伊勢物語』の主人公のモデルともいわれている。その理由は実際に業平が詠んだ歌が物語の中で数多く収録されていたり、業平の近親者が実名で登場するためである。
そのため、逆に物語の中で描かれていた、清和天皇(56代)の皇后・藤原高子や、伊勢斎宮(伊勢神宮につかえる巫女)との禁断の恋愛が業平の事跡として認識されるという現象も起きた。実際のところはどうかわからないが清和期に業平は官位を上げており、特に懲罰人事を受けた痕跡はない。
余談だが、室町時代に生まれた能の傑作「筒井筒」は伊勢物語に材をとっている。

前回書いたとおり、この家は薬子の変で左遷にあい中央から遠ざかったが、その後風向きが変わったのか藤原良房が政敵紀氏らを葬った応天門の変では、紀氏の女性を妻にしているにもかかわらず特にあおりはうけていない。それどころか孫は菅原道真の政敵として有名な関白・藤原時平に嫁いでいる(というか強奪された)ことから、どちらかというと藤原氏との関係は良好だったのではないだろうか。

ちなみに応天門の変とは参議篁でも少しだけ書いたが、平安朝の政治史を知る上で重要なのでここで紹介しておく。

清和天皇期866年閏3月10日、内裏内にある応天門が炎上するという事件が起きた。
この事件について、善訴訟事件で出世していた大納言・伴善男が、犯人は左大臣・源信(みなもとのまこと)であると訴えた。源信の屋敷は兵に包囲されるのだが、当時の太政大臣・藤原良房が清和天皇に弁護したため解除された。
そして今度は8月3日、大宅鷹取という下級官吏が、「伴氏の連中が応天門から走り去った後に火があがった」と証言したため、首謀者とみられる善男らが拷問を受けるなど厳しい取調べにあう。なお、取調べの最中、大宅鷹取の娘が伴善男の従者に殺される事件も起きている。
結局善男が罪を認めたため、この事件は源信を冤罪に陥れようとした伴善男らの狂言ということでかたがついた。ちなみに善男が讒言をした動機は、源信を失脚させ、空いた左大臣の座に右大臣である藤原良相が繰り上がり、その右大臣に善男が繰り上がることを狙ったから、というもの。

かくして善男をはじめとする伴氏や紀氏の有力官人は朝廷から一掃され、藤原良房の独裁体制が確立されるにいたる。ちなみに官界を追放された紀氏の一人、紀夏井はまれにみる良吏として領民から慕われた人物なのだが、事件当時は肥後に赴任していたにも関わらず連座にあっている。配流先の土佐へ護送される際、領民たちはそれを嘆き悲しみ、護送を防ごうとしたというエピソードもある。

事件について、史書にはこの通り記載されているが多くの史家は疑問を呈し、真犯人は藤原氏ではないか、とかそもそも炎上自体は偶然の失火だったのではないか、と様々な説が提示されている。

最後に余談をひとつ。
業平の娘の一人が嫁いだ男に藤原保則という人物がいる。この人は藤原南家出身の中級官人なのだが、赴任先の備中・備前で善政を敷き、領民から慕われた。国守のことをこの頃から受領と呼ぶようになるが、受領は決められた年貢を中央に納めれば余剰分は自分の懐にいれることができた。そのため受領になることは宝の国に行くのと同じだと詠われるのだが、そんな世にあって保則の善政はひときわまぶしい光彩を放っていた。だが、活躍はそれだけにとどまらない。
878年、出羽で俘囚の反乱(これ自体、国守の苛政が原因だが)が起きると、保則はその手腕を買われて出羽権守に任じられて反乱の鎮圧に赴く。が、手持ちの軍勢で鎮圧は不可能と判断した保則は寛政を敷くことで平和裏に反乱をおさめることにした。朝廷も説得し、政治に着手した保則は見事に鎮圧に成功した。
887年に宇多天皇が即位すると保則を抜擢。最終的には公卿に列せられるほどになる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿