『10フィート映画世界を回る』
永井秀明・著/朝日新聞社1983年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「核廃絶への被爆者の願いをこめて、日本の草の根市民運動が完成させた記録映画は、ヨーロッパで、アメリカで、そしてソ連・中国で、どのように受け入れられたか。世界の反核運動との交流の記録。」
米軍のもっていたフィルムを購入し、ヒロシマ・ナガサキを伝える運動だったと思います……。
米軍の撮影責任者、ハーバード・スッサンが、被爆者にあわれたことが書かれてありました。下「」引用。
「このフィルムの撮影責任者、ハーバード・スッサンが、三七年後にニューヨークの倫理文化ホールのロビーで、撮影された沼田鈴子、山口仙二と再会することになった。
一瞬、三人の目には驚きの色が走った。息づまる空気の中で、沼田が口火を切った。「私はあなたを憎んでいません。原爆がいかに悲惨な結果を人間にもたらしたか。私はそれを証言するために映画と一緒にヨーロッパを回って、このニューヨークに来ているのですから」と。スッサンはやや安心したようだった。」
いつも思うのですが、平和を願う被爆者の方たちのやさしさにホッとします。
青桐の下で 「ヒロシマの語り部」 沼田鈴子ものがたり
フィルムでうつされていた沼田さんを捜していたことも書かれてあります。下「」引用。
「一九八一年五月一一日には、10フィート運動の呼びかけ人や、当時の被爆者治療にたずさわった医師・看護婦などを招いて、入手したフィルムを医学編の試写会を広島で開くことになった。試写するフィルムには日赤看護学校の一九四六年三月の卒業式風景が写っているので、当時の卒業生たちも何人か出席しているという。この機会にフィルムに登場する被爆者の一人か二人にでも、証言者として出席してもらいたいと願った。
それまでの努力で、フィルムに記録されている被爆者で住所の分かった人が二人いた。その一人が沼田鈴子さんだった。」
1981年6月、広島のソーシャルワーカー結成し「原爆被害者相談員の会」設立。
広島YMCAを会場に月一回の被爆者相談を始めたという。
第五師団兵器部所属の技術一等兵、佐々木忠孝さん。
10フィート映画のテレビ版『幻の原爆フィルム日本人の手へ!』に証言者として出演。
37年の生きざまを、遠くをみるように回想されたという。
世界各地へ。フィルムをもって原爆を伝えられる。
オランダのアムステルダムでは、わずかな空き時間を利用して、『アンネ・フランク・ハウス』へ。
そしてアメリカへも。
在米被爆者協会の人たちとともに、タフツ大学の秋葉忠利準教授も参加。
秋葉さんは数学の先生で、「アキバ・プロジェクト」の提唱者。
カナダのNGOの主張。下「」引用。
「カナダのNGOグループはSSDIの最終文書を援用して、軍事費の千分の一の七○○万ドル(約一七億円)を削って、主要六大学に平和学の講座を設けるように主張している、トロント大学はすでに評議会で講座開設を決定し、政府との折衝を始めている。」
このフィルムなどの貸し出しなどをされていた「被爆の記録を贈る会」は現在は「平和博物館を創る会」となっているようです。
10フィート映画運動
目 次
永井秀明・著/朝日新聞社1983年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「核廃絶への被爆者の願いをこめて、日本の草の根市民運動が完成させた記録映画は、ヨーロッパで、アメリカで、そしてソ連・中国で、どのように受け入れられたか。世界の反核運動との交流の記録。」
米軍のもっていたフィルムを購入し、ヒロシマ・ナガサキを伝える運動だったと思います……。
米軍の撮影責任者、ハーバード・スッサンが、被爆者にあわれたことが書かれてありました。下「」引用。
「このフィルムの撮影責任者、ハーバード・スッサンが、三七年後にニューヨークの倫理文化ホールのロビーで、撮影された沼田鈴子、山口仙二と再会することになった。
一瞬、三人の目には驚きの色が走った。息づまる空気の中で、沼田が口火を切った。「私はあなたを憎んでいません。原爆がいかに悲惨な結果を人間にもたらしたか。私はそれを証言するために映画と一緒にヨーロッパを回って、このニューヨークに来ているのですから」と。スッサンはやや安心したようだった。」
いつも思うのですが、平和を願う被爆者の方たちのやさしさにホッとします。
青桐の下で 「ヒロシマの語り部」 沼田鈴子ものがたり
フィルムでうつされていた沼田さんを捜していたことも書かれてあります。下「」引用。
「一九八一年五月一一日には、10フィート運動の呼びかけ人や、当時の被爆者治療にたずさわった医師・看護婦などを招いて、入手したフィルムを医学編の試写会を広島で開くことになった。試写するフィルムには日赤看護学校の一九四六年三月の卒業式風景が写っているので、当時の卒業生たちも何人か出席しているという。この機会にフィルムに登場する被爆者の一人か二人にでも、証言者として出席してもらいたいと願った。
それまでの努力で、フィルムに記録されている被爆者で住所の分かった人が二人いた。その一人が沼田鈴子さんだった。」
1981年6月、広島のソーシャルワーカー結成し「原爆被害者相談員の会」設立。
広島YMCAを会場に月一回の被爆者相談を始めたという。
第五師団兵器部所属の技術一等兵、佐々木忠孝さん。
10フィート映画のテレビ版『幻の原爆フィルム日本人の手へ!』に証言者として出演。
37年の生きざまを、遠くをみるように回想されたという。
世界各地へ。フィルムをもって原爆を伝えられる。
オランダのアムステルダムでは、わずかな空き時間を利用して、『アンネ・フランク・ハウス』へ。
そしてアメリカへも。
在米被爆者協会の人たちとともに、タフツ大学の秋葉忠利準教授も参加。
秋葉さんは数学の先生で、「アキバ・プロジェクト」の提唱者。
カナダのNGOの主張。下「」引用。
「カナダのNGOグループはSSDIの最終文書を援用して、軍事費の千分の一の七○○万ドル(約一七億円)を削って、主要六大学に平和学の講座を設けるように主張している、トロント大学はすでに評議会で講座開設を決定し、政府との折衝を始めている。」
このフィルムなどの貸し出しなどをされていた「被爆の記録を贈る会」は現在は「平和博物館を創る会」となっているようです。
10フィート映画運動
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