磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

句集 長崎

2008年12月13日 | 読書日記など
『原爆十周年忌平和記念
  句集 長崎』
   柳原一由・編/
    平和教育研究集会事務局s30年

この本もずいぶん古いですね。
当時の人の気持ちと今の人では大きく違います。
戦争についての本質などを理解されているのは、
当然、この時代の方たちでしょうね。
今はテレビ・ゲームのように政治家まで、
思っているようです。



いろいろな思いがあるでしょう。
それを否定することは無意味であると思います。

よい悪いだけではなく、いろいろなことを思う。
それは当然のことだろうと思います。

あの原爆で亡くなっていたら、
その後の苦しみはなかったと考えて、
早く亡くなられてよかったと思う人……。

時代によって、
社会状況も異る。
それは、戦後生まれのボクにもあります。
母が倒れたとき、病院は何カ月しか
いらなれないということはなく、
病院の方たちも今よりずっと親切でした。

医療は発達したといっても、
父の時は、不親切な病院の人たち、
何カ月かすれば、転院してもらわないと、
商売(経営)がなりたたないという。

そして2006年9月7日の、
ケアマネジャーについての
NHKの放送を見ていて、
親が早く亡くなって、
あの時なら、辛い思いをしなくって
よかったと、ただ思いました。

ひどい世の中ですね……。

横道にそれました。すみません。

この本の時代の教師には夢がありました。下「」引用。

「教育の力で世界中の教師が「教え子を再び戦場に送らない。」と強く誓い、原水爆兵器による戦争の恐ろしさを徹底的に知らせ、世界中の母親と、世界中の教師とがかたく手をつなぎ、協力して行く時、戦争は絶対さけられるものと思います。」

句集となっていますが、それだけではありません。

「残された飯」という文章は、
お腹いっぱい食べられなかった当時、
残された飯を食べさせてあげたかった、
親心はボクにもわかることです。

教師として強い思いで戦争を憎しんでおられます。下「」引用。

「戦争をすると、結局ひどい目に会うから、戦争をするな……というのではない。
 戦争はしてはいけないものだから、戦争をするな……というのである。
 原子爆弾を使おうが使うまいが、そんなことにはかかわりなく、戦争はしてはならぬのである。天使のような子供たちの心に、いきなり深い傷を与えた戦争についても、もう一度考えたい。
 原子爆弾の焼跡は、やがて跡型もなく復興するであろうが、この子供らは長い一生、いやされることのない傷を、心に抱いて生きてゆかねばならない。」



こんな教師にならった人たちは幸せのような気がする。

ティーチング・マシーンに習うより……。











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2008年12月13日 | TOP【もくじ】
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京都原爆訴訟支援ネット

かもがわブックレット160 全員勝ったで!
しかし、終わったわけではありません。

原爆症認定訴訟 熊本のヒバクシャたち

奪われた時を私にかえせ 長崎原爆松谷訴訟

次代を拓く風に 続・長崎原爆松谷訴訟

「桑原裁判」の証人尋問記録

【一部のみ】

[原爆ヒバクシャの裁判]

原子力・核問題ハンドブック

【YouTube】

原爆症認定問題

裁判にIT活用を!




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「桑原裁判」の証人尋問記録-原爆医療法にもとづく認定申請却下処分の取消請求訴訟事件-

2008年12月13日 | 読書日記など
『「桑原裁判」の証人尋問記録-
  原爆医療法にもとづく認定申請却下処分の取消請求訴訟事件-』
     原水爆禁止広島県協議会 広島県原爆被害者団体協議会1969年

まさに、証人尋問記録です。その他の背景がわからないと何のことだか……。




■1 証人著書 田坂正利(医師)
京大卒業、広大医学部でインターン。
現在、福島病院の院長。下「」引用。

「今年七月、私達が出しました「被爆者医療のあゆみ」を引用して申し上げます。一九六七年十月に被爆者相談室を設置しましたが、この相談室のあゆみは「被爆者医療のあゆみ」に年表にしてあります。私達がなぜ「被爆者相談室」をつくったかといえば、福島診療所の創立以来、六七年までの十二年間の歴史をふりかえってみますと、日常診療にふりまわされて、被爆者医療はほど遠いように思われました。福島診療所のある福島町は未解放であり、当病院としては「の医療」と、被爆者が非常に多いので「被爆者の医療」とを二つの柱として追求されるべきだと考えていますが、前に言いましたように、そのいずれもうまくいっていないように思うわけです。」

「せきずい円錐上部症候群という病名をもった患者であるということについて」の質問をうけこたえる医師。下「」引用。

「先ほど申しましたように、せきずい円錐並びに円錐上部には、せきずい円錐部には、ぼうこう、直腸、生殖機能の中枢がありますので、この部分が障害されますと、排便・排尿障害、それからインポテンツ、でん部の知覚マヒということができます。」

・タカノ橋で被災、遮蔽物がなかった。
・黒い雨にあった。
・8月7日にも二千メートル以内に入ったという。

2■証人調書 福綿靖(地方公務員)
・阪大の大学院で、公衆衛生学を学ぶ。
・集団検診と胃ガン対策。

■証人調書 伊藤壮(山梨大学助教授)
大江健三郎の本で原告代理人が質問をする。下「」引用。

「(原告代理人)-略-広島の原爆病院の重藤文夫さんと、それから作家の大江健三郎さんが今年の夏、対談した本をお出しになったんですが、-略-この中で、原爆病院の重藤先生が、そういうふうに因果関係を切ってしまうのではなくて、むしろ健康手帳を持っている人の子供には身体の異状が出たら、それはすべて無料で医療の給付を受けられるようにすると、その中から統計的にも有意な資料も出て来るんじゃないかと、いう提案をさなっているのは、ご存じですか。
 はい
先生も同意ですか。
 はい」

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■証人調書 田沼肇(法政大学教授)


■証人調書 杉原芳夫(文部教官(医師))
岡山大学卒業。
広島大学助教授、主として病理学研究室勤務。


これから、陪審員制度となると、このような問題にも素人が関わっていって、きちんと判断を下せるのだろうか?

今も、きちんと判断は下されているかも疑問でもある……。

ABCCなどのことは問題が数々あることだろう……。

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だけど、裁判以前の問題が多いのではないか?

こまった原子力帝国である……。








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みつばち図書館17 原水爆とのたたかい-平和の声 まちに村に-

2008年12月13日 | 読書日記など
『みつばち図書館17 原水爆とのたたかい-平和の声 まちに村に-』
   日高六郎・著/国土社1963年

バーチェットはこんなことは書いていないそうです。下「」引用。

「バーチェットは、彼の見たとおり、聞いたとおりをルポにまとめた。
 そして「ノー・モア・ヒロシマ!」(二度とヒロシマがあってはならぬ!)と書いた。」



正田篠枝の弟と「さんげ」出版。下「」引用。

「しかし、それを出版する許可をアメリカ軍からとることはできない相談である。正田さんの弟で、九州大学の教授をしていた正田誠一さんは「こんなものをだしたら死刑になるよ」と忠告した。正田教授も発表した学術論文について、CIC(在日アメリカ駐留軍総司令部坊蝶隊)によびだされ、殺されるのではないかと思うほど、はげしいとりしらべをうけた経験があった。
 しかし、篠枝さんは、どうしてもこの歌集を出版したかった。思いあぐねた末、広島の刑務所をおとずれる。そこに受刑者の印刷所があるからである。若いおとなしい印刷主任は、内容を見てびっくりした。しかし篠枝さんがあまり熱心なので、とうとう引きうけた。
「もし、マッカーサー司令部に知れたら、きっと殺されますよ。ぜったいに秘密にしてください。どんなことがあっても、一般の人にあげてはいけません。だれにもわからないようにして、被爆者だけにそっとさしあげてください。そういう条件でしたら、一五○部だけ刷ってあげます。」

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土門拳の驚き……。下「」引用。

「写真家土門拳(どもんけん)さんは、一三年目に広島をおとずれて、びっくりした。ジャーナリズムの先端にいて、原子爆弾の問題について関心を持っていると思っていた自分でさえ、とくに被爆者のことはほとんど知らなかったことに気がついたからだ。広島から九人の被爆した乙女が上京したとき、東京のある奥さんが、「原爆乙女は日本に九人しかいないのですね」と言ったという。しかし自分たちはそれにといくらもちがわないほどのことしか知らない。そのことを、自分たちはどのように考えたらよいのだろうか。そう考えて、土門さんは広島と被爆者の写真を、一生けんめいでうつして歩いた。」

渡辺千恵子さんは、亀井監督の映画『生きていてよかった』出演
そして、第二回長崎大会で、被爆者代表に選ばれたという。

この時代と障害者の社会的なことは大きく異ります。下「」引用。

「八カ国の外国代表三六名と、日本代表六、○○○名が、暑い晴れわたった日に、会場の東体育館にあつまった。
 やがて議長席にいるフランス代表のクリーチュリェ夫人が、
「被爆者代表のあいさつ」
と、言って千恵子さんをまねいた。おかあさんは、昨夜から一滴の水ものまないでいる千恵子さんのくちびるを氷でしめすと、千恵子さんをだいて壇上に立った。出席者はそのいたいたしい姿に胸をうたれた。写真班がおしよせるのを見て、議席から「写真をとるな」「うつすな」と叫ぶ声がつづいた。そう叫ぶ声も涙にうるんでいた。
「私は長崎原爆青年乙女の会の渡辺千恵子と申します。」
 千恵子さんはやって、細い、しかしおちついた声で口をきった。
「みなさん、私のこのみじめな姿を見てください。(そう言うと、千恵子さんの声は涙でつまった。)多くを語らなくても、原爆のおそろしさがおわかりのことと思います。何度死のうと思ったか知れません。……恥をしのんで『生きててよかった』に出演しましたが、その際、長崎が廃墟の中から立ちなおる姿を見ました。私は三菱電機で被爆しましたが、むかし暗かった工場も、今は見ちがえるばかりに立派になりました。(声がつまる)楽しかるべき私の青春は二度と帰ってきません。工場のすぐ前の港に、まっ黒いをもくもくと吹きあげる軍艦を見たとき、(堂々とした声で)新しい戦争のにおいを感じて、一一年前のも惨状が思いだされ、不安の渦中に再びまきこまれていくような気がしてなりませんでした。原爆の犠牲は私たちだけでたくさんです……」
 千恵子さんの訴えは出席者を心の底からゆさぶった。」

今なら、写真をとるな!
そんなことをいう人のほうが非難されることでしょう。

どこも醜くもない! そしてかわいそうでもない!
美について、その当時の人はきちんと学んでいないにすぎない。

快楽追究の副産物が美としたら、それほど醜いものはない!
--ボクはそう思うけど……。

むしろ、美しく、多くの人に報せたほうがいい!

構造的暴力をなくしていくことが、積極的平和を求める人たちの姿勢だということは忘れないでほしい……。

自分勝手な平和は、ヒトラーや中曽根でもいう!









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こどもの日本の歴史10 ピカドンのきのこ雲

2008年12月13日 | 読書日記など
『こどもの日本の歴史10 ピカドンのきのこ雲』
   日本児童文学者協会・編/ポプラ社1975年

歴史の一部としての「ヒロシマ」というわけではなく、それぞれが一つの児童文学作品です。



■もくじ■
はじめてとんだ飛行機  7
第一次世界大戦  25
『ぽっぽのお手帳』  42
マグニチュード七・九  60
とうとい一票  75
偉大なる医学者  91
はじめての金メダル  108
ピカドンのきのこ雲  125
科学日本の栄光  142
わたしたちの日本  159
学期末  160
ひかり号  164
オリンピック野郎  168
隅田川  170

--「『ぽっぽのお手帳』」
「赤い鳥」という鈴木三重吉がつくった雑誌について書かれてありました。下「」引用。

「日本の明治の末期まで、文学として自立性をもった児童文学は、ほとんどありませんでした。つまり、子どものよろこびや、悲しみや、夢や希望など、子どもの気持ちを主体としてえがかれた文学が、なかっのです。
 『赤い鳥』の刊行は、それにこたえてだされたもので、とうじの一流の文学者、たとえば、夏目漱石-略-などの賛同をえて、また子どもを持つ多くの父母からも支持され、大きく発展していきました。-略-」

夏目漱石の文章がいいそうです。下「」引用。

「だから、三重吉が、まだ東京大学の学生だったころ、先生の夏目漱石が『吾輩は猫である』を発表したときは、魅せられるように、ひきつけられてしまいました。これからの日本の文学は、こういう文章でかかれなければいけない、とおもったのでした。」

今の日本語を見られたら、どう思われるでしようか?
司馬遼太郎も漱石の文体がいいと……。
感情に流されない文体がいいですね。

--「マグニチュード七・九」
江東区のあたりのことが書かれてありました。下「」引用。

「東京は、いまもそうですが、江東区のあたりには、家がびっしりとならんでいたものですから、すごい大火事になりました。百数十か所から、火の手があがったといいますから、手がつけられません。
 本所(江東区)にあった被服廠(ひふくしょう)(軍人の服をつくるための政府の工場)あとの空地には、およそ四万人もの人びとがどっとにげこんできました。」

--「偉大なる医学者」
野口英世は学歴差別で渡米……。下「」引用。

「日清戦争のあと、日本はいろいろな文化がすすみましたが、英世は、おもうように研究もさせてくれない日本がいやになり、北里研究所にいたとき、つうやくをしたためしりあいになった、フレキスナー博士をたよって、はるばるアメリカへわたりました。
 明治三十三年(一九○○年)、英世は二十四さいでした。」

--「ピカドンのきのこ雲」香山松彬・著。
「昭和二十年(一九四五年)の夏-略-広島県北備後双三郡和田村(ひろしまけんきたびんごふたみぐんわだむら)にある、S国民学校の四年から六年までの生徒は、夏休みの八月、二日おきに近くの山で、勤労作業をやらされました。男の生徒の仕事は、山の坑木運搬(木材はこび)か草かりでした。生徒たちは、ほとんどが和田村の土地っ子でしたが、広島市内のあちこちの国民学校から、この村へ疎開してきた生徒が五-六人いました。五年生の秋彦と四年生の冬彦の兄弟も、そうしたなかのふたりでした。」

美しい日本語で書かれてありました……。

きちんと、現実を科学的に表現したというものではありませんでした。









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