『遥かに祖国を語る-小野田寛郎・酒巻和男対談-』
小野田寛郎・著/酒巻和男・著/時事通信社1977年
真珠湾で特殊潜航艇の艇長だった酒巻和男。
ルバング島に30年間こもっていた小野田寛郎の対談です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/b4/62e27b7b3b9a715c889c4aa96c539d2c.jpg)
小野田はブラジルで牧場主、酒巻は、ブラジル・トヨタの社長。
バスの窓にも軍神……。下「」引用。
「--あの当時九軍神の話は、国民のあいだで喧伝されまして、これはご存じないと思いますけれど、横山少尉ですか、中尉ですか……。
酒巻 中尉ですね。
--あの方の「新葉和歌集」の宗良親王の歌を本歌にした「君のため何か惜しまん若桜、散ってかひある命なりせば」という歌を、バスの窓にまで戦争中張っていました。」
「二度靖国神社に」下「」引用。
「--中尉になったのをいつ知られました。
小野田 そんなことは全然知りませんからね、こっちは。戸籍の上じゃ昭和二十年八月二十日に、胸部貫通銃創で戦死ということになって、一応片づけられちゃったんです。それが昭和二十年の八月で、二十一年の三、四月ごろに残留組が帰ってるわけ。で、そのときにまだ生き残っているということをきいて、またそれを消したわけですな。昭和二十五年になって、一人が日本へ、山のみんなから離れて帰って行って、それであと三人残っているという報告があった。それじゃまだ生きてるらしいというわけで、またもどして少尉にして靖国神社から出た。
--そうですか。(笑)
小野田 それまでずーっときて、二十九年に向こうの士官学校の卒業課題で討伐が出て、それに引っ掛かって島田もやられました。そのときに、ぼくなんかどっちかが負傷して、それで結局、まあ食べるものも食べないから自決したんだろうということになった。三十二年、三十四年と捜索隊が来たんですけれど、まあ何もないから結局二十九年に死んだろう。つまり島田君が戦死したときに、一緒にまた靖国神社に入った。それからずっと四十九年まで二十年間、中尉のまま靖国神社に入っていたんです。
--二度靖国神社にお入りになったのですか。
小野田 そうですよ。」
このことは、『愛国者の条件 昭和の失策とナショナリズムの本質を問う』に書かれてあったことですね。
その本の著者たちがいうこが正しいだろうとボクは思う……。
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東条「国家百年の計」といっていたそうです。下「」引用。
「小野田 その時分、田舎の、まァ日露戦争あたりを経験したお年寄り連中、うちの親なんかも含めて、アメリカがガタルカナルで反撃したときに、すでに向こうでは学生が飛行機に乗っているんですね。まだ戦闘に加わっていないんでけれどね。日本では東条が、「国家百年の計」という言葉を出したんですね。日露戦争のときは、こんな悠長なことをしなかった。ほんとうにみんな、何はともあれ戦争で乗り切られてしまえばおしまいなんだから、百年の計なんていって、負けちゃ、もう百年の計もないんじゃないか。なぜ早く動員しない。アメリカが学徒動員しているのに、日本がしないのは不合理だと、盛んに日露戦争組は批判していました。」
現実検討能力が低く、きれいごとをいう政治家たちには、気をつけたいものですね。
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