『115500平方メートルの皮膚-被爆43年の自分史-』
山口仙二・著/みずち書房1988年
建築事務所の社長さんもやっておられたようです。
--でも、庶民的な活動をされてきた、すばらしい人間だと僕は思っています。
長崎原爆投下日……。下「」引用。
「八月九日、私はいつものゲージ作りでなく、交替で工場の防空壕掘りに出されてた。爆心地から約一・一キロの位置だ。この距離だと、厚さ三○センチの煉瓦壁に大きなひび割れをあたえる程度の爆風と、花崗岩の表面が溶けて泡だつ程度の熱線にさらされたはずである。もちろん、多くの人が死んだ。-略-」
大村海軍病院へ。下「」引用。
「「早くのれ」
私が全身の力をふりしぼって列車に乗ろうとしているのに、すぐ後でそんな声がした。かろうじてはい上がった私は、車内に足を踏みこんでびっくりした。温かみのある血と泥が、ぺちゃぺちゃと足にくっついた。
どの座席も、重傷者が横に寝かされている。その重傷者と重なるように椅子へ寄りかかっている者、通路に腰をおろしている者もいた。-略-」
三菱の試験あきらめたという……。下「」引用。
「三菱(当時、財閥解体で西日本重工と称した)長崎造船所は、はじめからあきらめた。
もともとここへの就職にあこがれて、島から出てきたのだ。クラスで五番の成績。それほど悪くないつもりだが、三菱には全校で一、二番の者しかパスできなかった。公立大学の入試よりむつかしく、神学希望の優秀な連中が小手調べに受験したくらい。それに、戦時中の徴兵検査そのまま、ペニスをしごいたり肛門をのぞいたり、厳密なテストをやるという。学科はともかく、体格検査のほうはまったく自信がなかった。-略-」
index
自殺未遂をした著者……。
長崎大学へ。下「」引用。
「ケロイドの植皮手術のため、長崎大学の医学部調(しらべ)外科に入院した。調来助先生とは縁がある。大村で最初に手術をうけたときの執刀医木戸利一先生は、調先生のお弟子さんだ。調先生ご自身、八月九日に長男を喪い、遺骸さえみつからなかったという。-略-」
長崎原爆青年会。下「」引用。
「乙女の会にならって、青年たちの会をつくり、話し合いの場をもちたい。こうして長崎原爆青年会が発足した。みんな大学病院で知り合った青年たちだ。-略-」
被爆者に中国からの慰問金を渡したかったが、ふさわしい窓口がないので持ち帰った安井氏。下「」引用。
「-略-これは被爆者救援のために託されたもので、慈善事業一般に解消されてよい性質の金ではない--結局、安井氏は慰問金をそのまま持ち帰るほかなかった。」
「原爆被災者協議会結成の呼びかけ」
「長崎青年乙女の会」 下「」引用。
「この年の五月に、十四名のわれわれ「青年の会」と、三十一名の「乙女の会」とが合同し「長崎青年乙女の会」となった。私と同じ大村海軍病院で、二年間うつ伏せのまま治療を受けていた谷口稜曄(すみてる)さんも、このとき入会した。-略-」
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Sの自殺。下「」引用。
「-略-みんなで準備してきた世界大会のことが話題になったし、Sも参加する口ぶりだった。そのSが、七日の夜、長崎駅前の旅館にひとりで宿をとり、青酸カリをあおった。-略-Sと私は、大学病院で知り合った。Sはそのとき、虫垂炎の手術で入院していたが、ケロイドの植皮手術を何度も受けている。下半身が焼け、足裏にまで、ケロイドがあるのに、上半身は無傷だった。被爆当時、七歳十一カ月のSは、プールか川で泳いでいて熱線を浴びたらしい。」
「遺書」に著者の名前が書かれてあったという。
もくじ
結婚……。下「」引用。
「船長夫妻の娘と二人、その家に泊まることになった。これが中本幸子--現在の私の妻との出会いである。-略-」
福田須磨子が、詩「--仙ちゃんの結婚を祝して--生命ある限り」を残している……。
福田須磨子とソ連核実験非難! 下「」引用。
「私と福田須磨とは、ソ連核実験に反対の意志を表明した。翌日の朝刊に、それが大きく報道された。私の友人たちの中には、ソ連は基本的に平和愛好勢力だから、アメリカと分けて考えるべきだ、と忠告してくれる者もいた。だが、もしほんとうに平和を希むのなら、核を憎み、人類滅亡の手段の開発を呪い、核実験に反対する私たちの気持ちをなぜ踏みにじるのか。広島と長崎で爆発した、あのちっぽけで「きれいな」原爆でさえ、三十四万人以上が死に、なお死につつある。アメリカであれソ連であれ、ほかの何者であれ、平和のための核抑止力、などというたわごとを私に信じさせたいのなら、いちどでもあの地獄をくぐったあとに、ものを言ってほしい。私は、イデオロギーを無視し感情的に口走っているのではない。これこそ私のイデオロギーなのだ。」
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長崎被災協の会長へ
林京子を批判した作家に非難。下「」引用。
「いまどこに立ってものを言うのかということこそ、文学にとって、また現実にたいし何がしかの発言を試みる者にとってももっとも重要なのではないか。彼は、権力者にたいし限りなく優しい反面、反体制や、反核の文学者にたいしては、ほとんど憎悪そのものを塗りつける。「貧困や病気や差別や不平等の中で生きてきた」人が、なぜそれをもたらす戦争や軍備拡大に反対しないのか。自分の出生地の人びとをあざむいてまで進められる原発立地に、なぜ一声の反対もしないのか。」
たぶん、吉本の本で紹介された本でしょうね……。
誇りに思う、核戦争の危機を訴えをアピールした日本の文学者。
ABCCの役割。下「」引用。
「この医学の立ち遅れには、敗戦直後のアメリカ占領軍が責任を負っているだろう。彼らは、原爆の被害の大きさが、占領軍にたいする人道的な非難をつよくすることをおそれ、占領と同時にプレスコードをしいた。新聞報道をおさえただけでなく、被害調査までABCC一本にしぼり、ほかの学者や研究機構をいっさいシャットアウトした。ABCCは事業として「大学・大学付置の研究所又はその他の研究機関と共同して放射能の人に及ぼす影響及びこれによる疾病に関する調査研究を行う」とあるが、敗戦直後の実態は、日本の大学調査団などの資料を、ABCCが独占するかたちになった。」
ABCCに抗議。下「」引用。
「しかもABCCは、被爆者の調査こそやったものの、それを治療に生かすこしとなどいっさいしなかった。きたるべき核戦争のための実験データを集めていたとしか考えられない。長崎で原爆反対運動が盛り上がった一九五六(昭和三十一)年の夏、私は原爆青年会の会長として、ABCC長崎研究所の所長に会見を求め、抗議したことがある。」
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この人たちの、小説を書かない日本の作家たちって、あまりにも欲が無いとボクは思う……。
今の作家に誇りなんて感じてますか?
また、映画関係者も同様ですね……。
被爆の問題を解決しなければ、さらに新しい問題も憎悪することは、確実ですね。
--原子力も推進されていますしね……。
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山口仙二・著/みずち書房1988年
建築事務所の社長さんもやっておられたようです。
--でも、庶民的な活動をされてきた、すばらしい人間だと僕は思っています。
長崎原爆投下日……。下「」引用。
「八月九日、私はいつものゲージ作りでなく、交替で工場の防空壕掘りに出されてた。爆心地から約一・一キロの位置だ。この距離だと、厚さ三○センチの煉瓦壁に大きなひび割れをあたえる程度の爆風と、花崗岩の表面が溶けて泡だつ程度の熱線にさらされたはずである。もちろん、多くの人が死んだ。-略-」
大村海軍病院へ。下「」引用。
「「早くのれ」
私が全身の力をふりしぼって列車に乗ろうとしているのに、すぐ後でそんな声がした。かろうじてはい上がった私は、車内に足を踏みこんでびっくりした。温かみのある血と泥が、ぺちゃぺちゃと足にくっついた。
どの座席も、重傷者が横に寝かされている。その重傷者と重なるように椅子へ寄りかかっている者、通路に腰をおろしている者もいた。-略-」
三菱の試験あきらめたという……。下「」引用。
「三菱(当時、財閥解体で西日本重工と称した)長崎造船所は、はじめからあきらめた。
もともとここへの就職にあこがれて、島から出てきたのだ。クラスで五番の成績。それほど悪くないつもりだが、三菱には全校で一、二番の者しかパスできなかった。公立大学の入試よりむつかしく、神学希望の優秀な連中が小手調べに受験したくらい。それに、戦時中の徴兵検査そのまま、ペニスをしごいたり肛門をのぞいたり、厳密なテストをやるという。学科はともかく、体格検査のほうはまったく自信がなかった。-略-」
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自殺未遂をした著者……。
長崎大学へ。下「」引用。
「ケロイドの植皮手術のため、長崎大学の医学部調(しらべ)外科に入院した。調来助先生とは縁がある。大村で最初に手術をうけたときの執刀医木戸利一先生は、調先生のお弟子さんだ。調先生ご自身、八月九日に長男を喪い、遺骸さえみつからなかったという。-略-」
長崎原爆青年会。下「」引用。
「乙女の会にならって、青年たちの会をつくり、話し合いの場をもちたい。こうして長崎原爆青年会が発足した。みんな大学病院で知り合った青年たちだ。-略-」
被爆者に中国からの慰問金を渡したかったが、ふさわしい窓口がないので持ち帰った安井氏。下「」引用。
「-略-これは被爆者救援のために託されたもので、慈善事業一般に解消されてよい性質の金ではない--結局、安井氏は慰問金をそのまま持ち帰るほかなかった。」
「原爆被災者協議会結成の呼びかけ」
「長崎青年乙女の会」 下「」引用。
「この年の五月に、十四名のわれわれ「青年の会」と、三十一名の「乙女の会」とが合同し「長崎青年乙女の会」となった。私と同じ大村海軍病院で、二年間うつ伏せのまま治療を受けていた谷口稜曄(すみてる)さんも、このとき入会した。-略-」
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Sの自殺。下「」引用。
「-略-みんなで準備してきた世界大会のことが話題になったし、Sも参加する口ぶりだった。そのSが、七日の夜、長崎駅前の旅館にひとりで宿をとり、青酸カリをあおった。-略-Sと私は、大学病院で知り合った。Sはそのとき、虫垂炎の手術で入院していたが、ケロイドの植皮手術を何度も受けている。下半身が焼け、足裏にまで、ケロイドがあるのに、上半身は無傷だった。被爆当時、七歳十一カ月のSは、プールか川で泳いでいて熱線を浴びたらしい。」
「遺書」に著者の名前が書かれてあったという。
もくじ
結婚……。下「」引用。
「船長夫妻の娘と二人、その家に泊まることになった。これが中本幸子--現在の私の妻との出会いである。-略-」
福田須磨子が、詩「--仙ちゃんの結婚を祝して--生命ある限り」を残している……。
福田須磨子とソ連核実験非難! 下「」引用。
「私と福田須磨とは、ソ連核実験に反対の意志を表明した。翌日の朝刊に、それが大きく報道された。私の友人たちの中には、ソ連は基本的に平和愛好勢力だから、アメリカと分けて考えるべきだ、と忠告してくれる者もいた。だが、もしほんとうに平和を希むのなら、核を憎み、人類滅亡の手段の開発を呪い、核実験に反対する私たちの気持ちをなぜ踏みにじるのか。広島と長崎で爆発した、あのちっぽけで「きれいな」原爆でさえ、三十四万人以上が死に、なお死につつある。アメリカであれソ連であれ、ほかの何者であれ、平和のための核抑止力、などというたわごとを私に信じさせたいのなら、いちどでもあの地獄をくぐったあとに、ものを言ってほしい。私は、イデオロギーを無視し感情的に口走っているのではない。これこそ私のイデオロギーなのだ。」
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長崎被災協の会長へ
林京子を批判した作家に非難。下「」引用。
「いまどこに立ってものを言うのかということこそ、文学にとって、また現実にたいし何がしかの発言を試みる者にとってももっとも重要なのではないか。彼は、権力者にたいし限りなく優しい反面、反体制や、反核の文学者にたいしては、ほとんど憎悪そのものを塗りつける。「貧困や病気や差別や不平等の中で生きてきた」人が、なぜそれをもたらす戦争や軍備拡大に反対しないのか。自分の出生地の人びとをあざむいてまで進められる原発立地に、なぜ一声の反対もしないのか。」
たぶん、吉本の本で紹介された本でしょうね……。
誇りに思う、核戦争の危機を訴えをアピールした日本の文学者。
ABCCの役割。下「」引用。
「この医学の立ち遅れには、敗戦直後のアメリカ占領軍が責任を負っているだろう。彼らは、原爆の被害の大きさが、占領軍にたいする人道的な非難をつよくすることをおそれ、占領と同時にプレスコードをしいた。新聞報道をおさえただけでなく、被害調査までABCC一本にしぼり、ほかの学者や研究機構をいっさいシャットアウトした。ABCCは事業として「大学・大学付置の研究所又はその他の研究機関と共同して放射能の人に及ぼす影響及びこれによる疾病に関する調査研究を行う」とあるが、敗戦直後の実態は、日本の大学調査団などの資料を、ABCCが独占するかたちになった。」
ABCCに抗議。下「」引用。
「しかもABCCは、被爆者の調査こそやったものの、それを治療に生かすこしとなどいっさいしなかった。きたるべき核戦争のための実験データを集めていたとしか考えられない。長崎で原爆反対運動が盛り上がった一九五六(昭和三十一)年の夏、私は原爆青年会の会長として、ABCC長崎研究所の所長に会見を求め、抗議したことがある。」
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この人たちの、小説を書かない日本の作家たちって、あまりにも欲が無いとボクは思う……。
今の作家に誇りなんて感じてますか?
また、映画関係者も同様ですね……。
被爆の問題を解決しなければ、さらに新しい問題も憎悪することは、確実ですね。
--原子力も推進されていますしね……。
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