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【小倉百人一首】2:持統天皇

2014年06月01日 12時09分38秒 | 小倉百人一首
持統天皇

春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山

前回とりあげた天智天皇の娘にあたる。41代天皇。

さて、前回書いたとおり、大化の改新の主役である天智天皇が崩御したあと、壬申の乱により天智の弟・大海人皇子が弘文天皇を倒して即位して天武天皇となるのだが、この后が持統天皇である。もっとも嫁いだのはもっと前だけど。
つまり持統天皇は叔父に嫁したことになる。

旦那の天武天皇は槍を使うエピソードもあり、武に長けた印象があるがその治世はわずか約10年(679~689年)でこの持統天皇も后として政治に積極的に参加していたようだ。もっというと壬申の乱の企てにも関わっていた。

さて、天武天皇との間には草壁皇子という男子がいて、天武朝の後半は病気の天武に代わり持統天皇・草壁皇子が政務をとっていた。ちなみに天武期は大臣の任命は一人も行われず、まさに天皇親政の時代でもあった。

こうなると天武の後は順調に草壁が即位しそうなものだが、天武の後を追うように草壁も死んだため、この持統天皇が即位となったのである。
ちなみに草壁皇子には子供がいて、その奥さんは持統天皇の妹という複雑な系譜なのだが、ともかくその子供、つまり持統天皇の孫はまだ子供なので、その子が成長するまでの中継ぎだったのが持統ということになる。
が、話はそんな単純ではなく、実は天武には他に跡継ぎになれる男子が何人かいた。そのうちで最も有力候補だったのが大津皇子で、母親は持統と同じ天智の娘である大田皇女。なので血統的には草壁皇子と同等なので現実的に考えれば持統が即位するよりはこの大津皇子が即位するほうがありえそうだ。が、天武と草壁が相次いで死んだ後、大津皇子に謀反の嫌疑がでたために自殺させられるハメになる。

その後、7年間天皇位を勤めた持統は、697年にようやく孫の軽皇子に譲位する。この軽皇子が即位して文武天皇となるのだが、実際は持統上皇も政治には引き続き参加していたと見られる。明治時代になるまで続く日本の基本法ともいうべき大宝律令が完成したのはこの時代。文武天皇が即位すると同時に藤原不比等も政治の表舞台にでるようになるので、大津皇子の謀反から文武の即位までのいきさつのどこかで不比等が何らかの手を貸していたと思われる。ちなみに文武の皇后は不比等の娘である。

が、この後も思うようにはいかず、この文武天皇も24歳の若さで崩御してしまい、残された遺児(後の聖武天皇)が成長するまでの中継ぎとして草壁皇子の妃だった持統の妹が元明天皇として即位する。平城京への遷都はこの元明期である。
つまり天智天皇は自分の娘を弟である天武天皇に嫁がせたどころか、その息子にも自分の娘を嫁がせている。
もっというと天武天皇に嫁がせたのは持統だけでなく他に3人の娘を嫁がせているのだ。
これはどういうことだろう?まるで懐柔してるように見えるのだが天武とは天智にとってそれほど気を使う相手だったのか。

万葉集最大の歌人であり、歌聖ともいわれる柿本人麻呂はこの持統期あたりの時代の人で、宮廷歌人的な扱いで天皇の世を称える歌を作らせている。