『ヒロシマ・ナガサキ原子爆弾被爆体験記集-戦争の記憶-2』
くにたち桜会(国立原爆被爆者の会)・編/ピースくにたち2004年

「刊行にあたって」 下「」引用。
「1945年8月、広島と長崎にそれぞれ1発の原子爆弾が投下され、両市とも強烈な爆風と熱線により、一瞬にして街全体が破壊され、多くの住民が無差別に殺傷されました。生き残った人々も、そのときの負傷や放射能の影響による後遺症などで、今なお苦しみ続けている人が数多くいます。まさにこの兵器こそ、人類を破滅させるものであることを知らしめました。
国立市に在住する被爆者は、他地区よりも早い時期に被爆者の会を結成し、「白梅会」という名称のもとに活動をしていましたが、中心となった方の転居にともない、休眠状態となっておりました。しかし、約10年の休眠期間を経て、被爆から50年という節目の年を迎えようとする平成6年(1994年)、被爆者の会を再建して活動を始めようという強い声が挙がりました。被爆という最も苦しい体験をした人が、高齢化したこともあり、お互いに励ましあうための機会をもちたいという要望がありましたので、早速「くにたち桜会」という名称のもとに、会を再スタートさせることになりました。-略-
2004年11月 くにたち桜会 会長 桂茂之」
モノクロ写真が何枚かあります。
そして、被爆体験が書かれてあります。
恩師のことを書かれてあります。下「」引用。
「衣川舜子先生は直接被爆者であり、平成7年に82才で九泉(きゅうせん)(編注・めいど)に旅立たれたが、現在も私の心の支えであり、忘れ得ぬ師の中の師である。
清水様には日頃何かとお世話につていることがあり、弟子としての師の体験記を十分世お伝えできなかった悔いを、この紙面を拝借して皆様方のお目にかけることが、恩師の鎮魂にでもなればとお引き受けすることにした。-略-」
マッカーサーに手紙を書いた恩師・衣川舜子。下「」引用。
「原爆の体験記をマッカーサー元帥に送りつけて、占領政策に活かしてほしいと訴えるなど、当時としては大胆なこともなさる方でもあった。-略-
マッカーサー元帥への手紙については、昭和60年8月の東京新聞が、米国公文図書館に残っていたことを報じた。インタビューの中で先生は、「ずっと後のことですが、私と同じように原爆体験を本にされた方が、GHQに占領政策違反で取り調べられ、本は発禁になったことを知りました。知らぬこととはいいながら、総元締めのマッカーサー元帥に贈るなど、考えると冷や汗ものでした……」と話しておられる。
新聞は「内容は間違いなく発禁ものであった。だが彼女には何のおとがめもなかった。いきなりGHQに送ったのが幸いしたようであった」と結んでいる。」
ひろしま-原子爆弾の体験をめぐりて-
もくじ
--軍人、入市被爆。下「」引用。
「翌7日早朝り軍医大尉の人と2人で、衛生兵とともにトラックで出発、海田市(かいたいち)あたり屋根瓦がずれているのを見、広島方面より続々と避難者が逃げてくる中を進み、瓦礫に埋もれて道をふさぎ、屋根のつぶれた電車があったり、想像を絶する光景の中を探し先貸し、やっと西練兵場に辿り着きました。-略-腹膜炎を生じた陸軍の衛生伍長から、どうしても腹に穴を空けてくれと頼まれ、大尉の人と相談して、腹部切開用ゴム・ドレナージをしてガスを抜き、ああ楽になったと感謝されましたが、翌日はどこかへ運ばれてどうなったか分からなかったことなど、記憶に残っています。」
「原爆と戦争 Q&A」というのもありました。
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目 次



くにたち桜会(国立原爆被爆者の会)・編/ピースくにたち2004年

「刊行にあたって」 下「」引用。
「1945年8月、広島と長崎にそれぞれ1発の原子爆弾が投下され、両市とも強烈な爆風と熱線により、一瞬にして街全体が破壊され、多くの住民が無差別に殺傷されました。生き残った人々も、そのときの負傷や放射能の影響による後遺症などで、今なお苦しみ続けている人が数多くいます。まさにこの兵器こそ、人類を破滅させるものであることを知らしめました。
国立市に在住する被爆者は、他地区よりも早い時期に被爆者の会を結成し、「白梅会」という名称のもとに活動をしていましたが、中心となった方の転居にともない、休眠状態となっておりました。しかし、約10年の休眠期間を経て、被爆から50年という節目の年を迎えようとする平成6年(1994年)、被爆者の会を再建して活動を始めようという強い声が挙がりました。被爆という最も苦しい体験をした人が、高齢化したこともあり、お互いに励ましあうための機会をもちたいという要望がありましたので、早速「くにたち桜会」という名称のもとに、会を再スタートさせることになりました。-略-
2004年11月 くにたち桜会 会長 桂茂之」
モノクロ写真が何枚かあります。
そして、被爆体験が書かれてあります。
恩師のことを書かれてあります。下「」引用。
「衣川舜子先生は直接被爆者であり、平成7年に82才で九泉(きゅうせん)(編注・めいど)に旅立たれたが、現在も私の心の支えであり、忘れ得ぬ師の中の師である。
清水様には日頃何かとお世話につていることがあり、弟子としての師の体験記を十分世お伝えできなかった悔いを、この紙面を拝借して皆様方のお目にかけることが、恩師の鎮魂にでもなればとお引き受けすることにした。-略-」
マッカーサーに手紙を書いた恩師・衣川舜子。下「」引用。
「原爆の体験記をマッカーサー元帥に送りつけて、占領政策に活かしてほしいと訴えるなど、当時としては大胆なこともなさる方でもあった。-略-
マッカーサー元帥への手紙については、昭和60年8月の東京新聞が、米国公文図書館に残っていたことを報じた。インタビューの中で先生は、「ずっと後のことですが、私と同じように原爆体験を本にされた方が、GHQに占領政策違反で取り調べられ、本は発禁になったことを知りました。知らぬこととはいいながら、総元締めのマッカーサー元帥に贈るなど、考えると冷や汗ものでした……」と話しておられる。
新聞は「内容は間違いなく発禁ものであった。だが彼女には何のおとがめもなかった。いきなりGHQに送ったのが幸いしたようであった」と結んでいる。」


--軍人、入市被爆。下「」引用。
「翌7日早朝り軍医大尉の人と2人で、衛生兵とともにトラックで出発、海田市(かいたいち)あたり屋根瓦がずれているのを見、広島方面より続々と避難者が逃げてくる中を進み、瓦礫に埋もれて道をふさぎ、屋根のつぶれた電車があったり、想像を絶する光景の中を探し先貸し、やっと西練兵場に辿り着きました。-略-腹膜炎を生じた陸軍の衛生伍長から、どうしても腹に穴を空けてくれと頼まれ、大尉の人と相談して、腹部切開用ゴム・ドレナージをしてガスを抜き、ああ楽になったと感謝されましたが、翌日はどこかへ運ばれてどうなったか分からなかったことなど、記憶に残っています。」
「原爆と戦争 Q&A」というのもありました。




