『長崎旧浦上天主堂1945-58-失われた被爆遺産-』
高原至(写真)/横手一彦(文)/
ブライアン・バークガフニ(英訳)/岩波書店2010年
注記 英文併記
欧文タイトル Nagasaki Urakami Cathedral,1945-1958:An Atomic Bomb Relic Lost
帯に書かれてあります。下「」引用。
「原爆は何を破壊したのか
被爆後の浦上を見守り、やがて解体撤去された「幻の証言者」が、未公開写真によみがえる。」
「はじめに」横手一彦・著。下「」引用。
「この写真集は、「長崎原爆」の爆心地から500メートルの地点にあって被爆し、崩壊した旧浦上天主堂の、その後の姿を記録したものである。写真にみとめられる被爆教会--鐘塔と南側壁の残墟は、1958年3月に解体撤去され、すでに存在しない。現在、私たちが浦上の小高い丘に仰ぎ見る美しい天主堂は、同じ場所に再建され、さらに改装を経た新しい建物である。-略-」
「神の家」……。下「」引用。
「-略-旧浦上天主堂は、こうした過酷な歴史を経てようやく信教の自由が認められた近代、かつて踏絵が行われた庄屋の屋敷跡に建てられた「神の家」であった。その赤煉瓦の一つひとつは、この地の信仰を受け継いだ人びとが、父祖の苦難を思いながら、質素な生活のかなで資金と労力を出し合い、30年の長きにわたって積み上げてきたものである。-略-」
「五番崩れ」と長崎原爆を呼んだという……。
「小ローマ」……。下「」引用。
「長崎は、かつて日本の「小ローマ」といわれ、400年間絶えることなくキリスト教の信仰を受け継いだ地であった。
被占領下にあっていまだ敗戦の傷跡も残る1949年。この年、聖フランシスコ・ザビエルの渡来400年を記念する国際的な式典が、被爆都市長崎で行われた。
故国スペインに一度帰った以外はローマを離れたことのなかったザビエルの「聖腕」(右手)画、ガラスケースに収められて空輸された。世界3億人のカトリック信徒が関心を寄せ、日本に駐留していた連合軍司令官マッカーサーが祝意の声明を発表した。」
大浦天主堂に安置。下「」引用。
「ザビエルの「聖腕」。特使の長崎滞在中、原爆の直接被害を受けなかった大浦天主堂に安置された。」
今年ニューヨークにいったマリア像。下「」引用。
「木彫り寄せ木造りの被爆マリア像。1930年にイタリアから輸入され、旧天主堂の正面祭壇最上階に安置されていた。被爆後の瓦礫から、2メートルの像のうち頭部が奇跡的に発見。その後持ち去られて所在不明であったが、ふたたび浦上天主堂に戻され、被爆60周年の2005年8月9日、被爆者のための祈りの場である被爆マリア小聖堂祭壇中央に置かれた。-略-」
「あとがき」高原至・著。下「」引用。
「-略-昭和20年8月の被爆後、報道の仕事で、浦上を中心とした4.5キロ四方の悲惨な被害状況を撮影して廻ったが、その時にも特に浦上天主堂を重点的に撮影したわけではなかった。-略-
その後、撮影の仕事で、聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸から京都までの道行を辿り、そしてザビエルの誕生したスペインのハビエル城を数回訪れることにもなった。振り返ってみると、ザビエルの導きで浦上天主堂の遺稿を撮影していた気がしてならぬ。不思議なご縁であったと思わざるを得ない。」
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高原至(写真)/横手一彦(文)/
ブライアン・バークガフニ(英訳)/岩波書店2010年
注記 英文併記
欧文タイトル Nagasaki Urakami Cathedral,1945-1958:An Atomic Bomb Relic Lost
帯に書かれてあります。下「」引用。
「原爆は何を破壊したのか
被爆後の浦上を見守り、やがて解体撤去された「幻の証言者」が、未公開写真によみがえる。」
「はじめに」横手一彦・著。下「」引用。
「この写真集は、「長崎原爆」の爆心地から500メートルの地点にあって被爆し、崩壊した旧浦上天主堂の、その後の姿を記録したものである。写真にみとめられる被爆教会--鐘塔と南側壁の残墟は、1958年3月に解体撤去され、すでに存在しない。現在、私たちが浦上の小高い丘に仰ぎ見る美しい天主堂は、同じ場所に再建され、さらに改装を経た新しい建物である。-略-」
「神の家」……。下「」引用。
「-略-旧浦上天主堂は、こうした過酷な歴史を経てようやく信教の自由が認められた近代、かつて踏絵が行われた庄屋の屋敷跡に建てられた「神の家」であった。その赤煉瓦の一つひとつは、この地の信仰を受け継いだ人びとが、父祖の苦難を思いながら、質素な生活のかなで資金と労力を出し合い、30年の長きにわたって積み上げてきたものである。-略-」
「五番崩れ」と長崎原爆を呼んだという……。
「小ローマ」……。下「」引用。
「長崎は、かつて日本の「小ローマ」といわれ、400年間絶えることなくキリスト教の信仰を受け継いだ地であった。
被占領下にあっていまだ敗戦の傷跡も残る1949年。この年、聖フランシスコ・ザビエルの渡来400年を記念する国際的な式典が、被爆都市長崎で行われた。
故国スペインに一度帰った以外はローマを離れたことのなかったザビエルの「聖腕」(右手)画、ガラスケースに収められて空輸された。世界3億人のカトリック信徒が関心を寄せ、日本に駐留していた連合軍司令官マッカーサーが祝意の声明を発表した。」
大浦天主堂に安置。下「」引用。
「ザビエルの「聖腕」。特使の長崎滞在中、原爆の直接被害を受けなかった大浦天主堂に安置された。」
今年ニューヨークにいったマリア像。下「」引用。
「木彫り寄せ木造りの被爆マリア像。1930年にイタリアから輸入され、旧天主堂の正面祭壇最上階に安置されていた。被爆後の瓦礫から、2メートルの像のうち頭部が奇跡的に発見。その後持ち去られて所在不明であったが、ふたたび浦上天主堂に戻され、被爆60周年の2005年8月9日、被爆者のための祈りの場である被爆マリア小聖堂祭壇中央に置かれた。-略-」
「あとがき」高原至・著。下「」引用。
「-略-昭和20年8月の被爆後、報道の仕事で、浦上を中心とした4.5キロ四方の悲惨な被害状況を撮影して廻ったが、その時にも特に浦上天主堂を重点的に撮影したわけではなかった。-略-
その後、撮影の仕事で、聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸から京都までの道行を辿り、そしてザビエルの誕生したスペインのハビエル城を数回訪れることにもなった。振り返ってみると、ザビエルの導きで浦上天主堂の遺稿を撮影していた気がしてならぬ。不思議なご縁であったと思わざるを得ない。」
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