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【小倉百人一首】42:清原元輔

2014年06月28日 01時05分22秒 | 小倉百人一首
清原元輔

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは

清少納言の父であり、清原深養父の孫にあたる。一族四代のうち3人が百人一首に入選しているという血統は他にはいないから血筋といった方がいいかもしれない。

今でこそ清少納言の父という紹介の方がわかりやすいが、この元輔は歌人として名高く、『後撰和歌集』の撰者の一人にも入っている。この『後撰和歌集』は村上天皇の命によって編纂された勅撰和歌集で、歴史上『古今集』に続く2番目の勅撰和歌集となる。
この『後撰和歌集』の撰者は元輔のほかに源順、大中臣能宣、坂上望城、紀時文(紀貫之の息子)がおり、後世この5人を和歌所の庭に植えられた梨の木にちなんで”梨壺の五人”と呼んだ。
ちなみに清少納言が宮中に仕えたおり、父の名を辱めたくないから和歌は詠まないというわがままを認めてもらっている、と藤原伊周(道長の甥で道長と激しい権力闘争をする)に告げた話が『枕草子』の第九十九段にある。

【小倉百人一首】41:壬生忠見

2014年06月23日 10時35分39秒 | 小倉百人一首
壬生忠見

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

壬生忠岑の息子で親子そろって三十六歌仙に入っている。
天徳内裏歌合の結びの一番で前回とりあげた平兼盛の歌と対決した歌。
結果は前回書いたとおり兼盛の勝利。そして敗れた忠見は悔しさのあまり悶死したという伝説がある。

【小倉百人一首】40:平兼盛

2014年06月23日 04時23分25秒 | 小倉百人一首
平兼盛

忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

前回に続きこれも忍ぶ恋の歌。
兼盛はこの時代を代表する歌人で、後の勅撰和歌集に多数の歌が入選している。

百人一首の歌は詠まれたときのエピソードが伝わっているのがいくつかあるが、この歌は960年、天徳内裏歌合の結びの一番に詠まれた歌。相手の壬生忠見が詠んだ歌と、どちらが優れているかを決める判者(審判)の藤原実頼が勝者を決めることができず、しかも臨席している村上天皇からは「引き分けはダメ」といわれて困った挙句、天皇がこの歌をつぶやいたために勝ちとした、というエピソードが残っている。
こういう背景から、この歌と壬生忠見の歌については好みや優劣をめぐって後世にも話題を提供し続けた。
ちなみにこの歌合の参加者は他に坂上是則の息子の坂上望城、清原元輔、藤原朝忠、伊勢の娘の中務などがいる。

【小倉百人一首】39:参議等

2014年06月23日 04時12分05秒 | 小倉百人一首
参議等

浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

本名は源等。河原左大臣こと源融の兄・弘の孫にあたる嵯峨源氏。

この歌は古今集にある

 浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言ふ人なしに(読み人知らず)

という歌の本歌取り。百人一首ではこの歌から3つ連続で忍ぶ恋の歌が続く。

【小倉百人一首】38:右近

2014年06月23日 03時56分53秒 | 小倉百人一首
右近

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

女流歌人なので本名は不明。この右近という名は、父親の藤原季縄の官職に由る。醍醐天皇(60代)の中宮である藤原穏子(朱雀・村上の生母)に仕えた。この藤原穏子は藤原基経の娘なので、醍醐・朱雀・村上の三代にわたり藤原氏が外戚であったことになる。
これが摂関政治を強める一因になったのはいうまでもない。

この右近は数々の貴族との浮名を流した女性で、元良親王藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順が相手として知られている。藤原敦忠は藤原時平の息子、師輔は藤原忠平の息子(なので敦忠と師輔はいとこ同士)、朝忠は藤原定方の息子。源順は嵯峨源氏出身の貴族である。


この歌の意味は、自分をふった男に対して、「自分はなんとも思わないが、神に誓った恋を破るあなたに神罰がくだり死なせるのが惜しい」といった内容になる。強がりともとれるし、ちょっと薄ら寒い内容だ。ちなみにこれだけ相手がいると誰にふられたときの歌なのか気になるが藤原敦忠という説が有力らしい。