磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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180原爆はどう報道されてきたか?

2006年09月14日 | Ra.
ラヂオアクティヴィティ[Ra.]
第二部・国境なき恐怖

十二、国境なき……part1

180原爆はどう報道されてきたか?



「原爆投下後の大混乱の中、八月十五日に日本はポツダム宣言の受諾、つまり無条件降伏をしました。その後アメリカからの救援は、赤十字国際委員会駐日代表のマルセル・ジュノーの要請による救援物資十五トンを、一九四五年九月八日に広島に運んだ一回だけです。しかもそのうちペニシリンなど三トンの医薬品はだれかに途中で盗まれました。ところがこの直前の九月六日、原爆投下のマンハッタン計画の副責任者であるファーレル准将は、帝国ホテルで記者会見を行ないました」

ファーレル准将の写真。
「そして彼は話します。「原爆放射能の後遺障害はありえない。すでに広島・長崎では、原爆症で死ぬべきものは死んでしまい、九月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいるものは皆無だ」という声明を発表するのです。ファーレル宣言によって、被爆者の存在は社会から隠され、被爆者の国際救援の道は閉ざされました。ファーレル准将ひきいるアメリカ原爆災害調査団の目的は「被害」がどれだけ出たかではなく、原爆の「効果」がどれだけあったかを調べることと、アメリカ軍を安全に広島に配備するために、残留放射能がどれだけあるかを調べることでした。ところで外部からの被害者救援の手が差しのべられなかった理由のひとつは、被害の様子を報道することを禁止されたことでした。ファーレル准将は、ジュノーさんの要請した医薬品と共に広島に訪れて、その目を覆うばかりの惨状を前にして「なんとか救済の方法を考えたい」と話したものの、実際に救援を行うことはできませんでした」

プレスコードという文字が画面にでる。

「ファーレル准将が広島を視察した後、一九四五年九月十九日、GHQ(連合軍総司令部)は「プレスコード」を発令し、連合国、占領軍の利益に反するすべての報道を禁止しました。これによって一九五二年四月に占領が終わるまで、原爆の被害の報道はほとんど不可能になったのです。記事だけでなく、写真も映画フィルムも同じでした。ニュース映画を制作する「日本映画社」の取材班は、九月二十五日に広島の撮影を開始しました。そしてそのフィルムはGHQに没収されます。しかしその直前に日本映画社のスタッフが、このフィルムのポジを一本余分にとっておき、屋根裏に隠したという話はよく知られています」

赤十字のマークが画面にある。

「占領軍は、報道を禁止しただけではありません。救援にかけつたジュノーさんの活動も妨害します。世界に救援を呼び掛けたジュノーさんの電報は、打電できませんでした」

ため息をつくソーシア。
あまりにもチェルノブイリと似ていると思った。
輝代の目から涙があふれだしていた。

「日本側の調査は、団長の都築正男・東大教授らによって、一九四五年八月二十九日に開始されました。しかしやがて都築氏はGHQによって、公職を追放されました。十一月には原爆被害の医学研究も禁止します。これは日本の医学者たちが猛烈に反対しますが、どうにもなりませんでした」
谷本は懸命に原稿を読んでいる。

「アメリカは原爆を落としてから二十三年も後の一九六八年になって国連に原爆白書を提出しますが、そこでは残留放射能による被害を否定し、生きている被爆者には病人はいないと報告しています。被爆者問題にとりくむ弁護士の椎名麻紗枝さんは『原爆犯罪』(大月書店)という本のなかで、アメリカが苦しんでいる被爆者がひとりもいないかのように見せかけたのは、なによりも原爆の残虐性、非人道性を隠すためだった、と述べています。そしてこの恐るべき惨状がアメリカ国内や世界に知られたら、アメリカの原爆投下行為は、人道に対する罪としてきびしく責められ、アメリカの国際的な発言力も弱まり、さらに核爆弾製造産業も打撃を受けたにちがいないでしょうと話しています」

男性のアナウンサーの朗読にかわる。
「日本の政府も、一九四五年八月十日に、国際法違反だとしてアメリカに抗議した後は、今に至るまで一度も、原爆投下に対して抗議をしませんでした。アメリカも日本の被爆者に対して謝罪はしていません。日本では国に損害賠償を請求する訴訟が一度だけ行われましたが、このいわゆる原爆訴訟は、判決文の中でアメリカの原爆投下行為を国際法違反とした画期的なものでしたが、損害賠償については原告敗訴が言い渡されました。この裁判の中で一九五五年に国は、原爆使用は国際法に違反しているとは言えないと主張しました。その主張は今にいたるまで繰り返され、被爆国日本が、原爆投下を国際法違反として非難もしないので、世界中が驚いています。日本では原爆投下の責任を問うことは、長くタブーに近いものでした。それは今でもタブーのようです。同じく日本が、被爆者の救援を真面目にしなかったのは、単に占領軍の圧力のせいだけではありませんでした。占領が終わっても、日本は長い間被害者の救援をせず、国によって被爆者の医療給付が始まったのは、一九五七年になってからで、その「被爆者医療法」も、その後のさまざまな法律も、被爆者の救済のためには不十分でした」

女性のアナウンサー。
「焼け跡に病院を作り、被爆者治療を行った原田東岷さんは『ヒロシマのばら』(未来社)の中で、次のように書いています。「被爆後数年経っても、原爆災害について自前で調査をしなければ、治療対策も立てられなかった。もちろん治療は行われず、治療方針も示されなかった。政府にとっての味方はなんと、進駐軍のプレスコードだったのです。原爆については見ざる、聞かざる、言わざる、を遵守すべしというマッカーサーの命令に、日本政府は従ったのです。もし政府が直ちに原爆の破壊作用や、原爆放射線や熱線による障害作用の実態に本気で取り組んでいたならば、原爆症やその後の発症で死ぬ人の数は、もっと少なかったかもしれない」長い間、広島で被爆者救援を続けたのは、政府ではなく、民間の医師たちだったのです」

谷本に替わった。
「放影研の前身が、一九四七年にアメリカが設置したABCC(原爆傷害調査委員会)なのです。そして理事長がIAEAのもとでチェルノブイリ調査をした重松逸造なのです。広島のABCCでは、すでに大量の放射線を浴びている被爆者に対し、レントゲン撮影をしたり、裸にして検査したりしました。このABCCは、治療をいっさいしないということで有名でした。被爆者が行っても、検査するだけで、薬も与えないし、注射もしません。ABCCは原爆の「効果」を調べる目的で設置されたのです。目的は「学術的研究と実験的調査、放射能の生理学的影響の調査を含む」とされて、被爆者の治療はまったく含まれていませんでした」

いったい、どうしてそんなことをしたのだろうと疑問に博士は思う。
「前述の弁護士の椎名さんは、アメリカ国立公文書館に保存されているABCCの予算書を調べましたが、そこには被爆者治療に必要な治療器具や医療品の項目はまったくありませんでした。近藤さんは話してくれました。そのころ、みんなは噂していました。治療すると原爆の効果が分からなくなってしまうじゃないかと。私たちが研究材料のモルモットにされているのですから。モルモットに注射したり薬をやったり、モルモットが元気になったら困りますからね。放っておかなければだめなのです。だから風邪薬さえもくれなかったのです。だからABCCは、栄養失調の人などは、全然調べようとはしなかったと、多くの人は言います。食料状態のいい健康そうな人を呼びつけたのです。継続して追跡調査をするには、健康そうな人のほうがいいからです。それに病院で治療してしまうと、いろんな要素が入ってきますから、研究には向かなくなってしまうからです。ABCCは広島の被爆者の調査をしつづけました。そのデータはアメリカのAFIP(陸軍病理学研究所)に送られました」

テレビを見ている博士は
『観察することは、その理論による』
とアイシュタインの名言を思い出した。

なんて理論だ。
自分の主人のために都合の結論を、
ひき出すための理論。

アイシュタインもきっと怒ったことだろう。
こんなのは、まともな科学者のすることではない。








閑話休題

まったく、事実はこのようなものだったらしいです。

自分たちの都合のいい部分だけ、ハリウッド映画などで
垂れ流し放送してもらっては実に困りますね。

検閲1945-1949 禁じられた原爆報道

ヒロシマのばら

チェルノブイリから広島へ





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