磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

21世紀に語りつぐ社会保障運動

2008年12月16日 | 読書日記など
『21世紀に語りつぐ社会保障運動』
    篠崎次男(編著)/松島京(共編)/あけび書房2006年

社会保障も時代によってかわるものですね。



ソ連からポリオ生ワクチン。

厚生白書の嘘と書いてありましたが、記録されていないことで嘘ということ……。
これを厚生省は認めないだろうとも思いました。

「バターか大砲か」というのはひさしぶりに聞きました。
これは1940~1950年頃、使用された言葉だそうです。
これから軍事費が増大していったそうです。


朝日訴訟での厚生省の方はすごいです。下「」引用。

「決定的に最低生存費を下回っていました。それに対して末高信という厚生省側証人は「ちり紙で用が足せれば健康で文化的な生活じゃないか。用を足すぐらいならワラや草の葉でできる」というありさまでした。」


今も最低生存費を下回っていますね。

中曽根元総理のことが書かれてありました。同。

「中曽根内閣は1980年、特別立法をもって、第2次臨時行政調査会(第2臨調)を始動させた。-略-これによる制度のみなおしで、老人医療無料制度が廃止されるなど、福祉切り捨てが急速に進行した。」


index

そういえば昔は老人医療費が無料だったんですよ。
シルバーパスなんかもありましたね。
老人ホームも無料……。
今は昔。


芸妓さんの赤ちゃんが鉛中毒だったことが記述されてました。
白粉に鉛が入っていたようです。

森永砒素ミルク事件のことが書かれてありました。
『14年目の訪問』が紹介されていました。

国が老人医療を有料化した後も、沢内村は老人医療無料を続けたと本には書かれてありました。

「沢内村奮戦記」という本に老人医療無料が書かれてあるそうです。

やはり一村だけでは、無料は続けられないようです。
検索してみてわかりました。
沢内村の老人医療費無料化制度が廃止に


被爆者が福祉の仕事をつかれたそうです。同。

「被爆者は医療も無料。-略-介護保険についても「被爆者の人はいいよね。1割負担払わなくていいんだから」と言われる。」

お金のない人たちが「いいよね」とその点で話しても問題にされるのですか?

でも、すべてがそうでもないのですが……。

そんなことより、問題にしなければならないことはたくさんあるのでは?
被爆者の福祉のことはほとんど書かれていなかったので、残念でした。









もくじ



エンタメ@BlogRanking



広島県大百科事典 下巻

2008年12月16日 | 読書日記など
『広島県大百科事典 下巻』
   中国新聞社・編/中国新聞社1982年

上巻に続くものです。
各巻書名 そ~わ 郡市別索引



第五師団のことについても書かれてありました。下「」引用。

「広島、山口、島根(斐伊川以西)3県を装丁の徴募区域とする旧陸軍の兵制単位で、師団司令部を広島に置いた野戦師団。通称号は「鯉」。-略-」

忠海(ただのうみ)病院。下「」引用。

「正式には国家公務員共済組合連合会忠海病院。-略-1948年から上記連合会に移管。独ガス障害者の指定医療機関となっている。」

関連記事

index

“地域と科学者”という機関誌があるという……。下「」引用。

「1966年1月に設立された日本科学者会議広島支部(1981年5月現在会員数約220人)が発行(不定期刊)している機関誌。-略-」

--1952年、吉和中学校差別事件。
関連記事


中井正一という人物がいたそうです。下「」引用。

「-略-1930年(昭和5)若い美学者たちと美学と芸術批判の結合めざして、『美・批評』を創刊し、やがて反ファシズム運動の拠点となる。1935年(昭和10)京大講師となり、『美・批評』は人民戦線的理論誌としての『世界文化』に発展した。-略-」

ノーモア・ヒロシマズ……。下「」引用。

「世界平和デー委員会が掲げたスローガン。広島の牧師“谷本清は、1948年(昭和23)3月、東京で、広島原爆投下日の8月6日を世界平和日として原爆の最初の使用を記念するとともに、二度と広島が繰返されないように、との世界の希望“the world's hope that there will be no more Hiroshimas”を表明することを訴えた(米太平洋軍機関紙『星条旗紙』1948年3月5日号』。この訴えにこたえて、同年4月、世界26 カ国の発起人により組織されたのが世界平和デー委員会である。-略-」

広島県の路面電車。下「」引用。

「-略-呉に少し遅れて広島電気軌道を創立し、京都電気鉄道の技術を入れて、1911年(明治44)7月起工し、翌年(大正元)11月23日開業した。-略-」

index

「べべちゃんこする」……。下「」引用。

「正座する、の意の方言。男座りに対する女座りのこと。-略-」

--放影研。
日本が約13億円。アメリカが10億円と資産(3億6000万円=当時)で始めたという。

index











index

目 次





エンタメ@BlogRanking


広島県医師会史

2008年12月16日 | 読書日記など
『広島県医師会史』
   広島県医師会・編/広島県医師会1966年

原爆のために出版されたのではなく、江戸時代からの歴史が書かれてある……。
ABCC批判はない!



■目次・主なものだけ■
発刊の辞

第一章 江戸時代に活躍した芸備二州の医人  1
第二章 明治初年の広島県医界  15
第三章 広島県医師会の変遷  37
第四章 広島県医師会の諸活動と事業  553
第五章 原爆と広島県医師会  755
広島県医師会歴代役員  881
日本医師会代議員・同予備代議員  896
各郡市地区医師会正副会長  902
年表  923
編集後記  969

医師会……。下「」引用。

「明治四十二年十一月十六日、呉市医師会を中心として御調、豊田、-略-の各郡医師会は、広島県医師会の設立をはかるべく、呉市四番町呉医師倶楽部に代表を出席させて「広島県医師会発企会」を開催したのである。-略-」

医師会はGHQとも対立できたようだ……。下「」引用。

「占領軍の示唆に端を発して、医薬分業問題が大きくクローズアップされ、六月には田宮日医会長以下役員が詰腹をきらされるまでに紛糾したのであるが、谷口会長以下を選任したあとも医薬分業時期尚早の論は圧倒的で、サムス准将に反駁の意見書を提出するところまできた。」

そして、医薬分業は長期間、なされることはなかったという……。

原爆時の医師会……。下「」引用。

「広島市医師会は約半数の会員が死亡及至重傷を被りながら、直ちに救護活動に立上ったことは忘れてはならない。就中当時の広島市医師会長吉田寛一博士の如きは急性放射能症の身でありながら救護所勤務を続けり、遂に殉職され、他の役員も京極一久理事を残して全部殉職されたことは医師会の歴史中最大の悲劇として記憶されなければなるまい。
 大原博夫広島県医師会長は、八月六日は河内の自宅にいた。翌日広島へ出て、徒歩で、三日目からはトラックで救護所などをかけめぐり、地方の県医師会員招集によって直ちに救護大勢をたてた。
 ただここでもあまりにも、医療関係者の大きい犠牲と努力とのあったことをつけ加えて、左に原爆によって死亡された方々の芳名をかかげて冥福を祈りたい。-略-」

ABCCについても書かれてあったが、非難などはまったく書かれてない。下「」引用。

「こうしてこれらの研究調査のためにアメリカ側の原爆傷害調査委員会(ABCC)が日本赤十字社広島病院内昭和二十二年に置かれ、次いで厚生省も国立予防衛生研に(*ママ)究所(予研)の支所、広島原爆影響研究所をABCC内に併設した。
 原爆被爆者対策協議会(原対協)が広島外科会の主唱により、昭和二十八年に広島市長を会長として発足した。
 昭和三十一年には、被爆者の治療施設として広島原爆病院が誕生した。さらに、昭和三十六年には広島大学原爆放射能医学研究所(原医研)の開設を見た。
 現在広島県医師会ゝ員はこうした機関を通じ、またはその各々の部署において、原爆による後遺症の研究調査に精進しつつある。-略-」

ABCCと予研、そして医師会は一体のようだ……。下「」引用。

「即ち国立予防衛生研究所とABCCが対等の立場で共同研究を行なっているのである。-略-
 諮問機関--これは日本側と米国側とに別々にあって、ABCC所長に対して助言や勧告を行なうのが使命である。日本側評議会は予防衛生研究所所長を委員長として、関係官庁の代表者、学術会議会長、原子力委員会委員、放医研究所、現地における大学長、原医研所長、県医師会長の学識経験者に委員を委嘱している。-略-ABCCにおける学術関係の報告書は、すべて日英両語の業績報告書として作成し、日米両国の関係官公庁、関係研究者にひろく配布されている。また、研究論文として専門雑誌に発表される。特に明記したいことは、ABCCの業績報告書およびその他全ての論文は『広島医学』に掲載されている。」

index

しかし、東京よりは、いいように思える……。








Index





エンタメ@BlogRanking

広島原爆戦災誌 第五巻 資料編

2008年12月16日 | 読書日記など
『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』
   広島市役所・編/広島市役所1971年

峠の自筆の詩が口絵でありました。



■目 次■
一、(イ)広島市永年防空計画  1
  (ロ)昭和十六年度広島市防空計画  99
二、広島県下に於ける空襲被害状況表  321
三、防空日誌  341
四、炎のなかに  379
五、被爆者救援活動の手記集(曉部隊)  419
六、(県政)雑記帖  567
七、比治山国民学校迷子収容所・五日市戦災児育成所  633
八、広島原子爆弾被害調査報告(気象関係)  689
九、原子爆弾に依る電気工作物の被害調査  733
十、8・10広島陸軍兵器補給部ニ於テ新型爆弾ニ関シ研究会  795
十一、軍関係災害調査報告文書集  803
十二、原子爆弾傷研究綴(広島第一陸軍病院)  935
十三、被爆広島の写真記録者たち   971
編集後記  1003
刊行の経過  1007


短波放送を聴いていた人もいたようだ。下「」引用。

「投下された爆弾が、原子爆弾であることは、八月六日の夜、アメリカからの短波放送を聞いて知った。」

内臓が放射線でおかされたという……。下「」引用。

「部隊の軍医であった内田大尉は、連日夜遅くまで精力的に走り廻って救護作業を実施していたが、夜遅くになっても、毎日私に報告してくれた。ある晩、報告に来た内田大尉が、憤然として「部隊長殿、戦争には負けられませんよ。今度の爆弾は実に非人道的なものです。死体の解剖所見によると胃袋の内部を、ワイヤーブラッシでこさいだようになっていたものや、内臓の小さな管までも血液で閉塞していたもの等、真に残忍なものです。」と話した言葉が、今も忘れられない。赤痢のような症状で死亡した無数の人達の胃袋は、このようになっていたのかも知れない。私をはじめ、出動者の多数の者が二日目ごろから下痢を始めた。人により程度の差はあったが、その後一か月も続いたものや、復員後も下痢を続けた者もあった。私も胃袋がどうにかなったのではあるまいかと心配したものである。」

index

京都に原爆が落されたというデマがあったという。下「」引用。

「死体の中にガスが発生したのであろうか、半裸又は全裸状の死体の顔も胴も、二倍ぐらいに膨張、目の玉が飛びだし、口はあごがはずれる程に大きく開いて、中から下がとびだしている。まるで怪物が野球のボールをくわえているようだ。胴ははちきれんばかりに膨らんでいるから、乳で男女を見分けることはできない。そして、幾十とある死体の三分の一程は、腹の皮が破れて内臓が風船玉か氷ノウのように出ている。色はネズミ色だったが、黄色だったか忘れたが赤ではなかったように思う。肛門から腸が飛びだしており、男子の睾丸は焼物の狸のそれよりも大きくふくらんで股間を押し拡げている。おそらく遺族が見てもすぐには判別できないであろうと思う程の物凄い形相で天をにらんでいた。丁度、ここでの作業をしている時だった。長崎の原子爆弾が誤り伝えられたのだろうか、京都も爆撃でひどい災害を受けたらしい、というデマがささやかれた。私の戦隊には京都出身の者が一○名程いたのでみんな蒼くなった。私も家にいる母や妹がこんな格好で死んでいるのかと思ったときは全身から力が抜けた。」

左の頬に穴のあいた赤ちゃん……。下「」引用。

「日時は記憶に明らかではないが、若い男の人が、誕生日前かと思われるふっくらとかわいい男の子をつれて来られた。見ればかわいそうに左の頬にぽっかりと穴があいているのである。
 この子は母の乳ばかり飲んでいたらしく、ミルクを与えても、ゴムの乳首になじめず、てんで飲もうとしない。私はほとんど自分の子供と顔を合わすことは出来ない状態であったから、私の乳はかなりはっていた。試みに乳房をくわえさせるとおいしそうにゴクゴクと飲みはじめていた。-略-」

第五巻 資料編 【PDF】












index

目 次





エンタメ@BlogRanking


広島原爆戦災誌 第四巻 第二編各説-

2008年12月16日 | 読書日記など
『広島原爆戦災誌 第四巻 第二編各説-』
   広島市役所・編/広島市役所1971年

第三章広島市内各学校の被爆状況
第四章広島市内主要神社・寺院・教会の被爆
第五章関連市町村の状況



団体訓練が学校であったという……。下「」引用。

「団体訓練は、体力錬磨と共に重視され、歩行訓練・防空訓練・乾布摩擦・水泳指導・耐寒訓練などが、強力に実施された。」

青空教室というのが戦後あったという。

「焼跡の青空教室(幟町小学校)(昭和21年頃、佐々木雄一郎提供)」という写真もありました。

海軍も公務員のようだったようだ……。下「」引用。

「七月初め、海軍の設営隊(海兵隊)が二○○人ばかり、戸河内町本郷の国民学校へ来た。一教室二○人で、一○教室を使ったから、勉強できなくなり、疎開児童は寮で勉強することになった。設営隊は、松根を掘ったり、木炭を焼いたり、発電所の仕事だという河原砂揚げをしたりしていたが、軍隊は充分な食糧・衣類その他、軍務遂行上に必要なすべての物資を、教室に積みあげていて、その生活内容は、民間人とくらべて格段の差であった。しかし、何事も軍優先の時代であったから、誰も何もいうことはなく、そのはかばかしくない作業ぶりにも、ただ傍観しているばかりであった。」

今西さんも、海軍の一員でしたね……。

index


チフスにかかった先生……。下「」引用。

「八月初め、戸河内町松原の班で、集団チフスが発生した。児童約四○人のうち、師範学校を出たばかりの若い守山瑛子訓導と、児童六人がわずらった。病院は一四キロメートルも離れた本郷にしかなく、そこへ七人が入院した。原因は、面会にきた父兄のおみやげのビワということであったが、ふだんは元気そうに見えても、一度病気に罹ると、身体に抵抗力がなかった。たちまち栄養失調の障害があらわれて、急激に症状が悪化した。その上、医薬品もひどく欠乏していた。
 守山訓導の父親は連絡を受けて、すぐ見舞いきたが、医薬品を買いに広島へ引返した日に、原子爆弾にあって死亡した。そんなこととはつゆ知らぬ守山訓導は、心細い病床で、父のくるのが遅いことを恨みながら、八月十一日ついに死んでいった。守山訓導の葬儀がやっと終ったところへ、父の遺骨を持った母親がたずねて来た。」

「比治山孤児収容所の記録」河元きくの(当時・広島市保母)・著。下「」引用。

「-略-市役所は外郭だけを残してマル焼けに鳴っていたが、生残りの職員の幾人かの顔があった。
 私の顔をみると、被爆以来負傷しながらも庁舎に泊って、救援活動をしておられた谷山源睦部長が、「保母の出勤第一号だ。」と言って褒めてくださった。
 そして、比治山国民学校に孤児が六○人ばかり収容されているが世話をする者がいない、すぐに行ってくれと言われる。-略-ある日、黒瀬収入役が乳児を背負って来られた。その子は耳が口まで切れており、乳を吸収することができなかったから、スプンで一滴ずつ吸わせ、何とかして救ってやりたいと努力してみたが、とうとう生き残ることができなかった。-略-」

index

土方頼己(当時軍医、中国電気通信局保健課長)の記録もありました。下「」引用。

「わたしは当時、大竹の陸軍びょういんの軍医として勤めていました。八月六日、下士官がオートバイで、休暇で休んでいたわたしのところへ連絡に参りまして「広島がたいへんです。車(トラック)の用意がしてありますから、すぐ行って下さい。」というので、そっそくシャツとズボンにのすこぶる軽装で下士官二人、看護婦五人を連れて広島へ参りました。-略-わたしのほうは軍隊関係者であったので、衛生材料はたくさんもっていました。-略-九日に下士官が調べたところによりますと、治療した患者の数は万を下らないのではないかと申していました。火傷は当時治療方針が立たないので、ただチンクオイルのみ塗って治療していたというだけでありました。」

index

軍部からの命令……。下「」引用。

「しかし戦局は緊迫して、軍部から「軍服より弾丸の生産が第一である」と命令されるに至り、学校としても、その事態に即応し、学校工場における軍服生産を中止して、急ぎ軍需生産工場へ出動した。そのため、昭和二十年三月末に、良策と考えられた学校工場も閉鎖され、大半の生徒が日本製鋼所で昼夜四交替の弾丸生産に努力したのであった。」

「警備隊員被爆記」田原正人・(談)。下「」引用。

「私は、移動演劇さくら隊の俳優丸山定夫と同室であった。彼は背すじから腰にひどく打撲を受けたらしく、横たわっているのさえ苦痛のようであった。「兵隊さん、起してください」、「兵隊さん、寝かせてください」と、幾度も力のない小さな声でたのんでいた。人手を借りなければ、自分の身体を動かすことができなかったが、私が去るまでは、生きていた。」

index

「第四章広島市内主要神社・寺院・教会の被爆」
--神様や仏様関連というわれる建物もみんは被災……。

index



第四巻 第二編各説 【PDF】








index

目 次





エンタメ@BlogRanking