『長崎純心大学博物館所蔵 永井隆関連写真集』
長崎純心大学博物館2005年
今年、生誕100年記念行事で話題になっている永井隆博士に関する写真集です。一般に流通している本ではありませんが、長崎純心大学博物館で販売されているようです(2007年4月現在)。
「長崎純心大学博物館所蔵の永井作品について」片岡千鶴子・学長が書かれておられます。下「」引用。
「本学が所蔵するのはその一部に過ぎないと思うが、またその大部分が片岡弥吉旧蔵品である。その作品の一つひとつが、永井博士と片岡弥吉氏との交友を物語るのであるが、ここではこの視点から若干の所見を述べてみたい。」
片岡弥吉さんは永井隆の伝記を書かれています。
その弥吉さんの娘さんが片岡千鶴子・学長だと思います。
永井隆博士と片岡弥吉、田川初治、山田市太郎らの交友は特にこの聖ヴィンセシオ会(SVP)で、信仰の兄弟的な絆で結ばれていたという。
聖ヴィンセシオ会のメンバーとして、片岡弥吉さんも、永井隆博士も活躍されていたのです。
【博士と聖ヨゼフ劇団】
1935年頃、永井隆博士を中心に聖ヨゼフ劇団(聖ヴィンセシオ会)が結成。
「劇は祈りなり」をモットーに博士自ら脚本を書き、バックを描き、演出監督し、そして舞台にも。
1937年の日中戦争による永井博士の出征により中断。
1945年12月、大村市植松町に移転、純心学園に場所を借り、永井隆、片岡弥吉、田川初治ら5名の聖ヴィンセシオ会員が集まり、渋谷治師の指導のもとに、二日間の黙想会。
1947年3月、深堀福市氏を会長、永井隆(病床)氏が副会長に再任。
1949年副会長を辞任、臨終の時まで聖ヴィンセシオ会名誉会員。
「浦上の子ども12ヵ月」シリーズとロザリオ・シリーズについて書かれてあり、掲載されていました。
「浦上の子ども12ヵ月」には英語の説明文もありました。
また、永井隆博士と同郷の初代学園長シスター江角ヤスとの交流。永井隆博士の原稿や、紙しばい「日本二十六聖人」の表紙なども掲載されていました。
作品の写真集といっていいかもしれません。永井隆博士の写真は一枚しかなかったと思います……。
片岡千鶴子さんの本
もくじ
Index
目 次
長崎純心大学博物館2005年
今年、生誕100年記念行事で話題になっている永井隆博士に関する写真集です。一般に流通している本ではありませんが、長崎純心大学博物館で販売されているようです(2007年4月現在)。
「長崎純心大学博物館所蔵の永井作品について」片岡千鶴子・学長が書かれておられます。下「」引用。
「本学が所蔵するのはその一部に過ぎないと思うが、またその大部分が片岡弥吉旧蔵品である。その作品の一つひとつが、永井博士と片岡弥吉氏との交友を物語るのであるが、ここではこの視点から若干の所見を述べてみたい。」
片岡弥吉さんは永井隆の伝記を書かれています。
その弥吉さんの娘さんが片岡千鶴子・学長だと思います。
永井隆博士と片岡弥吉、田川初治、山田市太郎らの交友は特にこの聖ヴィンセシオ会(SVP)で、信仰の兄弟的な絆で結ばれていたという。
聖ヴィンセシオ会のメンバーとして、片岡弥吉さんも、永井隆博士も活躍されていたのです。
【博士と聖ヨゼフ劇団】
1935年頃、永井隆博士を中心に聖ヨゼフ劇団(聖ヴィンセシオ会)が結成。
「劇は祈りなり」をモットーに博士自ら脚本を書き、バックを描き、演出監督し、そして舞台にも。
1937年の日中戦争による永井博士の出征により中断。
1945年12月、大村市植松町に移転、純心学園に場所を借り、永井隆、片岡弥吉、田川初治ら5名の聖ヴィンセシオ会員が集まり、渋谷治師の指導のもとに、二日間の黙想会。
1947年3月、深堀福市氏を会長、永井隆(病床)氏が副会長に再任。
1949年副会長を辞任、臨終の時まで聖ヴィンセシオ会名誉会員。
「浦上の子ども12ヵ月」シリーズとロザリオ・シリーズについて書かれてあり、掲載されていました。
「浦上の子ども12ヵ月」には英語の説明文もありました。
また、永井隆博士と同郷の初代学園長シスター江角ヤスとの交流。永井隆博士の原稿や、紙しばい「日本二十六聖人」の表紙なども掲載されていました。
作品の写真集といっていいかもしれません。永井隆博士の写真は一枚しかなかったと思います……。
片岡千鶴子さんの本
もくじ
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