磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

晶文選書 大衆運動の病理と論理 雑兵乱戦記

2008年12月19日 | 読書日記など
『晶文選書 大衆運動の病理と論理
    雑兵乱戦記』
      石田郁夫・著/晶文社1966年

『雑兵乱戦記』というは、ぴったくりくるタイトルだと思います。『大衆運動の病理と論理』は、ピンとボクにはきませんでした……。



--原爆ドーム付近に60世帯が、バラックを建てて住んでいたという。
“いこいの家”のように、外国のスポンサーもない。
原爆ドーム付近の売店の権利だけは認めてくれという人もいたという。


「広島詩集」にある詩の解説といっていいものがあるありました……。

ここまで来てスポンサーつきの
おしゃべりはやめてくれ
ひろしまの空はひびわれ地は人骨と瓦礫の層
どんな馬鹿騒ぎや演技が行われても
じっと見据えているものがいる

その背景。下「」引用。

「日共代表団の指揮者だった志賀芳雄だ。そのことに口をぬぐって核停条約のおりに、国民感情に従ったなどと、しおらしいことを、言ったところで、誰が汝を信用するものか、「何が“日本のこえ”だ、ソ連追従だけではないか、首尾一貫しているのは」と、いまだに息まきつづけている者もいる。「まったく、おふざけではないよ」。私も、その一人だ。
 一昨年の平和公園の流血は、あさましいほど劣悪な指導の象徴だ。このような政治主義、このような、イデオロギー、このような徒党、このような人間どものなしてきた、いっさいがっさいが、すべて見られ、広島の人々の記憶に、こげくさく、燃えつづけている。」


正田篠枝さんのことが書かれてありました……。
--その当時、正田さんは、乳がんであったが、手術は拒否。

正田さんは原爆被害者の供養のための「南無阿弥陀仏」という三十万のお名号を、どこに納めるかが問題となっていたそうです。

--正田のお名号を九州熊本の日の宮に奉納。
なぜ、ナムアミダブツが神社に奉納されたか?
日の宮の祭神は、戦争を初めてはいけいなと予言。
それに反した太平洋戦争。
--そういうわけで九州に九万。しかし他は資料館に納めたいと……。

正田篠枝の宗教を批判する著者。下「」引用。

「真宗の有髪の尼、涙珠尼でもあった正田さんは、ついに真宗の門徒として、まっとう出来なかったようだ。しりめつれつな神仏コンコウの日本的宗教の一種にすがって晩年は、安心立命を得ようとしてしまったらしい。彼女にとっては、それは積年の信仰の発展であるという風に理解されていたことだろうし、他人が、あれこれ取沙汰出来ることでは本来ないだろうが、私は、ある種の失望めいた哀惜の念を持たざるを得なかった。」

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宗教の発生学からいけば、正しいのは正田。
--親鸞の後の日蓮も祖先の神を敬ってもいます。
親鸞も空海も神道を否定したわけではない。
--神社の祝詞に仏典もある……。

むしろ異常なのは、国家神道。官製の宗教。政治家のための宗教。
--廃仏毀釈などをすすめ、神社と寺をわけた。
祇園さん(八坂神社)は名前のとおり仏教にも関係したものでした。
--国家神道がまねたのはキリスト教。
しかし、キリスト教も元来は各地の宗教がまざっているもの……。
--聖書のなかには、他宗教のものも入っているという……。
彼らが分けたくとも分けられないものですね……。

カトリック教徒で有名な曽野綾子さんのことが書かれてありました。下「」引用。

「曽野綾子さんという作家が一五日の都議会を傍聴し、各党の控室などを訪ねた。レボートと感想を書いていて、次のように、しめくくっている。「頭は脳バイドク、肺は結核、肝ジン、すべて悪く、手脚はリューマチで、心臓だけ、やたらに強健という怪物の姿に見える都議会であった」(五月一六日・朝日新聞、東京版)こんな病気づくしの、あてこすりで何ごとかを、批判した気になっているのだろうか。いくら「社会の病いを治す医者」という言葉が、はやっているにしたって、都議会の病理を、こんなふうに、みたてられては、一般の市井の暮らしにかまけている人は、あっさりサジを投げるほかあるまい。」

病理学というのが医学にはあります。
病理学とは、生理学あっての病理学。
健康な人たちの生理とはちがうところを見極めるのが病理学。
そして、医者は病理学から健康な生理へもどすことを思考する。

病理学は治療するものではありません……。
--健康な社会とは……。
それを論じることなしに、病理もありえないのではないかと思えました……。

社会病理学というのもありましたが、そのような学問ともこの本も関係ないように思いました。

--まず事実を公開することでしょうね。
それ抜きに民主主義もないと思います。

ウソが多すぎる。
それに手をかしているマスコミ。
いつものことです……。








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【丸木夫妻・関連本】

2008年12月19日 | 読書日記など

『遺言-丸木位里・俊の五十年-』
   菅原憲義・著/青木書店1996年

関連年表:p211~219

観音堂があるという。下「」引用。

「丸木美術館の敷地にある観音堂には、千羽ヅルがいっぱいつるされている。」

大田洋子などのことも書かれてあった。




『丸木位里・俊の時空-絵画としての『原爆の図』-』
   ヨシダヨシエ・著/青木書店1996年

丸木位里・俊夫妻が、着想から第15部の完成まで、ほぼ半世紀近くもかけて描き続けた「原爆の図」とは何であったか。身近にあってその共同制作をつぶさに見続けた著者が、夫妻の絵筆から表出された世界を読みなおす。

1930年代と靉光……。下「」引用。

「この時期に丸木位里と靉光をむすんでいたことは、もっと注意されていい。ふたりは同郷の、同じ農民の子として育ち、しかも前後して上京し、すぐ近くに住んでいたために、ことのほか親しみを感じていた。」




『絵をかく人に贈る遺言 三国同盟から三里塚まで』
    平松利昭・著/樹芸書房1989年

したたかであるという……。下「」引用。

「これは丸木位里と俊という、おふたりの画家のしたたかな反骨の想像力の記録と警世の書です。」美術評論家 ヨシダ・ヨシエ




『流々遍歴-丸木位里画文集-』
    丸木位里・著/岩波書店1988年

丸木位里略年譜:p159~163

丸木位里の半世紀を描いている。

位里も徴兵検査をうけたという……。下「」引用。

「その後に徴兵検査があって、わたし第二乙という、要するに兵隊に出る必要はない等級だった。」

三島由紀夫のように徴兵逃れをしたわけではないようです。

プロレタリア運動に参加……。下「」引用。

「昭和初期にはプロレタリア美術同盟というのが出来て、ナップとかコップとかの文学者の運動とともに、美術家の運動が盛んになった。わたしもプロレタリア美術の広島の仲間たちと運動しておった。広島の場合には独立したプロレタリア美術家同盟というのがなかったが、文学の運動家とともに、いろんな芝居などをやった。「無産者の夕べ」というのが記憶に残っているが、先輩の書いた詩を読んだり、寸劇をしたり、演説なども盛んにやっておった。」




『言いたいことがありすぎて』
   丸木俊・著/筑摩書房1987年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「黙っていればいいものを、と言われるけれど、この前の戦争の時、黙ってしまったそのために、大ぜいの人を殺し、そして殺され、自決した。人々のことを思うと、いまとても黙っていられないのです。(あとがきより)」

沖縄のことなども書かれてありました。

また、こんなことも書かれてありましたてん。下「」引用。

「“大和魂”で育てられ鍛えられた消防団と警防団は、警察よりもまだこわいと思いました。」




『ふたりの画家-丸木位里・丸木俊の世界 本橋成一写真録-』
   本橋成一・著/晶文社1987年

丸木位里・丸木俊略年譜:p132

ふたりの画家をうつした写真集です。
大きな筆で、床におかれた画材に、立ちながら絵をかています。
--大きな絵はそうして描いた……。




『法政平和大学講義録 2 第Ⅱ期 ヌチドゥタカラ(生命こそ宝)』
   法政平和大学・編/不明

沖縄のことが書かれてありました。




『朝日選書93 女絵かきの誕生』
   丸木俊・著/朝日新聞社1977年

専門学校をでて、代用教員となったという。

位里の奥さんと、三角関係についても書かれてありました……。下「」引用。

「位里とわたしは同じアトリエに住むことになりました。位里の奥さんと一人ぼっちになりました。奥さんはときどきおはぎをつくったり、おすしをつくったりして遊びに来ました。わたしたちも奥さんを訪問しました。」

占領軍を悪くいったというので、逮捕状がでたと新聞社の人から聞くが、逮捕されなかったという。

資産家? 下「」引用。

「東京の家屋敷を買いたいという人がきました。いくらでしょう、二千万円で、と言うのです。売ることにしました。」

「第十三部「米兵捕虜の死」が完成。




『雁がとぶ古城-チェコスロバキア旅のスケッチ-』
   丸木俊・著/朔人社1977年

この本はタイトル通り、旅をされたスケッチ集です。
原爆関連のことは書かれてないといいかと思います。




『生々流転』
   丸木俊子・著/実業之日本社1958年

自分史といっていいかもしれません。下「」引用。

「東京へ出て来たのが十八歳、女子美術を卒業したのが二十二歳でした。それから四年間の教師、文展に落選、二科に落選、才能疑い生活に追われながら、私は二十六歳になったのです。」

浦和に疎開。




『ちび筆-画文集-』
   丸木位里、赤松俊子・著/室町書房1954年

日系二世に非難されたという……。下「」引用。

「文句を言うのは、たいてい黄色い顔をした日本の二世でした。
『ノーモア・ヒロシマ、よくわかります。しかし、今の時に、その事、日本人言ってはいけない』
と、言うのです。ノーモア・ヒロシマには同意するのです。けれども、何か文句があるのでしょう。
『しかし……』
をくっつけて、首をかしげてサインをせずに帰るのです。」

--「あわれ永井隆」と書かれてあります。
著者は長崎のカトリックの僧にあったという。
そして、原爆のことでくってかかった。
--カトリックが空襲も非難していたことを知らないのだろうか?
……またその僧はたしかにアメリカ人だったのだろうか?
ポーランド人ならば、彼らは戦争被害者である確率が高いとボクは思う。
--背景、わからず……。

もくじ

父からこんなことを言われたという……。下「」引用。

「『何たることか、父の存命中は北海道に来てくれるな』
と、手紙が来ました。」




【原爆の図】関連本

ピカドン&ひろしまのピカ






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ヒロシマ・ナガサキ原子爆弾被爆体験記集-戦争の記憶-2

2008年12月19日 | 読書日記など
『ヒロシマ・ナガサキ原子爆弾被爆体験記集-戦争の記憶-2』
    くにたち桜会(国立原爆被爆者の会)・編/ピースくにたち2004年



「刊行にあたって」 下「」引用。

「1945年8月、広島と長崎にそれぞれ1発の原子爆弾が投下され、両市とも強烈な爆風と熱線により、一瞬にして街全体が破壊され、多くの住民が無差別に殺傷されました。生き残った人々も、そのときの負傷や放射能の影響による後遺症などで、今なお苦しみ続けている人が数多くいます。まさにこの兵器こそ、人類を破滅させるものであることを知らしめました。
 国立市に在住する被爆者は、他地区よりも早い時期に被爆者の会を結成し、「白梅会」という名称のもとに活動をしていましたが、中心となった方の転居にともない、休眠状態となっておりました。しかし、約10年の休眠期間を経て、被爆から50年という節目の年を迎えようとする平成6年(1994年)、被爆者の会を再建して活動を始めようという強い声が挙がりました。被爆という最も苦しい体験をした人が、高齢化したこともあり、お互いに励ましあうための機会をもちたいという要望がありましたので、早速「くにたち桜会」という名称のもとに、会を再スタートさせることになりました。-略-
     2004年11月 くにたち桜会 会長 桂茂之」

モノクロ写真が何枚かあります。

そして、被爆体験が書かれてあります。

恩師のことを書かれてあります。下「」引用。

衣川舜子先生は直接被爆者であり、平成7年に82才で九泉(きゅうせん)(編注・めいど)に旅立たれたが、現在も私の心の支えであり、忘れ得ぬ師の中の師である。
 清水様には日頃何かとお世話につていることがあり、弟子としての師の体験記を十分世お伝えできなかった悔いを、この紙面を拝借して皆様方のお目にかけることが、恩師の鎮魂にでもなればとお引き受けすることにした。-略-」

マッカーサーに手紙を書いた恩師・衣川舜子。下「」引用。

「原爆の体験記をマッカーサー元帥に送りつけて、占領政策に活かしてほしいと訴えるなど、当時としては大胆なこともなさる方でもあった。-略-
 マッカーサー元帥への手紙については、昭和60年8月の東京新聞が、米国公文図書館に残っていたことを報じた。インタビューの中で先生は、「ずっと後のことですが、私と同じように原爆体験を本にされた方が、GHQに占領政策違反で取り調べられ、本は発禁になったことを知りました。知らぬこととはいいながら、総元締めのマッカーサー元帥に贈るなど、考えると冷や汗ものでした……」と話しておられる。
 新聞は「内容は間違いなく発禁ものであった。だが彼女には何のおとがめもなかった。いきなりGHQに送ったのが幸いしたようであった」と結んでいる。」

ひろしま-原子爆弾の体験をめぐりて-

もくじ

--軍人、入市被爆。下「」引用。

「翌7日早朝り軍医大尉の人と2人で、衛生兵とともにトラックで出発、海田市(かいたいち)あたり屋根瓦がずれているのを見、広島方面より続々と避難者が逃げてくる中を進み、瓦礫に埋もれて道をふさぎ、屋根のつぶれた電車があったり、想像を絶する光景の中を探し先貸し、やっと西練兵場に辿り着きました。-略-腹膜炎を生じた陸軍の衛生伍長から、どうしても腹に穴を空けてくれと頼まれ、大尉の人と相談して、腹部切開用ゴム・ドレナージをしてガスを抜き、ああ楽になったと感謝されましたが、翌日はどこかへ運ばれてどうなったか分からなかったことなど、記憶に残っています。」

「原爆と戦争 Q&A」というのもありました。






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かもがわブックレット134 あの戦争を伝えたい

2008年12月19日 | 読書日記など
『かもがわブックレット134 あの戦争を伝えたい』
   布川庸子(文・きり絵)/かもがわ出版2000年

実生活を書かれています。
--あの戦争の時の学校の教師も……。



表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「心の叫びに耳をかたむけて
     立命館大学国際関係部教授
     国際平和ミュージアム館長 安斎育郎
 布川さんは、私が館長をつとめる「立命館大学国際平和ミュージアム」のボランティア・ガイドとして活躍しています。見学の子どもたちにいっしょうけんめいにうったえかける布川さんの名ガイドぶりはとても評判です。-略-
 戦争の時代には、人々が自分なりの価値で生きることはきびしく抑圧されました。「個人の価値」の上に「国家の価値」がおかれたのです。また、戦場では若い命が危険にさらされ、「自己実現」どころではありませんでした。
 いまこそ、人々の命が豊かに世界をきずきたい--それが、この本の著者である布川庸子さんの心からの願いです。「過去に現在を見、現代に過去を見る」--加藤周一さんは、こう言いました。布川さんの澄んだ心に映ったあの戦争の時代の非人間的な情景を私たちが二度と味あわないためにも、著者の心の叫びに耳をかたむけ、現代社会のありように目をむけてみる必要があるでしょう。」

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たぶん、ほとんどの学校の先生、今も変わりがないとボクは思います……。
--戦争システムを続けていますので、仕方がないことでもあると思っています……。

先生の戦争責任はいわれない……。下「」引用。

「「お国のために命をささげる」、「天皇陛下のために死ぬ」ということが、日本人として一番大切なことなのだと、先生は口を開くと言われました。「大きくなったら何になる」と質問されたとき「軍人になってお国のために一命(いちめい)をさざけます」とか「看護婦になって、傷ついた兵隊さんの看病をします」と答えなければ先生はよい顔をされなかったのです。」

誰が国民にそんなことを教えたのだろうか?
--もちろん、教師だけではなく、マスコミもあるだろうけど……。
責任のがれしかいわない教師……。マスコミのほとんどもですね……。

「おおばこずもう」の詩を書いたという。そして非難されたという。下「」引用。

「北支(ほくし)では兵隊さんが、お国のために一所懸命たたかって下さっているのに、こんなけしからん詩を書いたものがおる。『負けたよ、負けたよ、おおばこずもう』こりゃ何だ!」
 えっ、私が出した詩だ、と気がついたとたん、私は凍りつきました。
「負けたよ、負けたよ、おおばこずもう」先生は身ぶりまでつけて私の書いたものを非難されました。そのあとどうなったか憶えていません。」

もくじ

悪いシナ人と教えられてもいたようですね。下「」引用。

「慰問袋
 -略-中身は、今となっては思い出せませんが、お手紙に「兵隊さん、寒い戦地でご苦労さまてず。悪い支那兵(しなへい)をたくさんやっけてください」といったことは確かに書きました。
 中国の人は悪かったのでしょうか。
 その当時、日本の戦争をすすめる人は、「日本がおこなう戦争を聖戦で正しいのだ。手向かいする支那はけしからん。こらしめてやらなければならない」と言っていました。
 学校でも子どもたちに、そう教えていましたから「やっつけろ、けちらせ」と思っていたのです。日本人は偉いのだ、他の国の人は日本人の下で従うべきだといった考えが植えつけられていました。当時の日本人は他の民族を差別することで、殺してもいいと考え、実際多くの人を傷つけたり殺したりしたのです。」

そして、今もこんな感覚の人たちがいますね……。
「神の国」だとか、今でも……。
神というよりも、差別をつくりだすための道具ですね……。
伝統的な神道とは関わりがうすいのではないか?

墨塗りの教科書……。下「」引用。

「今までの教育の全面否定。つまり、天皇のために命を捨てた人はえらいのだとか、神代(かみよ)から続いている天皇をいただいている日本は、世界に例のない尊い国だとか書いてあったところを全部消したのです。
 そのころ、何でも「マッカーサーの命(めい)により……」という言葉がはやっていたので、私はアメリカがこのような命令を出して今までの天皇を中心にした軍国主義教育をやめさせたのだと思っていました。でも、最近になって、これは、文部省の指示により、やらされたことだと知りました。子どもは無じゃ気に墨をぬりました。でもその時の先生の気持ちはどんなだったでしょう。」

学校の先生は、これで自分勝手にも戦争責任をすてた……。
--そして昭和天皇にたいする戦争責任を強く追及する!
ゼロサムゲームをはじめ、自らは正義で相手は悪。
だけど、これでは世の中のシステムをかえることはできない。

酒をのみつつ、アルコール依存症を治そうと思っているようなもの……。

教師の戦争責任は大きい……。
今も社会に対する社会的責任は大きい。
--きちんと努力している教師もおられることでしょうが……。

左右のクラウゼヴィッツ人は平和をつくらせないようにしているけれど、彼らは正義だとか正論をのべているなどと勘違いをしている……。

また、平和を唱える宗教者のなかにも、このような人たちもいる……。








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ひろしまの子-愛のうた-

2008年12月19日 | 読書日記など
『ひろしまの子-愛のうた-』
   深川宗俊・著/四国五郎・絵/春陽社出版1975年

絵本といってもいいかと思います。
--あるいは詩画集でしようか?



版が大き過ぎて、全部をSCANできませんでした。

「解説」深川宗俊は書いています。下「」引用。

「■ひろしまの子
「「ひろしまの子」は、東京女声アンサンブル第四回演奏会のための委嘱作品です。作曲家の安達元彦さん(東京在)がわたしにあたえたテーマは〈被爆二世〉でした。「問題としては極めて、今日的未来的な、アクチュアルなものでありなが、というより、そうであるからこそ、根本的な“人間”というか“人間愛”の在り方を問うていくようなものでありえたら」というものでした。
 作詞を依頼されたわたしは、わたしにとって、〈ヒロシマの愛〉とは何か、という自身への問いかけからはじめました。私は〈ヒロシマ〉の心の奥底にの身をゆだねながら、わたしの手のとどくかぎりの〈愛〉をまさぐり、たぐりよせていく作業をつづけたのです。-略-」


「絵をかきおえて」四国五郎。下「」引用。

「-略-
●人間が考えることのできるむごたらしさを、はるかに超えるむごたらしい姿で死んでいったひろしまの子を、むごたらしく描かなかったと非難しないでほしい。悲しみや怒りを、筆にふくませた水で薄めてしまったと私をなじらないでほしい。あなたがもし被爆体験者で、自分の可愛い子どもを原爆で失ったお方だったら、このことをわかってもらえるに違いない。あなたが、被爆体験のないしあわせなお方だったら、ほんの隙間でよいから、炸裂する核兵器の下に、あなたの愛する人を立たせてみてください。
●きみが「ひろしまの子」と同じ年頃の少年少女だったら、ひろしまやベトナムや、そのほかあらゆる国で戦争の犠牲になった子どもたちの身になって考え、その頬にこびりついた血のりを拭きとってやってほしい。そして、どんなことかあっても決して、ふたたび、「ひろしまの子」をくりかえしてはならないと考えて生きている大人に続いて育ってほしい。ひとの悲しみをわがことのように悲しみ、怒ることのできる、やさしくて強い大人に育ってほしい。」

四国五郎がこんなことを書かねばならないのも、「怒りのヒロシマ」のみが平和をつくりだすという人たちがいたからだろうと思う……。

目次

芸術も人間のこともわかっていない人たちではないだろうか?

このような絵本は、小さな本にした方が売れるだろうとボクは思う……。

この本は今でも、ある程度は売れるのではないか?

広島市のおみやげ屋さんで廉価の小さな絵本として売ったら、商売になるのではないか?

そして、おみやげだから、メッセージなどを添えて贈れるものにしたらいいなあーと思う。

絵本はおおきく高価なら、買う人は少ない……。

--時代は重厚長大から軽薄短小と、かなり前から云われている……。

経済がいきづまった時代なら、なおさらだろう……。

いい本を手にしてもらいたいものです。











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