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【小倉百人一首】16:中納言行平

2014年06月09日 00時40分24秒 | 小倉百人一首
中納言行平

立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む

平城天皇(51代)の孫というより在原業平の兄といった方がわかりやすい。すなわち本名は在原行平である。
前回少し触れたが、祖父の平城天皇は父である桓武天皇が806年に崩御した後に天皇となったものの、皇太子時代から素行に問題があり、その最大のものはなんと義母である藤原薬子を愛してしまい、父を怒らせたことだろう。これで薬子は都を追放になっている。

が、自分が天皇位につくと薬子を呼び戻し官位を授けて宮中の取り締まりをまかせる。この薬子と薬子の兄である藤原仲成は平城の後ろ盾を受けて権勢を誇ることになる。
元々病弱だった平城天皇ははじめから長く天皇位につくつもりはなかったらしく、幼少の息子を皇太子にはせず、かわって弟の神野親王(後の嵯峨天皇)を皇太弟としてたてる。
そして在位たった3年で病気を理由に弟に譲位するが、皇太子(つまり嵯峨天皇の次代の天皇)には自身の三男である高岳親王をたてさせる。
なので嵯峨天皇は中継ぎみたいな存在になるわけだ。

ちなみに当時は怨霊による祟りを本気で信じていた時代という背景もあり、平城上皇は自身の病気を早良親王や伊予親王の祟りと考えていた。
早良親王とは桓武天皇の弟で平城上皇には叔父にあたる人物だが、785年、平城京の次の新都として建設中であった長岡京の建設責任者・藤原種継(薬子・仲成の父)の暗殺事件が起きた際、(おそらく無実なのに)連座して淡路に流罪にされた。それに憤った早良親王は流罪先に向かう途中の河内で絶食のために死亡する。
その後桓武天皇の近親者が相次いで死んだため、祟りを恐れた桓武天皇は何度も鎮魂の儀式を行い、ついに天皇に即位していないにも関わらず崇道天皇と諡号を贈ったのだ(ただし歴代天皇には数えられない)。
また、平城天皇自身も即位した後、弟の伊予親王に謀反の嫌疑をかけて死に追い込んでいる。

上皇になったあと、平城上皇は薬子とともに平城京に移り、隠居かと思いきや嵯峨天皇との二元政治を行いだした。つまり天皇の詔勅とは別に平城上皇も院宣をだして政治に口出しをしたのだ。これは権力に未練があった藤原仲成・薬子が平城上皇の復位をもくろんでいたことも関係しているだろう。
嵯峨天皇も負けじと対策を練るが、平城上皇は退位した翌年になんと平城京への遷都令を発した。
当初従う振りをした嵯峨は腹心を平城京へ送り込む。そして遷都拒否の決断を下すと東国への関所を封鎖し、坂上田村麻呂らに命じて、東国へ行き挙兵しようとしていた平城上皇らを捕らえることに成功する。
そして藤原仲成は射殺、薬子は服毒自殺をする。
ちなみに嵯峨は死刑を廃止したため藤原仲成以降、保元の乱(1156年)で敗れた源為義が処刑されるまで346年間、死刑は一度も執行されなかった。

また、皇太子として立てられていた高岳親王は廃嫡となり、代わって嵯峨天皇の弟の大伴親王が皇太弟としてたてられた。後の淳和天皇である。この後の歴史は参議篁で書いたとおり。

さて、大分脱線が長くなったが在原兄弟の父であり、平城天皇の子である阿保親王も連座して大宰権帥に左遷になる。
大宰府は大陸との玄関口になる重要な役所であるがその長官である大宰帥は皇族の名誉職の意味合いがつよく、実際に職務あたったのが副長官ともいうべき大宰権帥である。ただし左遷にあった貴人がこの役職になる場合はその限りではなく完全に窓際族になる。
阿保親王は、その後平城上皇(出家してたが当時は法皇とはよばなかった)が崩御したあと、ようやく都に戻してもらえる。

二人の息子を臣籍降下させたのはその後になる。

最後に余談。
平安後期の白河上皇以後、天皇親政はなくなり、上皇による院政が常態化するが、院政の資格を持つのは天皇の直系尊属だけなので、ここで紹介した平城上皇の政治は院政とはいわない。
ただ、兄弟間での譲位の場合でも、先帝(兄)が次代の天皇(弟)を皇太弟ではなく皇太子としてたてた場合は、先帝が院政を行うことができる。


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